« ■0801■ | トップページ | ■0810■ »

2020年8月 7日 (金)

■0807■

『突入せよ! 「あさま山荘」事件』で、原田眞人監督のペタンチックな、観客おいてきぼりなドライブ感にあらためて魅了されたので、Amazonプライムで見放題の『検察側の罪人』。
Youngsubakpose1_20200807132901
日本アカデミー賞に選ばれたぐらいだから有名なのだろうが、二宮和也演じる新米検察官が、快楽殺人や強姦の常習犯をヤクザのように大声で恫喝するシーンには度肝を抜かれた。すっかり魅了されて、そのシーンだけ何度も見た。
原作小説にそういうシーンがあるのだ、と言われてしまえばそうなのだろうが、原田監督は人の悪さ、言葉の悪さでは右に出るものなしのイヤな劇作家だと思う。奇人変人が次から次へと登場する『タフ』シリーズから、一貫している。むろん、痛切な嫌味や悪意を魅力たっぷりに描くのも、作家の仕事だ。リスペクトせざるを得ない。
(原田監督は、庶民の側に立った分かりやすい善人なんて描いたためしがない。彼は体制側、強者にしか興味がないのだと思う。それは悪いことではない。作家は、それぐらい偏屈でいい。)

男性アイドルが、悪意むきだしの恫喝をするのは、清純派女優が濃厚なセックスシーンを演じる……に近い、倒錯的な快楽がある。素人には出来ないこと。築いてきたものを破壊している。勇気がある。感動した。インタビューを見ると、どれだけルックスに恵まれていようが、第一線に立っている俳優はバカではない。よく見て、よく考えている。「感情移入」なんていう、程度の低いサルみたいなことはしていない。


検事に大声で脅される殺人者・松倉は頭は剥げているし、顔にやけどの跡のような染みがあるし、これでもかというぐらい無様なルックスだ。設定のうえでも、アルバイトで生計を立てていている独身中年で、二宮演じる検事に「あと10年もすりゃ役所の世話になる」「クソみてえな人生」と言われてしまう。
Youngsubakpose1_20200807141501
ハゲ独身中年の僕は、明らかに、この松倉サイドの人間だ。だから、単純に考えれば二宮和也はムカつく、顔がよくて体制側の強者の役で職場の女の子と恋愛して、俺らブサイクな貧乏人を罵りやがって、罪まで着せやがって……と、胸糞が悪くなるはず。
ひょっとして、フェミニズム的な立場(?)から「女性キャラが性的に描かれすぎていて、悔しくてずっと泣いてた」とか言う人は、こんな風に「私の属性が、劇の中で貶められている」と単純に感じているのかも知れないな。
『ゼーガペイン』のなかで、「ハゲろ!」という悪口が出てきたとき、やっぱりカチンときたし、厳密に言うと「傷ついた」のかも知れないけど、そのセリフを言ったのは高校生キャラだからね(演じている声優は成人ではあるが、未成熟な役をあえて演じているわけで)。
仮に女子高生のカミナギが花澤香菜さんの声で「ハゲのおじさんは気持ち悪い、目にしたくない、ハゲは視界に入らないで」と言ったとしても、それはそういう劇だからね。その劇を観ている私がハゲている事実は、私と劇の関係において大事なことだろうか?

ちょっと話が脱線してしまうけど……。
フェミニストでレズビアンだという人が、「男は死ね」「男は気持ち悪い、話しかけてくんな」と連日のようにツイートしている。もしその人に会ったら近づかず、離れていようとは思うけど、もしかしたら世の中の女性の八割ぐらい、「男は近寄るな」「ハゲのブサイク男は視界に入るな」ぐらい思っているのでは……と、ビビりはするんだよな。女性が怖くなったのは事実。なぜなら、そのツイートは「劇ではない」から。
どちらにしても、実害がないかぎり本気で怒るようなことではないだろうけど、『検察側の罪人』を観て、「松倉の言動が気持ち悪い、殺人犯は許せない」と怒っている人はいるんだよ。偽善だよね。そういう単純バカは劇を見てない。役の内側だけを見てしまっている。そういう低レベルな勘違いを起こしてしまうから、僕は映画を見て「ただただ、号泣しました」なんて感想には警戒してしまう。


本当は、もうちょっと強者の側に立ちつづける原田眞人監督、『タフ』シリーズの面白さに語ろうと思っていたんだけど……。
二宮さんのような甘いルックスの俳優が、もう60歳になろうかというパッとしない役者人生を送ってきた酒向芳さんを恫喝するシーンは、たぶん不愉快なはずなんだよ。脚本には、二宮さんの演じる検事が、どうしてそこまで怒るのか書いてない。その後の、吉高由里子に誘われてドギマギする初心な演技とも矛盾する。
でも、だからこそAVのような倒錯した、人間の動作や感情表現を不自然に、脈絡なく強調した倒錯美を感じるんだよな。

80年代、小林ひとみのAVには大興奮させられたものだが、カッコいい恋人との関係がうまくいかずに錯乱した(という設定の)小林ひとみが、汚い酒飲みの浮浪者(の役)を誘って、体をまかせてしまうシーン。そのシチュエーションが素晴らしかった。そこへ、カッコいい恋人が現れるわけだが、観ている側としては、女と縁のないはずの浮浪者と若くて綺麗なお姉さんの組み合わせのほうが興奮する。フィクションって、そういうもんでしょ?
いつもヤクザ役ばかりやっている男優が怒鳴るのではなく、アイドルで善人ばかり演じてきた若い俳優が怒鳴るからエンターテイメントとして機能するわけだよね。二宮さんがインタビューで「楽しく演じた」と言っているけど、そういうものだと思う。そういう悪意、そういう残酷を見ることが出来たから、より一層、自分が鍛えられるわけでしょ? より深く、人間の複雑さに触れることが出来たわけでしょ? 「この表現に傷ついた、消してほしい」なんていうのは、人間として未熟なんだよ。もしくは、問題のポイントを間違っている。だから、有色人種の役を白人が演じてはいけないとかいう、野蛮な結論にいたる。

想像力、妄想やフィクションをナメてはいけないですよ。闇の力を持っているから、フィクションは価値があるわけでしょ? 俺は偽善よりは、目を背けたくなる強者の暴力からのほうが、圧倒的に学べるんだけどさ。フィクションで容赦のない描写を楽しんでいるから、かえって実社会で権力に立ち向かう胆力が養えるんじゃないの、違うかな? 俺は『検察側の罪人』で二宮さんの演じる検事のすさまじい暴言を見て面白かったうえに、勇気が出たけどな。

(C)2018 TOHO/JStorm

|

« ■0801■ | トップページ | ■0810■ »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



« ■0801■ | トップページ | ■0810■ »