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2020年8月10日 (月)

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レンタルDVDで、『ハイキック・ガール!』。主演の武田梨奈は、『ワカコ酒』でアクションなしの演技でも注目された。まだ20代、いい女優人生だと思う。
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さて、案の定、ネットでは「ストーリー性がない」「ストーリーが薄い、分からない」といった批判が散見された。映画の本質を物語だと思っていて、あらすじを知ったら「ネタバレ」で面白さが損なわれると信じている人は、歌詞カードを読んで音楽のよさが分かるのだろうか? 僕は、音楽のメロディに相当する部分が構図やカットワークだと思っている。

では、『ハイキック・ガール!』の構図はそんなに凝ったものなのか? 印象的なカット割りやカメラの動きはあるのか? 実は、映画のほとんどが「嘘のないアクションを克明に見せること」に徹しているため、俳優の動きが収まれば十分……というロングショットばかりだ。カットを割ったらアクションを“盗んでいる”(編集時に動きを抜くこと)と疑われるので、長回しがほとんど。

さらには、一度リアルタイムで見せたアクションを、スローでもう一度見せる。『ピアニストを撃て!』で、トリュフォーが俳優が建物から転落するシーンを何度か繰り返したように、そこには「種も仕掛けもございません」と言いたげな見世物性がある。ヌーヴェル・ヴァーグの場合、撮影や編集による作為を排除しようとした結果、素人の撮ったような映画になったわけだが、『ハイキック・ガール!』は(物語や構図よりも)アクションを見せることを優先しようとした結果、ひとつのスタイルを獲得したのだと思う(『マッハ!!!!!!!!』のパクりとも聞くが、パクりは表現ではないのか?)。
理知的な構図だから映画なのではない。文学性のあるカット割りだから映画なのではない。映画の本質は一種類ではない。『ハイキック・ガール!』の場合、若い女優が本当に相手を蹴ったり、自分も蹴られたりする「生の記録」に本質がある。


とはいえ、監督がまったく意図しなかったであろう文学性も、あちこちに垣間見える。
映画の前半では、空撮の高層ビル街がシーン転換に使われていた。後半、武田梨奈の演じる空手少女が敵の罠に落ちてからは、地面から見上げた銀色の曇り空が、もっぱらシーン転換に挿入される。空撮のビルからあおりの曇り空への変化には、明らかな「ストーリー性」がある。……が、映画(というよりバトル)の舞台が都会ではなく山中に移ったため、やむなく空ばかり撮っていたのが真相ではないだろうか。
そうした、現場の都合がことごとくフィルムに影響してしまうところも、ヌーヴェル・ヴァーグっぽい。

もうひとつ、映画冒頭で、武田が神社で練習している男たちの間に、ズカズカと乗り込んでいく。
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これは、縦の構図であるが、左右方向へ男たちが次々とハケることで、武田が門を開いている(自分の道をつくっている)ように見える。まあ、こういう左右対称の構図と縦方向のカメラワークは、黒澤明の映画によくあるだろう。
なのでやはり、この“上手な” “意図的な”カットも、『ハイキック・ガール!』の本質とは思えない。いい表情の抜き撮りもあるのだが、この映画は「捨て身のアクションの記録」に他ならず、単なる記録が「映画として程度が低い」などとは誰にも言えないはずだ。

その記録性って、僕の言葉でいうと「AV性」なのかも知れない。(先日、『検察側の罪人』の恫喝シーンについて似たことを書いた。→
フィルムで撮られたポルノ映画は、(形式上の制約もあって)明らかに創作、表現の領域に属していた。AVは長回しワンカット、嘘のないセックスの記録が主体となった。作為のないビデオ映像を「表現」と呼ぶには、ちょっと覚悟がいる。
だから僕は、『ハイキック・ガール!』の記録性を語るにはヌーヴェル・ヴァーグを援用せざるを得ない。映画を、「なにか文学的なテーマを伝えるためのツール」と信じきっている人が、あまりにも多すぎるのだ。何らかの意味あるメッセージを伝えるのが表現、という素朴な思い込みがある。我々の信じている古びた伝達手段を壊すことだって、表現の役割ではないだろうか。

それにしても、武田梨奈の大胆不敵なセリフや表情、激しいアクションの中で、人をくったようなユーモアを混ぜる表現力には魅了された。そう、女優の顔だって表現のひとつなのだ。メッセージ性なんてものがあろうが、なかろうが関係ない。


玄関先に“中傷”するビラ 青森の実家に帰省
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(画像は、上記にリンクした記事より引用)

驚くことはない、人間ってこれぐらい排他的で意地悪な生き物でしょ? 覚えがないとは言わせないよ。
僕が怖いのは、差別してもいい他人をサーチ&デストロイするのは人間の本能なのに、そこをすっとぼけて「法的に取り締まろう」などとその場かぎりの解決策しか思いつかないこと。何を見てもセクハラだヘイトだ、「犯罪として厳罰を課すべきだ」と、新しい武器を欲しがるほうが、俺には恐ろしい。
そういう人たちが、戦闘機を買うな兵器を持つな戦争反対と喚いているのだが、私的制裁という即効性の高い暴力に訴えたがるのは、いつだって彼らの方ではないのか? ハッシュタグをつくってRT数で相手を屈服させるのが暴力でないとしたら、何なんだ?

(C)2009ハイキック・ガール!パートナーズ

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2020年8月 7日 (金)

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『突入せよ! 「あさま山荘」事件』で、原田眞人監督のペタンチックな、観客おいてきぼりなドライブ感にあらためて魅了されたので、Amazonプライムで見放題の『検察側の罪人』。
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日本アカデミー賞に選ばれたぐらいだから有名なのだろうが、二宮和也演じる新米検察官が、快楽殺人や強姦の常習犯をヤクザのように大声で恫喝するシーンには度肝を抜かれた。すっかり魅了されて、そのシーンだけ何度も見た。
原作小説にそういうシーンがあるのだ、と言われてしまえばそうなのだろうが、原田監督は人の悪さ、言葉の悪さでは右に出るものなしのイヤな劇作家だと思う。奇人変人が次から次へと登場する『タフ』シリーズから、一貫している。むろん、痛切な嫌味や悪意を魅力たっぷりに描くのも、作家の仕事だ。リスペクトせざるを得ない。
(原田監督は、庶民の側に立った分かりやすい善人なんて描いたためしがない。彼は体制側、強者にしか興味がないのだと思う。それは悪いことではない。作家は、それぐらい偏屈でいい。)

男性アイドルが、悪意むきだしの恫喝をするのは、清純派女優が濃厚なセックスシーンを演じる……に近い、倒錯的な快楽がある。素人には出来ないこと。築いてきたものを破壊している。勇気がある。感動した。インタビューを見ると、どれだけルックスに恵まれていようが、第一線に立っている俳優はバカではない。よく見て、よく考えている。「感情移入」なんていう、程度の低いサルみたいなことはしていない。


検事に大声で脅される殺人者・松倉は頭は剥げているし、顔にやけどの跡のような染みがあるし、これでもかというぐらい無様なルックスだ。設定のうえでも、アルバイトで生計を立てていている独身中年で、二宮演じる検事に「あと10年もすりゃ役所の世話になる」「クソみてえな人生」と言われてしまう。
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ハゲ独身中年の僕は、明らかに、この松倉サイドの人間だ。だから、単純に考えれば二宮和也はムカつく、顔がよくて体制側の強者の役で職場の女の子と恋愛して、俺らブサイクな貧乏人を罵りやがって、罪まで着せやがって……と、胸糞が悪くなるはず。
ひょっとして、フェミニズム的な立場(?)から「女性キャラが性的に描かれすぎていて、悔しくてずっと泣いてた」とか言う人は、こんな風に「私の属性が、劇の中で貶められている」と単純に感じているのかも知れないな。
『ゼーガペイン』のなかで、「ハゲろ!」という悪口が出てきたとき、やっぱりカチンときたし、厳密に言うと「傷ついた」のかも知れないけど、そのセリフを言ったのは高校生キャラだからね(演じている声優は成人ではあるが、未成熟な役をあえて演じているわけで)。
仮に女子高生のカミナギが花澤香菜さんの声で「ハゲのおじさんは気持ち悪い、目にしたくない、ハゲは視界に入らないで」と言ったとしても、それはそういう劇だからね。その劇を観ている私がハゲている事実は、私と劇の関係において大事なことだろうか?

ちょっと話が脱線してしまうけど……。
フェミニストでレズビアンだという人が、「男は死ね」「男は気持ち悪い、話しかけてくんな」と連日のようにツイートしている。もしその人に会ったら近づかず、離れていようとは思うけど、もしかしたら世の中の女性の八割ぐらい、「男は近寄るな」「ハゲのブサイク男は視界に入るな」ぐらい思っているのでは……と、ビビりはするんだよな。女性が怖くなったのは事実。なぜなら、そのツイートは「劇ではない」から。
どちらにしても、実害がないかぎり本気で怒るようなことではないだろうけど、『検察側の罪人』を観て、「松倉の言動が気持ち悪い、殺人犯は許せない」と怒っている人はいるんだよ。偽善だよね。そういう単純バカは劇を見てない。役の内側だけを見てしまっている。そういう低レベルな勘違いを起こしてしまうから、僕は映画を見て「ただただ、号泣しました」なんて感想には警戒してしまう。


本当は、もうちょっと強者の側に立ちつづける原田眞人監督、『タフ』シリーズの面白さに語ろうと思っていたんだけど……。
二宮さんのような甘いルックスの俳優が、もう60歳になろうかというパッとしない役者人生を送ってきた酒向芳さんを恫喝するシーンは、たぶん不愉快なはずなんだよ。脚本には、二宮さんの演じる検事が、どうしてそこまで怒るのか書いてない。その後の、吉高由里子に誘われてドギマギする初心な演技とも矛盾する。
でも、だからこそAVのような倒錯した、人間の動作や感情表現を不自然に、脈絡なく強調した倒錯美を感じるんだよな。

80年代、小林ひとみのAVには大興奮させられたものだが、カッコいい恋人との関係がうまくいかずに錯乱した(という設定の)小林ひとみが、汚い酒飲みの浮浪者(の役)を誘って、体をまかせてしまうシーン。そのシチュエーションが素晴らしかった。そこへ、カッコいい恋人が現れるわけだが、観ている側としては、女と縁のないはずの浮浪者と若くて綺麗なお姉さんの組み合わせのほうが興奮する。フィクションって、そういうもんでしょ?
いつもヤクザ役ばかりやっている男優が怒鳴るのではなく、アイドルで善人ばかり演じてきた若い俳優が怒鳴るからエンターテイメントとして機能するわけだよね。二宮さんがインタビューで「楽しく演じた」と言っているけど、そういうものだと思う。そういう悪意、そういう残酷を見ることが出来たから、より一層、自分が鍛えられるわけでしょ? より深く、人間の複雑さに触れることが出来たわけでしょ? 「この表現に傷ついた、消してほしい」なんていうのは、人間として未熟なんだよ。もしくは、問題のポイントを間違っている。だから、有色人種の役を白人が演じてはいけないとかいう、野蛮な結論にいたる。

想像力、妄想やフィクションをナメてはいけないですよ。闇の力を持っているから、フィクションは価値があるわけでしょ? 俺は偽善よりは、目を背けたくなる強者の暴力からのほうが、圧倒的に学べるんだけどさ。フィクションで容赦のない描写を楽しんでいるから、かえって実社会で権力に立ち向かう胆力が養えるんじゃないの、違うかな? 俺は『検察側の罪人』で二宮さんの演じる検事のすさまじい暴言を見て面白かったうえに、勇気が出たけどな。

(C)2018 TOHO/JStorm

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2020年8月 1日 (土)

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「伝説巨神イデオン」から40年、キャラクターデザイナーの湖川友謙氏が振り返る“あの時代”【アニメ業界ウォッチング第68回】
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ふしぎと仲良くなってしまった湖川さんに、『イデオン』中心に聞いてきました。
大勢のかたに読んでいただいて、まずは良かったです。「世の中も人間も、そうそう捨てたもんじゃない」「やっぱり尊いもの、大事なものはこの世に存在するんだ」と思ってもらうのが、たぶんこの仕事の目的なんだと思う。


昨日、三鷹の共産党市議の方が、自民党の政策をTwitter上で批判していた。
まあ愚痴レベルのツイートではあるけど、もういい加減、Twitterで大量RTされたから正義! トレンド入りしたから正しい! みたいな風潮は警戒すべきと思い、その市議さんにメールを差し上げた。ツイートではなく、具体的に自民党とどう対峙するのか、議員報酬分の仕事はしてほしい、と。三鷹市議は月に55万円ぐらい貰っているはずで、そんな高給取りが自分の職域についてTwitterでボヤいて終わりでは、そんなのプロではなくて素人でしょう?
即座に返事が来て、意見は拝聴したので、ついては日ごろの業務内容を報告したいとのこと。「素人」「仕事してください」と言われて、カチンときたのでしょう。カチンとくるなら、それこそ業務内容を日常的にツイートしてはどうかとお返事して、やりとりは終了。

この市議さんをさらし者にするつもりはなくて、なぜならTwitterであやふやな情報を目にして「ええっ?」「これホントに? だとしたら許せない」みたいな迂闊な発言をする人は、国会議員の中にも大勢いるから。しかもその情報ソースが、一般人が撮影したテレビ画面で、引用元も何も書かれてない無責任なツイートで、そんなものにプロが反応するな、まず落ち着いて情報を集めろよ、と。
「たかがTwitter、昔の2chと同レベル」とタカをくくりながらも実質、情報収集の万能ツールみたいに扱われて、誰もが軽率になった。感情的・暴力的に人や物事を断罪するようになって、社会の性能は確実に低下した。


ひさびさに『突入せよ! あさま山荘事件』をアマゾンプライムで何度も観て、あさま山荘のドキュメンタリーをYouTubeで探して寝ながら見ていた。
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起きたら、記者クラブの主催する党首会談が配信されていた。
先日、東京新聞の望月記者のクドクドと質問が長くてひどいと書いたが()、他社もまったく同じ。「私が思うに、これじゃダメじゃないかと思うんです。その点、どうですか?」と、自説を裏づけたいだけ。そんな聞かれ方をされても、良いとも悪いとも言えないわけで、政治家は誤魔化しだと分かっていながら無駄な言葉を重ねるしかない。それを「逃げている」と責めるんだから、記者によるマッチポンプでしょ? そんなものを仕事だと思いこんで、仲間内で「鋭い追求だ」などと誉めあっている程度の低い人たち。
政治的に右だとか左だとかいうレベルに達してない。読売新聞のような保守系でも、まったく同じ。どうすれば相手を説得できるか、どうすれば相手を気持ちよくさせて話してもらえるか、まるでつかめてない。

たとえば、まずは相手を誉めておいて、それから本題に入るという策略ができない。自分ではなく相手に興味をもって、相手の能動性を引き出す駆け引きを知らない。いきなりケンカ腰でべらべらまくしたてて、無条件に聞いてもらえると信じこんでいる。
新聞記者の人にそんなこと言っても、もし分かるようなら新聞記者なんてやってないと思う。ぜんぜん、本物がいない。太宰治の小説に、たいして美味くもない寿司を、いかにも職人っぽく首をふりながら握っている板前が出てくるけど、そういう人ならいっぱいいる。

(C)2002あさま山荘事件製作委員会

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