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2020年8月29日 (土)

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カップヌードルのプラモデルって、本当に組み立てて面白いの? BANDAI SPRITSさんに聞いてみた!【ホビー業界インサイド第62回】
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話題のプラモデル製品、成形の難しさ・面白さについて聞いてみました。
この取材はリモートだったため、僕も編集部も慣れずに苦労しました。そこをインタビューイの寺田 塁さんが、絶妙の手際でカバーしてくださいました。普通、取材相手が言葉を書き足すと、ポイントが増えて分かりづらくなります。しかし、寺田さんの加筆はポイントを押さえた見事なものでした。
大いに助けられて、とても面白い記事になりました。ぜひ読んでみてください。


最近観た映画は『ミスティック・リバー』、『兵隊やくざ』、『ハウス』、『あしたのジョー』、『座頭市』(1989年版)、『燃えよドラゴン』など。昨夜は、押見修造さん原作の『志乃ちゃんは自分の名前が言えない』をレンタル配信で。
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映画としては、「まあ、こんなもんじゃない?」といった感じ。最近の青春映画はみんなそうだが、紙芝居のような構図の中で、脚本に書かれた台詞をハキハキと喋って、だけど泣くようなシーンでは俳優のアドリブで生っぽい演技にして……可もなく不可もないと思う。
この映画を見たのは、『惡の華』の主題歌も担当したASA-CHANG&巡礼と押見さんのコラボ曲がキッカケであった()。

例によって変わった音楽だなあ……と思って聞いていたら、何度目かで「これは吃音のため、自分の名前を普通に言えない人の歌だ!」と気がついた。可愛らしい声でドモりつづける「おおしま・しの」という名前をネットで検索して、映画にたどりついた。
ASA-CHANG&巡礼の曲のほうが、ドモりに悩む少女の告白が、“表現”できていると思う。女優に「お、おおおお、大島です」と言わせても、それはドモった台詞の書かれた脚本を読んでいるだけじゃないだろうか。「本当は普通に話せる女優さんだよね」と、思ってしまう。
ところが曲のほうは、いちど喋った言葉を分解して、サンプリングで機械的にドモらせている。つまり、「本当に話したい言葉」をまず録音して、出力する段階で壊しているわけだ。それこそが、表現だと思う。本当に言いたい言葉が確かにあるのに、その通りに言えないことがドモりの怖さなのだから。

映画で表現するなら、ひととおり俳優の演技を撮っておいて、編集でドモらせても良かった気がする。それこそ、トリュフォーがワンカットの中でコマを抜いたり止めたりしたように。
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コミュニケーションが「壊れている」ことが、ドモりの本質なのだから、スムースに普通に映画を撮ったところで、その苦悩が表現できるとは思えない。映画の原理の部分で、なにか工夫しないと。
……まあ、素直に良かったシーンを誉めてやりたいんだけど、決して高望みではないと思う。


『志乃ちゃんは自分の名前が言えない』の話題をつづけると、欠けた部分のある若者同士が依存しあいながら互いを厳しく責め合う、息の詰まるような人間関係は押見修造さんの独壇場と思った。人間関係って、少量なら薬、多量なら毒……というだけなのかも知れない。

『志乃ちゃん』はドモり。僕の場合は、猛烈な発汗。赤面症を笑われている同級生もいたっけ。他人からは、「気にしすぎ」「誰でも人前に出れば緊張する」「我慢しろ」「甘えるな」などと言われつづけた。
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大島志乃が映画のクライマックスで鼻水をたらして叫んだように、「なぜ?」「どうして?」と思う。今でも発汗することがあるし、話し言葉が他人には聞きづらいらしく、インタビュー中でも「えっ?」「はい?」と、必ず聞き返される。これが、いまだにグサッとくる。

父親が高圧的で、突発的に大声で怒鳴ることがあったため、萎縮しながら幼年期を過ごしたような気がする。僕が口の中でモゴモゴ話すものだから、父親は眉をしかめて「ああ!?」と、ヤクザのような聞き返し方をした。それが怖くて、ますます黙りこんでしまった。
学校でハキハキと喋れなかったのは、そんな家庭環境のせいかも知れない。小学三年のとき、イジメ気質のある同級生に「無口さん」とあだ名をつけられたが、黙って耐えていた。
その理不尽な抑圧の中から何とかして自分の……頼りない武器を見つけ、度重なる挫折の中で、その武器を少しずつ磨いて……これ以外の生き方は、自分にはなかった。だから今、こうして好きなことだけで暮らしていけることを、誇りに思っている。この安寧は、自分の力で手に入れたんだ。

しかし、今でもたまに、「廣田は教室の隅っこでウジウジしていたヤツだろうから、いじめても大丈夫だな」という加害欲求をむき出しにしてくる人がいる。中年になっても、まだそういう感覚の人がいる(笑)。仕事の上で、陰湿な嫌がらせをしてくるタイプ。一言でサッパリとすまさず、ネチネチと長文メールで責めたてる人(父親がまさに、そういうモラハラ男だったけどね)。
僕たちは、考えの違う人ともこの世界をシェアして生きていかねばならない。だけど、向上心がなく攻撃本能で生きているケダモノは、そんな風には考えてくれないからなあ……。

(C)押見修造/太田出版 (C)2017「志乃ちゃんは自分の名前が言えない」製作委員会

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2020年8月23日 (日)

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ロボットアニメの必須アイテム“ヘルメット”を、「伝説巨神イデオン 発動篇」はどう使ったか?【懐かしアニメ回顧録第69回】

アキバ総研さんで連載している、最新コラムです。


木曜から金曜にかけて、泊りがけでプレオープン中の「角川武蔵野ミュージアム」と、すぐ近くで開催している「チームラボ どんぐりの森の呼応する生命」を見てきた。
なぜ泊りがけかというと、夜の回の「どんぐりの森」を見てから、翌朝、武蔵野ミュージアムへ行く日程にしたかったから。知らない街へ泊まって、のんびりと地元の居酒屋で飲むのが趣味でもあるし。

まず、「どんぐりの森」。
結論から言うと、どんな雰囲気の催しなのは、入場料を払って入らなくても、会場の東所沢公園の沿道を歩けば、誰でもタダで見れてしまう。
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会場に入る前、検温と除菌スプレーは良いとして、ビニール手袋をつけさせられるのは、あまりにも過剰に感じた。18時半から入場開始だが、まだまだ暑く、東所沢駅から11分も歩いてきて汗だくなのに、マスクはとれない、手袋をしなければならない……。落ち着いて作品のなかを散策できる気分ではない。
常設展だそうなので、もっと涼しい季節に行ったほうがいいだろう。それに、teamLab / チームラボの作品なら豊洲に行ったほうが迫力ある作品を、ストレスなく見られると思う。


さて、朝霞駅前のホテルで一泊して、翌朝は角川武蔵野ミュージアムへ。朝から酷暑のなか、11分も歩いて到着。
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まるで、外国の遺跡か城砦かと思うような、視界のほとんどを覆う巨大な建築に圧倒される。こればかりは、間近で見ないと分からない。
そして猛暑の中、汗だくで会場内に入ると、1階のギャラリーとラノベ図書館しかオープンしていないという。3~4階の面白そうな図書館などは、一切公開していない。周辺の施設も、ごく片隅がひっそり開いているだけなので、11月の本格オープンまで待ったほうが、断然いい。

物足りなさはあったものの……、唯一開催されていた企画展「隈研吾/大地とつながるアート空間の誕生 − 石と木の超建築」。これは素晴らしいクオリティだった。ミュージアムと関連施設のメイキングなのだが、人に「モノをつくることの意図、価値」を伝える見せ方としては、間違いなく第一級の展示であった。
入り口も出口も、順路もない。どこから見てもいい展示になっている。壁には、めいっぱいギッシリと読みやすい文字が並び、開かれた空間には建築模型が全方位的に(順序をもたず)並べられ、その説明と実際の建物の写真は、柱にレイアウトされている。それぞれの建築模型が、ゆるやかな高低差をもって置かれているのも良かった。


いちばん奥の壁には、隈研吾さんの建築物とその周囲の環境を丹念に撮った写真が、左から右へ流れるように映写されている。
もちろん、めいっぱい大きく。画面のしたの方には、隈さんと写真家の方のやりとりが床にはみ出る状態で書かれており、この展示がいちばん良かった。写真集が売られていたが、この思い切りのいいインスタレーションの心地よさには、遠く及ばない。

実はギャラリーのスペースは大して広くないのだが、満足してミュージアムの外へ出ると、メイキングを頭に入れたものだから、建物の外観が情報をまとってギュッ!と詰まって見えるのだ。
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写真を撮りそこねたが、周囲のベンチまで、この建物にあわせた幾何学的デザインになっているのだから、恐れ入る。
過去に学び、最新技術の建造物というかたちで未来へ手渡す、これこそが文化なのだと思う。


“フェミニズムなる学問は成り立ちからして「批判を避けてフェミニストがフェミニズムが正しい事を確認する為に設立した」学問であり、Twitterでフェミニスト批判として指摘されがちな「まともな査読や検証がない」「根拠がなく個人の主観が全てである」「理論が正しい事を自明としてる」「異なる意見を受け付けない」というのは見当外れな批判であり、もともとがその為の運動なのである。”

この記事からは、教えられることが多かった。
フェミニストを標榜する人たちは多様性を唱えていることが多いし、学問や主義なのだから、僕のような異物とも対話するよね……と、甘いことを考えていた。ところが、自己正当化のための学問や趣味なのだから、都合の悪い意見や批判は排除するのが当然……と。本当にそうなら、合点がいく。

男性にも、こんなことを言う人がいる。
“『#コクリコ坂から』みたいな映画は、注釈なしに放送してはいけないのではないかと思います。
男子生徒たちが好き勝手議論して方針を決めていく中、なぜ女子生徒たちばかりがただ働きさせられているのだろうか。
「1960年代当時を描いたバイアスある描写です」みたいな説明を付けないといけないと思う”

じゃあ、この人がスタジオジブリや日本テレビに具体的な提案をするのかというと、そんなリスキーなことはハナっから考えてないわけです。安全圏から不満やら不愉快やらをツイートして賛同が得られれば、あとは野となれ。そういう無責任でだらしのない意志薄弱なポンコツだから、Twitterで十分なわけだ。
「アベ辞めろ」も「○○法案に抗議します」系ツイートも、フェミニストの萌えキャラ・性表現批判同様、すべて「本気ではない」。少年ジャンプへの署名活動のように、気がすんだら逃げる()。

自分を危険にさらさずに手軽に鬱憤ばらししたいだけな軟弱さが、僕は嫌い。本人たちは硬派で、自分たちは本質的なことをしていると信じているだろうが、自衛隊の演習に反対する人たち()は災害時に自衛隊に助けてもらうのは当然の権利だと思っている。そこを「ダブスタですか」「矛盾してませんか」と責めても、まったく意味はない。本人たちは、そういう態度を卑怯とかみっともない等とは夢にも思ってない。最初からフェアに戦うつもりなどない(それどころか敵に守ってもらおうとしている)から、気軽に抗議ツイートが出来る。
そういう恥知らずのチンピラどもの難癖をどう無効化できるか考えるのは、われわれ合法的に正々堂々と戦いたい者たちの仕事というわけだ。


角川武蔵野ミュージアムへ行くため、間違えて乗り換えの多い朝霞駅前のホテルに泊まってしまったので、珍しく退勤時間に遭遇した。
みんな満員電車をマスク着用で無言で耐え忍び、駅の階段では片側が空いていても、「のぼり」「くだり」と書かれた方向だけを頑なに守る。僕自身、「ちょっとぐらい空いている側の階段を使ってもいいじゃん?」と思いながらも、大勢が右に流れたら、体が右へ向かって歩き出してしまう。

そういう身体レベルでの同調圧力を、猛烈に感じた。こんな毎日を送っていたら、理想的な暮らしを目指す気力など残らない(そのくせ、他人を嫉妬するマイナスエネルギーだけは、しっかり蓄積されていく)。
もし戦争に向かう要因が今の日本にあるとしたら、それは権力の横暴なんかではない。意志と気力を奪う、われわれ民衆同士の無言の同調圧力、意味のない習慣、異物を許さない不寛容さだ。熱中症の恐怖に耐えながら、周囲の目を気にしてマスクをつける無意味な息苦しさが、われわれを滅ぼす。

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2020年8月18日 (火)

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いつの間にか再オープンしていた、国立新美術館へ「古典×現代2020」を観に行ってきた。
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鎌倉~江戸時代につくられた仏像や刀、版画などと、現代アートの中に共通性を見い出して、同じスペースに展示している。
尾形乾山のつくった花模様の陶器のうえに、ミナペルホルン展で知った皆川明のパッチワーク作品が、天井から吊ってある。視線を天井へ動かすと、なるほど色と柄とが、きれいに呼応している。それを、和やかな、ゆとりのある配置のしたかで見せている。……陶器は近づいて見る。パッチワークは、後ろに下がって見る。こうして空間を自分で演出していく、眺める時間も自分で調整していく。それが、美術館の面白さだ。
映画館のように、受動的ではいられない。観客は、能動的に自分だけの時間と空間を、作品とのあいだに構成せざるを得ない。順路こそ決まっているが、この作品は五分以内に見ろ、このように感じろといった決まりはない。説明文など、すべて読み飛ばしてもいいのだ。


わけても感銘に打たれたのは、二対の仏像を暗闇の中に置いて、周囲に小さなライトをゆっくりと上下させてコントラストと質感をじっくり見せる田根剛によるインスタレーションだ。
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(撮影禁止なので、画像はより引用)
暗闇から声明が響いているので、まるでお寺の中へ迷い込んだような、敬虔な気持ちにさせられる。
上下するライトは、見る角度によってガラスケースへ二重三重に反射して、さまざまな表情を見せる。観客は、仏像の表面を刻々と流れる光のテクスチャーに魅了され、歩きながら様々な角度から眺めることになる。ライトの動くパターンは3分でワンセットと注記されているが、しかし、どれだけ眺めているかは観客が決める。
その奔放さが、美術館の醍醐味だ。

(同館で、なんかアニメ漫画都市トーキョーなんとかの展覧会もやっていたのだが、僕はああいうのは、しばらく見たくない……。なんというか、オタク系のコンテンツは自己の内面で完結させたいので、「ほっといてくれ」という気持ちになってしまうのだ。)


編集者から教えてもらったのだが、今度は何? Amazonプライムの解約運動ってハッシュタグで、Twitterが盛り上がったの?
なんか、三浦瑠麗という政治学者がCMに出演しているのが気に入らないので、Amazonプライムをみんなで解約するんだって。

“こんなヤバい奴を広告塔にするなんて普通はまず有り得ない。どういうルートで安倍応援団のコイツに大手CM出演の話が舞い込んだか解明されるべき。政治が絡んでるはず。”

で、何? このハッシュタグをつけてツイートするとAmazonが倒産でもするんですか? 安倍政権が倒れるんですか? 何人解約すると、具体的に何がどう好転するの? 何も考えてないでしょ?
こうやって、実効性の測れない、責任の伴わない、簡単で手軽な「運動」だけは熱心にやるんですよ。だから俺は、彼らをバカにしてしまうの。安倍政権を倒したいなら、どういう手続きが必要なのか、ちゃんと調べて出来ることをやらないと。
こんなTwitterなんて民間のSNSサービスで、目的も結果も分からない文字列をスマホに打ち込んでハイ終わり……って。あんたら、安倍総理が憎い、降ろしたいんじゃないの? 俺が反アベの人たちを嫌いなのは、「しょせん本気じゃない」から。「誰か、私たちの意向を汲んで何とかしてくれ」って他力本願でしょ、違うの? 


『となりのトトロ』で、小学生女子のサツキが働かされてばかりいるのは女性差別……と言っている人が多いようだけど、たまたま地上波テレビで放送したから『トトロ』に難癖つけてるだけだよね? 単に「テレビつけたらやってた」ってだけでしょ? なんでそんなに受動的なんだよ。
こういう人たちって、自分から面白いものを探したり、有益な物を手にするための苦労をしない。ただ、Twitterのタイムラインや地上波テレビをぼーっと眺めて、気に入らないものに脊髄反射しているだけ。カラッポなんですよ。その人の中身というか、歩んできた人生がスカスカなの。

吾妻ひでおさんのエッセイを読んでいたら、格闘漫画『ホーリーランド』を絶賛していたので、Kindleで読んだ。
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いじめられて不登校になった少年が、ボクシングの技術を独学で習得して、自分を排除してきたヤンキーたちを秒速で打ち倒していく。彼の戦う理由は「抵抗しないと、自分の居場所がなくなるから」。彼は抵抗するために、誰もしない努力を重ねて、技術を獲得した。抵抗するために、震えながら敵に向かっていく……。
その「抵抗」が、軽いんですよ。反アベとかフェミっぽい人たちは。不満だけは人一倍だけど、どうすれば不満を解消できるのか、何も工夫していない。自分の弱点と向き合ってない。

逆に俺は、自分なりのルートを見つけ、自分の強みを生かした「抵抗」をしている人なら、反アベでもフェミでも好感をいだくと思う。
まがりなりにもインタビューを試みた太田啓子弁護士。彼女の主張には納得しかねるけど、論敵の反撃をあらかじめ封じる斬りこみ方、反論を上手く利用する手腕には感服した。くやしいけど、「じゃあ、太田さんの好きにおやんなさい」と黙るしかない。「言っても無駄」という状況をつくったほうの勝ちなのよ。
石川優実さんもそう。言っている内容は「?」と思うけど、あの戦いかたは独創的だよ。自分が絶対有利な方向へ、卑怯だろうが詭弁だろうが持っていくじゃん。それで本人が楽しければ、最初の主張から遠ざかろうが運動が挫折しようが、すでに勝ちなんですよ。人間は悩むためではなく、幸せになるために生きてるんで。

理不尽な酷い目にあえばあうほど、工夫して勇気を出して自分だけの独特の「抵抗」を試みなければ、負け犬の人生しか待ってない。それだけの話です。


『ホーリーランド』で格闘技の面白さに目覚めたので、みんなの嫌いなAmazonプライムで『燃えよドラゴン』をレンタルして観た。

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2020年8月16日 (日)

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「六神合体ゴッドマーズ」の戦闘メカ「パンドラ」(バンダイ製)を組み立てて、“作画と模型の関係”を考えよう!【80年代B級アニメプラモ博物誌】第2回)

背景布にシワがよる安い撮影ボックスを買ったせいもあり、写真がヒドすぎて見てほしくない記事ですが……そこそこアクセスを稼げているそうで、ありがとうございます。次回からは編集部で、カメラの得意な編集者に撮ってもらうので、かなり写真はレベルアップするはずです。
(本当は、この連載だけやっていきたいぐらい、入れ込んでいるので)


ここのところ観た映画は、レンタルDVDでは『コラテラル』、『ファイトクラブ』(二回目)、岡本喜八『吶喊』、配信では久々に『どついたるねん』と『時計じかけのオレンジ』、最近作ではアニメ映画『プロメア』、そして実写版の『惡の華』。
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監督の井口昇さんは、特撮ヒーローやアイドル系の人であって、決して青春映画を撮るタイプではない。なので、まあ、こんな程度でいいんではないか。
いま邦画界を覆っている「原作どおりでないとファンに叩かれる」「よって原作そっくりのコスプレが似合う、売れている俳優を探してくる」「しかし、売れている俳優に無理をさせると関係各所から怒られるので、こじんまりと破綻なく収める」パターンには、なかなか抗えないのだろう。
ひさびさにアニメ版『惡の華』を一気に見て、「そういえば実写映画版ってどうなの?」と気になったわけだが、アニメ版が表現形式のアイデンティティを問うようなシャレにならない作品だったので、両者を比べても意味がないような気もする。


監督が井口さんだと思うと責められないんだけど……、ボードレールの本の表紙の「惡の華」のキャラクターを、CGIを縦横に使って絵のとおりに作ってしまうのは、別に井口さんだけではない。そういう「原作と寸分たがわぬ再現度」しか尺度のない即物性が、僕は怖い。
漫画原作の映画って、ぜんぶコスプレばかり。原作のエッセンスだけすくって、しっかり監督の映画にしてしまおう……という次元では、ハナっから勝負しようとしていない。最近では是枝監督の『海街diary』 ぐらいじゃない、監督の作風に染めあげた映画化作品って? 俺は、映画が映画なりの主体性をもってアレンジするんなら、『翔んだカップル』や『花のあすか組』ぐらい、原作を無視してワガママをやっていいと思う。
まずは、原作そのままのビジュアルやストーリーでないと「原作と違う」とわめく即物的な感覚しかもっていないファンたちが邪魔をしている。そして、保守的なファンの反応を気にしてビクついている映画製作者たちも、主体性を捨てている。その行き着く先は、有色人種の役を白人俳優が演じてはいけないというハリウッドのたどりついたポリコレ地獄、デッドエンドだ。

主体性の欠落は別に、映画業界にかぎった話ではないと思う。出版業界の末端で仕事していても、「誰かの許可がないと好きに仕事してはいけないのではないか」「勝手なことをしたら、誰かに怒られてしまうのではないか」という根拠のない萎縮が、日本社会で常態化しているのが分かる。ちょっとした取材でも、「いったん会社に持ち帰って検討します」「上司の判断をあおぎます」。個人が決断力を発揮しようとしない。個人の意見は学校や会社などの組織に封殺されるし、その窒息状況の中で個人は「自分独自の考え」から逃避しつづけて、そのまま大人になってしまった。
でも、『惡の華』はそういう“普通人間”のクソつまんない生き方にツバを吐いて、ドロドロのグチョグチョの“真実の変態”を目指す漫画でしょ? だから、映像化のアプローチにも厳しいものが問われてくる。

長濵博史監督のアニメ版『惡の華』は原作の絵柄の向こう側へと深く潜行して、決死の思いで「ドロドロのグチャグチャ」を片手に生還し、もう片方の手で作品として社会的なフォーマット(1話30分のアニメ番組)として定着させることに成功した。
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ロトスコーピングでつくられた違和感だらけのアニメ画こそが、仲村さんが死ぬ気で超えたかった「向こう側」を炙り出す、おそらく最もマシな手段だったんだと思う。


ロトスコーピングの過程で、実写映像のもっている曖昧さ、複雑さは整理されていく。
情報が快楽原則によってデザインされすぎてしまうから、たぶんアニメ絵は「気持ち悪い」んだろう。作者の好きな物だけで構成できる漫画やアニメは、嗜好性が前面に出すぎる(その単なる嗜好性に、技術によって説得力を持たせるところに価値があると僕は思っている……そして、アニメ絵を批判する人たちは、この「技術」の部分を丸ごと見落としている)。

『惡の華』も、他のアニメと同様、線と色の面で構成されたセル画にすぎない。だが、思ったように可愛いキャラを描いてやろう、気持ちいい動きだけを描こう……という意志は、実写をトレースする工程によって阻まれる。トレースの結果、生身の肉体だけが持つ予測のつかない動き、だらしのない仕草まで、すべてセル画として描かざるを得ない。
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生身の人間の「見たくない部分」が、セル画にすることによって、デザイン的に炙り出されてくる……これぞ、ドロドログチャグチャの「向こう側」の世界ではないのか? これこそ、原作漫画が絵柄のうちに秘めた本質ではないのか? テーマが、表現方法を選択するとは、こういうアニメ化のことを言うのではないか?

つい熱くなってしまったが、アニメ版『惡の華』は単に手法だけが優れているだけでなく、未成熟な中学生同士のいびつな社会を、絶妙な構図やカッティングで痛々しく表現している。主人公を新人、脇をかためる女性たちをキャリアのある声優が演じることで、なんとも言葉にできない間合いの悪さ、気まずさ、空回りする必死さを、一呼吸ずつ丁寧に伝えてくる。

どうしてこんな作品本位の、ワガママかつ誠実な仕事ができたのだろう? いまの社会では不可能な気がしてしまう。
僕は基本的にひとりで生活しているので、ついSNSばかり目にしてしまうが、どんどん即物的に、簡単なことはとことんまでやる癖に、面倒な手続きは回避する無責任な社会が形成されていくようで、怖くてならない。映画の感想を読もうと検索しても「あらすじ・ネタバレ・考察」とテンプレのようなサイトばかり、あらすじは書き手の解釈ではなくてウィキペディアのコピペ……こんな雑な、右から左へハンコを押すような感覚で、作品の価値なんて測れるんだろうか?

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(C)押見修造・講談社/「惡の華」製作委員会

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2020年8月10日 (月)

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レンタルDVDで、『ハイキック・ガール!』。主演の武田梨奈は、『ワカコ酒』でアクションなしの演技でも注目された。まだ20代、いい女優人生だと思う。
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さて、案の定、ネットでは「ストーリー性がない」「ストーリーが薄い、分からない」といった批判が散見された。映画の本質を物語だと思っていて、あらすじを知ったら「ネタバレ」で面白さが損なわれると信じている人は、歌詞カードを読んで音楽のよさが分かるのだろうか? 僕は、音楽のメロディに相当する部分が構図やカットワークだと思っている。

では、『ハイキック・ガール!』の構図はそんなに凝ったものなのか? 印象的なカット割りやカメラの動きはあるのか? 実は、映画のほとんどが「嘘のないアクションを克明に見せること」に徹しているため、俳優の動きが収まれば十分……というロングショットばかりだ。カットを割ったらアクションを“盗んでいる”(編集時に動きを抜くこと)と疑われるので、長回しがほとんど。

さらには、一度リアルタイムで見せたアクションを、スローでもう一度見せる。『ピアニストを撃て!』で、トリュフォーが俳優が建物から転落するシーンを何度か繰り返したように、そこには「種も仕掛けもございません」と言いたげな見世物性がある。ヌーヴェル・ヴァーグの場合、撮影や編集による作為を排除しようとした結果、素人の撮ったような映画になったわけだが、『ハイキック・ガール!』は(物語や構図よりも)アクションを見せることを優先しようとした結果、ひとつのスタイルを獲得したのだと思う(『マッハ!!!!!!!!』のパクりとも聞くが、パクりは表現ではないのか?)。
理知的な構図だから映画なのではない。文学性のあるカット割りだから映画なのではない。映画の本質は一種類ではない。『ハイキック・ガール!』の場合、若い女優が本当に相手を蹴ったり、自分も蹴られたりする「生の記録」に本質がある。


とはいえ、監督がまったく意図しなかったであろう文学性も、あちこちに垣間見える。
映画の前半では、空撮の高層ビル街がシーン転換に使われていた。後半、武田梨奈の演じる空手少女が敵の罠に落ちてからは、地面から見上げた銀色の曇り空が、もっぱらシーン転換に挿入される。空撮のビルからあおりの曇り空への変化には、明らかな「ストーリー性」がある。……が、映画(というよりバトル)の舞台が都会ではなく山中に移ったため、やむなく空ばかり撮っていたのが真相ではないだろうか。
そうした、現場の都合がことごとくフィルムに影響してしまうところも、ヌーヴェル・ヴァーグっぽい。

もうひとつ、映画冒頭で、武田が神社で練習している男たちの間に、ズカズカと乗り込んでいく。
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これは、縦の構図であるが、左右方向へ男たちが次々とハケることで、武田が門を開いている(自分の道をつくっている)ように見える。まあ、こういう左右対称の構図と縦方向のカメラワークは、黒澤明の映画によくあるだろう。
なのでやはり、この“上手な” “意図的な”カットも、『ハイキック・ガール!』の本質とは思えない。いい表情の抜き撮りもあるのだが、この映画は「捨て身のアクションの記録」に他ならず、単なる記録が「映画として程度が低い」などとは誰にも言えないはずだ。

その記録性って、僕の言葉でいうと「AV性」なのかも知れない。(先日、『検察側の罪人』の恫喝シーンについて似たことを書いた。→
フィルムで撮られたポルノ映画は、(形式上の制約もあって)明らかに創作、表現の領域に属していた。AVは長回しワンカット、嘘のないセックスの記録が主体となった。作為のないビデオ映像を「表現」と呼ぶには、ちょっと覚悟がいる。
だから僕は、『ハイキック・ガール!』の記録性を語るにはヌーヴェル・ヴァーグを援用せざるを得ない。映画を、「なにか文学的なテーマを伝えるためのツール」と信じきっている人が、あまりにも多すぎるのだ。何らかの意味あるメッセージを伝えるのが表現、という素朴な思い込みがある。我々の信じている古びた伝達手段を壊すことだって、表現の役割ではないだろうか。

それにしても、武田梨奈の大胆不敵なセリフや表情、激しいアクションの中で、人をくったようなユーモアを混ぜる表現力には魅了された。そう、女優の顔だって表現のひとつなのだ。メッセージ性なんてものがあろうが、なかろうが関係ない。


玄関先に“中傷”するビラ 青森の実家に帰省
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(画像は、上記にリンクした記事より引用)

驚くことはない、人間ってこれぐらい排他的で意地悪な生き物でしょ? 覚えがないとは言わせないよ。
僕が怖いのは、差別してもいい他人をサーチ&デストロイするのは人間の本能なのに、そこをすっとぼけて「法的に取り締まろう」などとその場かぎりの解決策しか思いつかないこと。何を見てもセクハラだヘイトだ、「犯罪として厳罰を課すべきだ」と、新しい武器を欲しがるほうが、俺には恐ろしい。
そういう人たちが、戦闘機を買うな兵器を持つな戦争反対と喚いているのだが、私的制裁という即効性の高い暴力に訴えたがるのは、いつだって彼らの方ではないのか? ハッシュタグをつくってRT数で相手を屈服させるのが暴力でないとしたら、何なんだ?

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2020年8月 7日 (金)

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『突入せよ! 「あさま山荘」事件』で、原田眞人監督のペタンチックな、観客おいてきぼりなドライブ感にあらためて魅了されたので、Amazonプライムで見放題の『検察側の罪人』。
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日本アカデミー賞に選ばれたぐらいだから有名なのだろうが、二宮和也演じる新米検察官が、快楽殺人や強姦の常習犯をヤクザのように大声で恫喝するシーンには度肝を抜かれた。すっかり魅了されて、そのシーンだけ何度も見た。
原作小説にそういうシーンがあるのだ、と言われてしまえばそうなのだろうが、原田監督は人の悪さ、言葉の悪さでは右に出るものなしのイヤな劇作家だと思う。奇人変人が次から次へと登場する『タフ』シリーズから、一貫している。むろん、痛切な嫌味や悪意を魅力たっぷりに描くのも、作家の仕事だ。リスペクトせざるを得ない。
(原田監督は、庶民の側に立った分かりやすい善人なんて描いたためしがない。彼は体制側、強者にしか興味がないのだと思う。それは悪いことではない。作家は、それぐらい偏屈でいい。)

男性アイドルが、悪意むきだしの恫喝をするのは、清純派女優が濃厚なセックスシーンを演じる……に近い、倒錯的な快楽がある。素人には出来ないこと。築いてきたものを破壊している。勇気がある。感動した。インタビューを見ると、どれだけルックスに恵まれていようが、第一線に立っている俳優はバカではない。よく見て、よく考えている。「感情移入」なんていう、程度の低いサルみたいなことはしていない。


検事に大声で脅される殺人者・松倉は頭は剥げているし、顔にやけどの跡のような染みがあるし、これでもかというぐらい無様なルックスだ。設定のうえでも、アルバイトで生計を立てていている独身中年で、二宮演じる検事に「あと10年もすりゃ役所の世話になる」「クソみてえな人生」と言われてしまう。
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ハゲ独身中年の僕は、明らかに、この松倉サイドの人間だ。だから、単純に考えれば二宮和也はムカつく、顔がよくて体制側の強者の役で職場の女の子と恋愛して、俺らブサイクな貧乏人を罵りやがって、罪まで着せやがって……と、胸糞が悪くなるはず。
ひょっとして、フェミニズム的な立場(?)から「女性キャラが性的に描かれすぎていて、悔しくてずっと泣いてた」とか言う人は、こんな風に「私の属性が、劇の中で貶められている」と単純に感じているのかも知れないな。
『ゼーガペイン』のなかで、「ハゲろ!」という悪口が出てきたとき、やっぱりカチンときたし、厳密に言うと「傷ついた」のかも知れないけど、そのセリフを言ったのは高校生キャラだからね(演じている声優は成人ではあるが、未成熟な役をあえて演じているわけで)。
仮に女子高生のカミナギが花澤香菜さんの声で「ハゲのおじさんは気持ち悪い、目にしたくない、ハゲは視界に入らないで」と言ったとしても、それはそういう劇だからね。その劇を観ている私がハゲている事実は、私と劇の関係において大事なことだろうか?

ちょっと話が脱線してしまうけど……。
フェミニストでレズビアンだという人が、「男は死ね」「男は気持ち悪い、話しかけてくんな」と連日のようにツイートしている。もしその人に会ったら近づかず、離れていようとは思うけど、もしかしたら世の中の女性の八割ぐらい、「男は近寄るな」「ハゲのブサイク男は視界に入るな」ぐらい思っているのでは……と、ビビりはするんだよな。女性が怖くなったのは事実。なぜなら、そのツイートは「劇ではない」から。
どちらにしても、実害がないかぎり本気で怒るようなことではないだろうけど、『検察側の罪人』を観て、「松倉の言動が気持ち悪い、殺人犯は許せない」と怒っている人はいるんだよ。偽善だよね。そういう単純バカは劇を見てない。役の内側だけを見てしまっている。そういう低レベルな勘違いを起こしてしまうから、僕は映画を見て「ただただ、号泣しました」なんて感想には警戒してしまう。


本当は、もうちょっと強者の側に立ちつづける原田眞人監督、『タフ』シリーズの面白さに語ろうと思っていたんだけど……。
二宮さんのような甘いルックスの俳優が、もう60歳になろうかというパッとしない役者人生を送ってきた酒向芳さんを恫喝するシーンは、たぶん不愉快なはずなんだよ。脚本には、二宮さんの演じる検事が、どうしてそこまで怒るのか書いてない。その後の、吉高由里子に誘われてドギマギする初心な演技とも矛盾する。
でも、だからこそAVのような倒錯した、人間の動作や感情表現を不自然に、脈絡なく強調した倒錯美を感じるんだよな。

80年代、小林ひとみのAVには大興奮させられたものだが、カッコいい恋人との関係がうまくいかずに錯乱した(という設定の)小林ひとみが、汚い酒飲みの浮浪者(の役)を誘って、体をまかせてしまうシーン。そのシチュエーションが素晴らしかった。そこへ、カッコいい恋人が現れるわけだが、観ている側としては、女と縁のないはずの浮浪者と若くて綺麗なお姉さんの組み合わせのほうが興奮する。フィクションって、そういうもんでしょ?
いつもヤクザ役ばかりやっている男優が怒鳴るのではなく、アイドルで善人ばかり演じてきた若い俳優が怒鳴るからエンターテイメントとして機能するわけだよね。二宮さんがインタビューで「楽しく演じた」と言っているけど、そういうものだと思う。そういう悪意、そういう残酷を見ることが出来たから、より一層、自分が鍛えられるわけでしょ? より深く、人間の複雑さに触れることが出来たわけでしょ? 「この表現に傷ついた、消してほしい」なんていうのは、人間として未熟なんだよ。もしくは、問題のポイントを間違っている。だから、有色人種の役を白人が演じてはいけないとかいう、野蛮な結論にいたる。

想像力、妄想やフィクションをナメてはいけないですよ。闇の力を持っているから、フィクションは価値があるわけでしょ? 俺は偽善よりは、目を背けたくなる強者の暴力からのほうが、圧倒的に学べるんだけどさ。フィクションで容赦のない描写を楽しんでいるから、かえって実社会で権力に立ち向かう胆力が養えるんじゃないの、違うかな? 俺は『検察側の罪人』で二宮さんの演じる検事のすさまじい暴言を見て面白かったうえに、勇気が出たけどな。

(C)2018 TOHO/JStorm

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2020年8月 1日 (土)

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「伝説巨神イデオン」から40年、キャラクターデザイナーの湖川友謙氏が振り返る“あの時代”【アニメ業界ウォッチング第68回】
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ふしぎと仲良くなってしまった湖川さんに、『イデオン』中心に聞いてきました。
大勢のかたに読んでいただいて、まずは良かったです。「世の中も人間も、そうそう捨てたもんじゃない」「やっぱり尊いもの、大事なものはこの世に存在するんだ」と思ってもらうのが、たぶんこの仕事の目的なんだと思う。


昨日、三鷹の共産党市議の方が、自民党の政策をTwitter上で批判していた。
まあ愚痴レベルのツイートではあるけど、もういい加減、Twitterで大量RTされたから正義! トレンド入りしたから正しい! みたいな風潮は警戒すべきと思い、その市議さんにメールを差し上げた。ツイートではなく、具体的に自民党とどう対峙するのか、議員報酬分の仕事はしてほしい、と。三鷹市議は月に55万円ぐらい貰っているはずで、そんな高給取りが自分の職域についてTwitterでボヤいて終わりでは、そんなのプロではなくて素人でしょう?
即座に返事が来て、意見は拝聴したので、ついては日ごろの業務内容を報告したいとのこと。「素人」「仕事してください」と言われて、カチンときたのでしょう。カチンとくるなら、それこそ業務内容を日常的にツイートしてはどうかとお返事して、やりとりは終了。

この市議さんをさらし者にするつもりはなくて、なぜならTwitterであやふやな情報を目にして「ええっ?」「これホントに? だとしたら許せない」みたいな迂闊な発言をする人は、国会議員の中にも大勢いるから。しかもその情報ソースが、一般人が撮影したテレビ画面で、引用元も何も書かれてない無責任なツイートで、そんなものにプロが反応するな、まず落ち着いて情報を集めろよ、と。
「たかがTwitter、昔の2chと同レベル」とタカをくくりながらも実質、情報収集の万能ツールみたいに扱われて、誰もが軽率になった。感情的・暴力的に人や物事を断罪するようになって、社会の性能は確実に低下した。


ひさびさに『突入せよ! あさま山荘事件』をアマゾンプライムで何度も観て、あさま山荘のドキュメンタリーをYouTubeで探して寝ながら見ていた。
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起きたら、記者クラブの主催する党首会談が配信されていた。
先日、東京新聞の望月記者のクドクドと質問が長くてひどいと書いたが()、他社もまったく同じ。「私が思うに、これじゃダメじゃないかと思うんです。その点、どうですか?」と、自説を裏づけたいだけ。そんな聞かれ方をされても、良いとも悪いとも言えないわけで、政治家は誤魔化しだと分かっていながら無駄な言葉を重ねるしかない。それを「逃げている」と責めるんだから、記者によるマッチポンプでしょ? そんなものを仕事だと思いこんで、仲間内で「鋭い追求だ」などと誉めあっている程度の低い人たち。
政治的に右だとか左だとかいうレベルに達してない。読売新聞のような保守系でも、まったく同じ。どうすれば相手を説得できるか、どうすれば相手を気持ちよくさせて話してもらえるか、まるでつかめてない。

たとえば、まずは相手を誉めておいて、それから本題に入るという策略ができない。自分ではなく相手に興味をもって、相手の能動性を引き出す駆け引きを知らない。いきなりケンカ腰でべらべらまくしたてて、無条件に聞いてもらえると信じこんでいる。
新聞記者の人にそんなこと言っても、もし分かるようなら新聞記者なんてやってないと思う。ぜんぜん、本物がいない。太宰治の小説に、たいして美味くもない寿司を、いかにも職人っぽく首をふりながら握っている板前が出てくるけど、そういう人ならいっぱいいる。

(C)2002あさま山荘事件製作委員会

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