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『サウルの息子』で注目されたネメシュ・ラースロー監督の第二作、『サンセット』をDVDレンタルで。
これは非常に難解な映画だった。ストーリーが、ではない。カメラが、どうしてそこまで主人公の女性の真後ろか真正面のアップばかり撮るのか、まるで意図が分からない。
長回しなら、ダルデンヌ兄弟の作品のように、なにか決定的な出来事を見逃さないため、記録としてフィルムを回し続ける手法がある。カメラワークによって、文学的な意味を発生させるのが映画だと思う。
ところが、『サンセット』は主人公の女性が帽子店に勤めはじめ、その一方で行方不明の兄を探しつづけるプロット上の要請なのか、八割ほどのカットが主人公の後頭部から見た構図。そして、主人公の歩くに合わせて、手持ちカメラで追っていく。彼女が遭遇する出来事を、やや後ろからのぞき見ている感じ。
カメラはぐるりと正面へ回りこみ(なぜかカットを割らない)、主人公の表情をとらえる。ほんんどのシーンが、似たようなカメラワークで構成されている。
そして、主人公の女性は、行方不明の兄を想っているためか、ずっと眉間にしわを寄せて、黙り込んでいる。なぜ終始、そんなに不機嫌なのかも、よく分からない。馬車に揺られてきて「2クローネです」と料金を告げられても、なぜか深刻な面持ちで沈黙している。
上のカットは、帽子店に勤務している先輩格の女性。手前の後頭部は、例によって主人公の後頭部である。
この先輩女性は、主人公をつねに凝視しており、つかつかと睨んだまま歩いてきて、「騒ぎを起こさないで」「あなたを解雇すべきだった」など、短くて辛らつな一言を残して、すぐフレームアウトする。他の登場人物も似たり寄ったりで、まず主人公をジッと睨む。そして「……立ち去れ」「……何の用だ?」などと、一体どうしてそんなに冷たいのか?と首をひねるような言葉を発する。それで事態が進展しないので、ストレスはかなり高い。
何より、主人公をはじめ、ほとんどの人物が思わせぶりな表情で、どうとでも受けとれる言葉を残して去っていくのに疲れた。「ガンをとばして、わざと相手を煙に巻く」ような感じ。自信のない人って、よく傲慢で尊大な態度をとる。この監督には、どうしても「映画の機能」が必要というわけではなく、ただ間が持たないから長回しとクローズアップで、せいいっぱいイキっているように、僕には見えてしまうのだ。
4DXなどで「映画の世界に没入させる」「世界を擬似実体験する」過剰なアトラク志向は、映画表現の停滞ぶりを、何より端的に示すものだろう。
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池内さおりさんに取材拒否され、怒りのメールを送ってから(■)何日かたった。
最初は、彼女は「フリーライターとかいう下賤な者には会う必要がない」と、高圧的に取材をキャンセルしたものと思っていたが、実は学生時代から政党に入りびたってきたような甘ちゃんは、僕のように在野で自分の人生を切り拓いてきた人間が「マジで怖いのではないか」と思えてきた。組織に養われている池内さんには、俺と生身で対面する勇気なんてないんじゃないだろうか。
共産党だからどうの、というつもりはない。地元の共産党議員には助けられた経験があるし、自民党に投票するぐらいなら共産党の候補に入れる。少しでも変化の起きることを期待して。だが、池内さんという人は何度も選挙に落ちて、国会議員としての身分も失って三年、今も働かずに共産党に“勤めている”のだとしたら、まあ大したヤツではない。学生気分のまま、組織に食わせてもらっているヤツが、社会の底辺を這ってきた人間にビビるのは、まあ仕方ないことだ。
数の力で相手を黙らせようとしたのは、自分が組織の中で、数の力に屈してきたからだろうしね。
「女性を差別し続け性的に消費し続ける」とか「これはポルノだ」とか、陳腐で類型的な言葉さえ並べておけば、容易に賛同者が募れると分かってるんだろうな。「差別も戦争もNO」だとかさ。言葉に、生きてきた人間の重みがない。ポーズに過ぎないんだよ。
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ここ数日、友人と話していて思ったのは、僕たち昭和世代のオタクは「世の中から認められていない、恥ずかしいジャンル」だからこそ、アニメにすがっていたのではないか……ということ。僕は友だちが出来なかったから、無口で孤独なヒーロー、キリコ・キュービィーに自分を重ねていた。
同じように、美少女キャラに(現実に女装趣味などがなくても)感情移入していた人もいるだろうし、そういう人は美少女キャラをけなされると、自分が否定されたように感じて、烈火のごとく怒るのではないか。生身の自分を劣っていると認めているからこそ、弾力性があって抽象度の高いアニメの世界に、自分の魂を解放できるのではなかろうか。僕だけだろうか。
『涼宮ハルヒの憂鬱』でハルヒダンスを踊っていた世代には、ルサンチマンからアニメを好きになる心理構造が分かりづらいだろう。
ようするに、昭和のオタクは美少女やロボットに、現実世界では欠陥品である自分を没入させて、過酷な日常をやりすごしてきたため、愛着がものすごく強い。他人に触れて欲しくないぐらい、独占欲もある。
だから、仕事でアニメの本をつくっていても、まずアニメ会社の人(権利サイド)がロボットのスペックに神経質な修正を入れてきたり、「そんなことも知らないんですか」と嘲笑うような態度をとったり、知識量で優劣をつけようとする。つまり、虐げられてきたオタク同士で内ゲバのような事態が起きやすい。
非オタクの外部から見ると、「えっ? だってアイツラも廣田さんも同族じゃん。そりゃあ、トラブルが起きないはずがない」と見えるらしい……こっちは仕事なので、淡々とやるしかないのだが、オタクは「どうされたら相手がもっとも痛がるのか」知り抜いているので、同属に対する攻撃は容赦ないなと、思い知っている。
© Mátyás Erdély / Laookon Filmgroup
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