■0613■
レンタルDVDで観た映画は、クリント・イーストウッド監督・主演の『運び屋』。配信では岡本喜八監督の『激動の昭和史 沖縄決戦』。
わざわざ歩いて店舗へ行って、品定めして借りてきてバカみたいな話だが、『運び屋』はNetflixで見放題である。
しかし、ネット配信サービスは、彼らの権利などの都合で、突如として見られなくなってしまう場合がある。「これは配信でいつでも見られるから、別にいいか」と油断していると、どこかの誰かの意図で、何の予告もなくアーカイブから消える。「批判を受けたから」なんて理由で、暗黙のうちに作品が抹消される危険性だってある。
気高い人権意識を持っているはずの欧米で起きている正義の「反差別」デモによって、コロンブスの像まで焼かれてしまう粗暴でバカで偽善的な状況を見ていると、とっくに闇に葬られた映画もあるんじゃないか?と思えてならない……と心配していたら、なんとアメリカの一部動画配信サービスで、『風とともに去りぬ』が配信停止になった(■)。
そもそも、アジア人なんかより先進的なはずの欧米人様は、コロナウイルスの感染拡大は阻止できたのだろうか? 不安やイライラの矛先が変わっただけに思えてならない。
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早くも下火になってきたが、Twitterでは児童型ラブドールがヒステリックな批判対象となっていた。
ラブドールというか、いわゆるオナニー用の精巧な人形が幼児の形をしているのは気持ちが悪いし犯罪を煽るのではないか……という話が、現実の小児性愛の是非とごっちゃになって、「単にロリコンの男どもがキモいから、とにかく差別したい」「私だって育児疲れで、我が子に手を上げたくなる時だってある」と、あらぬ方向へ飛び火して怒りの無限再生産が行われるのは、もうTwitterのいつものパターン、風物詩だ。
Twitterの仕様が変わって、自分と似たような傾向のアカウントを「フォローしませんか?」的にレコメンドしてくることも、「私だって怒りたい」という感情の無限リレーに拍車をかけているようにも思う。
広告だけでなく、勝手に設定したポイントを付与したり人びとをカテゴライズすることによって、「さあアプリを開いてください」「さあ連携してください」「さあ似たような人と同じ意見をシェアしましょう」と無目的に呼びかけるソーシャルメディアは、僕たちから冷静な判断力を奪う。「本当は、自分はこんな人間ではなかったはずだ」と、誰もが後悔しているのかも知れない。だけど、「面倒だから、SNS上の自分を本当の自分にしておこう」という妥協を、ソーシャルメディアは強いてくる。
動画配信サービスの「貴方、こういう映画が好きですよね? また似たような映画を観ませんか?」というレコメンド、グーグルマップの「今日どこどこに行きましたよね? さあ、評価してください」「みんなが貴方のレビューを見てますよ!」などの誘惑媚態に逆らいつづけなければ、人生から予想不可能な出鱈目さが失われてしまう。
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ほとんどの人が、自分の汚らしさ、ズルさに耐えられない。自己正当化せずにはいられない。
リベラルな人たちは「巨大な権力をもった政治家がうまい汁を吸っており、われわれ庶民は不当に差別され、抑圧されている」という単純で古典的な物語に、現実を沿わせようと躍起になる。彼らの発言、発想は別に政治的ではない。物語的なだけだ。
アベノマスクは物語化しやすいが、10万円は物語に適合しづらい。だから、SNSでは批判の対象になりづらい。ちっとも政治的ではない。検察庁法改正案に反対するのは、適度に複雑な背景がありそうで、カッコいい。少なくとも、地球平面説や他の陰謀論よりは看破しづらいだろう。その簡素さに、物語を創出するはずのクリエイターたちが乗っかってしまったことに幻滅した。
「検察庁法改正案」は、ただハッシュタグをコピペするだけで、さまざまなことを免責してくれる。かつて、「在日特権」に反対さえしていれば、愛国者として保護されるかのような錯覚を与えてくれたのと同様に。自分をリベラルだと思っている人ほど、自分の敵を「ネトウヨ」と規定したがる。まあ、自分の敵というのは、たいてい自分の胸のうちに潜む劣等感や罪悪感だ。
だが、ほとんどの人は自分に劣等感があることを恥じるがあまり、その存在を認めたくない。自分の胸に巣食う、洗っても落ちない汚れのような罪悪感と戦うほど強くない。本当は、自分の人生が予定どおりではない。毎日が致命的につまらない、決定的に欠けている。「ネトウヨ」も「リベラル」も、どちらも。
けれども、そんな弱い自分を許してあげたい。よく分からない法案にSNSの中だけで反対したり、コロンブスの像を(一人ではなく)みんなで倒してみたり、あと他にも自分の退屈すぎる日常から目をそむけさせてくれるネタは、いろいろある。恵まれない子供たち、かわいそうな動物たちは絶対に消え去らない。恵まれていない大人たちがいるかぎり。
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僕は高校時代、体育が苦手なばかりに、クラスのリア充男女から、毎日のように笑いものにされていた。野球部のエリート連中にも、屈辱的な目に合わされた。
それらの過酷な体験が、自分を「恥ずかしい存在」「克服されるべき何か」だと気づかせてくれた。今でも、人前で滝のように汗をかいてしまうことがある。だがしかし、それはまあ、薬を飲んで我慢しよう。
ひょっとすると、またしても自分は間違っているのではないか?――そうした慎重さ、自分に対する不信感が身についた。自分もまた穢れている、自分もまた卑怯者だ。その自覚は、強力な武器にもなる。手入れさえ怠らなければ。
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