■0616■
最近、レンタルDVDを借りてきて観た映画は、北野武監督『ブラザー』。
『座頭市』『アキレスと亀』までは観ていたが、この2000年作品は、すっぽり抜け落ちていた。『TAKESHIS'』の自己陶酔ぶりに、うんざりして見落としていたのかも知れない。
『ブラザー』は、いつものヤクザ映画をたまたまアメリカに持っていっただけ……という素っ気なさが良かった。
男Aが、何かを見ている。次のショットで、男Bが鼻血をたらして呆然としている。観客は、男Aが殴ったのであろうと推察する。
これは何も、北野監督が編み出した独自の演出テクニックではない。クレショフ効果が発見されたのは実に百年前、1922年のことだ。北野は、映画の原理に近い領域で仕事をしているに過ぎない。
男Aと男Bのふたつのショットの落差が、残酷さにもなるし笑いにも繋がる。ショットがどう作用するかは、役割や脚本による。ゆえに、北野の作品は「劇映画」という領域にとどまる(『ブラザー』で北野が編集まで手がけているのは、覚えておきたい。次のショットが画面に現われるまでの、あのもどかしいような「間」は、北野の直感、あるいは生理に近いのだろう)。
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映画が「ネタバレ」という言葉とセットにされ、「後半の展開」や「物語の結末」を明らかにしては【映画の価値が損なわれる】ので黙っていよう……という奇妙な習慣が根づいたのは、ここ20年ぐらいのことと思う。
『ツイン・ピークス』のようなサスペンスフルな、先の展開の分からないドラマが流行りだした90年代から、映画でも「物語」が重視されるようになった。Twitterの日本運用は2008年からだが、SNSの普及で見たくもない発言が目に飛び込んでくるようになってから、僕たちの価値観は後戻りできなくなってしまった。映画監督自身が「公開後、二週間はネタバレしないで」などと公言するようでは、もう末期的だ。
後はもう、個人がひとりひとり、文化が枯れないような映画の観かたをしていくよりない。SNSに未来など任せられない。
僕は、(とっくに結末の分かりきった)黒澤明やヒッチコックの作品を集中的に観ることで、数年間を過ごした。すると、若い頃は「感性」なんていう出鱈目なもので好き嫌いを判断していたゴダールやトリュフォーの仕事の意味が、よく理解できるようになった。
作品を吟味するうえで、「若い」ことは、さほど有利とは思えない。特に「感性」なんてものを当てに「感動」を目的に生きていると、その後の長い人生を棒に振りかねない。「本当に自分は理解できているのだろうか?」という疑いがなければ、半世紀前の映画を勉強しなおしてみよう、なんて気持ちにはなれない。
僕は、自分がかわいい。でもだから、自分を疑うんだよ。
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昨夜、都知事選への立候補を表明した山本太郎氏の記者会見を見た。
かつて、あれほど心酔し、友だちに投票を呼びかけさえした山本太郎。しかし、お金のない老人が東京駅前で野宿したり、餓死を覚悟したりする様子を目の当たりにしてすべきことは、都知事選への立候補ではないと思う。仕事を失った人には生活保護を申請させる、これが社会のリアリズムだ。
直情径行では、もはや何も救えないことが分かってきた。直情径行とは、たとえば黒人が差別されていることを口実に、暴動を起こして社会をパニックに陥れることだ。あれは「民衆が正義のために立ち上がる」物語性を背負ったヒロイズムなんだと思う。それが現世では、首をかしげるほど不条理な窃盗や暴行として露呈してしまう。
あれが人間の本質なのだと思う。ウォルマートの中へ走りこんで、あれこれ盗んで走って逃げるなんて、体力のない人間には出来ないでしょう? 無法地帯では体力のある者が勝つ、それだけのことだ。『北斗の拳』は正しかった。
(山本太郎氏の会見は、記者たちに対する無用なおちょくり、皮肉も癪に障った。しょせん、彼は強者の側にしか立てない罪悪感から「弱い人を救う」という処世術を編み出したに過ぎないと思う。ここでもまた、政治信条は関係ない。右翼だろうが左翼だろうが優位に立てる者は生き物として強い、それだけのことだ。)
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僕は、差別はなくならないと思う。
LGBT差別、人種差別、性差別は、なくせるかも知れない。そのための努力はすべきだろう。
しかし、体力による差別は消えない。駅の雑踏で、中年男に体当たりされる女性が絶えないという。僕は色が白くて、猫背でナヨッとしているため、体格のいい男にバーンとぶつかって来られる。若い男に、「どけ」と威嚇されたこともある。「弱者男性差別をやめよう」などと言ったところで、誰が賛同してくれるだろう?
まだ中高校生でも、体育系のクラブの道具を山ほど抱えて、どやどやと電車に乗ってくる者たちがいる。
彼らは、十代ですでに他人が場所をあけるのが当たり前だと思っている。駅のような公共の場所で、傍若無人に振る舞うのがカッコいい、という価値観が根づいている。社会に出て性犯罪をおかすのは、決まってああいう連中じゃないか。しかし、彼らが間違いをおかさないよう指導しようなんて大人はいるか?
吉祥寺駅の南口に専門学校があり、そこへ向かって、道いっぱいに広がって歩く若者たちがいた。車が停車しないといけないぐらい、道いっぱいに。
彼らの話している言葉の中には、外国語もまじっていた。差別があるとしたら、どこにあるのだろう? 人種か? 公道を我が物顔で歩いている彼らが、数の力で自分たち以外の者をどかせようとしている……あの怖さ、不愉快さ、悔しさはどうすればいいのだろう?
本当に人種差別が問題なのか? 本当にアベ政権が悪いのか? 本当に「パヨクのデモがうぜえ」だけなのか? 伊藤詩織さんの本当の敵は誰なんだ?
そろそろ、本当のことを話そうではないか。男であれ女であれ、大声で怒鳴って体力で圧倒する自己肯定感満載のリア充どもが、体力で劣るコミュ障たちを威圧しているだけなのだ、と。
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