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2020年6月30日 (火)

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『妻に恋する66の方法』に始まり、福満しげゆきさんの自伝漫画を何冊か読んできた。
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『僕の小規模な生活』は妻と出会った後、子供が生まれるなどの家庭的なストーリーのはずだが、第5巻は「回想編」として、今まで2~3行しか触れられてこなかった中学時代の恋愛話がズルズルと続いて、その鮮烈な描写力に驚かされた。なんというか、女性を「未知の生物」として描いており、その原始的な謎の行動(生徒手帳にギッシリと落書きしてくる、一緒にUFOキャッチャーをやりたいと誘われる等)が凄い。
三つ編を上手に描きたいという動機から間近で女生徒の髪に触れさせてもらい、その手触りの美しさに感動すると同時に、抜けた髪の毛を「家に持ち帰って舐める」という変態的な行為を告白しており、清潔で神秘的な異性への畏怖と、第二次性徴ならではの原始的な性欲が混在して、決して美化されていない。

福満さんの自伝漫画は突発的なところがあり、途中で日記を掘り返して、これまでの中学時代の描写を敷衍したりする。そうした資料発掘などのメイキング部分を、同じ漫画の中に織り交ぜてくる。引用の引用の引用……によって『ドグラ・マグラ』のように、途中で何を読んでいるのか分からなくなってくるのだが、5巻のラストでちゃんと妻と出会うところに着地すると、まるで歴史絵巻か宇宙世紀モノを見ているかのようだ。


第6巻で、福満さんはミュージシャン志望のくせにいつまでも芽が出ないリア充たちのことを、「彼らは女にモテてしまうから危機感が薄い」と指摘している。この「モテる」「モテない」は福満さんの漫画では【動物レベルのこと】なので、異性にモテて簡単に充足して、慢心しまくっている人にはピンと来ないと思う。
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ヤンキーの友だちに頼んで、彼の妹のパンツを恵んでもらった高校時代の福満少年は、そのパンツを燃やすことで「(性欲的なものの)支配からの卒業」を決意する。そう、思春期の少年にとって「性欲は支配者」なのだ。僕たちは、性欲に屈服させられる。性欲を悪い、汚いものだと知っているから屈辱を感じる。
性欲は社会の中に入り込み、力関係を築く。福満さんはその後、まったく異性と関係を築くことが出来ず、エロ本を買い漁ることだけが楽しみになった時期もあるという。彼の価値観は「背の高い男がモテる」「高校に入学したら、みんなセックスしているに違いない」といった具合に俗化していく。
そのようなドロドロとうごめく自己の内面、混沌とした社会の風潮にもまれながら、表現が生み出されていく。表現は変動的なものなので、後から「差別表現なので禁止」などと簡単には言えないはずだ。


北区で行われる都議補選に立候補している ゆづか姫こと、新藤加菜さんのTwitterが面白い。

「加害をすることは当然あり得ません。罰せられるべきです。
しかしこの国では思想の自由があります。他人が何かをしたいと思うことまで制限はできません。
違う例えをします。ある女性とセックスしたいと思って同意なく行為に及ぶのは当然違法ですが、セックスしたいという気持ちが湧くのは不可侵です。」(

小児性愛者は確かに気持ち悪いが、憲法では人権が守られる……という議論。
しかし、ゆづか姫に批判的な人たちは、まず都知事選と都議補選の違いすら認識していない。どうして彼らがそこまで迂闊で雑なのかというと、「適当に生きてきても何も困らなかったから」だろう。クラスの真ん中へんにいた平均的な人たちは、そうやってポンヤリと生きてるんだと思う(僕のように底辺を這ってきた人間は、それなりに疑い深くなる。慎重でないと、生き残れないから)。
なんとなく、薄ボンヤリと暮らしていける平均的な人たちが、幼稚なデマやチェーンメール、ハッシュタグの類いに引っかかるわけだ(そういう人って、簡単に「感動しました!」みたいなことを言うから、すぐ分かる)。


ゆづか姫は「アベノマスクブラ」をつけて、下着のような選挙ポスターで挑発しているが、いつものことながら「選挙は地味で堅苦しいもの」「なんか真面目で難しいもの」と信じている素朴な人たちは、飽きずに「子供に見せられない」とパターンどおりの怒り方をしている。「けしからん」と怒られることを織り込んでやってるに決まってるのに、彼らは「表現する」ということが、そもそも分かっていない。
「表現物=なんか綺麗なもの、感動させるもの」程度にしか認識していない。誰もが封じこめておきたい人間の暗部を表現物がこじあけるなんて、夢にも思ってないんだよ。言語化できないモヤモヤと遭遇せざるを得ないのが、作品と接することの意味なのに。

あと、ゆづか姫はルックスを積極的に使って自己アピールしているが、彼女を批判している人ほど「外見の美しい女はバカに決まっている」と認識してそう(アベノマスクブラは、その偏見に対する挑戦だろう)。
ゆづか姫の周囲には、元レースクイーンなど、ルックスを売りにしてきた女性たちが集まっている。もしかすると、美人さんほど政治から遠ざけられ、虐げられてきたんじゃないだろうか。
他人事ではなく、僕のように地味な仕事をしていても、ルックスのいい女性は能力以前に「どうやったら親密になれるか」といった尺度で、男たちの雑談のネタにされてしまう。酷い話だよ、これは。仕事の話をしていたはずなのに、「○○と2人きりになれますよ」などと言われたりする。そこまで男女、恋愛、セックスという動機では生きていないのに、いつの間にか「男なら当然、美人とヤリたいでしょう」というテンプレートに当てはめられている。大変な屈辱だ。
男たちのネタとして使い捨てられてきた女性たちが、ルックスを武器に立ち上がるのは当然ではないだろうか。

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2020年6月28日 (日)

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日本文化と共存する“和”の模型メーカー、童友社の「かんたんプラモデル」に大阪城がラインアップされた理由とは?【ホビー業界インサイド第60回】
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何年か前から、ちらほらと「取材したいね」と編集者と相談していた童友社さん、完全新金型の「かんたんプラモデル 大阪城」発売を待って、取材申し込みしました(原則的に、取材は自分で申し込みして交渉します)。
内田社長は、発売時期や人名の間違いを3~4箇所指摘しただけです。それ以外は、僕の構成にまったく手をつけませんでした。だから、こんなに面白い記事になったんです。


“世界と日本を比較するやつにありがちなんだけどさ、海外が優れてると思ったら率先して日本は遅れてるとか叫ぶくせに、やたら「お弁当頑張りすぎ!ファッション頑張りすぎ!

もっと楽していい!」とか日本人の意識高い部分に関してはランク下げようと足引っ張るところだよな。”

↑に対するレス↓

“自分が「上がれない」理由を他責にしたいだけでしょう。
私は悪くない、環境が低いから自分も低くならざるを得ないのだという言い訳にすぎない。

同じ環境なのに高い位置にいる人を認めれば自分が惨めになるので、何かしらの理由をつけて認めない。

根底にあるのは自己愛。”

うんうん、このやりとりが真相だろうね、例の「日本は地獄だ、海外は進んでいる」というテンプレートの内訳は。
だって、コロナで多数の感染者と死者を出した欧米の姿勢を見習わないといけないんだよね、日本は(笑)。欧米の反差別暴動は正しいから、日本でも暴動を起こさないといけないんだっけ(笑)。

「若者だけどコロナに感染して後遺症がつらい」というアカウントがあるんだけど、結局は「日本政府の対応が悪い、ちゃんと補償しろ」ってツイートを繰り返している。会社に補償を求めるとか、地元の自治体に相談とかはしない。具体性がなくて、共感しやすい反体制の主張を繰り返してるだけ。
悪いんだけど、もともと生活が上手くいってない、人生がハードモードだった人ほど「今回のコロナのせいで」って言いたがるよね。小泉今日子とかさ。(コロナで実際に困っている人は、僕の知り合いにもいますよ。だけど、明らかに言い訳に利用している人もいるよねって話。)

「最近、あまり名前を聞かないな」って芸能人や表現者が、幼稚な反体制ツイートをRTしていると、ガッカリというか切ない気持ちになってしまう。「政治的だから」ではなく、幼稚だから。「ああ、売れなくなったのを社会状況のせいにしたいんだな」「自己実現できてなくて、すごく辛いんだな」と分かってしまうから。
で、そういう人たちが飛びつきやすいように、「総理大臣がこっそり法改正して検事長の定年を延ばして、自分を守ってもらおうとしている」とか、分かりやすい物語が用意されている。陰謀論って、全部そう。「私たち無力で貧乏な庶民は、特権階級に騙されている!」と信じさせ、「自分を幸せにするために自分で工夫したり、自分で交渉したりする必要などない」と自己正当化させてくれる。


僕のことをブロックしている勝部元気先生、話題のツイートはスクショかまとめで伝わってしまうので、あまり意味ないかも知れないぞ。

勝部元気氏「50歳くらいのおじさんが『邪魔だ!』といいながらぶつかって来た。女性と間違えたのだろう。女性限定のこういう暴力が社会にあふれ過ぎ。」

この件、勝部さんがナヨッとしているからぶつかって来ただけであって、別に女性と間違えたわけではないと思う。「ぶつかり罪」とか「ストリートバイオレンス」とか、話題をそらせばそらすほど「男性でも、外見が弱そうな人は同性にぶつかられ、暴力におびえて生きているんだ」という本質がボヤけてしまう。男性なのに暴力をふるわれた事実のほうが、勝部さんにとっても深刻なんじゃないの?
「女性だけでなく弱者男性も怯えているんだ」と事実を主張すれば、同性の支持が得られて異性の支持を失うこともないし、何も損することないと思うけどね。

あと、勝部さんは自分のファンとの食事会とか企画してるんじゃん()。しかも、少人数限定の親密な食事会をさ。これがハーレム願望でなくて何なんだろうか(笑)。
彼は、本気で「女性は不当に差別されている、男性である私が何とかせねば」と決意しているは思う。でも、何割かは「女性と仲良くなりたい」という動機も混ざっているよね。それは悪いことじゃないよ。誰にでも、幸せに生きる権利はあるから。
だけど勝部さんは、目先の「とにかく女性の圧倒的支持を得ないと、自分が苦しい」という事情が先行しすぎ。都合のいい立場を得たいのが見え見えだから、同性から信用されない。

左翼……というか、現状を変えたい人って、即座に結果を出そうと焦りすぎるんだよ。今回は負けておいて、その貸しの分だけ、次は成果を出せるな……という計算がない。僕も計算力が低いけど、「今回はバカのふりをして、相手にいい気持ちになってもらおう」ぐらいは考える。そのほうが面白いし、めぐりめぐって、結果が楽しくなるから。

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2020年6月25日 (木)

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モデルグラフィックス 2020年8月号 本日発売
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●組まず語り症候群 第92回
今回は、ハセガワ製の珍品キット「たまごワールド」を取り上げました。


最近、レンタルDVDで借りてきたのは、『ブリッジ・オブ・スパイ』。2015年のスピルバーグ監督作品。
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冒頭カットは、鏡の中から始まる。ソ連のスパイが、趣味で自画像を描いている。カメラが引くと、彼の顔は鏡の中の逆像だと分かる。さらにカメラが引くと、画面右側に彼の描いている絵がフレームインする。つまり、ふたつの顔が同一フレームにINする。これだけで、彼が二重の顔を持つスパイなのだと説明できている。
全編、こんな風に効率的で洗練された演出がつづく。
どうしてワンカット目でスパイの正体をあっさり分かるような演出にしたのかというと、「誰がスパイなのか」というサスペンスには、あまり意味がないからだろう。何でもかんでもドキドキハラハラさせて、最後に感情を爆発させて観客を泣かせるのが映画……と思っていては、人生損をする。


僕がもっとも気に入った演出は、トム・ハンクス演じる弁護士が東ドイツへ乗り込み、司法長官と会うシーンだ。
ハンクスは敵味方のスパイの交換条件を修正して、ソ連領に墜落したパイロットおよび、ベルリンが東西に分断される時に東側に捕らわれた民間人の学生の2人を要求する。ところが、司法長官は出かけてしまう。その横には、書記の青年が座っている。
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ハンクスは、廊下で待たされている。広い事務所の廊下を、書類を運ぶ自転車が何台も行き来する。廊下のすみに、ひとりポツンと座りこんだハンクスの前を二台の自転車が通りすぎる。カメラは自転車を追って、右へPANする。すると、あの書記の青年が歩いてくる。
青年を追い越すように、今度は右から自転車が来る。カメラは再び自転車を追って、左へPANする。すると、自然に青年がハンクスの前まで歩いてくる動きを追うことになる。

つまり、川のように流れる自転車の一群を機械的に追うだけで、その流れの中を歩いてくる書記の青年が、群れの中にまぎれた、とるにたらない存在だと感じられる(実際、彼は司法長官が出かけたことをハンクスに伝えるためだけに来た)。
ところが、ハンクスは青年の英語力を見込んで、彼を抱き込むようにして交渉を有利に進めようとする。人質奪還のため異国まで来たハンクスも、事務仕事をしているだけの青年も、大きな流れの中にいる。……こうして後から見れば、いろいろと文学的な解釈が出来る。本当はこのカットも、シーンはじまりを綺麗に見せるためのテクニックのひとつに過ぎないのだろう。
でも、僕はカメラワークや構図から意図を読みとるほうが好き。
この映画を見た人は、トム・ハンクスとソ連側スパイとの思想や国境をこえた友情に感動したがるだろう。しかし、僕はそこはどうでも良かった。たとえば、映画全編に食器を使った演出が多い。レストランのお皿、密談の席でのグラスなど……どう使って、どんな効果を出しているのか? そこに、映画の面白さがある。僕は、ウソをつきたくないだけだ。


外出禁止や休業を強制できる法改正必要62% NHK世論調査

こうやって個人の主体性を放棄し、他人の自由を奪おうとする凡人ども、愚民どもの怠惰さは、本当に怖い。彼らが怖いのは、創造的な理想がなくて、ただ他人を縛りつけておけば面倒が少なくてすむ、世の中へのイライラが減ってスッキリする……程度に考えているところ。殺伐としているよね。
個人個人の判断にまかせたくない、支配欲だけが増大した自粛警察たちの頑迷さ、「検察庁法改正案に抗議します」ハッシュタグのハナホジ感(誰が適当にやっといてくれ感)は、どちらも同調圧力を強いるものであった。とりたてて理想のない、学級会で意見を聞かれても「みんなと同じでいいです」「多数決に従います」と責任回避していた連中が社会の大半を占めると、あきらめ加減の同調圧力(「俺も我慢するんだから、お前たちも我慢しろ」)を生み出してしまう。


芸能人、ミュージシャンや俳優が売れなくなってくると、何となく左翼っぽい反体制的な方向へ傾いていしまうのは、「大衆の人気を獲得する」商売である以上、自然な流れなのかも知れない。「金持ちや権力者がズルをして、庶民が苦しんでいる」物語を、そのまま売れなくなった自分と重ね合わせることが出来るので、楽ともいえる。

しかし不思議なのは一部の「リベラル」や「左翼」だと思われていた人までが声高に「早く緊急事態宣言を出せ」とか「欧米のようにロックダウンをしろ」と主張していたことである。

だって、彼らは「楽な方向」へ傾いているのだから、権力に頼るようになるだろう。本当に怖いのは思考と主体性を放棄させる同調圧力だと思うのだが、例のハッシュタグ荒らしで、「現政権を許さない」人たちが、どちらかというと全体主義的な傾向であることが明らかになったと思う。ハッシュタグをコピペする態度は、そのまま「考えるな、従え」「同じようにしろ」と言っているように思えて、とにかく怖かった。
フェミニズム的な視点からの「不愉快な性表現は禁じてくれ」は、より公権力を今よりも増強しろと主張しているわけで、自由とは程遠い傾向だ。僕は大変怖い。Twitterでこの手の議論を見ると、皆さん、スクリーンショットを使ったRTをさらにスクリーンショットで撮って、血みどろの論争に明け暮れている。

よくこの手のツイートによく登場する「日本は地獄」などの紋きり口調は、ようするにその人にとって「人生は地獄」であることを物語っている。そして、「海外は進んでいるのに、日本だけ取り残されている、恥ずかしい」という嘆き節は、「本当の自分の人生はもっと理想どおりに進んでいたはずなに、そうなっておらずに恥ずかしい」ことの裏返しなのだろう。あれもダメ、これもダメ、とにかく不満の尽きない人は自分の解決すべき問題を政治問題にすりかえている。なんだか、ちょっと前のネトウヨとまったく同じ心理構造だ。ちょっと可哀想ではある。
日本は、「私は私」「私は私のままで十分に素晴らしい」と思えるような自尊心を、育てにくい教育をしている。本当に改革すべきは、教育だと思う。

(C)Twentieth Century Fox Home Entertainment LLC. All Rights

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2020年6月22日 (月)

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岡本喜八ゆずりの軽快なテンポ感が、壮大なテーマへ結実していく! 「トップをねらえ!」の絶妙なカットワーク【懐かしアニメ回顧録第67回】
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いつもの連載ですが、このカット割りの話を読んで「そうそう、あそこがカッコいいよね!」と分かる人は稀少なので、そのセンスは大事にした方がいいです。こうやってちょっとコラムを書くだけで、何万円かもらえるようになるんですから。もし他人に伝わらなくても、自分だけがカッコいいと信ずることでお金がもらえるなんて、こんな幸せな人生ってありますか?

平尾隆之が、「映画大好きポンポさん」をアニメ化したい本当の理由【アニメ業界ウォッチング第67回】

このインタビュー記事が最新の仕事ですが、自分としては不本意な内容です。
インタビュアーは聞いた話を持ち帰って、整理して、記事として面白く読めるように構成しなおしています。ところが、事実誤認がないように原稿チェックに出すと、一部だけ話が書き足してあったり、照れかくしのような「(笑)」が多くなって、バランスをガタガタにされてしまう。脚本を書ける人が、インタビュー記事を上手にまとめられるわけではありません。
優れた作家は、こちらの職域を荒らさないよう、2~3箇所の修正にとどめるか、まったく手をつけずに戻してきます。編集者の中には、「話を盛る」という言い方をする人がいますが、根本的にインタビューという仕事を分かっていません。盛るのではなく、話を「整える」のです。


DVDレンタルで、小津安二郎監督の『晩秋』。学生時代か、もっと後になってから見たはずで、あちこちディテールをおぼえていた。
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もっとも異様に感じたのは、上の、笠智衆と原節子の父娘が能を観劇するシーン。
舞台上での美しい踊りを撮るなら分かるのだが、なんと、座ったまま合唱している謡の人たちを撮っている。すると、画面は硬化する。
その不自然に長いカットが終わると、笠と原が並んで舞台を見ている絵になるのだが、謡の人たちと同じく画面左を見ている。ますます、映画からは動きが失われていく。

ところが、笠が画面右側、フレームの外を見てニッコリと笑う。原は笠の視線と表情に気がつき、画面外に目を向ける。そこには、笠の再婚相手の女性(三宅邦子)が座っていた。原の表情は、上のカットのように険悪なものとなる。
何度かカットバックした後、カメラはちょっと後ろに引いて、笠と原、三宅をひとつのフレームに収める。それは、三角関係の構図である。このシーンを境に、映画は原の恋愛にも似た父への想いへスポットを当てはじめる……が、ただの一言も台詞がない。
それゆえに強烈な違和感、ただならぬ異様な心情が伝わってくる。台詞も説明もなければないほど、受け手はその空白にこそ注視するわけである。
(もう一言いうと、同じような動きのない構図が長くつづくと、人はストレスを感じはじめる。そこへ笠と原の笑顔と不機嫌な顔が入ると、普通の会話シーンなんかより鮮烈に印象づけられるわけだな。)


“ドアの前に立ちはだかった選手は、ひわいな言葉を並べ立て、ズボンの中に手を入れ、マスターベーションを始めました。「胸、大きいですよね」などと、気持ちの悪い表情で言っていました。”

常陽菊川高校の野球選手が、女性新聞記者の部屋に押し入って、目の前でオナニーしたり電話したりやり放題やって、「若い彼には未来があるから」と無罪放免された話。
しかし、この手の話は広まらないし、根づかない。僕たちの社会が、「スポーツ選手は子供たちに夢を与える」「運動部に入ることは健全で良いこと」と無責任にも決めつけて、「体のでかいヤツ、体力のあるヤツほど暴力で人を支配する」という冷徹な事実から目をそむけつづけているからだ。意気地なし。「弱者に優しく」と言いながら力の強いものに媚びへつらう卑怯者だ。

“高校野球にはどこか「爽やか」「ひたむき」といったプラスのイメージがくっついていますので、それが嫌だと正面切って言いづらい雰囲気があります。 

自分に被害を受けた過去があるからといって、高校野球ファンや選手たちに野球を嫌いになれとは言えません。家族や仲の良い人が野球を見ているときにテレビを消せとは言えません。”

――そういう事だ。仕事をしている大人の女性が、自分より体が大きい未成年に人生を奪われることもあるんだよ。だけどこの場合、学校と新聞社が話し合っただけでもみ消された。
記事の中にもあるように、週刊文春によって他の性加害と同時に暴露されたが()、もう12年も前のことだ。人前でオナニーした球児は平然と大学を卒業し、そろそろ子供も出来ているころだろう。
性犯罪をおかすのは、別にウジウジした内向的な異常者だけではない。権威のある立場にいて、肉体頑健、社会的信用もあるからこそ、性を使って人を陰湿に支配するわけだ。その人間の汚さを、まずは認めろ。


福満しげゆきさんの自伝的な漫画、『僕の小規模な失敗』を古本で買い、むさぼるように読んだ。
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いちばん知りたかった、奥さんとの出会いと結婚が語られていたが、そこへいたる暗黒の青春時代の描写が生々しく、強烈な説得力があった。
定時制高校で柔道部をつくったものの、大学の推薦入学を狙っている嫌なヤツに部長の座を勝手に奪われてしまうのもリアルだった。そうやって強い立場、声のでかい連中に追いやられて屈折するしかなかった者たちへの、同情的な慈愛に満ちた漫画だ(あちこちに、気弱な人が騒がしいリア充に居場所を奪われる描写が散りばめてある)。

だけど、俺は「差別された」とか、「私こそ被害者」などと言うつもりはない。
恋人ができて楽しい毎日のはずの福満さんには、不条理にも「漫画を描きたい」強烈な欲求が沸き起こってくる。……このシーンには震えるほど感動したけど、それは暗黒の時代が長く続きすぎたからだよね。だから、福満さんには己が心の底から望むものが見つかった……というより、自分だけの「真の欲求」が形成されたんだ。ドロドロした分泌液が、時間をかけて真珠に結晶するように。自分を否応なく突き動かす欲求って、そうやって手に入るものだよね。リア充の凡人たちには、分からないことだ。

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2020年6月19日 (金)

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先日のブログで、“男であれ女であれ、大声で怒鳴って体力で圧倒する自己肯定感満載のリア充どもが、体力で劣るコミュ障たちを威圧しているだけなのだ、と。”ということを書き()、この部分をTwitterに引用した。
すると、もう面倒なのでリンクは貼らないが、「ぜんぶ関係ない、コミュ障の被害妄想」という意味の返信というか、引用RTをいただいた。その男性のプロフィールを見ると、「人生いろいろどん詰まり、誰か助けて」みたいなことが書いてあった。そこにリンクされていた日記()は、2015年で終わっている。

「年明けから急にメンタルが崩れてきています。 生活はもちろん仕事にも手がつかない状況が悪化してきていて、時折急遽休暇を入れるなど、登校拒否状態に近づきつつあります。 1月末頃に軽いパニックを起こし、更に一段下がった状態でこんにちに至ります。 グズグズです。

本人的には会社での不満が主要因と思っているのですが、医師はそれには疑問を持っているようです。 どう…なんですかね…。

正直…もうダメ、って気持ちです…orz。」

なんだ、あなたは「こっち側」の人間じゃん、と思ってしまった。
たぶん、この人は僕よりも年上だろうと思う。こういう、人生詰んでしまって、どうにもならなくなっているオジサンから、僕は絡まれやすい。ほら、このブログのリンクを2ちゃんねるとかに貼ってケナしていた癖して、今でも当然の権利だぜって顔でこのブログを読んでいる貴方とかさ。なんかもう、人生ぜんぜん面白くない、2ちゃんねるかTwitterでボヤくしかない、非生産的な廃墟みたいな人生しか残っていないオジサンが、世の中にはいっぱいいると思う。「ネトウヨ」って、そういう敗残者たちの受け皿として機能していた。
でも、「日本が大好きです」「日本人でよかったです」なんてのはその場かぎりの逃げ口上でしかなくて、本当は声のでかいリア充たちに負けたんだよね? あいつらに「どけ」って怒鳴られて、無残に追い立てられてきた孤独なオジサンが俺たちだよね? 学生時代もずーっと辛くて、世間に出てからも成功しなかったでしょ? せめて、そこから話を始めようぜってだけの話なのだが、たいていの人は、本当のことを言われると激怒する。


なんとかして、自分を許してあげないと、人生は苦しい。「日本人でよかった」も、かつては自分を許す方法のひとつだったのだろう。もしかすると、恋人ができた、結婚した……というのも、自分を許す方法なのかも知れない。絶対の他人であるはずの異性に受け入れられる……「結婚して、心から救われた」というオタク男性がいると、ある人から聞いたことがある。一種の生存戦略だろうな。
もしかすると、「友だちがいる」なんてことでも、基本的にいじめられて生きてきたオタクは救われる。だから、オタクは話を聞いてくれる人に期待しすぎて、無我夢中で話してしまったりする。僕も20代のころは、とにかく他人から愛されたくて、焦っていた。異性に対しても、かなり無様なアプローチを執拗に繰り返していた。

今は、もう他人に期待していないから、すごく楽になった。
誰も、僕の誕生日を知らない。誰も、僕に電話してこないしメールもこない。飲みにも誘われなくなった。それでも別に寂しくないんだから、気軽なものだ。フリーランスだから、明日なにをして過ごすか、自分で決められる。すごい幸福なことだよ、何時に寝ても何時に起きてもいいってのは。朝から酒を飲んで、昼寝してから仕事してもいいんだから。もっと言うと、いきなり新幹線に乗って、どっか遠くでホテルに泊まってもいいわけ。締切日までに原稿を納品さえすれば。

この暮らしの邪魔をしてくるのは、もはやヨドバシカメラの宅配ぐらい。
だから、自己実現できている。他人への執着を、なぜか忘れることができた。好きな仕事だけに絞って、もはや有名になりたいとかいう欲もなくなった(若い頃は、自分はすごい才能の持ち主だから、それなりに有名であるべきだと信じていた……あの野心的な日々は、しかし苦しかった。いつも喉が渇いていた)。
有名でなくても暮らしていくのに十分なお金が稼げているんだから、営業的に名前が忘れられなければいい。有名になるとか、友だちや異性に囲まれているより、好きな時間に起きて、フラリと散歩にも旅行にも行ける。この風のような自由は、お金では買えないよ。

38歳、離婚してからの解放感が、とにかく凄かった。自由を手に入れた。そこそこの生活を維持できるまでに、偶然にも助けられたし、自分を売り込む方法も身につけた。この生存戦略については、いずれゆっくり話してみたい。(あと倒すべき敵がいるとしたら、雑踏でぶつかってくる体格のいい男ども。あいつらを合法的に消し去る方法を考えるのは、ひょっとしたら面白いかも知れないよ?)


SNSに書くと……いや、このブログに書いてさえ、ものくる(@monocuru)とかいう正義ヅラの卑怯者に難癖をつけられたけど……。
僕は、依然として立花孝志さんを支持している。ホリエモン新党はよく意図が分からないので投票には迷うが、NHKに対する正々堂々のツッコミには、やはり惚れ惚れるする()。立花さんは首尾一貫した、「スジの通った卑怯」をやっている。

あと、一般の人がNHK集金人の会社に電凸して、その音声をN国党に送ったりもしている()。この音声も、すごく面白い。
……っていうか、NHKもそうだし、集金人の会社もそうなんだけど、対応がいい加減すぎるんだよ。自分の名前を言わないとか、文書で送らせて、あとは無視とかさ。事なかれ主義で、「私どもには分かりかねます」「確認でき次第、ご連絡します」とか、結局なにもしないで給料もらうだけ。そんな人生の、何が面白いの? だから暴力をふるったり、痴漢したりしないと心の穴が埋まらなくなってしまうんだよ。

俺に言わせれば、学校生活ってのは、ぜんぶこの調子だった。「まだ、ちょっと把握できておりませんので」「詳細が分かりかねますので」「あらゆる方面に」と、のらりくらりと本質から逃れてばかり。ぜんぜん勝負に出ない。俺は、そういう普通の連中から哂われていたので、戦わなくてはならなかった。学生時代に「普通」だったヤツは、基本的に事なかれ主義で、団体生活に適応するしかない。弱い。そんな人生、なにも面白くない。
そいつらがカッコつけてそれっぽいことを言おうとすると、なんか生ぬるいリベラルっぽいヒューマニズムになってしまう。戦い方を知らないから。戦争反対とか、独裁政治はいけませんとか言ってれば戦わなくてすむわけ。だって、「アベ政権の独裁は許しません」とか言ったって、アベ政権があろうがなかろうが、あなたはぜんぜん自由そうに見えないもの。ぜんぜん楽しそうじゃない。

まあ、例によって話の軸がぶれまくっているが、「えー、しかるべき対応を」「あのー、後ほど確認しまして」と口先だけで逃げつづける人生も、また地獄かも知れない。みんな同じように満員電車に揺られて、同じ時間に昼食に出て、同じような意見しか口にできない。
俺は脱出できた。やりくないことを拒否しつづけた結果だ。何億円も借金して、好きように豪遊して、いきなり死んだとしても、楽しければ勝ちじゃない? 「借金を返さなきゃ」「決まりを守らなきゃ」って焦る人生を、なぜかみんな選びたがる。不思議でしょうがない。好きなことを、好きなようにやることに徹するには、勇気が必要なのかも知れない。

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2020年6月16日 (火)

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最近、レンタルDVDを借りてきて観た映画は、北野武監督『ブラザー』。
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『座頭市』『アキレスと亀』までは観ていたが、この2000年作品は、すっぽり抜け落ちていた。『TAKESHIS'』の自己陶酔ぶりに、うんざりして見落としていたのかも知れない。
『ブラザー』は、いつものヤクザ映画をたまたまアメリカに持っていっただけ……という素っ気なさが良かった。

男Aが、何かを見ている。次のショットで、男Bが鼻血をたらして呆然としている。観客は、男Aが殴ったのであろうと推察する。
これは何も、北野監督が編み出した独自の演出テクニックではない。クレショフ効果が発見されたのは実に百年前、1922年のことだ。北野は、映画の原理に近い領域で仕事をしているに過ぎない。
男Aと男Bのふたつのショットの落差が、残酷さにもなるし笑いにも繋がる。ショットがどう作用するかは、役割や脚本による。ゆえに、北野の作品は「劇映画」という領域にとどまる(『ブラザー』で北野が編集まで手がけているのは、覚えておきたい。次のショットが画面に現われるまでの、あのもどかしいような「間」は、北野の直感、あるいは生理に近いのだろう)。


映画が「ネタバレ」という言葉とセットにされ、「後半の展開」や「物語の結末」を明らかにしては【映画の価値が損なわれる】ので黙っていよう……という奇妙な習慣が根づいたのは、ここ20年ぐらいのことと思う。
『ツイン・ピークス』のようなサスペンスフルな、先の展開の分からないドラマが流行りだした90年代から、映画でも「物語」が重視されるようになった。Twitterの日本運用は2008年からだが、SNSの普及で見たくもない発言が目に飛び込んでくるようになってから、僕たちの価値観は後戻りできなくなってしまった。映画監督自身が「公開後、二週間はネタバレしないで」などと公言するようでは、もう末期的だ。

後はもう、個人がひとりひとり、文化が枯れないような映画の観かたをしていくよりない。SNSに未来など任せられない。
僕は、(とっくに結末の分かりきった)黒澤明やヒッチコックの作品を集中的に観ることで、数年間を過ごした。すると、若い頃は「感性」なんていう出鱈目なもので好き嫌いを判断していたゴダールやトリュフォーの仕事の意味が、よく理解できるようになった。
作品を吟味するうえで、「若い」ことは、さほど有利とは思えない。特に「感性」なんてものを当てに「感動」を目的に生きていると、その後の長い人生を棒に振りかねない。「本当に自分は理解できているのだろうか?」という疑いがなければ、半世紀前の映画を勉強しなおしてみよう、なんて気持ちにはなれない。
僕は、自分がかわいい。でもだから、自分を疑うんだよ。


昨夜、都知事選への立候補を表明した山本太郎氏の記者会見を見た。
かつて、あれほど心酔し、友だちに投票を呼びかけさえした山本太郎。しかし、お金のない老人が東京駅前で野宿したり、餓死を覚悟したりする様子を目の当たりにしてすべきことは、都知事選への立候補ではないと思う。仕事を失った人には生活保護を申請させる、これが社会のリアリズムだ。
直情径行では、もはや何も救えないことが分かってきた。直情径行とは、たとえば黒人が差別されていることを口実に、暴動を起こして社会をパニックに陥れることだ。あれは「民衆が正義のために立ち上がる」物語性を背負ったヒロイズムなんだと思う。それが現世では、首をかしげるほど不条理な窃盗や暴行として露呈してしまう。
あれが人間の本質なのだと思う。ウォルマートの中へ走りこんで、あれこれ盗んで走って逃げるなんて、体力のない人間には出来ないでしょう? 無法地帯では体力のある者が勝つ、それだけのことだ。『北斗の拳』は正しかった。

(山本太郎氏の会見は、記者たちに対する無用なおちょくり、皮肉も癪に障った。しょせん、彼は強者の側にしか立てない罪悪感から「弱い人を救う」という処世術を編み出したに過ぎないと思う。ここでもまた、政治信条は関係ない。右翼だろうが左翼だろうが優位に立てる者は生き物として強い、それだけのことだ。)


僕は、差別はなくならないと思う。
LGBT差別、人種差別、性差別は、なくせるかも知れない。そのための努力はすべきだろう。
しかし、体力による差別は消えない。駅の雑踏で、中年男に体当たりされる女性が絶えないという。僕は色が白くて、猫背でナヨッとしているため、体格のいい男にバーンとぶつかって来られる。若い男に、「どけ」と威嚇されたこともある。「弱者男性差別をやめよう」などと言ったところで、誰が賛同してくれるだろう?

まだ中高校生でも、体育系のクラブの道具を山ほど抱えて、どやどやと電車に乗ってくる者たちがいる。
彼らは、十代ですでに他人が場所をあけるのが当たり前だと思っている。駅のような公共の場所で、傍若無人に振る舞うのがカッコいい、という価値観が根づいている。社会に出て性犯罪をおかすのは、決まってああいう連中じゃないか。しかし、彼らが間違いをおかさないよう指導しようなんて大人はいるか?

吉祥寺駅の南口に専門学校があり、そこへ向かって、道いっぱいに広がって歩く若者たちがいた。車が停車しないといけないぐらい、道いっぱいに。
彼らの話している言葉の中には、外国語もまじっていた。差別があるとしたら、どこにあるのだろう? 人種か? 公道を我が物顔で歩いている彼らが、数の力で自分たち以外の者をどかせようとしている……あの怖さ、不愉快さ、悔しさはどうすればいいのだろう? 

本当に人種差別が問題なのか? 本当にアベ政権が悪いのか? 本当に「パヨクのデモがうぜえ」だけなのか? 伊藤詩織さんの本当の敵は誰なんだ?
そろそろ、本当のことを話そうではないか。男であれ女であれ、大声で怒鳴って体力で圧倒する自己肯定感満載のリア充どもが、体力で劣るコミュ障たちを威圧しているだけなのだ、と。

(C) 2000 Little Brother Inc.

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2020年6月13日 (土)

■0613■

レンタルDVDで観た映画は、クリント・イーストウッド監督・主演の『運び屋』。配信では岡本喜八監督の『激動の昭和史 沖縄決戦』。
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わざわざ歩いて店舗へ行って、品定めして借りてきてバカみたいな話だが、『運び屋』はNetflixで見放題である。
しかし、ネット配信サービスは、彼らの権利などの都合で、突如として見られなくなってしまう場合がある。「これは配信でいつでも見られるから、別にいいか」と油断していると、どこかの誰かの意図で、何の予告もなくアーカイブから消える。「批判を受けたから」なんて理由で、暗黙のうちに作品が抹消される危険性だってある。

気高い人権意識を持っているはずの欧米で起きている正義の「反差別」デモによって、コロンブスの像まで焼かれてしまう粗暴でバカで偽善的な状況を見ていると、とっくに闇に葬られた映画もあるんじゃないか?と思えてならない……と心配していたら、なんとアメリカの一部動画配信サービスで、『風とともに去りぬ』が配信停止になった()。
そもそも、アジア人なんかより先進的なはずの欧米人様は、コロナウイルスの感染拡大は阻止できたのだろうか? 不安やイライラの矛先が変わっただけに思えてならない。


早くも下火になってきたが、Twitterでは児童型ラブドールがヒステリックな批判対象となっていた。
ラブドールというか、いわゆるオナニー用の精巧な人形が幼児の形をしているのは気持ちが悪いし犯罪を煽るのではないか……という話が、現実の小児性愛の是非とごっちゃになって、「単にロリコンの男どもがキモいから、とにかく差別したい」「私だって育児疲れで、我が子に手を上げたくなる時だってある」と、あらぬ方向へ飛び火して怒りの無限再生産が行われるのは、もうTwitterのいつものパターン、風物詩だ。
Twitterの仕様が変わって、自分と似たような傾向のアカウントを「フォローしませんか?」的にレコメンドしてくることも、「私だって怒りたい」という感情の無限リレーに拍車をかけているようにも思う。

広告だけでなく、勝手に設定したポイントを付与したり人びとをカテゴライズすることによって、「さあアプリを開いてください」「さあ連携してください」「さあ似たような人と同じ意見をシェアしましょう」と無目的に呼びかけるソーシャルメディアは、僕たちから冷静な判断力を奪う。「本当は、自分はこんな人間ではなかったはずだ」と、誰もが後悔しているのかも知れない。だけど、「面倒だから、SNS上の自分を本当の自分にしておこう」という妥協を、ソーシャルメディアは強いてくる。
動画配信サービスの「貴方、こういう映画が好きですよね? また似たような映画を観ませんか?」というレコメンド、グーグルマップの「今日どこどこに行きましたよね? さあ、評価してください」「みんなが貴方のレビューを見てますよ!」などの誘惑媚態に逆らいつづけなければ、人生から予想不可能な出鱈目さが失われてしまう。


ほとんどの人が、自分の汚らしさ、ズルさに耐えられない。自己正当化せずにはいられない。

リベラルな人たちは「巨大な権力をもった政治家がうまい汁を吸っており、われわれ庶民は不当に差別され、抑圧されている」という単純で古典的な物語に、現実を沿わせようと躍起になる。彼らの発言、発想は別に政治的ではない。物語的なだけだ。
アベノマスクは物語化しやすいが、10万円は物語に適合しづらい。だから、SNSでは批判の対象になりづらい。ちっとも政治的ではない。検察庁法改正案に反対するのは、適度に複雑な背景がありそうで、カッコいい。少なくとも、地球平面説や他の陰謀論よりは看破しづらいだろう。その簡素さに、物語を創出するはずのクリエイターたちが乗っかってしまったことに幻滅した。

「検察庁法改正案」は、ただハッシュタグをコピペするだけで、さまざまなことを免責してくれる。かつて、「在日特権」に反対さえしていれば、愛国者として保護されるかのような錯覚を与えてくれたのと同様に。自分をリベラルだと思っている人ほど、自分の敵を「ネトウヨ」と規定したがる。まあ、自分の敵というのは、たいてい自分の胸のうちに潜む劣等感や罪悪感だ。
だが、ほとんどの人は自分に劣等感があることを恥じるがあまり、その存在を認めたくない。自分の胸に巣食う、洗っても落ちない汚れのような罪悪感と戦うほど強くない。本当は、自分の人生が予定どおりではない。毎日が致命的につまらない、決定的に欠けている。「ネトウヨ」も「リベラル」も、どちらも。
けれども、そんな弱い自分を許してあげたい。よく分からない法案にSNSの中だけで反対したり、コロンブスの像を(一人ではなく)みんなで倒してみたり、あと他にも自分の退屈すぎる日常から目をそむけさせてくれるネタは、いろいろある。恵まれない子供たち、かわいそうな動物たちは絶対に消え去らない。恵まれていない大人たちがいるかぎり。


僕は高校時代、体育が苦手なばかりに、クラスのリア充男女から、毎日のように笑いものにされていた。野球部のエリート連中にも、屈辱的な目に合わされた。
それらの過酷な体験が、自分を「恥ずかしい存在」「克服されるべき何か」だと気づかせてくれた。今でも、人前で滝のように汗をかいてしまうことがある。だがしかし、それはまあ、薬を飲んで我慢しよう。
ひょっとすると、またしても自分は間違っているのではないか?――そうした慎重さ、自分に対する不信感が身についた。自分もまた穢れている、自分もまた卑怯者だ。その自覚は、強力な武器にもなる。手入れさえ怠らなければ。

(C) 2018 - Warner Bros. Pictures

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