■0526■
モデルグラフィックス 2020年 07 月号 発売中
■組まず語り症候群 第91回
今回は、エアフィックス製の骸骨を取り上げました。緊急事態宣言の解かれる前、カメラマン、編集者2人の計4人、マスクをしてスタジオにこもって、楽しく撮りました。
■
『FAKE』の森達也監督が、オウム真理教が崩壊した直後の、末端の信者たちに取材したドキュメンタリー『A』、『A2』の二部作をレンタル配信で観た。(あ、森監督は東京新聞の望月衣塑子なんかにも取材してるんだ……俺は、反原発にかぶれていた時は東京新聞を愛読していたけど、望月って人の最近の反体制なツイートは好きじゃないんだよなあ……)。
さて、結論から言うと『A2』の方が、信者に対する独占取材になっていて、良かった。前作『A』は、他のテレビ局と混じって取材していることも多かったから、今ひとつピントが絞り込めていなかった。広報部長の荒木さんに女性記者のファンが出来るところは、とても微笑ましくて良かったけれど。
『A2』は、上層部の逮捕によって日本各地へ散っていった信者たちと、住みつかれてしまった住民たちの関係にスポットを当てている。
驚かされるのは、「殺人集団オウムは、この町から出て行け」と怒号を発していた人々が、時間がたつにつれて、信者と仲良くなってしまうこと。まあ、馴れ合いといってしまえば確かにそうなのだが、いざ立ち退きの日になって、「健康でいてほしい」「元気でね」と声をかけあう信者と住民たちの姿には、羨ましさすら感じた。
住民のひとりは、「まっすぐに自分の道を行くなんて立派だ」とすら言う。
また、オウムの広報誌を「俺、これ貰ってないよ」と欲しがる住民までいる。世界観は違うし、交わらない部分もあるんだけど、理解しあわないまま、どちらが上でも下でもなく……この触れあいこそが、多様性ある社会の一形態という気がした。
信者と住民の奇妙な交わりは、既存の世間が受け止められないバッファ領域というか、一種の緩衝地帯なのだ。
■
そもそも、オウム事件の後、各地で反対活動をしていた大人たちとは、どういう人たちだったのだろう? 中には街宣車で乗り込んでくる右翼もいたが、彼らではなく、普通の住民たち。プラカードと拡声器で、オウムを追い出そうと集会を開いていた人たちにも、「ふだんの暮らし」があったはず。たぶん60代以上の、子育ても終わった人たちだと思う。
強気で争い好きな性格からして、彼らは右翼っぽく見える。一般の人の、右翼的な部分が活性化すると、反対住民になるのであろう。
また、社会というか世間に居場所がない冴えない若者たちが、純粋に向上心を維持しようとすると、新興宗教ぐらいしか行き先がないのかも知れない。冴えない若者といえば、まさしく僕がそうだ。男性はルックスにそれほど気を使わず、女性は化粧しない。彼らは、セックスどころかキスの経験すらないと、照れくさそうに語る。
だけど、キティちゃんのグッズを「本当は良くないんですけどね」と隠し持っていたり、粗末な食事を分け合って食べていたり、互いにからかい合ったりする彼らは仲がよくて、本当に楽しそうだ。大学というか、中学か高校の部活みたい。僕は、あの輪の中にすら入れない気がする。
それでも、住民サイドよりは、僕は確実に信者たちに親近感をおぼえる。
■
ここ2~3日、Twitterで小泉今日子を批判したら、リベサヨというのかなあ、ネトウヨの左翼版みたいな人たちから批判された。
ムカッとくるよりは、ちょっと的外れな批判で、ついついおちょくった返事を返してしまった。すると彼らのスルースキルは大したもので、何度も何度も、荒らしのように俺が返信しても、完璧に無視する。
彼らは、毎日ある時間になると相手かまわず批判したり、反体制的なアカウントに「そうですよねえ」と同意のレスをつけるのが日課で、自分から独創的な意見を書くことは滅多にない。嫌味や皮肉を書いたつもりなのかも知れないが、ひねりがなく、笑いのセンスはない。その鈍くささは可愛らしくさえあり、僕は『A』『A2』に出てきたオウム信者を想起してしまった。
つまり、リベサヨというか、反アベの人たちも世間でいうリア充ではない人が多い気がする。結婚して子供がいたり、それなりにモテたりはしても、何というか彼らの中の「世間とうまく馴染まない部分」「不器用な部分」が、反アベという表出の仕方をするだけなのだと思う。
先日書いたように、「誰それ?」というマイナーな俳優さん、最近露出の少ない芸能人も、彼らの自己実現できてない部分、営業的に上手くない部分が先鋭化すると、ついうっかり反体制・反政府発言となり、すでに存在していた冴えない不器用な人たちとの親和力が高まってしまう。
「月刊ムー」で流行った、「私は目覚めた戦士」「仲間の戦士を探している」一般の妄想趣味の人たち。自分が平凡な学生であることに耐えられず、本当は選ばれた戦士なのだと、むき出しの実社会に別レイヤーをかける人たちにも、同じような不器用さ、(失礼ながら)無様さ、カッコ悪さを感じる。
「自分はこんなもんじゃない、選ばれた凄い人間なんだ」という焦りは、社会に馴染もうとする以上、否応なく生じる軋轢だ。それを笑うことは、僕には出来ない。
■
「芸能人だって政治発言していいじゃないか」という擁護の声は、まるで的外れ。なぜなら、その芸能人の抱える生きづらさが、“現政権への批判”というスキンをまとったに過ぎないから。それぐらい現政権は、無様な状況なので、共感を集めやすい。まあ、さして目新しい現象でもないのだろう。
オウムに限らず新興宗教もそう、ひょっとすると芸能界もそう、選ばれなかった人たちを救済するシステムは社会に必要なんだと思う。その最新形がTwitterなのかも知れない。(芸能界だって、もう端っこの端っこ、たった一回だけCDを出せませたって歌手志望の女性のささやかな暮らしを、僕は20代の終わりぐらいによく見ていたからね。演劇をやるために、高齢女性のヒモになっている男優(なのか?)とも、よく飲んだ。彼らのことを思い出すと、小泉今日子が「お金くれ」って言い出すのは、さして唐突なことでもないような気がしてきた。)
(C)「A」製作委員会
| 固定リンク
コメント