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2020年5月26日 (火)

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モデルグラフィックス 2020年 07 月号 発売中
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■組まず語り症候群 第91回
今回は、エアフィックス製の骸骨を取り上げました。緊急事態宣言の解かれる前、カメラマン、編集者2人の計4人、マスクをしてスタジオにこもって、楽しく撮りました。


『FAKE』の森達也監督が、オウム真理教が崩壊した直後の、末端の信者たちに取材したドキュメンタリー『A』、『A2』の二部作をレンタル配信で観た。(あ、森監督は東京新聞の望月衣塑子なんかにも取材してるんだ……俺は、反原発にかぶれていた時は東京新聞を愛読していたけど、望月って人の最近の反体制なツイートは好きじゃないんだよなあ……)。
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さて、結論から言うと『A2』の方が、信者に対する独占取材になっていて、良かった。前作『A』は、他のテレビ局と混じって取材していることも多かったから、今ひとつピントが絞り込めていなかった。広報部長の荒木さんに女性記者のファンが出来るところは、とても微笑ましくて良かったけれど。

『A2』は、上層部の逮捕によって日本各地へ散っていった信者たちと、住みつかれてしまった住民たちの関係にスポットを当てている。
驚かされるのは、「殺人集団オウムは、この町から出て行け」と怒号を発していた人々が、時間がたつにつれて、信者と仲良くなってしまうこと。まあ、馴れ合いといってしまえば確かにそうなのだが、いざ立ち退きの日になって、「健康でいてほしい」「元気でね」と声をかけあう信者と住民たちの姿には、羨ましさすら感じた。
住民のひとりは、「まっすぐに自分の道を行くなんて立派だ」とすら言う。
また、オウムの広報誌を「俺、これ貰ってないよ」と欲しがる住民までいる。世界観は違うし、交わらない部分もあるんだけど、理解しあわないまま、どちらが上でも下でもなく……この触れあいこそが、多様性ある社会の一形態という気がした。
信者と住民の奇妙な交わりは、既存の世間が受け止められないバッファ領域というか、一種の緩衝地帯なのだ。


そもそも、オウム事件の後、各地で反対活動をしていた大人たちとは、どういう人たちだったのだろう? 中には街宣車で乗り込んでくる右翼もいたが、彼らではなく、普通の住民たち。プラカードと拡声器で、オウムを追い出そうと集会を開いていた人たちにも、「ふだんの暮らし」があったはず。たぶん60代以上の、子育ても終わった人たちだと思う。
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強気で争い好きな性格からして、彼らは右翼っぽく見える。一般の人の、右翼的な部分が活性化すると、反対住民になるのであろう。
また、社会というか世間に居場所がない冴えない若者たちが、純粋に向上心を維持しようとすると、新興宗教ぐらいしか行き先がないのかも知れない。冴えない若者といえば、まさしく僕がそうだ。男性はルックスにそれほど気を使わず、女性は化粧しない。彼らは、セックスどころかキスの経験すらないと、照れくさそうに語る。

だけど、キティちゃんのグッズを「本当は良くないんですけどね」と隠し持っていたり、粗末な食事を分け合って食べていたり、互いにからかい合ったりする彼らは仲がよくて、本当に楽しそうだ。大学というか、中学か高校の部活みたい。僕は、あの輪の中にすら入れない気がする。
それでも、住民サイドよりは、僕は確実に信者たちに親近感をおぼえる。


ここ2~3日、Twitterで小泉今日子を批判したら、リベサヨというのかなあ、ネトウヨの左翼版みたいな人たちから批判された。
ムカッとくるよりは、ちょっと的外れな批判で、ついついおちょくった返事を返してしまった。すると彼らのスルースキルは大したもので、何度も何度も、荒らしのように俺が返信しても、完璧に無視する。
彼らは、毎日ある時間になると相手かまわず批判したり、反体制的なアカウントに「そうですよねえ」と同意のレスをつけるのが日課で、自分から独創的な意見を書くことは滅多にない。嫌味や皮肉を書いたつもりなのかも知れないが、ひねりがなく、笑いのセンスはない。その鈍くささは可愛らしくさえあり、僕は『A』『A2』に出てきたオウム信者を想起してしまった。

つまり、リベサヨというか、反アベの人たちも世間でいうリア充ではない人が多い気がする。結婚して子供がいたり、それなりにモテたりはしても、何というか彼らの中の「世間とうまく馴染まない部分」「不器用な部分」が、反アベという表出の仕方をするだけなのだと思う。
先日書いたように、「誰それ?」というマイナーな俳優さん、最近露出の少ない芸能人も、彼らの自己実現できてない部分、営業的に上手くない部分が先鋭化すると、ついうっかり反体制・反政府発言となり、すでに存在していた冴えない不器用な人たちとの親和力が高まってしまう。

「月刊ムー」で流行った、「私は目覚めた戦士」「仲間の戦士を探している」一般の妄想趣味の人たち。自分が平凡な学生であることに耐えられず、本当は選ばれた戦士なのだと、むき出しの実社会に別レイヤーをかける人たちにも、同じような不器用さ、(失礼ながら)無様さ、カッコ悪さを感じる。
「自分はこんなもんじゃない、選ばれた凄い人間なんだ」という焦りは、社会に馴染もうとする以上、否応なく生じる軋轢だ。それを笑うことは、僕には出来ない。


「芸能人だって政治発言していいじゃないか」という擁護の声は、まるで的外れ。なぜなら、その芸能人の抱える生きづらさが、“現政権への批判”というスキンをまとったに過ぎないから。それぐらい現政権は、無様な状況なので、共感を集めやすい。まあ、さして目新しい現象でもないのだろう。
オウムに限らず新興宗教もそう、ひょっとすると芸能界もそう、選ばれなかった人たちを救済するシステムは社会に必要なんだと思う。その最新形がTwitterなのかも知れない。(芸能界だって、もう端っこの端っこ、たった一回だけCDを出せませたって歌手志望の女性のささやかな暮らしを、僕は20代の終わりぐらいによく見ていたからね。演劇をやるために、高齢女性のヒモになっている男優(なのか?)とも、よく飲んだ。彼らのことを思い出すと、小泉今日子が「お金くれ」って言い出すのは、さして唐突なことでもないような気がしてきた。)

(C)「A」製作委員会

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2020年5月24日 (日)

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メガハウスの「ヴァリアブルアクションキット 新世紀GPXサイバーフォーミュラ」は、どうして“半完成キット”なのか?【ホビー業界インサイド第59回】
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組み立て済みのシャーシに、色分け成形されたパーツを組み上げていく。しかも接着剤もニッパーも必要ないという、異色の製品です。プラモデル・フェチ的ではなく大人向けの高額食玩でもなく、ひさびさに「ホビー」らしい気持ちのいい製品です。

社会に萌えキャラの居場所はあるのか?【第1回】弁護士・太田啓子さんインタビュー
『宇崎ちゃんは遊びたい!』などの萌えイラストを批判する側と、表現する側の両方にインタビューしていきたいね……という話を、EX大衆の編集者と2年ほど前から相談していて、とりあえず第1回は、『宇崎ちゃん』批判で注目された太田啓子弁護士に対するメールインタビューとなりました。
メールで膨大な回答が来てしまったので、整理する意味も兼ねて、直接お会いしてお話しする予定でした。そこへ緊急事態宣言が発布されてしまい、メールでの回答を、分けて掲載することになったのです。なので、ものすごい分量があります。


ただ、ホビーやアニメ業界にインタビューして、新製品や作品を盛り上げる娯楽性の高い記事ならまだしも、表現のような「思想」を聞きたい場合、文字上のインタビューを構成する記事という形で追及しきれるのか……。その限界については、担当編集とも話している。

『FAKE』というドキュメンタリー映画を観た。
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佐村河内守という耳の聞こえない作曲家に、実はゴーストライターに曲を書いてもらっていたという疑惑が浮上する。僕はこの事件そのものをまったく知らなかった。監督の森達也は、佐村河内の家に通い、まず彼が本当は耳が聞こえているのではないか?という疑惑をつきつける。奥さんと手話で会話しているが、それらはすべて演技なのかも知れない。
森監督が佐村河内を疑っていると画面から伝わってくるし、観ている側も「もしかすると、すべて茶番劇なのではないか?」と思わずにいられない。そうした疑いの中、映画は詐欺師扱いされている佐村河内の苦悩に迫っていく。森監督の疑いの目線が、この映画を終始、緊張させている。
これがもし、紙媒体で編集されたルポルタージュだったら、迫力は一割も出なかった気がする。


無論、ドキュメンタリー映画だって、撮ってきた素材を取捨選択して、意図をもって編集して、2時間の映画に構成する“演出”なくしては成立しない、監督の恣意なくしては映画作品たり得ないわけだけど。

映画の本質のひとつは、記録である。また、映画は人を受動的にする。始まったら最後、フィルムが途切れるまで観客の都合など無視して、二時間でも三時間でも続行される。観客はただ、映画の命ずるするままにジッと座りつづけているよりないのだ。
本とか読み物は、読者の能動性にのみ委ねられている。そこが弱点だ。漫画は、絵としての広がりであって、読みとるものではない(これは押井守監督の言葉)ので、訴求力がある。だから、Twitterでは漫画化して物事を伝えようとする人が多い。

そして、先日のようにハッシュタグだけをコピペしただけで、大規模な政治運動を起こしてしまえる。大衆は、どんどん受動的になっている。
数秒間で怒りや笑いをシェアしたい受動的な大衆に、「あなたの意志をもって私の記事を読んでください」とは頼みがたい。そこに、文字媒体の限界がある。


日本芸術文化復興会が、コロナウイルス被害に対応した「文化芸術復興創造基金」を創設したのに、例の法案抗議のハッシュタグや毎日新聞の記事を引用して反政府的なツイートを繰り返した小泉今日子らが、「文化芸術復興基金」の創設を訴えはじめた。

言っちゃ悪いけど、落ち目の芸人、50歳をすぎてもパッとしない俳優は「自分はもっと凄いはずだ」「こんな人生のつもりじゃなかった」と、焦りはじめるんだと思う。だけど、一般人から注目は集めたい。宍戸開とか古舘寛治は俳優として認識されずにTwitter(しかもデマツイート、強気で過激な子供じみたツイート)でのみ有名だし、頭の悪い左翼的発言でお馴染みの室井佑月さんだって、俳優としては数えるほどしか出演作がない。本業と呼べるものが脆弱すぎて、焦っている。挙句、反体制的なツイートで注目され、自分の人気と錯覚している。
小泉今日子も、二年前に不倫で騒がれて事務所を辞めて、それで資金繰りが苦しいのかも……と想像してしまう。ミュージシャンやライブハウス経営者たちは、この難局を乗り切ろうと工夫をこらしてきたけど、この人たちはハッシュタグで、いい気なツイートしていただけ。最後は政府にたかるなんて、俺にはみっともなくて出来ないけどね。

(ももいろクローバーZは、過去のライブを配信して募金を集め、日本医師会に寄付した。 小泉今日子とはやっていることが逆、これが現役アイドル、最前線の芸人の力だと思う。)

(C)2016「Fake」製作委員会

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2020年5月14日 (木)

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最近レンタルして観た映画は、『ダイアモンドの犬たち』と『カリートの道』。
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『カリートの道』は、アル・パチーノが零落した老いたマフィアを演じており、深く心に沁みる滋味と、素晴らしいカメラワークによるサスペンスを持ち合わせた優れた作品だった。
主人公は、自分の老いを自覚している。味方だった弁護士はコカイン中毒で、次々とトラブルを持ちこんでくる。ダンサーになるはずだった元恋人は、ヌードになって怪しげなクラブで踊っていた。
ジワジワと状況に追い詰められながらも、なんとか脱出口を見い出そうと必死にあがく主人公の姿に、心を奪われた。


#検察庁法改正案に抗議します


このハッシュタグにまつわる、不気味な感覚について。

“件のハッシュタグに関しては某ぱみゅぱみゅ氏の謝罪文に「話が降りてきて」というお仕事感の強い語彙が出てきたり、タグの初投稿者が広告業界勤務であったりと、PR系業界関係者の影が随所に見え隠れしてしまっているので、メディアがこの件を「自然発生」的な体で連日取り上げる様子には違和感を覚える”

この後につづくツイートのとおり、「東京高等検察庁の検事長の定年延長」は、2月に一部で話題になったにすぎない。僕は共産党と仲のいい「新日本婦人の会」アカウントをフォローしているので、なんか野党が「火事場泥棒」と批判しているらしいな……程度にしか知らなかった。
最初にハッシュタグで投稿した女性は、「フェミニズムへの興味」「広告制作の仕事」……本名は明かさず、素性は自己申告にすぎない()。第三者が検証できない情報に、僕は価値はないと思っている。

Facebookに新型コロナウイルス関連のチェーンメールをコピペしていた声優さんにしても、出どころ不明の情報を、どうしてそうも簡単に信用してしまったり、あるいは自分の発信は絶対に信用してもらえると期待できるのだろう?
まず自分の身元なり、発言のバックボーンなりを他人が検証可能な丸裸の状態にする、つまびらかにすることでリスクを背負わないと誰にも信用してもらえないと、フリーランスで生きてきた僕は実感している。だが、SNSの世界では、そうではないらしい。

いや、SNSは関係なくて、平均的な人はそれほど深く考えたり、疑ったり失望したりすることなく、漠然と曖昧に生きているのかも知れないな。理想や正義なんて抱かないほうが、生きていくのには向いている。


“反対するのはいいんだよ ただ内容をよく確認せずに皆が言ってるからやばいんだろうけしからん、って反射的に反対してるだけならその空気の方が怖いなあ 好きな作家さんが乗っかってるのも悲しい(まだ言う)”

この方の気持ちに近いものを、僕も感じている。
別に芸能人や著名人が政権批判をするな、などとは思っていない。騒ぎが収束しかかったころ、「芸能人にも言論の自由はある」という小綺麗な収め方をする人が多かったように思うが、そんな幼稚な話は誰もしていない。綺麗事で、誤魔化さないでほしい。
ハッシュタグを使って、「反対するのが当たり前」「この話題が今、もっとも熱い」という雰囲気を作り出した……根拠も示さず、どこかの誰かのつくった図やハッシュタグを使って。その安易な雰囲気づくりに、信用しているクリエイターがやすやすと乗っかったことに大きく失望した。幻滅に近い。多分もう、自分からは二度と会わない。

政府に反対する意見を示したことは、べつに責めない。しかし、そんな安易な示し方で、他人を説得できると思っているのか? もし説得できると思ったのであれば、貴方が他人をイエスマン、自分を承認してくれるチェスのコマとしか考えてないからだよ。チェーンメールを広めた声優さんだって、そうだ。自分のファンは、自分の思想を無条件に広めてくれる兵隊だとでも思ってるんだろう。ひとりひとりの人生や考えがあるなんて、露ほども思ってないんだよ。その姿勢のほうが、よほど民主主義を否定しているじゃないか。
「なあみんな、俺の作品が好きなら、俺の支持する意見にも、当然同意してくれるよな? 当たり前だよな?」という傲慢さを、あのハッシュタグから感じた。クリエイターともあろうものが、既成のハッシュタグを使うという身振りから。「ああ、バカにしてるんだな」と、侮辱された気持ち。
こうも思った。「あれだけ個性的な作品をつくる人間なら、さぞかし独特の思想を持つものと思っていたが、どうやら見込み違いのようだな」。俺の買いかぶりだったんだ。俺が間違えていた。そういう幻滅だ。


反原発デモに通っていたころ、右翼だけど反原発だ、という方たちの動画を見た。
右翼のイメージといえば、街宣車かネトウヨ。嫌悪感しかなかった。しかし、その人たちの活動は、原発再稼動に賛成した町の議員たちを「弾劾する」ために現地に向かい、自分も顔を出して直接口頭で抗議するという堂々としたものだった。議員が留守で、奥さんしか在宅していない場合は、丁寧に挨拶して帰っていく。
「だけど右翼だよな……」「愛国とか反日とか、そっち系の人たちだよな……」と割り切れないものを感じながらも、僕は感動した。

つまり、意見を発信する手続き、方法が大事なのだ。思想の左右なんて、本当にどっちでもいい。反政権でもフェミニズムでも、本当にどんな考えでも構わない。ただ、リスクを背負って弱点をさらして、それでも堂々として振舞うのであれば。卑怯な逃げ道を、都合よく準備しているのでなければ。空気に便乗し、同調しない者をハブるのでなければ。
恥をかいてもいい。失うのも、まあ仕方がない。魂を売り渡して理想を失うよりは、よほどマシだろう。いつでも負けそうな側に賭け、70億人が賛成しようとも、反対する一人でありたい。

(c)1993 Universal City Studios,Inc. All Rights Reserved.

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2020年5月10日 (日)

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最近観た映画は、『バルカン超特急』、『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ 完全版』、『ローズマリーの赤ちゃん』、『新聞記者』。
よくやってしまうのだが、「そのうち観なくては」と思っていた映画を、短期間に二度借りてきてしまう。『ローズマリーの赤ちゃん』は、途中で二回目であることに気がついた。最近の邦画は滅多に観ないので、『新聞記者』について、少し書こう。
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シム・ウンギョンの演じる女性新聞記者が、松坂桃李の演じる内閣情報調査室の官僚と事件を追う。
松坂のもとへ、秘密を握っている上司から電話がかかってくる。上司はビルの屋上から飛び降りる寸前だ。異変を察知した松坂は電話ごしに止めようとする。そのシーンで、カメラは真上から上司を撮る。彼は、画面右半分に位置している。右半分はビルの屋上。左半分は、ビルの谷間。車が行き交う道路である。
そして、上司を止めようとする松坂をも、カメラは真上から撮る。松坂は画面左側に位置している。先ほどの上司のカットとは、完全な左右対称の構図だ。言うなれば、真上から人物を撮った画面を右と左に分けることで、此岸と彼岸を表現している。
「待てよ、この映画はなかなか良いかも知れないぞ」と、身を乗り出した。


もうひとつ、良かったシーンを挙げよう。
あまりに政府の秘密に近づきすぎたシム演じる女性記者は、編集長から辞職を示唆される。一方、松坂演じる官僚は、冷徹な上司から口止めを言い渡され、出産祝いの現金を手渡される。
我が身に起きた辛らつな出来事に顔をゆがめるシムと松坂を、カットバックで描いている。シムの身に起きたこと、松坂の身に起きたことは、同じぐらい重大で深刻なのだ。カットバックさせることによって、それが分かる。映画の機能性、メカニズムによってのみ、表現できる事柄がある。

このシーン、上司が松坂に渡す出産祝いを、まるでシムが受け取ったかのように見える。人物を左右どちらかから撮ると、そのように錯覚する。なんとまあ、凝った繋ぎ方をするんだろうと感心しかけたが、どうもこれは偶然っぽい。上司の立っている位置が、しょっちゅう変化していたから。
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丁寧につくろうとしたのは分かるけど、新聞記者が社会問題の最前線で頑張っている……というモチーフの切り取り方が、すでに古風だ。足早に出勤する政治家に追いすがるように、執拗に取材を繰り返す……という絵も、あまりに陳腐すぎる。
紙の新聞も地上波テレビも、とっくにオールドメディアだよ。だからこそ、この映画はシニア層に受けたのかも知れない。


“映画は最初は「見世物」で、それだけだと飽きられるから「物語」が後から付け加えられたモノだけど…近年の「ミッション:インポッシブル」を見ると「アクション優先で物語がムチャクチャだ」と言うより「普段は物語に従ってるかのように見えた映画の「見世物」性が、物語に牙を向いた」と感じてしまう”

まったく正しい。映画の機能がむき出しになって機能しはじめ、物語が背景化する瞬間を、僕はいつも待っている。


#検察庁法改正案に抗議します

このハッシュタグが、昨夜からTwitterで大流行している。
僕の知り合いや、尊敬・信頼しているクリエーターも、特にコメントもなく、このハッシュタグだけをツイートしている。「あまり政治に興味ないけど」「政治のことはツイートしないつもりだったけど」という言葉も、よく見かける。「この改正案だけは……」「今回ばかりは……」という言い訳めいたフレーズまで、まるで誰かによってテンプレート化されているように見える。

反発するように「改正案に興味ありません」というタグが出てきたらしいが、それは「安倍政権の陰謀」「Twitter Japanの工作」と言っている人までいる。
なので、Twitterでは異論を唱えられない雰囲気だ。野党が反対して、国会で討議して押し返すなら、それはそれで正当な手続きだろう。しかし、Twitterでハッシュタグをつけてツイートすることが政治参加とされ、態度を保留している人が「民主主義の敵」だとか言われる状況が、僕は怖い。
『ガッチャマン クラウズ インサイト』に出てきた、空気を読まない人間を社会から消し去る同調圧力の怪物“くうさま”みたいじゃないか。


僕は反原発デモに、数え切れないほど参加した。
原発を日本からなくすために、反対派の姿を可視化する必要があると信じていた。しかし、主催者は原発以外にも反対するテーマを増やしつづけ、僕が霞ヶ関に足を運ぶと、いつの間にか秘密保護法反対デモ一色になっていた。待ってくれ、原発問題はどこへ消えた?
疑問をさしはさむと、「いま反対しないと現政権に殺されますよ?」と、信じられないものを見るような目つきで言われた。何が悪いのか分からないまま、僕は反対の声をあげた。分かってもないくせに自分が正義で、自分が多数派で、反対しない人間をすべて敵だと思っていた。

Twitterで、「それで? 次は何に反対したらええんや?」と書いている人がいて、僕はデモに足を運ぶのをやめた。
どうしても困ったことがあれば、地元の議員に直接相談するようになった。分からないことはメールで質問したり、電話で聞くようになった。僕には、それで十分だ。

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2020年5月 2日 (土)

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「ハクション大魔王2020」――50年ぶりの続編がつくられた理由【アニメ業界ウォッチング第66回】
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先月1日に取材した記事です。元タカラトミーのモギシンゴさんのおかげで、楽しいインタビューになりました。監督の濁川敦さんの言葉どおり、第2話でプゥータが活躍しはじめてから、すごく面白くなってきました。
また、このインタビューは、タツノコプロの広報の方と直接交渉しながら、進めました。ですから、記事の方向性や役割もハッキリしたし、融通もききました。いつもこんな取材だったらいいのに……と思います。


最近、DVDレンタルで見た映画は『雨月物語』、『アベンジャーズ/エンドゲーム』、『モスラ』。
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特撮モノが増えてきたのは、それなりに仕事に関係あるからだ(私はもう、バリバリ仕事してるし、売り込みもいっぱいやってますんで)。
『雨月物語』は学生時代に観て以来で、長回しのカメラの動きも、わりと正確に記憶していた。しかし、まだまだ膨大な発見がある。DVDを買おうかと思ったぐらい。1953年で、こんな高次元の演出をやっていたんだからな……。たかが90年代の映画を「古い、遅れている」なんてほざいてる場合じゃないですよ。

『エンドゲーム』は自分とは関係ない映画だったのでさておくとして、『モスラ』の膨大なミニチュア・ワークには唸らされた(特に水の表現力)。『ゴジラ』とは異なる、神秘的な世界観も気持ちいい。
怪獣を倒すプロットではなく、西洋人が悪役という点も画期的ではないだろうか。正義をつかさどるのは、有色人種(演じるのは日本人のみ)だからなあ。


さて、新型コロナウィルスをめぐって、陰湿な「自粛警察」が跋扈する世の中になってしまったらしい()。多数のメディアが問題視してくれているのが、まだ救いである。

僕が遭遇した例は、あまりに程度が低くて恥ずかしいんだけど……。Facebookの喫茶店を愛好するグループで、自粛警察の人々に追放されてしまった。その顛末を、以下に記す。
まず、グループに加わったばかりで、「私は喫茶店には行かず、家で自粛してます」と投稿した女性がいた。その投稿に対して、なんだか長文で「家にいてください」「散歩しないと免疫力が下がるんですか?」「外出はロシアン・ルーレットです」、さらに「皆さんがお店に行くから、仕方なく喫茶店の店主はお店を開けているんです」と説教がましく返信している男性がいた。別に店舗経営者でも何でもなく、元・大手喫茶チェーン勤務とプロフィールに書かれていた(現役ではないよ、元勤務だからね)。

だけど、そのグループには毎日、喫茶店に行って、レポート写真をアップしている人もいる。その人たちに向かって「家にいてください」「お店に行かないように」って説教するなら、まだ筋は通っているよね。
どうして加わったばかりの女性、しかも自粛している人に対して説教口調なのか、文章が下手すぎて理解できないので、僕は「誰に向かって何を言ってるのか、サッパリ……」とリアクションしてしまった。すると、その説教男性は「今後は、よく考えてから投稿します」「でも、いいねをつけてくれた人がいるから、文章は削除しません」。

……こうして書いていても、なんだか小学生の意地の張り合いみたいで恥ずかしいんだけど。その男性がやりとりから離脱してしまったので、僕はグループの管理人に、投稿の削除を提案した。
だって、毎日喫茶店に通っている人もいるグループで、「皆さんがお店に行くから、お店はやむなく開店している」、しかも経営者でもないのに「私は喫茶店経営者の代弁をしている」とまで書いているわけだから。ところが、管理人が加わってからが、すごかった。超展開。超バカ。頭悪すぎる。


グループの管理人がどうしたかというと、「私は男性の意見に賛同する」「お店の方の意見も尊重すべきだ!」と書き込んできたんですね。自粛警察、二号。
おいおい、どこにお店の人がいるよ? 説教コメントを投稿した男性は、大手喫茶チェーンに勤務していたとプロフィールに書いてるだけで、勝手に「経営者の代弁をした」と主張しているにすぎないだろう?
「一体、誰が“お店の方”なんですか?」と、管理人にメールしたんだけど、返事はない。

しばらくしてから、管理人が凄いことを書きこんできた。「喫茶店経営者の代弁をしている、と主張している人の意見は、経営者の意見も同然と見なします」
ええええ!? 自己申告で「私は経営者の代弁をしました」と書けば、「この意見は経営者の声です」と判断されちゃうの? しかも、「管理人がすごい飛躍したこと書いてますよ」と俺が投稿したら、管理人は自分の飛躍した発言をメンバーに見られたくなかったらしく、僕とのやりとりを全て削除してしまった。
どうですか、程度が低いでしょう? だけど、怖いとも思った。こんな調子で、デマが広まっていくんだろう。「私は医療関係者です」と文頭に書けば、無条件で信じてしまう人たちがいる。そうやって疑わない、考えない人たちがデマに踊らされて、トイレットペーパーを買い占めたんだと思う。
その頭の悪い人たちは消えてなくなるわけではなく、学びもしないから、今後も延々とバカをやらかし続けるんだろう。そう考えると、かなり怖い。


……なんというか、恥ずかしくないんだろうか。
「いいね」をつけてもらったから間違った発言でも撤回しないとか、人に見られたらヤバい発言をしてしまったから、こっそり削除とか。本業でも、そんな軽いノリで誤魔化しながら、ウソをつきながら、不誠実に働いているのだとしたら、世の中が良くなるわけがない。
まあ、本業でたいした活躍ができないから、SNSで大威張りしているのかも知れない。そうであってほしい。

だって、僕は実力以外で評価されたくないもん。
大学がどこ出身だとか、住んでいる地域がどうだとかで仕事を割り振る人、たまにいる。いい企画を考えても、「確かに面白いんだけど、このジャンルは別のライターさんが担当していて……」と断られる場合も、しばしばある。でも、そのライターさんは、僕のように面白い企画を考えられないんでしょ? 単に「今まで担当だったから」って気をつかわれて仕事をもらったって、俺はそんなのみっともなくてイヤだけどね。まあ、自己都合最優先で「知り合いなんだから、私に仕事を回してくれ」って当たり前のようにねだってくる同業者、たまにいるけどね。そういう恥知らずな人とは距離を置いて、実力だけでつながるように努めてきたので。 
すると、「そのネタなら、廣田が書けるはず」って、ちゃんと能力に相応しい仕事が来るんだよ。濁った水の中に安住している人には、分からないだろうけどな。

だけど、「俺の実力だけを見てくれ」なんて殊勝な人、滅多にいないんだろう。
「私は元○○勤務です」で下駄をはかせてもらったり、「私は医療従事者です」でデマを振りまいたり、そういう人が幅をきかせている。そういう分かりやすい肩書きや見てくれがないと、人の能力を見抜けないおバカさんが大多数なのだろう。
しかし俺は、中学・高校時代の俺のように、「どうして人間はこんなに不公平なんだろう」「どうすれば楽しい人生になるんだろう」と暗黒の底で苦悩している少年たちに手を差し伸ばしたい。その生きづらさは、必ず報われるぞ、と確約してやりたい。
コロナともFacebookの話ともズレてしまったようだが、無関係ではないと思う。ちょっとはマシな世の中にしなきゃ、あまりに報われない。出鱈目をやっている大人たち、いつまでも今のようにのさばってられると思うなよ? 俺が黙っていないからな。

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