■0420■
「攻殻機動隊 S.A.C. 2nd GIG」のSF設定は、アニメーションの構造に作用してドラマを革新する。【懐かしアニメ回顧録第65回】(■)
このアニメが放送されたのは2004年で、僕はまだ結婚していた。日経キャラクターズ!という雑誌が、「クールアニメ」という造語でプロダクションI.GやGONZOの作品を格上げしようとしていて、苦笑しながら横目で見ていた。『攻殻』のような一級品のアニメは日経BPと付き合いの深い編プロやライターの担当で、僕は二番手だった。
でも、僕はそれでよかった。アニメって文化は、くだらないから価値があるんだと、ずっと思っていたから。絵が動く、それも油絵などではなく漫画、黒い実線で輪郭を描いてベタ塗りした簡素な「絵」を動かして、分不相応な文学性や実写的リアリズム、そして性愛(セックス)のような面倒な領域まで縦横無尽に描出する、その大胆不敵さ、傲岸不遜さがアニメの最大の魅力だと思う。
80年代のロリコン文化風の顔つきとバンド・デシネのようなアダルトな肉体描写が異種間で交配したような、下品でグロテスクで、それゆえ果てしなく魅惑的な士郎正宗の世界観と、神山健治監督の生真面目さは、実は相性が悪かったと思う。
士郎さんは、見たことを公言できないほど猛烈な、それこそ、あまりにミもフタもない猥褻さゆえに芸術的なエロ漫画の世界へ進出したが、そういうのはアニメでは無理なんだと思う。『攻殻~』は、この20年で知性的で真面目なSFアニメとして定着しすぎてしまった。エロ、それも名も知られぬまま読み捨てられる劇画誌的なエロは、文化を下支えする。アニメには、最底辺で客をキャッチする下世話なジャンルが欠けているのかも知れない。
アニメを真面目でカッコいいもの、高級なものと規定すればするほど、底力が失われていく。エロや暴力は身体と絡みついているので、絶対に軽視してはいけない。
■
さて、アニメと恥ずかしさの話題に入ったので、このまま先日のブログ(■)の続きを書こう。
「体育ができない」と、ようするに自分の身体を過剰に意識させられる。ひとりで勝手に野球をやる分には面白くて、バットやミットを買ってもらうのが楽しみだった。ひとりか、仲のいい友達と、勝手にルールを決めて遊ぶのは楽しかった。
ところが野球チームに入ってしまうと、身体の優劣を見せつけられる。下手な選手が試合に出してもらえないのは分かるし、僕も大勢の前で恥をかきたいとも思わない。
最悪なのは、チームに入ったばかりに、人間関係が変わってしまうこと。「お前のような下手なヤツとチームを組みたくない」と言われるのは、まあ仕方ないだろう。野球と関係ない日常の時間まで、極端な話、登校する時間から「廣田ごときが」「あんなヘナチョコが」と、公然と言われつづける。10歳とか11歳とかで、そういう体験してごらん?
僕は漫画を描くのが得意だったけど、絵を描いていると、「ヘタクソが……」と嘲笑っていたクラスメイトが「先生!」とか言って、媚びてくる。
中学、高校へ進むと、彼らのような凡人でも知恵がついてくるから、体育の時間だけ顔つきが変わる。さっきまで普通に話していたヤツが、目をそらして「だって廣田くん、テニスできないんだもん」と、僕を無視しても正当化される理由を口にする。まあ、大部分がそういう連中ばかりだったよ。人間なんて好きになれるわけないでしょ?
高校一年のとき、野球部の生徒に暴力をふるわれていて、授業中のことだから、教師も見ていた。だけど、「野球部員は甲子園へ行く大事な選手なので、大目に見てやってほしい」という意味のことを言われて、大人にも幻滅した。大人たちが隠蔽するんだから、大学の体育会によるレイプ事件がなくなるわけがない。社会人でもスポーツ選手は高潔な人間、ということになっている。
世の中に対する不信と幻滅をベースに生きてるんだから、そりゃあ独特の人生にもなりますよ。大部分の人は体育の時間に蔑まれたり、人格否定されることはないわけだから。
■
だから、ちょっとアニメを見てみました、世の中で認められるようになったから一応アニメにもハマってみました程度の凡人が、「僕もオタクっすよ~」とか病んだフリしても、俺に勝てるわけがない。俺はアニメ専門家ではないけど、アニメの歪んだ部分に対する愛着だけは底なしだから。
ブログにこういう事を書いていると、「廣田さんの欠点を見つけたぞ」と勘違いするヤツが出てくる。「俺は体育は得意でしたよ」「廣田さんのように悲惨な人生じゃなかったですよ」だとか、自慢話?をしてくる。だから、そういう薄っぺらな人たちがどう生きてようと、俺はいちばん何とも感じないわけです。俺と同じような屈折とコンプレックスを抱えている人間が、いちばん怖い。何をするか分からないから。
屈辱も劣等も感じることなく生きてきた単なるリア充が「俺は廣田さんほどダサくないですから、ファッションにも気を使ってますから」「廣田さんと違って、ちゃんと女にモテますから」と優位に立とうとしても(信じられないかも知れないけど、そうやって口に出してしまう人が結構いるんだよね……)、ぜんぜん的外れ。どうも、そういう人たちは挫折や屈折がないこと自体が、悔しいらしい。悔しくなければ、30歳、40歳にもなって、わざわざ俺に言いに来ないよね。
何の欠損もない人は、どれほど歪んだ変態アニメを見ようと、その歪みを感知する器官がそもそも無いわけで、おそろしく平凡な感想しか言えない。そして、40歳ぐらいになると、自分の凡庸さに苛立ってくるんだ。何人も実例を見てきたよ。
■
「知人からホテルをクローズするという苦渋の決断をしたという連絡が入った日にふざけた466億円のアベノマスクが届いた。怒りで胸が震えた。」(■)
こうやって、何もテーマを抱えていない凡俗が政治的なスタンスをとろうとすると、とりあえず反アベ政権になってしまう。「ああ、カラッポの人だな」と分かる。まったく本質を突いていない。本質と対峙するようなベースが、人生に何もないから。
「総理大臣は今すぐ辞職しろ」とかさ。そんな力も方法もない、自分の弱さに甘えているよね。それが凡人の生き方なので、好きにすればいい。どんどんくだらなく磨耗し、人生の質が落ちていく一方だけどな。
言っておくが、安倍総理を失脚させるにはこんな秘策がある、こんなメリットがあるんだぜと知恵をこらすようなら、俺は素直に感心する。だけど凡人は、何も工夫しないんだもん。何か失うかも知れない、後戻りできなくなったらどうしよう、という覚悟がないんだもん。
リベラルとかフェミニストを名乗る人たちが、よく「ヘルジャパン」という表現を使い、「欧米はこんなに進んでいるのに、日本は取り残されていく」と決まり文句を口にするけど、彼らのいう「ヘルジャパン」「取り残された日本」って、つまりは肌で接している現実界すべてのことなんだろうな。政治的な問題を話題にしているんじゃなくて、彼らが解決せねばならないテーマは「生きるのがつらい」「現実が怖い」、それのみだと思う。
だとすればチャンスじゃないか。だって、そんな深刻なレベルまで来られない凡人が大多数なんだから。せっかく人生を革命できるような創造的なテーマを持っているのに、反アベとか欧米礼賛で誤魔化さない方がいい。せっかくの挫折が、もったいないよ。
| 固定リンク
コメント