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2020年4月28日 (火)

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編集者・柿沼秀樹氏が振り返る、ガンプラ大ヒットへ至るキャラクターモデル勃興の昭和史【ホビー業界インサイド第58回】
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柿沼さんとは、ホビージャパン ヴィンテージの打ち合わせで、よくお会いするようになりました。ガンプラ以前の歴史には、私は詳しくないので、“柿沼史観”ではありますが、自由に語っていただきました。柿沼さんは誰かを言い負かそうとか、自分だけが最高とは思ってないので、肩がこりません。
上手とか下手とかではない、世の中の流れに影響されながら右往左往する模型業界を見つめる、語る。最高に贅沢だし、とても楽しい時間です。


全世界的な新型コロナウイルス対策が続き……、まぁ、言葉は悪いけど「バカが炙り出されてきている」と思う。
声優の水島裕さんが、また出どころの不明な情報をFacebookでシェアしている()。水島さん、これで二回目。悪いけど、騙されやすい。
前回は、「信頼できる人からの情報なので……」と言い訳していたが、こういう甘い人の特徴だよね。自分が信頼できる人は、どこの誰だろうと、赤の他人でも絶対に信頼してくれるはずだという幼稚な思い込み。
どんなに言葉をつくしても信じてもらえない、誠意をつくしたのに全否定されてしまった……という辛らつな体験を飲み込んでこなかったんだろうと思う。水島さんの根拠不明なテキストを安易にシェアしている人たち、全部同じ。経験不足。

そして、なぜかアーティスト、表現者の人が多い。自分の善意が、無限に通じると思い込んでいる甘い人。
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ジャズ・トランペッターの辰巳哲也さん。「2週間後の東京は今のニューヨークよりはるかにひどい状況」と書いて、2週間たってしまった。「政府や行政の対応」を批判したいがあまり、大惨事を望んでしまう……。Twitterではよく見かける、「日本は終わりだ」式の破滅願望。欧米や韓国、台湾の対応は素晴らしいのに、他国に比べて日本政府はアベ政権は……と嘆くシナリオがまず先行していて、その予定調和に、現実を沿わせようとする。
「私が間違っていたかも知れない」と、ポーズだけでもいいから、一時的に反省したり撤回したりすればいいのに、それが出来ない。打たれ弱い。「すみませんでした」と、ウソでもいいから頭を下げれば、その一回で得られる対価はものすごく大きいのに、知らないんだろうと思う。気の毒になってしまう。


しかし、純朴なアーティストばかりではない。新聞記者やジャーナリストの居直りぶりも凄い。
フォトジャーナリストの安田菜津紀さん()。不法滞在の外国人にも、給付金を配るべきと主張しているようだ。こういう気楽で呑気な人を見かけると、「ああ、まだ大した惨事ではないんだな」と、じわじわ実感できる。
まあ、暇があったら、安田さんの他のツイートも見てください。ポエムみたいな、薄甘い言葉ばかり。そこに群がる人たちのリアクションが、また薄っぺらい。あのね、自分が追い詰められて食うや食わずの人は、こんな綺麗事は言ってられないから。だけど、安田さんは悠々食っていけるぐらいのお仕事をなさっているようだ。
つまり、同じ浅さの人たちをつかまえられれば、彼らのニーズさえ満たせば、それで仕事は成立するんだな……と、よい勉強になる。批判的な相手は即座にブロックしているのだから、ようするに「客にならない」「金につながらない」と判断しているのだろう。本気なら、議論につきあうと思う。

そう、どうして腹が立つかといえば、「本気じゃない」んですよ。彼ら。反論・異論に身をさらそうとしない。「ジャーナリストって、そういう職業ですよ?」と言われてしまえば、勉強になりました……と、返すしかない。だけど、自分が傷ついたりダメージを食らうことを想定してないとしたら、人間として甘すぎるよね。


僕はFacebookの「喫茶店が好き」コミュニティで楽しくレビューを書いていたのだけど、このコミュニティに東京新聞の記者に関する、政治的なテキストが書き込まれて、驚いた。僕すぐ管理者に報告したし、ただちに削除するよう求めた。
政治的にどんな立場でも構わないんだけど、反体制的な人たちは場所をわきまえない。どこででも、自分たちの主張を聞いてもらえると思っている。甘い。くだらない人生。話を聞いてもらうまでが、まずは大変なはずだが、彼らの世界観はそうではないらしい。反対意見は、「ネトウヨ」「レイシスト」「アベ信者」で処理するんだから、楽なものだ。

「もしかすると、自分の正義や誠意が通じないかも知れない、世の中そんなに甘くはないよなあ」……と覚悟している相手なら、話を聞く気になれるのに。そこで皆さん、大きく損をしている。
「必ず我が願い かなえたしとか 必ず調伏せむ などと力こめるのはかえって危険なのだ」……岡野玲子『陰陽師』の台詞を思い出してしまう。


毎日新聞は、どういう新聞か知らない。朝日新聞は昔から左寄り、読売新聞は右寄り程度の認識しかない。というか、地上波のテレビにも紙の新聞にも、僕はもう用はない。
しかし、毎日新聞のアベノマスクに関するニュースは、気になった()。汚れたマスクには「関係者提供」のキャプションがあるが、「関係者は語る」式の記事は、眉にべっとりと唾をつけて読む必要がある。名前を出せないということは、それだけ信用度が下がるということだ。
そこで、毎日に「関係者とは誰か」「この写真が本物であることを証明してほしい」とメールしたが、返事は来なかった。やむなく、記事中にある厚生労働省内の「マスク等物資対策班」の連絡先を調べて、取材に応じてマスクを提供することなどありえるのか直接聞いた。二度も電話を取り次いで電話口に出た全戸配布用マスク担当の男性は、ややキレ気味に「ありません」と答えた。
二度ほど言葉を交わしただけだったが、毎日新聞が取材したはずの厚生労働省が「違います」とキッパリ言うんだから、違うんだろう。毎日が何か答えてくれれば、僕はそっちを信用したかも知れないのに、黙っている相手を信用する術はない。

実際にマスクは汚れていたのだろう。その後、マスクは回収されたのだから。
しかし、汚れたマスクが事実ならば尚更、「関係者提供」などではなく、正確に、正直に提供者の身元を明らかにすべきだったと思う。明らかに出来ないのであれば、画像の掲載はあきらめるしかなかったと思う。そんな曖昧な、逃げ道を用意した態度で誰を信用させることができるだろう?  (みんな信じていたけどね、世界を簡単に理解したい人たちは……)

録音するのを忘れていたから、僕が厚労省に電話した事実は確かめようがない。
だから、僕の行動で得られる信頼は、たかが知れている。リスクを負ってない情報発信は、それに見合った信頼しか得られない。毎日新聞が「関係者」という逃げ口上を用意して、水島裕さんがテキストの出どころを明かせないように。
リスクを背負っていない、発信者に痛みのない情報には、ほとんど価値がない。


僕は、体育の時間のたび、ひどい屈辱を味わってきた。中学、高校と進むにつれて、どんどん苦しくなっていった。
しかし、普通の人はそこまで深刻な、全身で戦わねばならない事態に陥ったことがないんだろうな。だから、今回のような事態を「身にふりかかった災難」として利用して、正当性を主張する、エエカッコシイをするしかない。何の経験の蓄積もないから、適当なデマに食いついて、簡単に世界を理解したがる。それは本当の強さでも理解でもないから、悲劇なのかも知れない。コロナが収まった後も、彼らの単調な人生は変わることはないんだから。

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2020年4月24日 (金)

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レンタルDVDで『宮本から君へ』。原作は単行本をすべて揃えており、昨年のドラマ版も視聴済みだった。
しかし、映画版は何かの事故ではないかと思うほど、杜撰な出来である。時系列を変にシャッフルした脚本の問題だけでなく、シーン転換で音楽がバツン!と切れてしまい、何か見落としたか?と戸惑うことがしばしば。
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まあ、そうした常識以前の稚拙さは、ドラマ版から分かっていたこと。
『宮本~』という漫画には、映画という表現とは相容れない、描写上の難しさがある。
漫画にしてはあまりにも、リアリズムを貫徹しすぎるのだ。ものの見方の浅い企画者は、実在する場所を克明に描いてあるのだから、そこでロケすりゃ漫画のとおりだろ?と早合点してしまう。そうではなく、モブキャラにいたるまで、人物造形が(内面的にも外面的にも)写実的すぎるのだ。「映画にするまでもなく映画になっている」漫画なので、映画としてのアイデンティティを持たせることが難しい――というより、すでに映画なのだから、映画化することないじゃん?とまで思ってしまう。


『宮本から君へ』は、本当に容赦のない残酷な漫画で、その不公平さを公平に描くフェアな態度に、僕は感服していた。
主人公の宮本こそいかにも青年漫画の主人公風の、そこそこ整った顔の青年として描いてある。だが、彼は事務用品メーカーの営業マン……という地味な存在だ。原作者の職業差別にも近い視線を感じてしまうのだが、しかし地味な業界だからこそ、大手メーカーに対抗して事務用品を売り込む中盤のドラマが白熱するわけだ。
では何が残酷なのかというと、それは人物の美醜を容赦なく描き分けることだ。

漫画的な「キャラクター」として美人の記号をもって描かれたのは、初期に登場した甲田美沙子ぐらい。後半に登場する綾部栞も、おおきめのコマで宮本をドキッとさせるぐらいには、可愛く描けている。
では、それ以外の女性たちはどうだろう? 宮本が尊敬する敏腕営業マン、神保は美女と結婚しているのだろうか? 彼の奥さんは、背の低いコケシのような女性である。宮本と結婚する中野靖子は「ツリ目の意地悪ねえさん」と揶揄されるほど個性的な顔立ちだが、服装や仕草、周囲の男たちとの関係で「美人として扱われている」印象を演出している。ようするに、“漫画のような”記号的なヒロインは2人しか登場しない。
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そして、各エピソードに一度しか登場しないモブキャラの女性たちは、それはそれは、えげつないほど個性的に描かれている。
僕がもっとも残酷に感じたのは、中野靖子を強姦された宮本が、犯人の真淵拓馬に報復するため、あちこち動き回っているシーンで登場する喫茶店の女の子だ。客と話しているときには作り笑顔で可愛らしく描いてあるのだが、戦慄すべきはタバコの煙を吹かす表情。「これでもか!」というぐらい嫌な顔をしている。なんというか、周囲に無関心な「動物の顔」をしている。社会性のない顔、とでも言えばいいのか。次のコマでタバコをくわえなおす時には、周囲を意識したニコッとした顔に戻る。
現実世界は、まあそんなものなのかも知れない。美人がおどけて、ひどい表情をしてガッカリすることがある。それでも人間には生きる価値がある……というより、そんな人間たちでも普通に生きているじゃん?と、『宮本から君へ』は(作者がその気になれば美人で埋め尽くすことのできる)漫画という媒体で訴えている。僕らの感じている女性の美醜など、はるかに超越したと次元に、世界の実質があるのですよ……と。
それは、「ルックスに恵まれない人でも心は綺麗」なんていうタワゴトではなくて、「ルックスに恵まれない人は、恵まれないことを引き受けて生きるしかない」という当たり前の事実なのだ。


そういう漫画なので、主人公の宮本の彼女(中野靖子)をレイプし、報復にきた宮本を返り討ちにする敵・真淵拓馬は「漫画の約束事の中での強者」ではなく、「現実世界に実在する絶対強者」であらねばならない。
だから、大学のラグビー部で有名人で、外務省に就職決定している大金持ちのボンボンに設定したのだ。大人に守られた社会的強者に。
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(映画では一ノ瀬ワタルが好演していたが、拓馬ってのは「笑顔が可愛いくて愛想がいい」から、社会の中で強者でいられる。その笑顔が足りなかった。まあ、そこだけじゃないけど……。拓馬とマンションのベランダで挌闘するシーンは、唯一とてもよく撮れていた。)
レイプ魔の拓馬が自分の彼女に残すメモ、父親に残すメモ、これらがいかにも頭のいい嫌なヤツが書いた文面で嫌な気分になるのだが、映画では一切オミットされていた。
 
実は、ようやく彼女ができて幸福の絶頂のシーンから取引先の人間関係を通じて拓馬と出会い、カッコよく描かれていたはずの大人たちに幻滅していくシーケンスが重要だ。
お菓子が好きでケンカが強く、誰にでも優しい大野部長は酒を飲むと、別人のように目が据わる。こういう写実的な描写が、この漫画は本当に怖い。酔っ払っておもしろオジサンになるのではなく、醜い部分が表面化する。人間、そんなもんなのかも知れない。
拓馬の父親・真淵部長に幻滅するのは、むしろレイプされた後の靖子のほうだが、真淵部長は漫画的なアレンジが効いているキャラなので、まだ分かりやすい。レイプ事件後も大人ぶって事態に介入しようとした大野部長が宮本にすごまれて、あっさり舞台から退場してしまう構成には、ただならぬ人間への憎悪と現実への覚めた目線を感じる。大野部長と宮本が和解するような、甘っちょろいシーンはない。これが本物のリアリズムなのだと思う。
『宮本から君へ』が「熱い」と言われるのは、女性たちの美醜を容赦なく描き分けたり、フィクションに都合のいい出来すぎたキャラクターを徹底的に排除した結果だ。

ちょっとこの漫画については語りきれないけど……。
営業マンとして一人前になっていく宮本が、お昼ご飯を街中の汚いラーメン屋で、汗だくで食べている。その相席に、ランニングを着た労働者が座っている。また、その顔がね。その労働者には労働者の都合があるので、漫画に合わせていいキャラを演じてなんかいられないよ……って顔に描いてある。差別的でさえあるけど、その飾り気のなさすぎる現実の強度を、この漫画は最大限に利用している。少しだけ、現実が怖くなくなる。フィクションですら汚く描いていたので、現実もそういうもんだ、と思えてくる。
拓馬の居所を探して、東京23区のはずれ(板橋のあたりだろうか)を捜索する宮本は、喫茶店で刃物を使った大喧嘩に巻き込まれてしまう。その乱闘の末、手がかりを見つけた宮本は、自分が怪我していることに気がつく。シャツの胸のあたりに血が滲んでいて、乳首がスッパリと切られている。……漫画がだったら、まあ頬っぺたが切られていたほうが「ダメージを負った」表現になるじゃない? だけど乳首が切られていると、現実だったらどんなに痛いだろう?と、想像せざるを得ない。そういう、ふだん眠っている神経を刺激してくる漫画なのだ。

(C)2019「宮本から君へ」製作委員会

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2020年4月20日 (月)

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「攻殻機動隊 S.A.C. 2nd GIG」のSF設定は、アニメーションの構造に作用してドラマを革新する。【懐かしアニメ回顧録第65回】
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このアニメが放送されたのは2004年で、僕はまだ結婚していた。日経キャラクターズ!という雑誌が、「クールアニメ」という造語でプロダクションI.GやGONZOの作品を格上げしようとしていて、苦笑しながら横目で見ていた。『攻殻』のような一級品のアニメは日経BPと付き合いの深い編プロやライターの担当で、僕は二番手だった。
でも、僕はそれでよかった。アニメって文化は、くだらないから価値があるんだと、ずっと思っていたから。絵が動く、それも油絵などではなく漫画、黒い実線で輪郭を描いてベタ塗りした簡素な「絵」を動かして、分不相応な文学性や実写的リアリズム、そして性愛(セックス)のような面倒な領域まで縦横無尽に描出する、その大胆不敵さ、傲岸不遜さがアニメの最大の魅力だと思う。

80年代のロリコン文化風の顔つきとバンド・デシネのようなアダルトな肉体描写が異種間で交配したような、下品でグロテスクで、それゆえ果てしなく魅惑的な士郎正宗の世界観と、神山健治監督の生真面目さは、実は相性が悪かったと思う。
士郎さんは、見たことを公言できないほど猛烈な、それこそ、あまりにミもフタもない猥褻さゆえに芸術的なエロ漫画の世界へ進出したが、そういうのはアニメでは無理なんだと思う。『攻殻~』は、この20年で知性的で真面目なSFアニメとして定着しすぎてしまった。エロ、それも名も知られぬまま読み捨てられる劇画誌的なエロは、文化を下支えする。アニメには、最底辺で客をキャッチする下世話なジャンルが欠けているのかも知れない。

アニメを真面目でカッコいいもの、高級なものと規定すればするほど、底力が失われていく。エロや暴力は身体と絡みついているので、絶対に軽視してはいけない。


さて、アニメと恥ずかしさの話題に入ったので、このまま先日のブログ()の続きを書こう。
「体育ができない」と、ようするに自分の身体を過剰に意識させられる。ひとりで勝手に野球をやる分には面白くて、バットやミットを買ってもらうのが楽しみだった。ひとりか、仲のいい友達と、勝手にルールを決めて遊ぶのは楽しかった。
ところが野球チームに入ってしまうと、身体の優劣を見せつけられる。下手な選手が試合に出してもらえないのは分かるし、僕も大勢の前で恥をかきたいとも思わない。
最悪なのは、チームに入ったばかりに、人間関係が変わってしまうこと。「お前のような下手なヤツとチームを組みたくない」と言われるのは、まあ仕方ないだろう。野球と関係ない日常の時間まで、極端な話、登校する時間から「廣田ごときが」「あんなヘナチョコが」と、公然と言われつづける。10歳とか11歳とかで、そういう体験してごらん?

僕は漫画を描くのが得意だったけど、絵を描いていると、「ヘタクソが……」と嘲笑っていたクラスメイトが「先生!」とか言って、媚びてくる。
中学、高校へ進むと、彼らのような凡人でも知恵がついてくるから、体育の時間だけ顔つきが変わる。さっきまで普通に話していたヤツが、目をそらして「だって廣田くん、テニスできないんだもん」と、僕を無視しても正当化される理由を口にする。まあ、大部分がそういう連中ばかりだったよ。人間なんて好きになれるわけないでしょ?

高校一年のとき、野球部の生徒に暴力をふるわれていて、授業中のことだから、教師も見ていた。だけど、「野球部員は甲子園へ行く大事な選手なので、大目に見てやってほしい」という意味のことを言われて、大人にも幻滅した。大人たちが隠蔽するんだから、大学の体育会によるレイプ事件がなくなるわけがない。社会人でもスポーツ選手は高潔な人間、ということになっている。
世の中に対する不信と幻滅をベースに生きてるんだから、そりゃあ独特の人生にもなりますよ。大部分の人は体育の時間に蔑まれたり、人格否定されることはないわけだから。


だから、ちょっとアニメを見てみました、世の中で認められるようになったから一応アニメにもハマってみました程度の凡人が、「僕もオタクっすよ~」とか病んだフリしても、俺に勝てるわけがない。俺はアニメ専門家ではないけど、アニメの歪んだ部分に対する愛着だけは底なしだから。
ブログにこういう事を書いていると、「廣田さんの欠点を見つけたぞ」と勘違いするヤツが出てくる。「俺は体育は得意でしたよ」「廣田さんのように悲惨な人生じゃなかったですよ」だとか、自慢話?をしてくる。だから、そういう薄っぺらな人たちがどう生きてようと、俺はいちばん何とも感じないわけです。俺と同じような屈折とコンプレックスを抱えている人間が、いちばん怖い。何をするか分からないから。

屈辱も劣等も感じることなく生きてきた単なるリア充が「俺は廣田さんほどダサくないですから、ファッションにも気を使ってますから」「廣田さんと違って、ちゃんと女にモテますから」と優位に立とうとしても(信じられないかも知れないけど、そうやって口に出してしまう人が結構いるんだよね……)、ぜんぜん的外れ。どうも、そういう人たちは挫折や屈折がないこと自体が、悔しいらしい。悔しくなければ、30歳、40歳にもなって、わざわざ俺に言いに来ないよね。
何の欠損もない人は、どれほど歪んだ変態アニメを見ようと、その歪みを感知する器官がそもそも無いわけで、おそろしく平凡な感想しか言えない。そして、40歳ぐらいになると、自分の凡庸さに苛立ってくるんだ。何人も実例を見てきたよ。


「知人からホテルをクローズするという苦渋の決断をしたという連絡が入った日にふざけた466億円のアベノマスクが届いた。怒りで胸が震えた。」
こうやって、何もテーマを抱えていない凡俗が政治的なスタンスをとろうとすると、とりあえず反アベ政権になってしまう。「ああ、カラッポの人だな」と分かる。まったく本質を突いていない。本質と対峙するようなベースが、人生に何もないから。
「総理大臣は今すぐ辞職しろ」とかさ。そんな力も方法もない、自分の弱さに甘えているよね。それが凡人の生き方なので、好きにすればいい。どんどんくだらなく磨耗し、人生の質が落ちていく一方だけどな。
言っておくが、安倍総理を失脚させるにはこんな秘策がある、こんなメリットがあるんだぜと知恵をこらすようなら、俺は素直に感心する。だけど凡人は、何も工夫しないんだもん。何か失うかも知れない、後戻りできなくなったらどうしよう、という覚悟がないんだもん。

リベラルとかフェミニストを名乗る人たちが、よく「ヘルジャパン」という表現を使い、「欧米はこんなに進んでいるのに、日本は取り残されていく」と決まり文句を口にするけど、彼らのいう「ヘルジャパン」「取り残された日本」って、つまりは肌で接している現実界すべてのことなんだろうな。政治的な問題を話題にしているんじゃなくて、彼らが解決せねばならないテーマは「生きるのがつらい」「現実が怖い」、それのみだと思う。
だとすればチャンスじゃないか。だって、そんな深刻なレベルまで来られない凡人が大多数なんだから。せっかく人生を革命できるような創造的なテーマを持っているのに、反アベとか欧米礼賛で誤魔化さない方がいい。せっかくの挫折が、もったいないよ。

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2020年4月17日 (金)

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ここ数日で見た映画は『ノルウェイの森』、『フェリーニのアマルコルド』、配信では『ねらわれた学園』。
『ノルウェイの森』を監督したトラン・アン・ユン作品では『青いパパイヤの香り』を見ていたが、本作では村上春樹の「俺の性欲を全女性に徹底肯定してほしい」願望が痛々しくて、見ていられなかった。やっぱり、正気の人が悩んだフリをすると、自殺だとか愛のともなったセックスができないとか、表層的なアイデアに終わってしまうのだろう。
『アマルコルド』も明るく恵まれた性欲大肯定の映画で、初めて見たときほどは楽しめなかった。

それに比べると、『ねらわれた学園』のリアリティの欠片もない演出からは、不思議な叙情性を感じられる。
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このダンスのシーンとか、空間的にも時間的にも飛躍していて、いわば「どこでもない」「いつでもない」瞬間を切り取っている。ストレートに性的なモチーフを扱っているわけではないが、青春期特有のとりとめない妄想、現実味のない願望が匂い立つように感じられた。


中国発祥の新型コロナウイルスに関して、一律10万円が支給されることになったらしい。ところが、また野党が難癖をつけている()。「内閣総辞職に値する」んだって。別に安倍内閣支持ではないけど、ちょっと意味が分からんねえよな。じゃあ、どうすればいいの? 常に反対してられるのは、現状のままで何も困らないからでしょ? というより、常に反対してないと、「間が持たない」「やることがない」んだろうな。

この期におよんで、何はともあれ安倍総理に難癖つけているミュージシャン、俺は弱者の味方だ、日本国籍のない人にも10万円払えと、あえてわざわざ重箱の隅をつついているアーティスト。お前ら、何も困ってないだろう? ちょっと不愉快だとか気分が晴れないだとか、その程度だろ。本当は余裕しゃくしゃく、優越感にまみれて、エエカッコシイしてないと罪悪感でいっぱいで、恥ずかしいぐらいだろ? 俺にはバレてるぞ。


どうして分かるかというと、僕は小学校のころから体育が出来ず、劣等感に打ちのめされて育ったから。教師や同級生から嘲笑されつづけると、本物の混じりけのない恨みが心の底に熟成されてくる。今でも、体制が憎い。多数派が憎い。権力が憎い。それぐらい、身体に根ざす劣等感は根深い。
ヒエラルキーの最下層にいると、最上層部で旗をふっている本物の強者はほんの少数で、強者に合わせて擦り寄らないと居場所を得られない凡俗どもが大多数なのだと分かってくる。安倍政権に反対して、何かしら問題意識のあるポーズをとってないと「間が持たない」のは、ようするに、中間層の凡俗どもの成れの果てだよ。
(クラスの最上層で我が物顔だった人間たち、権力者たちは大金持ちやヤクザの子供だったりして、ちょっとした犯罪をもみ消すことも出来たりして、社会的なレベルで「悪党」になっていった。本物の権力者たちは敵にするにも味方にするにも危険すぎて、「割に合わない」のだ。)

そこそこ体育もできて、女子からも人間扱いされて、これといった不自由もなく育つと、人間はどんどん薄っぺらになる。やることがないから無闇に体を鍛えたり、せいぜいファッションに凝るぐらい。そういうヤツが「俺もオタクっすよー」とか言ってアニメを見ても、屈折していないから見方がスカスカなんだよ。
「あの……本当に自分のことオタクだと思ってますか?」と、俺がジトッとした目で聞き返すと、優越感にもたれかかって生きてきた凡人はギクッとする。30歳、40歳と年齢を重ねると、自分には何も中身がない、心からの悔しさもどす黒い怨念もなくて、のっぺらぼうの優越感だけだ……と気がつきはじめるから。
自分の身を危険においたことがないから、言葉が上っ面なんだよ。戦争反対だから兵器を買うなとか、軍事予算で弱者を救えとかさ。リスクをおかしてない発言は、まるで心に響かない。


俺は体育の時間が教師の都合でなくなると、教室で漫画を描いていられるから、ひとり陰気にほくそえんだ。
クラスの八割ぐらいの凡人たちは「あーあ、ドッジボールしたかったのにー」と、上層部の意向に合わせた表層的な悔しがり方をしていたが、本当に恐ろしい生徒は、教師を殺しかねない。逆に、体育の時間をなくしたぐらいで教師を殺すヤツなら、俺は尊敬したと思う。
でも、そこまで本気の人間は滅多にいない。


静岡県議会の諸田洋之って議員が、マスクを転売したでしょ? もうみんな政府の配布するマスク叩きにも飽きて、諸田議員がマスクで儲けたことなんて忘れてるだろ? 俺は諸田議員に「いつ議員を辞めるんですか?」と、ねちねちメールを出しているよ。
今の日本の法律では、諸田議員を辞めさせることは出来ない。一時的にネットで叩かれても、諸田議員は痛くも痒くもない。かすり傷ひとつ負っていない。どんなに腹がたっても、こんなザコ県議ひとり辞めさせることが出来ない。それが日本の限界。
だから、「総辞職だ」とか空疎な、しょせん本気ではない、恨みも憎悪もない表層的な言葉を繰り返している野党が嫌いだ。本当に切羽詰った、根源的な生き苦しさを抱えてしまった人間をバカにしているとさえ思う。

この時期に反政府的なスタンスで幼稚なツイートをしているミュージシャンや俳優は、これで底が割れたので見通しがよくなったと思う。(宍戸開だとか、デマを拡散するまでまったく、名前すら聞いたことがなかった。スポーツも出来てルックスにも恵まれて、だけど反アベぐらいしかやることが残ってない典型的な凡人。)
本当に怖いヤツは、いま絶対に人目に触れない場所に潜んでいる。

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2020年4月13日 (月)

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なぜ「星合の空」は途中で終わらざるを得なかったのか? 赤根和樹監督が語る“日本のアニメを存続させるために、いまできること”【アニメ業界ウォッチング第65回】
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どうしてこのインタビューが可能になったかというと、『星合の空』のディスクが今月22日に発売されるため、その宣伝である必要がなくなったからです。
放送前にインタビューを申し込んだときは、エイトビット、TBS、そして外注の宣伝会社へ……とタライ回しだったので、それではロクな環境でインタビューできない(他社の取材と抱き合わせにされる例が多い)ので、断りました。
放送後、『ノエイン』以来の付き合いである赤根監督と直接交渉が可能になったから、こういう話を聞けたわけです。ようするに、製作委員会がインタビューなんて「宣伝」だとしか考えてないから、記事の質が下がるんです。そこに歯止めをかけられるのは、ライターや編集者ひとりひとりです。


ここ数日でレンタルして観た映画は、『戦争のはらわた』と『クレオパトラ』。
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『戦争のはらわた』は中学のころ、三鷹オスカーの戦争映画特集で観たように思う。爆発のスローモーションばかりが話題になるが、この映画は線ではなく点で出来ている。「誰かが銃を撃つ」「撃たれた側が倒れる」流れが、構図とカットで計算されているとは限らず、完全に別々の場所で撮ったカット同士を強引に繋げている。その乱暴さが、ある種の迫力を出している。
こういう「雑さ」は、ネタバレだ伏線だと神経質になってしまった今の娯楽映画では、許されないのかも知れない。


『クレオパトラ』は半裸の美女たちが舞い踊り、入浴シーンも結構あって、その通俗ぶりにちょっと笑ってしまった。
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ただ、上のような並外れたスケールの豪奢な作り物には、素直に感心させられた。
50年代はシネスコやビスタが開発され、映画会社は大画面の迫力を駆使して、テレビに奪われた観客を映画館に呼び戻そうと必死だった。IMAXフィルムで撮られていないのにIMAX上映する今の映画館の趨勢に、かなり似ている。
『スター・ウォーズ』新三部作の巨大なセット志向、「別に作り物に見えてもいい」「っていうか、昔の超大作はセット丸出しだったじゃん!」という開き直りのルーツは、50~60年代に、その萌芽を見ることが出来る。観客の顔色ばかりうかがっている最近の『スター・ウォーズ』が、いかにみみっちいか、分かろうというものだ。

もっとも、ルーカスは『クレオパトラ』のエロティックな要素は、受け継ぎそこねたのかも知れない。『クローンの攻撃』でナタリー・ポートマンの白い服で、乳首が浮いて見えるのでは?という噂があった。
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ご覧のように、縫い目が乳首に見えるだけなのであるが、このコスチュームが破れてヘソが見える……という演出は、童貞くさいルーカスにしては、ずいぶん思い切ったと思う。


吉祥寺のように過密しがちな街は「怖い」と感じるのだが、三鷹市のマイナーな通りは日曜日でもスカスカなので、散歩してきた。
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ところが、中華料理屋からは「ごちそーさん!」と大声で叫びながら暖簾をくぐって出てくるオヤジはいるし、大丈夫なのかなと思ってしまう。アベックや親子連れは、例外なく手を繋いでいる。
マスクが買えなかった、と意気消沈している家族も薬局の前で見かけた。僕はたまたま入荷時間に店にいたから買えたけど、この先が心もとないから、やむなく3日ぐらい同じマスクを使いまわしている。だから、政府の配布する布マスクは、けっこう助かる。

自分の行動には甘いくせに、他人の行動を厳しくチェックしてないか警戒すべきと思う。なぜなら、他罰感情は僕たち自身の心を濁らせ、腐らせるから。
たとえば一部の地域では、ドイツ人がフランス人を差別している()。欧米人・白人の人権意識が、とりたてて高いわけではない。誰もが差別者、加害者になり得る。自分だけは清廉潔白だと思っている人間から、順番に堕落していく。


しかし、今回のコロナ騒ぎ、欧米での感染者数・死者数が増加してから、急に「世界全体の問題」に格上げされたように感じている。
そして、すでに桁違いの被害者を出している国・都市の人たちが「次は日本だぞ」「日本の対策は甘い」など、脅しに来る。以前から、ずーっとそうだったような気がする。何がどう変わったわけでもないのだろう。
もし、中国・台湾・韓国・日本などアジアの一部に感染が留まっていれば、欧米はそしらぬ顔をしていたような気がしてならない。僕らは、彼らの周章狼狽に合わせてやっている部分もあるだろうし、それによって損している部分も助かった部分もあるだろう。

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2020年4月10日 (金)

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最近観た映画は、熊井啓監督の『忍ぶ川』、ヒッチコック監督の『ファミリー・プロット』。
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熊井啓といえば、僕が映画に興味をもった頃は『海と毒薬』や『ひかりごけ』。ホラーになりかねないような際どい題材を扱う、当時の言葉でいえばカルトっぽい印象だった。ところが、『忍ぶ川』は救いのある恋愛ドラマで、呆気にとられた。

まず、構図がいい。手前に大きく花や街路樹などをナメて、広角気味に撮る。オシャレだ。
鳥の群がバッと飛び立つカットをあるシーンで使ったら、それをドラマのあちこちにインサートして、心理描写とする。ありふれた演出のようだけど、カットの短さ、音のシンクロ加減などのセンスがいい。キレがある。

黒澤明のように、構図それ自体が何かを語っているような、文語的な構図ではないんだけど、映画に耽美的なムードを与えている。1972年ともなれば、もう映画に出来る新しいことは残されていなかったと思うので、これでいいんだろう。
『ファミリー・プロット』は、すでに『スター・ウォーズ』前年の作品なので、完全にヒッチコックの役割は終わっていると感じさせた。60年代初頭の『サイコ』、『鳥』。この2本で、次世代に最後のバトンを渡し終えたのではないかな。


先日、総理大臣の会見で時間が終わりそうになると、「まだ質問あります!」「逃げるのですか!」と騒いで、頑張って仕事した気になっている記者たちのことをブログに書いた。「ああいう記者は素人」とTwitterに書いたところ、「彼らは逃げるのですかと騒ぐところまで含めてお仕事」「そういう絵をつくるプ専門のプロなので」と指摘された。「やっぱり、ヤラせですよねえ(笑)」と話を合わせてしまってから、猛烈な自己嫌悪がこみ上げてきた。

あのね。「どうせ、あいつらは金もらってんだよ」「しょせん、世の中なんてそんなもんだよ」と白けたところで、何かプラスになるものがあるんですか? それは「しょせん本気ではない」大人の態度を、遠くから肯定しているに過ぎないと思う。
「ああいうお仕事なんですよ」「ある意味でプロなんですよ」と聞いたふうに指摘してきた人たち、どんな仕事をなさっているのか、さっぱり分からない。悪いけど、プロとして仕事を貫徹できてない半端者なんだろうな、と邪推させていただく。

例えば、デモ活動を見るたびに「あいつらは金もらってんだよ」「プロ市民だよ」と指摘して、冷笑する人たちがいる。
僕がデモに腹が立つのは、参加者が「しょせん本気じゃない」から。「アベ辞めろ」というプラカードを掲げている人たちが、じゃあ明日から首相が望む人に代わったら……と、現実的に想定してるだろうか。してないよね。「アベが辞めるわけがない」「明日も今日と同じ日常なんだ」と安心しながら叫んでいるから、耳を貸す気になれない。本気でやってるなら、右も左も関係ない。与党精神と主体性のある人なら、僕は最大限に評価する。
そこまでのリスクを覚悟していない政治活動も、「まあ、あいつらはプロ市民に過ぎないから」という無責任な嘲りも、同じ泥沼に浸かっている。向上心を捨てた、無気力な泥沼に。


「違和感のあることを続けていると、いつかとんでもない事になっちゃうのよ!」――大学四年のとき、そのように僕に叫んだ女性がいた。その一言を聞いた瞬間、僕はゾーッとして、彼女への幼稚な恋愛意識を捨てて、なるべく早く愛憎の泥沼から離れようと決心できた。
「違和感のあることを続けていると、いつかとんでもない事になってしまう」……なんという、ありがたい一言なんだろう。恋愛だけではなく、仕事のうえでもそうだよね。最初に違和感をおぼえると、いつか必ず破綻する。人間関係でも、ちょっと会ったばかりの人でも「?」と欺瞞を感じると、いつかは化けの皮が剥がれる。なので、経験によって培われた感覚は信じていいということだ。(離婚のとき、母が殺されたとき、すべてこの違和感が起点にあった……)

今朝、かなり有名なタレントの方が中国発祥のコロナウィルスについて、一週間ほど前に流行ったチェーンメールをFacebookにアップしていた。「これが例え本当の話でなくとも、大事なことが書いてあります」とのことだった。……え? たとえ本当のことでなくとも……ウソ話でも大事なことは大事……!? 何だ、この怖さ? 
俺は今、「一歩も外に出るなよ」「いま営業している店は裏切り者だぞ」というムードになっているのが、いちばん恐ろしい。とりあえず1日部屋にこもった後、昨日と今日は駅前に出てみた(というより、マンションが駅前にある)。
大手チェーンの店は休業に入っていたが、個人経営のラーメン屋や弁当屋はいつも通りに堂々と商売していて、少しではあるが、行列も出来ていた。
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そこで今日は駅の反対側へ行って、お気に入りの喫茶店がオープンしていたら、ちょっと休んでいこうと思った。もともと会話禁止の店だったが、さらに客数を限定4名にしぼり、客と客との間隔を2メートルほどあけるよう配慮されていた。店の主人は、もちろんマスクをしている。ちょくちょく窓をあけて、換気もしていた。
でも、そんな配慮とは関係なく、「飲食店に入ったヤツは犯罪者だぞ!」と断罪されかねないムードがあり、そのムードに負けてお気に入りの喫茶店へ行かなかったフリをするのが、俺は何より怖い。コロナも目に見えないが、同調圧力も目に見えない。
(チェーン系の喫茶店はギッシリと満席になっており、その人ごみに入っていく勇気は、僕にはなかった。)


感染拡大を抑えるために、なるべく外出せず、人と接触しないよう努めるべきなのは分かる。そのために、国や都が十分な対応をしているとは思えない(まして、三鷹市は何もしていない)。
最終的に自分の身は自分で守りつつ、僕ほどの歳にもなれば、少しは社会のこと(特に先の長い子供世代のこと)を考えて行動せねばならない。そう思っている。

だけど、Facebookに貼られていたチェーンメール、具体的な医療機関名を後から削除したため、不自然な文体になっていたチェーンメール……。政府が配る布製マスク2枚を竹槍に例える文化人、空港に設置されたダンボール製ベッドを見て「日本やばくないですか?」「まるで野戦病院」「まるで戦時中」と感染爆発中の欧米から、わざわざツイートしてくる海外在住の日本人……彼らに対する違和感。
(岩田健太郎とかいう医者だか教授だかが、ちゃっかりコロナ関連の著書を出したり……)
なんというか……、本当は痛くないくせに痛がっているフリというか、はっきり言うと、ウソツキ感。チェーンメールにあった「助けられる命」「できるかぎり家族や友人に」「時間がありません」……この、脅迫めいた綺麗な言葉の数々。この、「逆らわせまい、従わせよう」という支配欲。こんな隅っこでまでイイ子ぶりたい、可愛がられたい、ペテン師に特有の自己愛。俺は今、そんなものとは距離を置きたい。

アルコール消毒液が置いてあれば、必ず使う。スーパーでは前の人と距離をあける。機会があれば必ず手を石鹸で洗う。せっかく家で仕事できる人なんだから、遠出はすまい。
4月の仕事はすべて納品してしまったので、次の取材まで、あいかわらずプラモ本の企画を考えさせてほしい。「圧力をともなった善意」には、ほとほと愛想が尽きた。

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2020年4月 8日 (水)

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火曜日午前、三鷹駅北口のTSUTAYAへ、DVDを借りに行った。一本は、『バグダッド・カフェ』。公開時の20歳のころは「こんな映画のどこが……」と思っていたが、今回は心に沁みた。やっぱり、20歳ごろの感性なんて宛てにならない。映画は、50歳前後から分かりはじめる。
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画面を傾けたり、ちょっとした人物がカメラを意識したオーバーな演技をしたり、当時からイヤだった部分が、やっぱり最初は気になる。でも、大柄なドイツ人のジャスミンが掃除をして、黒人のブレンダが態度を変えて、それから2~3シーン挟んで、カフェをジャスミンが手伝うシーンで、ハッとなった。
カメラは、窓際に座る客たちを撮っている。子供たちが、店内で宿題をしている。カメラは180度ぐるりと彼らをナメて、店の入り口までPANする。そこには、清潔なシャツを着たジャスミンが立っている。ブレンダとジャスミンは、申し合わせたように、丁寧に挨拶する。そのままカメラは180度戻りながら、ジャスミンが客に料理を運んで、手品を披露するまでを追う。

途中に子供たちの驚いた顔がインサートされるとは言え、カメラは大きく左にPANして、そのまま大きく右へ戻る。言うまでもないが、これは劇中に何度も出てくるブーメランの動きだ。
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ラスト近くのプロットも、一度は去ったジャスミンが「行って、帰ってくる」。それはストーリーというよりも、この映画が世界をどう捉えているのか、どう組み立てているのかを示している。
確かに、温かいストーリーではあるんだけど、映画の効能って、ストーリーを伝えるだけではない。というより、ストーリーだって、何も泣かせるために存在するわけじゃない。

映画の冒頭で去ったブレンダの夫も、ラストで帰ってくる。やっぱりそれは、ブーメランの運動を模しているんだと思う。お話の定型ではなく、動きの綺麗さで見せている。ラストも、まるで続きがあるかのような終わり方をしている。ブーメランを投げたところで終わるのが、気持ちいい。
ブーメランのような動きを描くと、少なくともパターンに陥らずにすむ。そういうストーリーの運動を、目撃したいじゃない。どうせ映画を観るなら。


『バグダット・カフェ』初公開の1989年は、辛い年だった。
僕は二歳年上の女性に片恋していて、彼女の学校や宿舎のあるつくば市まで、せっせと通っていた。その女性も大学院で映画を習っていて、『バグダット・カフェ』が良かったと、言葉すくなに語った。
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何とか彼女と価値観を共有したい僕は、あわててシネマライズに観にいったのではなかったか。そして、個性的な主演二人の女優に彼女を重ね合わせて、そこに自分のような青臭いガキが入り込む隙間がないことに苛立ち、したがって映画の良さにも気づけなかった。

今なら、この映画を生涯ベストワンに選びたくなる気持ちは分かる……さびれた砂漠の中のモーテルが夕闇に沈み、ネオン管に青い灯りがともるカットの美しいこと。心に余裕ができたから、あの美しさが分かるのかも知れない。何にせよ、年をとって良かったよ。若い頃は、とにかく自分の未熟さが悔しくて、辛くて、ひとつも面白くなかった。


昨夜、新型コロナウィルスに関して、非常事態宣言が発令された。
僕はもともと、家で原稿を書くのがメインの仕事。おまけに、本来なら今日からコロンビア旅行の予定だったから、4月分の取材・撮影などは終わらせて原稿も納めてある。今月、何もしなくても影響はない。ラッキーだと思う。しかし、5月以降の取材はどうしよう、という話を編集者としている。

レンタル店と喫茶店ぐらい行きたいのだが、とりあえず明日は我慢するとして。
スーパーで並んでいたら、「どうしてこんな並び方してんの?」と、偉そうにタメ口で聞いているのは、やっぱり中年男性だった。その男、別に横入りしたわけでもない女性客を「並んでますよ!」と叱っていた。男には余裕がない。だから、50代になると自殺する。コロナ絡みで自棄を起こして騒ぎを起こしたのも、ぜんぶ男。
無用者にならないように、年をとった男は自分の価値を見つけて磨かないと生きていかれない。幼稚な嫉妬と憎悪で、自滅するから。


安倍総理の会見をYouTubeで見たが、質問したがる記者は、黙って手をあげればいいでしょ? どうして「そろそろ時間です」と言われると「ちょっと待ってください」と不満そうに愚痴るの? それでもプロかよ、みっともない。「ギリギリで質問を打ち切られた」ってポーズをとりたいだけ、予定調和で仕事した気になってるんだろ? 与党精神がないんだよ。安倍総理は確かに頼りないし、コロナ対策にも不満はあるけど、「もし自分が全権を委ねられたら?」と想定する与党精神なしに、サンドバッグみたいに一方的に総理大臣を叩き続けたいとは、俺は思わない。

Twitterを検索してみると、最後にやっぱりゴネて質問に割り込んだ素人じみたイタリア人記者をダシにして、安倍総理をクズだの無責任だの、じゃあお前らがどんな責任を負ってるんだよ? もはや「アベ叩き」という安全圏からのゴッコ遊びじゃないか。本気じゃないんだろうね。
というか、安倍総理がどんな失言しようと、その言葉尻を捕まえて叩いて何がどう改善されるんですか? 総理が猛省して辞任するんですか? 溜飲が下がったってだけでは? 自分たちはお客様、店は常連客の言うこと聞け、今後も文句だけは言わせてもらうぞレベルになっていないか? だとすれば、それは慣れであり、癖でしかない。本質に触れてない。本質に触れてさえいれば、右も左も関係ないと僕は思う。

(C)2008 KINOWELT INTERNATIONAL GmbH

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2020年4月 6日 (月)

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最近、レンタルDVDで見た映画は、『廃市』、『書を捨てよ町へ出よう』、『白昼の通り魔』。すっかりATGめいているが、ヒッチコック晩年の傑作『フレンジー』も観た。

やっぱり、『廃市』のことから書こうか。
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前に見たのは7~8年前だろうと思っていたら、きっかり10年前だった()。
当時は気づかなかったが、構図がどうのカット割りがどうの、という映画ではない。やたらカメラを傾けたり、オプチカル処理したがる大林監督の趣味は控えめで、オーソドックスなつくり。オーソドックスというのは、1942年に『カサブランカ』が築き上げた話法と、次元が一緒という意味だ。
ロケおよびロケセットなので、カメラワークも限られている。では何が魅力的なのかというと、被写体。俳優や背景がいいんだろうね。俳優とロケ地さえ美しければ、もう十分じゃん?と、大学のころは思っていた。映画のエの字も知らない、くだらないガキだった。

『廃市』は依然として甘美な映画だが、「綺麗だ、好きだ」だけで映画を観ていると、どんどんバカになっていく。では他に何かあるのかというと、とりたてて何もない映画。その点、構図やカットワークに凝りまくった『白昼の通り魔』は意図の塊のような映画で、大島渚が海外で評価が高い理由が分かる。映画が原理的に持っている機能は、万国共通だからだ。
だけど、50~60年代までに、構図やカットによる話法は、黒澤とヒッチコックが洗練させ、完成させてしまった。だから、大島渚は、少しクラシカルな感じがする(同時期公開の『フレンジー』は、とてもアクティブなニューシネマっぽい映画なのに)。


『書を捨てよ町へ出よう』。18歳のころだったか、浪人中に吉祥寺ジャブ50の寺山修司特集が初見だった。
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あの当時は、翌週上映される寺山作品の予告編が怖くて怖くて、もう後戻りできないんじゃないか?と震えながらも、結局、上映作品すべて観てしまった。根本敬にも通じるような、異様な包容力がある。世界中から排除されても、寺山映画と根本敬だけは受け入れてくれる、まだまだ余白があるように感じていたし、今もその解放感は、体の節々に息づいている。
倫理も正義もないんだけど、自由だけはある。不思議な、不安定な安心感。

映画としては、ゴダールの亜流と言ってもいい。ある程度のスジが決まった劇映画と、街中に繰り出したドキュメンタリーとが入り混じっている。『勝手にしやがれ』の10年後だから、決して新しいわけではない。強いて言うなら、日本映画であることはゴダールにはない強みだ(特に、素人のエキストラが大勢出てくると親近感をおぼえる)。
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『書を捨てよ』は、いつの時代も、行き場のない若者を救いつづけるだろう。勧善懲悪でピースフルで、家族や友達の美しさを描いたウェルメイドな映画に疎外感をおぼえたら、いつでも『書を捨てよ』が待っている。この映画が怖いなら、そこから本当の逃走がはじまる。風の中を走って逃げればいい。
『書を捨てよ』がどんなに古くなっても、いや古くなればなるほど、時代から疎外されればされるほど、この映画は孤独の純度を増していく。


20万円の還付金が振り込まれる前に、三鷹市役所に滞納していた税金12万円分、差し押さえられてしまった。ひさびさに市役所に行くと、差額の8万円はあっさり戻ってくるとのことだった。
(戻るも戻らないも、もともと払いすぎていた税金だ)

僕がうるさく言ったせいか、タイヤロックによる脅迫オブジェは隠し気味にしてあり、個人の財産を競売にかけた結果が、誇らしげに掲げてあった。それ、やっぱり威張るような成果じゃないと思うぞ……個人を迫害せず、安い税金で皆が幸せになれるのが良い社会だろ? 三鷹市役所納税課、そういう理想がそもそも欠けている。
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この手のことをTwitterに書くと、「そういう決まりなんだよ」「払えよ! ズルすんな!」など、学級委員みたいな人たちがリアクションしてくる。でも、フリーランスって狩りのように「一仕事いくら」を自分でコントロールして、より楽しく暮らす生き方なので、誰に決められたわけでもなければ、決まりにギリギリ抵触しながら活動範囲を広げるのが楽しんだよ。
「より楽しく生きる」。この理想が根本的に欠けている人が、とても多い。朝は好きな時間に起きたいでしょ? 昼間でも眠たくなったら寝て、食べたいときに食べたいでしょ? どうして皆と同じ時間に、同じ行動をしたがる? ひょっとして、他人に決めてもらわないと自分の人生も楽しめないの? ひょっとして、辛いこと、嫌なことを我慢するのが人生だと思ってる? それは勝手だが、俺を巻き込むな。

俺は20代のころは無能で無能で、普通の人にできる簡単な仕事がひとつも出来ず、体力がないので力仕事も務まらなかった。取材して文章にまとめるのが得意、しかも他人より早く書けると分かったのは30歳をすぎてから。些細な才能だが、お金になるよう、磨きをかけた。
中身のないことでお金をもらいたくない。才能を世の中に役立て、その対価を得たい。自分の能力を生かして、より豊かな人生を楽しみたい。そのための努力や工夫なら、いくらでもする。「そういう決まりだから」なんて理由で、人生が楽しくなるわけないでしょ?

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2020年4月 2日 (木)

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ホビージャパン ヴィンテージ Vol.3 本日発売
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『聖戦士ダンバイン』巻頭特集、40ページを構成・執筆しました。
今回は玩具にも触れたいと思い、そのページは盟友・五十嵐浩司さんに依頼しました。前回の『伝説巨神イデオン』よりもキットの数が少ないので、『ダンバイン』の放送とプラモデル発売前後の映画やテレビの年表、美少女フィギュアやパロディ文化がプラモデルにどう関与しているか、少しずつ触れています。
ただ、掘れば掘るほど、アニメとプラモデルの間には複雑で有機的な関連性が見い出せるので、別冊となったとき(この企画はもともと、一冊の本として提案したものです)、大幅にテキスト量を増やして実証したいと思います(ムックのカラーページでは、どうしても写真メインになってしまうので)。

あと、ほんの小さな、ありふれた番宣ビジュアルなどでも、許可が必要かどうか問い合わせて返事がないと「不許可」と判断されて、ちょっとした絵が掲載できなくなり、不自然なページになってしまう。これを何とかするには、僕が直接交渉するしかない。
版権ビジネス、版権文化は、権利元が何もせずにサボっていた(実質、OKした)としても、確実にマイナスの方向へ向かいます。確実に、権利を許諾される我々の体力がそがれ仕事を邪魔され、世の中がつまらなくなります。先達たちの創出したビッグタイトルの権利だけで食いつないでいる会社は、よく考えてほしいです。


いよいよボケてきたのか、以前に借りたDVDを間違えてレンタルしてきてしまう。ヒッチコックの『知りすぎていた男』、ミュージカル映画『シカゴ』。どちらも、ここ2~3年の間に見たはず。
あと、『ミッドナイトエクスプレス』も、既視感の多い映画だった。明らかに見ているはずなんだ……。ラストで警察署長をうっかり殺してしまうシーンは、ドラマ『ギャラクティカ』でそのままトレースされていた。それ以外にも、他の映画や漫画に、大量にオマージュやトレースが見つかる。
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あと、『ターミネーター:ニューフェイト』を借りてきて観たが、歳をとった旧作のキャラクターを無理に絡ませては殺し、プロット自体は旧作の焼き直し……という『スター・ウォーズ』と同じ幣に陥っている。ウェブ配信で見直したばかりの『ターミネーター2』がとても丁寧な映画だっただけに(ここに魅力をメモ書きしておいた→)、失望は大きい。


ウェブ配信といえば、大林宣彦自身によるセルフ・リメイク『同級生-さらなら、あなた-』が良かった。
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舞台は長野県の山の中に移ったが、ちゃんと尾道風の、古い日本家屋を使っている。
考えてみれば、1982年版の『転校生』は、40代半ばの大林宣彦監督が、小津安二郎の世界を若者たちに教えてくれていたのだ。モデルグラフィックス誌で、あさのまさひこ氏が「『転校生』によって、生まれて初めて“邦画”というものにインパクトを受けた」という意味のことを書いていて、おおいに首肯したものだった。
その価値を精査するには、ATGという会社に言及せざるを得ず、「オタク文化」と一括りに扱われていた昭和のサブ・カルチャーを丁寧に腑分けする必要があるだろう(アニメ作品のプラモデルだって、ATGや邦画史と無縁ではない)。

そして、大林監督が70代に近づいて撮った2007年版『転校生』は、あまりにも寂しい冬枯れの景色とあいまって、おおいに死を感じさせる映画になっていた。
そこは好悪が分かれるだろうが、『その日のまえに』『野のなななのか』など70代に入ってからの大林作品は生と死が二重写しになったような世界観を特徴としており、ミュージカル風に歌がセリフのように使われ、その独特の叙情性が魅力だ。

我慢できずに、『廃市』をレンタルしてきた(ネットで借りると高いので、100円で借りられる実体店舗にも、まだアドバンテージがある)。


さて、ブログのコメント欄を完全承認制……実質、閉鎖することにした。
前回のブログで、あまりにも意味不明かつ高飛車なコメントが書き込まれていて、今度こそイヤになった。

“突然のコメント失礼します。Twitterで見かけて拝読し、何とも言えない心持ちになりました。

「脳の盲点を思わぬ角度から撃たれることを、いつでも期待している」

架空の銃弾にいくら撃たれようと、死ぬはずなどない。死ぬ人などいない。博覧強記のライターの方とお見受けしますが、ダイ・ハードよろしく、これまで受けた幾多の衝撃にも耐えられたのだから、これからも耐えられる。そうお考えですか。

作品に殺されかかった人間は、絶望の淵で「元の自分には戻れない、戻るべきではない」と呻きこそすれ、「戻れなくてもいい」とは口が裂けても言えないものです。生き残った人間は、自分が奇跡的に助かっただけであることをよくよく自覚しているはずですから。”

……? ? 分かるコレ? 具体的に何かあったんだろうけど、カッコよく抽象的に書いているので、何が何だかサッパリ。
具体的に書かないのは、反論を封じるためだろうな。そして、自分はお前なんかよりスゴイ貴重な体験をしたので、お前のブログが気に入らない……ってことなんだろうな。そして、自分は逃げ隠れしているくせに、僕がライターであることは盾に取る。匿名野郎の常套手段。「連載読んでるんですけど」「過去に署名した者ですけど」で、アドバンテージをとろうとする。こういう卑怯者が、いちばん嫌い。
何の実績も提示できない臆病者のくせに、「実はお前なんかより凄いんだけどね」という態度で挑んでくる人、SNSにはウヨウヨしている。
(以前にコメントしてきた@monocuruこと天野真将も同じ。あらかじめ「俺は廣田より上」という立場で、「以前からブログを読んでいた」だのバイアスをかけてくる卑怯者。)

互いに気をつかいながらも排他的な日本社会では、自尊心の形成が難しいとは思う。だからこそ、俺は努力するし工夫する。努力も工夫もしなかった、サボりつづけた負け犬に、対等以上の口をきかれたくないんですよ。悔しければ、ここまで来てみろって話です。

(C)1978 Columbia Pictures Industries, Inc. All Rights Reserved.
(C) 2007「転校生」製作委員会

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