« ■0323■ | トップページ | ■0402■ »

2020年3月25日 (水)

■0325■

30年ぶりに『ミツバチのささやき』を観た翌日、あるアニメ会社のプロデューサーから薦められていたアニメ映画『海獣の子供』をレンタルしてきた。強烈な2本を続けて観てしまって、クラクラしている。
この2本はそれぞれ、「映画はなぜ映画なのか」「アニメはなぜアニメなのか」と自問しているかに見える。どんな人間も、幼い頃からの習慣と偏見なしには生きられない。映画を観ることも(テレビを見るなどして)幼い頃から習慣化していて、構図とカットによって「誰が主人公か」「主人公が何をするのか」読解するよう習慣づけられているから、映画を楽しむことができるわけだ。ようするに、たった一種類の「映画の観方」だけを、偏向的に学習してしまっている。

だけど、ほとんどの時間、自分が「習慣によって作品を見ている」「一種類の映画の観方しかしていない」とは意識できていない。それが、罠なのだと思う。
惰性にも等しい習慣によって映画を偏見していることを、解除する必要がある。映画への偏見を解除する方法はたったひとつ、たくさん映画を観ることだ。


『ミツバチのささやき』は、日本公開の1985年、確かレンタルビデオで観たと思う。その頃はミニシアター・ブームで、映画の分析・評論のムックが大量に出ていた。
Mv5botcwnzfjzdetotrjms00yzfhltkxztatmwrm
上のカットを見てほしい。
リュミエール兄弟の『ラ・シオタ駅への列車の到着』そっくりでしょう? 1931年の『フランケンシュタイン』が根本に位置する『ミツバチのささやき』で、こういう構図を無視はできない。『ミツバチのささやき』は劇映画だが、その物語世界には『フランケンシュタイン』というモノクロ映画が存在している。
『フランケンシュタイン』を見ている村人たちの顔を、ドキュメンタリーのようにアップで撮っていく。そのアップで撮られた俳優たちだけが『ミツバチのささやき』では「本物の人間」だと、僕たちは了解する。『フランケンシュタイン』も確かに画面に映ったけど、あれはただの映画、ウソだと認識する。

姉のイサベルは妹のアナに「映画はぜんぶ作り物だから、あの怪物も、怪物に殺された女の子も、本当は生きている」と告げる。
その後、イサベルの悲鳴が聞こえ、アナが駆けつけると、イサベルは倒れたまま動かない。アナは「ウソなんでしょ?」と疑いながら、一度は部屋から出て、イサベルが本当に死んでいるのかどうかを確かめる。
だけど、倒れているイサベルが死んだフリをしているのか、本当に死んでしまったのか、僕たちには絶対に区別がつかない。だって、イサベルが言うとおり「映画はぜんぶ作り物」なんだから!


イサベルが「死んだフリ」をするシーンで、僕たちは『ミツバチのささやき』という映画もやはり、「ぜんぶ作り物」なのだと認識を改めざるを得ない。
映画のラスト近く、アナは本物の(と同時に作り物の)フランケンシュタインと会う。その構図は、アナが映画で観た 『フランケンシュタイン』とまったく同じ構図である。
Mv5bnzdmmgy2mmqtothjos00mtjiltg0nwqtmthi
アナが観た『フランケンシュタイン』の構図の中に、アナ自身が位置している。それはアナの体験と言えるだろうか? 単に、アナが怪物の幻覚を見ているシーンだとしたら、構図を同じにする意味とは何なのか? 僕たちは何を目撃したのだろう? 新しい視点を獲得しないと、『ミツバチのささやき』について何ひとつ語れない。少女が現実と空想の間をさまよう映画だとか、そんな宛がいぶちの解釈でいたら、人生が無駄に終わる。


『海獣の子供』についても、「いったい僕は何を見ているのだろう?」と、『ミツバチのささやき』に近い感触を得た。
640_20200325162501
まず、動きの密度がただごとではない。いろいろな色と形の魚たちが、画面いっぱいに様々な速度でウワァーッと、一斉にうごめいている。それを見つめる少女の瞳は、まつ毛が執拗に描きこまれ、瞳の中には七色の魚群が映りこんでいる。
冒頭の1~2カットで、あっさりと人間の動体視力を超えるような密度。アニメを見ているとき特有の慣れ親しんだ感覚、だらしないほどの予定調和的リラックス感が、フッと途切れることがある。


日常シーンの、ちょっとした歩きや動きが、「いつものアニメ」と違う。情報量が多い。何かにぶつかりそうになるのを、思わず腰を低くして避けようとする。自分の意志で走っているに、怪我した足が追いつかなくなっていき、転んでしまう。
それらはすべて、主人公の少女自身にとっては、不随意な、意図しない動きだ。しかし、アニメーションは線と面で人間を描いているわけだから、画面外の何者か、つまりアニメーターの意図が強力に作用しないと、不随意の動きなど描けないのだ。これは、構造的な矛盾だ。
640_20200325172001

僕たちはキャラクターの「意図せぬ動き」と、アニメーターの「意図した動き」を同時に見るしかない。「意図せぬ動き」も「意図した動き」も、アニメの中ではイコールだからだ。『ミツバチのささやき』で、「死んだフリ」も「実際に死んだこと」も、劇映画では完全に同じ表現になると気づかされたことに近い。
映画では、死は描けない。本当は死んでいないけど、死んだことにしてくれ、という約束しか出来ない。その約束は、無意識の下へしまいこまれて、僕たちを鈍感にする。

アニメでは、「本当は見てのとおり線と色の面でしかないけど、人間だと思ってくれ」、そういう約束事を、僕たちはさせられていた。だが、見えているものだけが全てではなく、画面外に膨大な意図、意志があると気づかされてしまう。『海獣の子供』後半、暗黒物質を例に出して、人間にはほとんど何も見えていない……というセリフが出てきたではないか。
だが、セリフで説明するまでもない。日常の芝居のそこここに、絵で世界を成り立たせようとする矛盾、矛盾から生じる底知れぬ神秘が見え隠れしている。意図のこめられた描写、描線に息をのむ。それが感動というものだ。感情移入して泣くことを、感動だと思っているだろう?

リアルな動きだから「実写に迫る」とか「実写を超えた」だとか、習慣化された借り物の感想になど目をくれている暇はないのだ。


つまり僕は予定調和ではない、脳の盲点を思わぬ角度から撃たれることを、いつでも期待している。
たとえ、その作品を見る前の自分に戻れなくてもいい。衝撃を受けたい。そのためには、作品に対しては両腕をダラリと垂らしたノーガード状態で接しなければならない。

(C)2005 Video Mercury Films S.A.
(C)2019 五十嵐大介・小学館/「海獣の子供」製作委員会

|

« ■0323■ | トップページ | ■0402■ »

コメント

突然のコメント失礼します。Twitterで見かけて拝読し、何とも言えない心持ちになりました。

「脳の盲点を思わぬ角度から撃たれることを、いつでも期待している」

架空の銃弾にいくら撃たれようと、死ぬはずなどない。死ぬ人などいない。博覧強記のライターの方とお見受けしますが、ダイ・ハードよろしく、これまで受けた幾多の衝撃にも耐えられたのだから、これからも耐えられる。そうお考えですか。

作品に殺されかかった人間は、絶望の淵で「元の自分には戻れない、戻るべきではない」と呻きこそすれ、「戻れなくてもいい」とは口が裂けても言えないものです。生き残った人間は、自分が奇跡的に助かっただけであることをよくよく自覚しているはずですから。

投稿: 通りすがり | 2020年3月27日 (金) 23時01分

■通りすがり様
はじめまして。何をおっしゃりたいのか、さっぱり分かりません。
「通りすがり」なんていう凡百のHNで言いたいことだけ書き散らして、あなたの無責任な生き方がよく伝わっては来ますけどね。

投稿: 廣田恵介 | 2020年3月28日 (土) 10時01分

廣田様

意味不明なコメントにお返事くださり、ありがとうございます。

自分が無責任な凡百であることは自身が誰よりもよく承知していることで、異論ありません。ただ、廣田様に嫌がらせしたくて書き込んだわけではない。最後の一節を除けば、記事の9割を深く納得し、同意しながら拝読しました。それだけはご理解いただきたく思います。

時節柄、ご自愛の上お過ごしください。

投稿: 通りすがり(再訪) | 2020年3月29日 (日) 05時46分

「通りすがり」と宣言したくせに、どうしてまた見に来てるんですか?
そういうだらしのなさ、意志の弱さを他人に押し付けて生きてるんでしょ?

>時節柄、ご自愛の上お過ごしください。

名乗れもしない無責任な赤の他人に言われたくありません。

投稿: 廣田恵介 | 2020年3月29日 (日) 10時32分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



« ■0323■ | トップページ | ■0402■ »