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1/700スケールのプラモデルが、いま面白い! ピットロードの提案するミニチュア模型の楽しみ【ホビー業界インサイド第56回】(■)
『この世界の(さらにいくつもの)片隅に』版大和のプラモデルが、Amazonのレビューで「ついにこういうものを売り出してしまいましたか…。制作委員会監修?軍港があったため、呉は空襲の災禍に見回れたにではなかったのでしょうか。軍都広島は原爆で人類史上まれに見る大虐殺を経験したのでは。所詮、『男たちのYAMATO』よろしく、ノスタルジーだけの感傷だけの映画でしょうか。こういうことだけはしてほしくなかった。」(■)
……と書かれてしまった、ピットロードさん。だけど僕は、ちゃんと御社製品のクオリティを指先で実感してますので、今回も取材させていただきました。
こんな地味な記事、誰も読まないだろうと思っていたら、2日間もアクセスランキング第一位でした。
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最近、レンタルで観た映画は『ひまわり』と『イヴの総て』。
『ひまわり』は大学の友人から勧められ、『イヴの総て』は母の好きだった映画で、両方とも20代のころに観た。
当時は、「なるほど、よく出来たプロットだな」と思った程度だった。いま観ても、『イヴの総て』は、やはりよく出来た演劇でしかなくて、映画としてのアイデンティティは欠けていると思う。
『自転車泥棒』から22年後にデ・シーカの撮った『ひまわり』には、いくつか良いシーンがあった。
ソフィア・ローレンの演じる主人公は、夫を探してソ連へ行く。夫は戦場で記憶喪失になって、ソ連のどこかで別人として暮らしているのではないか……と、彼女は疑っている。
探し当てた家には、見知らぬ若い女がいる。彼女とは何も言葉を交わしていないが、主人公はベッドに枕がふたつ並べられているのを見て、すべてを悟る。
上のカットで、主人公は何も言わない。ただし、画面外から夫と暮らしているであろう見知らぬ女が、子供をしかっている声が入る。子供は洗面器で手を洗わされているので、水の流れる音が聞こえている。主人公は何も言わないが、画面外の音が彼女の孤独を語っているのだ。
画面外は、生活臭のある喧騒に満ちている。しかし、画面内にたった一人で立ち尽くす主人公は、それらの日常の外に追い出されている。画面内にいる者こそが、画面外の「世界」から疎外されている――黒澤明も、しばしば、このような演出を使っていたような気がする。
カット内に何を入れて、何をカットの外に置くか。情報のよりわけによって、シーンの持つ意味はまるで変わってくる。
フレームに収められている被写体が、常に「選ばれている」とは限らない。「取り残されている」だけかも知れないのだ。
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一ヶ月後に南米コロンビアへ旅行の予定なのだが、欧州やオーストラリアではアジア人差別が激化していると聞く。現地に住んでいる人たちのツイートを読むと、今に始まったことではないという。
とは言え、日本国内もトイレットペーパーの買い占め、電車内でのケンカなど、さして民度は変わらない。なぜか僕は「差別をなくそう」とは言えない。差別をしてしまうのが人間だから、風通しのいい社会にできれば、差別など目立たなくなっていくだろう(差別した本人が痛い目を見るだろう)と考えている。
人間が愚かなのに、いきなり差別感情という患部だけをキレイに除去できるほど、甘いものではないはずだ。
たとえば、「ヘイトスピーチとレイシズムを乗り越える国際ネットワーク 」を名乗る「のりこえねっとTV」が、以下のような番組を配信するようだ(■)。
確かに、中年男性は若い女性から見たら気持ちが悪いだろう。僕も、頭が禿げているし50代だし、キモくて申し訳ないと思いながら生きている。
あと、中年男性が不審な行動をとったり、無知で無神経なくせに社会で威張っているのは、同性の僕から見ても不愉快だ。
だから、『シリーズ キモいおじさん』という番組を企画する気持ちは分かるし、どんな内容なのか楽しみにしている。配信をやめろとか謝罪しろとか、一切思わない。仁藤夢乃さんの活動すべてに賛成ではないが、著書を読んで、共感するところもある。
……というか、悪いけど真面目に反論する気になれない。僕の敵はこんな低次元にはいないと、いつも思ってしまう。
上のように、人間は誰でも差別する。誰でもが、誰かを加害しうるのだ。白人だから差別しないとか、女性だから差別しないなんてことはない。誰でもが、時と場合によっては加害する側に回る。だから、人間は怖い。だから、その人間の度し難さを前提に、本質的な意味で「誰もが幸せに暮らせる社会」を目指さなくてはならないのだ。
「確かにおじさんはキモいけど、俺だけは例外ですよ」「差別はいけませんよ」などという次元では、本質に触れられない。人間は差別するし誰もが偏見を持っている。その汚れきった自分勝手な我々が共存するには、忌避や嫌悪をこらえて和解の道を探すよりないのだ。
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JAなんすんのポスター騒動以降、『ラブライブ!サンシャイン!!』を、Twitterで「児童ポルノ」呼ばわりしている人がいる。
僕が「ネタバレ」という言葉を嫌いな理由が、ちょっと分かった。「児童ポルノ」も「ネタバレ」も、「それが何であるかは具体的に言えないが、とにかく忌避せねばならない」、本質を欠いた代名詞にすぎないからだ。「児童ポルノ」と言われたら、誰もが個人の乏しい経験や想像の中から、「自分にとっての最も醜悪なもの」を漠然と想定して話をするしかない。
その無責任さを、「ネタバレ」という言葉にも感じる。「なぜネタバレを避けねばならないのか、その理由を話したらネタバレになる」消極性、主体性の欠如。そうした虚無的な態度が、社会を、人心を枯れさせる。
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