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レンタルDVDで、イングマール・ベルイマン監督の『夏の遊び』、1971年のソ連映画『道中の点検』。どちらもモノクロ映画だ。
『夏の遊び』は、なんと1951年の作品。すばらしく洗練されている。
年齢に限界を感じはじめたバレリーナが、溌剌とした少女のような若い頃の恋愛を回想する。
夏の間、彼女は湖畔の小さな小屋に暮らしている。小屋の奥のベッドで、目覚まし時計に起こされる彼女を、カメラはフィックスで撮っている。彼女はいったんは目覚まし時計をうるさそうに引き出しに放り込むが、パッと起きて、鼻歌を口ずさみながら着替える。窓を開いて、洗面器で歯磨きする。カメラはフィックスのまま、ベッドから起きて手前に歩いてきて、バストショットになるぐらい近くまで彼女が来るのを、ゆるいPANだけで撮りつづける。
カメラが、被写体の動きに追従する。すると、女優の身体から発する生命感が、何の装飾もなく、むき出しになる。カメラワークとは、つまり装飾であり文法であり、ちょっとPANするだけでも意味を帯びてしまうのだ。その効果をこのカットではキャンセルして、生き生きと動く被写体が主導権を握っているのだ。
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舞台上のダンスの閉幕と同時に、映画も終わるラストシーンも鮮やかだった。
ダンスの幕が閉じると映画も終わってしまうわけだから、そこにはもはや映画独自のドラマは存在しない。ただし、主人公のバレリーナは、舞台袖で見守っている恋人に軽くキスをしてから舞台に戻る。その後に、バレエが最後まで終わると、彼女の人生がいかに充実しているか、何の作為もなく語り切れてしまう。
何も、構図やカッティッングだけが、映画の武器ではないのだ。シナリオ的な構成によって、シーンに特別な意味を与えることができる。(ただし、その作劇は演劇でも可能なところが悩ましい。映画の原理とは関係ないのかな、とも思う)
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さて、『道中の点検』。これは、異様な映画であった。
ドイツに占領されたロシアの雪原地帯を舞台にした戦争映画。モノクロなので、背景は真っ白。軍服が淡いグレーで、あちこちに浮かぶ。
パルチザンたちの抵抗を描いているが、ショートエピソードのパッチワークで、何か大きなストーリーがあるわけではない。
もっとも鮮烈だったのは、捕虜になったロシア兵たちが、船で移送されるシーン。
船の舳先が映る。つづいて、レコードと蓄音機のアップ。ロシア語の民謡のような曲が聞こえている。蓄音機からPANすると、タバコを持った手が映る。さらに、カメラはティルトUPして、タバコを持っている男の顔を撮る。それは上半身裸の、若いドイツ兵である。
次のカットは、画面を真正面から見ている数人のロシア兵たち。無表情だ。
(上のスチールでは斜めを向いているが、実際にはカメラの正面を向いている。)
次のカットで、カメラはロングに引く。何十人ものロシア兵が、微動だにせず、無言で音楽を聴いている。カメラは、そのままズームバックしていく。さらに、何百人かのロシア兵が、画面に入る。
そして、画面左右に船の縁と、川がフレームに入る。「これは、捕虜を乗せた巨大な輸送船なのだ」と分かる。船のあちこちにドイツ兵が立っていることから、彼らが捕虜であることも分かる。
朴訥な構図、機械的なカメラの動きが、この状況がいかに過酷なものであるかを、端的に伝えている。映画でしか語りえない、しかし決して物語ではない「状況」のみを、最大限の効果で表現している。
僕が求めているのは、つねにそうした、映画の根源的な、単一の「機能」だ。
富野監督に「今さらそんなことを……」と呆れられるのも、無理はないのかも知れない。
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来月のコロンビア旅行は、中止した。同国が、日本人に対して行動制限措置をとっていること(もし熱があったら、観光などできない)、同国でも感染者が出てしまったこと。
僕がコロンビアの人だったら、アジア人旅行客はウィルスをバラまきに来たようにしか見えないので、いまいましく思うに違いない。
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宇崎ちゃんポスターを批判されて『献血のためには必要だ!』と怒っていた連中は献血に行ったのか?行ってない?ああ、やっぱりおっぱいを好きなように公共の場で鑑賞したかっただけだったか。うん知ってた(■)
自分の行為を、ただそれだけで完結させることが出来ず、自慢するか誰かを罵倒するか、いずれにしか使えない人。まあ、一種のパーソナリティ障害だろう(パーソナリティ障害でないにしても、そう言われても仕方がないぐらい、醜い失言をしていると思う)。
そして、「イライラするから、高みから誰かを叩きたいなー」と思ったとき、「二次元キャラの好きなオタク」が、少なくともSNSではターゲットとして格好なのだと思う。実社会では萌えキャラが町おこしとして成功している例が多いので、SNSの中での難癖は、基本的に相手にしなくていいとは思う。
そんなことより、もっと重要な話題がある。
女性の「着ぐるみ」着る男性 性に悩んだ先で得た「社会との接点」(■)
僕のトークイベントにも、着ぐるみを作っている男性が見えたことがあった。
「オタク」とは単にアニメやゲーム、漫画ファンのことを指すのではなく、「自分の性とうまく付き合えない」「男性として、あるいは女性としての自信がない」=「結果的に、実社会で上手に立ち回れない」「重圧ともいえるぐらいのコンプレックスを抱えている」人のことなのかも知れない。
性表現に無頓着なオタクっているんだろうか? 実社会で自分の性や身体に自信がない分、二次元の美少女・美少年に自己投影したり、熱烈な愛情を注いだりするのではないだろうか? オタク・コンテンツが美少女・美少年をセールスポイントにするのには、社会的・心理的な必然があるのだと思う。そのデリケートな部分は、僕は断固として守っていきたい。
これから生まれてくる、社会と上手く付き合えない子供たちのためにも。
(C)1951 AB Svensk Filmindustri
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