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30年ぶりに『ミツバチのささやき』を観た翌日、あるアニメ会社のプロデューサーから薦められていたアニメ映画『海獣の子供』をレンタルしてきた。強烈な2本を続けて観てしまって、クラクラしている。
この2本はそれぞれ、「映画はなぜ映画なのか」「アニメはなぜアニメなのか」と自問しているかに見える。どんな人間も、幼い頃からの習慣と偏見なしには生きられない。映画を観ることも(テレビを見るなどして)幼い頃から習慣化していて、構図とカットによって「誰が主人公か」「主人公が何をするのか」読解するよう習慣づけられているから、映画を楽しむことができるわけだ。ようするに、たった一種類の「映画の観方」だけを、偏向的に学習してしまっている。
だけど、ほとんどの時間、自分が「習慣によって作品を見ている」「一種類の映画の観方しかしていない」とは意識できていない。それが、罠なのだと思う。
惰性にも等しい習慣によって映画を偏見していることを、解除する必要がある。映画への偏見を解除する方法はたったひとつ、たくさん映画を観ることだ。
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『ミツバチのささやき』は、日本公開の1985年、確かレンタルビデオで観たと思う。その頃はミニシアター・ブームで、映画の分析・評論のムックが大量に出ていた。
上のカットを見てほしい。
リュミエール兄弟の『ラ・シオタ駅への列車の到着』そっくりでしょう? 1931年の『フランケンシュタイン』が根本に位置する『ミツバチのささやき』で、こういう構図を無視はできない。『ミツバチのささやき』は劇映画だが、その物語世界には『フランケンシュタイン』というモノクロ映画が存在している。
『フランケンシュタイン』を見ている村人たちの顔を、ドキュメンタリーのようにアップで撮っていく。そのアップで撮られた俳優たちだけが『ミツバチのささやき』では「本物の人間」だと、僕たちは了解する。『フランケンシュタイン』も確かに画面に映ったけど、あれはただの映画、ウソだと認識する。
姉のイサベルは妹のアナに「映画はぜんぶ作り物だから、あの怪物も、怪物に殺された女の子も、本当は生きている」と告げる。
その後、イサベルの悲鳴が聞こえ、アナが駆けつけると、イサベルは倒れたまま動かない。アナは「ウソなんでしょ?」と疑いながら、一度は部屋から出て、イサベルが本当に死んでいるのかどうかを確かめる。
だけど、倒れているイサベルが死んだフリをしているのか、本当に死んでしまったのか、僕たちには絶対に区別がつかない。だって、イサベルが言うとおり「映画はぜんぶ作り物」なんだから!
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イサベルが「死んだフリ」をするシーンで、僕たちは『ミツバチのささやき』という映画もやはり、「ぜんぶ作り物」なのだと認識を改めざるを得ない。
映画のラスト近く、アナは本物の(と同時に作り物の)フランケンシュタインと会う。その構図は、アナが映画で観た 『フランケンシュタイン』とまったく同じ構図である。
アナが観た『フランケンシュタイン』の構図の中に、アナ自身が位置している。それはアナの体験と言えるだろうか? 単に、アナが怪物の幻覚を見ているシーンだとしたら、構図を同じにする意味とは何なのか? 僕たちは何を目撃したのだろう? 新しい視点を獲得しないと、『ミツバチのささやき』について何ひとつ語れない。少女が現実と空想の間をさまよう映画だとか、そんな宛がいぶちの解釈でいたら、人生が無駄に終わる。
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『海獣の子供』についても、「いったい僕は何を見ているのだろう?」と、『ミツバチのささやき』に近い感触を得た。
まず、動きの密度がただごとではない。いろいろな色と形の魚たちが、画面いっぱいに様々な速度でウワァーッと、一斉にうごめいている。それを見つめる少女の瞳は、まつ毛が執拗に描きこまれ、瞳の中には七色の魚群が映りこんでいる。
冒頭の1~2カットで、あっさりと人間の動体視力を超えるような密度。アニメを見ているとき特有の慣れ親しんだ感覚、だらしないほどの予定調和的リラックス感が、フッと途切れることがある。
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日常シーンの、ちょっとした歩きや動きが、「いつものアニメ」と違う。情報量が多い。何かにぶつかりそうになるのを、思わず腰を低くして避けようとする。自分の意志で走っているに、怪我した足が追いつかなくなっていき、転んでしまう。
それらはすべて、主人公の少女自身にとっては、不随意な、意図しない動きだ。しかし、アニメーションは線と面で人間を描いているわけだから、画面外の何者か、つまりアニメーターの意図が強力に作用しないと、不随意の動きなど描けないのだ。これは、構造的な矛盾だ。
僕たちはキャラクターの「意図せぬ動き」と、アニメーターの「意図した動き」を同時に見るしかない。「意図せぬ動き」も「意図した動き」も、アニメの中ではイコールだからだ。『ミツバチのささやき』で、「死んだフリ」も「実際に死んだこと」も、劇映画では完全に同じ表現になると気づかされたことに近い。
映画では、死は描けない。本当は死んでいないけど、死んだことにしてくれ、という約束しか出来ない。その約束は、無意識の下へしまいこまれて、僕たちを鈍感にする。
アニメでは、「本当は見てのとおり線と色の面でしかないけど、人間だと思ってくれ」、そういう約束事を、僕たちはさせられていた。だが、見えているものだけが全てではなく、画面外に膨大な意図、意志があると気づかされてしまう。『海獣の子供』後半、暗黒物質を例に出して、人間にはほとんど何も見えていない……というセリフが出てきたではないか。
だが、セリフで説明するまでもない。日常の芝居のそこここに、絵で世界を成り立たせようとする矛盾、矛盾から生じる底知れぬ神秘が見え隠れしている。意図のこめられた描写、描線に息をのむ。それが感動というものだ。感情移入して泣くことを、感動だと思っているだろう?
リアルな動きだから「実写に迫る」とか「実写を超えた」だとか、習慣化された借り物の感想になど目をくれている暇はないのだ。
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つまり僕は予定調和ではない、脳の盲点を思わぬ角度から撃たれることを、いつでも期待している。
たとえ、その作品を見る前の自分に戻れなくてもいい。衝撃を受けたい。そのためには、作品に対しては両腕をダラリと垂らしたノーガード状態で接しなければならない。
(C)2005 Video Mercury Films S.A.
(C)2019 五十嵐大介・小学館/「海獣の子供」製作委員会