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2020年3月25日 (水)

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30年ぶりに『ミツバチのささやき』を観た翌日、あるアニメ会社のプロデューサーから薦められていたアニメ映画『海獣の子供』をレンタルしてきた。強烈な2本を続けて観てしまって、クラクラしている。
この2本はそれぞれ、「映画はなぜ映画なのか」「アニメはなぜアニメなのか」と自問しているかに見える。どんな人間も、幼い頃からの習慣と偏見なしには生きられない。映画を観ることも(テレビを見るなどして)幼い頃から習慣化していて、構図とカットによって「誰が主人公か」「主人公が何をするのか」読解するよう習慣づけられているから、映画を楽しむことができるわけだ。ようするに、たった一種類の「映画の観方」だけを、偏向的に学習してしまっている。

だけど、ほとんどの時間、自分が「習慣によって作品を見ている」「一種類の映画の観方しかしていない」とは意識できていない。それが、罠なのだと思う。
惰性にも等しい習慣によって映画を偏見していることを、解除する必要がある。映画への偏見を解除する方法はたったひとつ、たくさん映画を観ることだ。


『ミツバチのささやき』は、日本公開の1985年、確かレンタルビデオで観たと思う。その頃はミニシアター・ブームで、映画の分析・評論のムックが大量に出ていた。
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上のカットを見てほしい。
リュミエール兄弟の『ラ・シオタ駅への列車の到着』そっくりでしょう? 1931年の『フランケンシュタイン』が根本に位置する『ミツバチのささやき』で、こういう構図を無視はできない。『ミツバチのささやき』は劇映画だが、その物語世界には『フランケンシュタイン』というモノクロ映画が存在している。
『フランケンシュタイン』を見ている村人たちの顔を、ドキュメンタリーのようにアップで撮っていく。そのアップで撮られた俳優たちだけが『ミツバチのささやき』では「本物の人間」だと、僕たちは了解する。『フランケンシュタイン』も確かに画面に映ったけど、あれはただの映画、ウソだと認識する。

姉のイサベルは妹のアナに「映画はぜんぶ作り物だから、あの怪物も、怪物に殺された女の子も、本当は生きている」と告げる。
その後、イサベルの悲鳴が聞こえ、アナが駆けつけると、イサベルは倒れたまま動かない。アナは「ウソなんでしょ?」と疑いながら、一度は部屋から出て、イサベルが本当に死んでいるのかどうかを確かめる。
だけど、倒れているイサベルが死んだフリをしているのか、本当に死んでしまったのか、僕たちには絶対に区別がつかない。だって、イサベルが言うとおり「映画はぜんぶ作り物」なんだから!


イサベルが「死んだフリ」をするシーンで、僕たちは『ミツバチのささやき』という映画もやはり、「ぜんぶ作り物」なのだと認識を改めざるを得ない。
映画のラスト近く、アナは本物の(と同時に作り物の)フランケンシュタインと会う。その構図は、アナが映画で観た 『フランケンシュタイン』とまったく同じ構図である。
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アナが観た『フランケンシュタイン』の構図の中に、アナ自身が位置している。それはアナの体験と言えるだろうか? 単に、アナが怪物の幻覚を見ているシーンだとしたら、構図を同じにする意味とは何なのか? 僕たちは何を目撃したのだろう? 新しい視点を獲得しないと、『ミツバチのささやき』について何ひとつ語れない。少女が現実と空想の間をさまよう映画だとか、そんな宛がいぶちの解釈でいたら、人生が無駄に終わる。


『海獣の子供』についても、「いったい僕は何を見ているのだろう?」と、『ミツバチのささやき』に近い感触を得た。
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まず、動きの密度がただごとではない。いろいろな色と形の魚たちが、画面いっぱいに様々な速度でウワァーッと、一斉にうごめいている。それを見つめる少女の瞳は、まつ毛が執拗に描きこまれ、瞳の中には七色の魚群が映りこんでいる。
冒頭の1~2カットで、あっさりと人間の動体視力を超えるような密度。アニメを見ているとき特有の慣れ親しんだ感覚、だらしないほどの予定調和的リラックス感が、フッと途切れることがある。


日常シーンの、ちょっとした歩きや動きが、「いつものアニメ」と違う。情報量が多い。何かにぶつかりそうになるのを、思わず腰を低くして避けようとする。自分の意志で走っているに、怪我した足が追いつかなくなっていき、転んでしまう。
それらはすべて、主人公の少女自身にとっては、不随意な、意図しない動きだ。しかし、アニメーションは線と面で人間を描いているわけだから、画面外の何者か、つまりアニメーターの意図が強力に作用しないと、不随意の動きなど描けないのだ。これは、構造的な矛盾だ。
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僕たちはキャラクターの「意図せぬ動き」と、アニメーターの「意図した動き」を同時に見るしかない。「意図せぬ動き」も「意図した動き」も、アニメの中ではイコールだからだ。『ミツバチのささやき』で、「死んだフリ」も「実際に死んだこと」も、劇映画では完全に同じ表現になると気づかされたことに近い。
映画では、死は描けない。本当は死んでいないけど、死んだことにしてくれ、という約束しか出来ない。その約束は、無意識の下へしまいこまれて、僕たちを鈍感にする。

アニメでは、「本当は見てのとおり線と色の面でしかないけど、人間だと思ってくれ」、そういう約束事を、僕たちはさせられていた。だが、見えているものだけが全てではなく、画面外に膨大な意図、意志があると気づかされてしまう。『海獣の子供』後半、暗黒物質を例に出して、人間にはほとんど何も見えていない……というセリフが出てきたではないか。
だが、セリフで説明するまでもない。日常の芝居のそこここに、絵で世界を成り立たせようとする矛盾、矛盾から生じる底知れぬ神秘が見え隠れしている。意図のこめられた描写、描線に息をのむ。それが感動というものだ。感情移入して泣くことを、感動だと思っているだろう?

リアルな動きだから「実写に迫る」とか「実写を超えた」だとか、習慣化された借り物の感想になど目をくれている暇はないのだ。


つまり僕は予定調和ではない、脳の盲点を思わぬ角度から撃たれることを、いつでも期待している。
たとえ、その作品を見る前の自分に戻れなくてもいい。衝撃を受けたい。そのためには、作品に対しては両腕をダラリと垂らしたノーガード状態で接しなければならない。

(C)2005 Video Mercury Films S.A.
(C)2019 五十嵐大介・小学館/「海獣の子供」製作委員会

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2020年3月23日 (月)

■0323■

「ドロヘドロ」の現場スタッフが語る“3DCGアニメ表現の現在とこれから”【アニメ業界ウォッチング第64回】
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この取材は、僕がたまたまNetflixで『ドロヘドロ』を見て、MAPPAさんに問い合わせフォームから、直接取材を申し込んで実現したものです。
間に宣伝会社をはさむことなく、MAPPAの広報の方と取材方針を決めて、気持ちよく記事が完成させることが出来ました。
ところが、場面カットを使うために製作委員会各社の許可が必要で、その許可を得る段階で、さらに原稿が直されて、ひとつのエピソードが丸ごとカットされてしまいました。

直接インタビューしたスタッフの方が、技術的な言葉について修正を入れてくれるのは、かえって有り難いんです。
だけど、現場から離れれば離れるほど、誰がどういう意図で原稿に手を入れたのか分からなくなる。誰の責任なのか、分からなくなってしまう。アニメ業界に限った話ではないと思いますが、名前は出さないし責任も負わないけど「俺にも権利がある」って人が、最終的なクオリティに影響を与えてしまう。
他人に言うことを聞かせたり、他人をコントロールすることで仕事をした気になっている。そして、版権元に指示されると、フリーランスは次の仕事が無くならないよう萎縮して、唯々諾々と手塩にかけた原稿を修正してしまう。

そんな風に、誰もが仕事相手の顔色をうかがい、不快にさせないように失礼がないように、関係がギクシャクしないように、勝手に先回りして自粛してしまう。今も赤字が入って送り返されてきた原稿を見ているけど……、申し訳ないですけど、ビビりすぎ。
こうしてみんな、勇気を失っていく。自尊心を犠牲にして、安寧な力関係に屈服していく。


“事務局からパブリックコメントの内容を口外しないよう通知があり、「情報が漏洩した場合、委員全員の連帯責任となる」旨の書類に署名するよう指示された”(
香川県のゲーム規制条例の記事より。

ゲームの良し悪し以前に、日本中の大人、みんなこういうノリでしょ? 「口外するな」「連帯責任」ばかりで、自分がダメージをくらっても誠意を貫こうという大人がいない。そのことの方が、子供に有害だよ!


最近、DVDレンタルで観た映画は、ゴダールの『パッション』とイタリア映画『もうひとつの世界』。後者はぐっすり眠ってしまい、3割ほどしか覚えていない。
『パッション』は過去にも見た記憶があるが、今回は面白く見ることが出来た。
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ビデオ映画撮影の舞台裏と、工場をめぐる社長と労組のいさかいがカットバックするが、ハリウッド的な明快なストーリーやテーマはない。構図やカットに、文芸的な意味が込められているわけでもない(というより、意味など読みとれない……だがしかし、どのカットも美しい。その美しさは劇的効果がピタリと決まったときの美しさとは違う)。

推測にすぎないが、ゴダールは劇映画を使って劇映画批評を行っているかに見える。『勝手にしやがれ』『気狂いピエロ』では、映画であることがバレるような演出をわざと入れて、劇映画が作り物であることを暴き立てた。
『パッション』はそこまで露悪的で分かりやすくはないものの、映画そのものによる映画批評が、さらに高度化したように見える。
少なくとも僕は、普段、どれだけハリウッド的に馴致された、定型的かつ限定的な映画ばかり見ているか実感させられた。
『コンタクト』のセリフ、「なぜ英語ではないのかね?」「英語を母国語としている民族は、全世界の3割にすぎません」というアレ。あの状態に、僕らは浸りすぎている。


新型コロナウィルスの猛威で、欧州が大変なことになっている。それゆえか、アジア人に対する差別は後をたたないようだ。欧米人には、もともと手を洗う習慣がない、彼らは意外と不潔だとも聞く。
それを言うなら、こんな事態になっても尚、公衆トイレで手を洗わない日本人男性の多いこと多いこと……。小便をした生臭い手で、鏡の前でうっとりと髪をなでつけていたかと思うと、そのまま出て行ってしまう。そもそも、男子トイレの床は、わざとこぼした小便でいつでもベタベタに濡れている。

幼年期にうけた抑圧は、一生を呪縛するのかも知れない。親に怒られそうな悪いことを、こっそりやってしまう癖は、一生抜けないのかも知れない。
間違いを認めて引き返せる準備を、いつでもしておかねばならない。しかし、そこまでの勇気がある人は、とても少ない。多くの人は、頑迷固陋な偏屈な大人になるしかなく、早々と自滅していく。

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2020年3月17日 (火)

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「xxxHOLiC」は構図によって、秩序と混沌、神秘と通俗を描き分ける【懐かしアニメ回顧録第64回】
アニメや映画を「構図の使い方」という視点から評価している人は、とても少ない。もし構図やカッティングを“分かる”人がいたら、それはチャンスです。その審美眼は、お金になります。

EX大衆 2020年4月号 発売中
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●俺たちが好きなガンプラ
6ページ記事です。シャア専用ザクを素組みする記事は自分でラフを書いたけど、あとのページは文字ばかりになってしまいました。
模型誌に蹴られた企画が元になってはいるけど、もう少しグラフィカルに構成したかった。最終ページでは、山田卓司さんのコメントをいただきました。


最近、レンタルで見た映画は『マルホランド・ドライブ』20年ぶりに再見、『LION/ライオン 〜25年目のただいま』、『風とライオン』。

最初に『マルホランド・ドライブ』を見たとき、まだ30代だった。当時は漠然と、これが最先端の映画と感じていた。
いや、いま見ても次々と変な人物が出てくるし、異常なシチュエーションが相次ぐし、何より美女がエロいことをしてくれるので、まったく飽きない。だけどそれは、テレビドラマ的な面白さであって、「映画が機能している」わけじゃないのだと分かる。
ネタバレネタバレ言われるようになったのは、謎解きが主流のテレビドラマが流行ってから。謎解きがメインであって、劇的葛藤がない。

それに比べて、『風とライオン』はどうだろう?
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上の、剣をスラリと抜くカット。カメラが右にPANして、これから首を落とされる部下たち4人をナメてから、ショーン・コネリーの右手の動きをとらえる。シュルッと剣を抜くと、その抜いた動きにカメラが追従して、やや左に戻る。
全編、人物のアクションにカメラが追従していく。それが、この映画の思想なんだ。人物の生命活動がまずあって、カメラは人物たちに振りまわれされる。だから、すごくエネルギッシュだ。人物とカメラの関係が、劇的必然として機能している。
『マルホランド・ドライブ』には、見世物的な娯楽性がある。だけど、それは映画でなくて連続テレビドラマでいいじゃない?と思ってしまう。


アニメ作品の取材は、本当に減らせるだけ減らしているつもり。取材先と信用関係が築けそうな場合なら、こちらも前向きになれる。
ところが、僕の書いた原稿に修正が入り、一回目は技術的な知識についての追記だったので、もちろん納得した。本日、なぜかさらなる直しが入り、面白いエピソードが切られていた。おそらく、「こんなこと書いたら関係者に失礼だ」って程度のことで、何か強い意志があったわけではないだろうと思う。
アニメ作品は、「身内のスタッフに悪いから」レベルのことで、よく直しが入る。模型雑誌だって、いつも書いてもらっているモデラーさんが気を悪くするから程度の、ムラ社会みたいなルールで、こちらが意志を曲げさせられる。だから、発展しない。自分たちで相互監視して首を絞めて、「売れない、売れない」と嘆いている。
僕みたいな個人にだったら、いくら我慢をさせても平気なのは、リスクが低いから。恥を知らないんだよ。

そして、組織の内側から僕の記事に難癖をつておいて、「廣田が問題を起こした」と何年でも言いつづける。その担当者はサラリーマンだから、名前を隠したまま組織に守られている。
どういうことか、分かるだろうか? 個人の尊厳を踏みにじる社会が、活気づくわけがないでしょ? 
景気が悪くなってから、ずーっとみんな守りに入っている。
組織に隠れられる人は組織に甘えて、リスクを冒さない。2004年にイラク人質事件が起きたとき、「自己責任」という言葉が流行った。誰もが少しずつ自尊心を減らし、権威に頼りはじめた。自分だけは仲間ハズレになるまいと、他人に過剰に気をつかい、結果的にギスギスした社会になった(漫画やアニメのキャラクターをめぐる表現規制論争も、住みづらい世の中の端的な例だろう)。

どうして昔のアニメが元気いっぱいで、破天荒で、怖いもの知らずだったか、考えてみたことがあるだろうか?
いつの間にか、他ならぬアニメファン自身が「この表現はアウト」「セーフ」と判定するようになってしまった。肝心なことは「ネタバレ」で口にするのが禁忌になってしまった。
そんな停滞の中で希望を捨てないためには、具体的に企画を立てて行動して、本質的な仕事を実現させるぐらいしかないでしょ? 虚無的になっている暇なんて、僕にはないんだよ。

© 1975 - Warner Bros. All rights reserved.

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2020年3月10日 (火)

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レンタルDVDで、イングマール・ベルイマン監督の『夏の遊び』、1971年のソ連映画『道中の点検』。どちらもモノクロ映画だ。
『夏の遊び』は、なんと1951年の作品。すばらしく洗練されている。
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年齢に限界を感じはじめたバレリーナが、溌剌とした少女のような若い頃の恋愛を回想する。

夏の間、彼女は湖畔の小さな小屋に暮らしている。小屋の奥のベッドで、目覚まし時計に起こされる彼女を、カメラはフィックスで撮っている。彼女はいったんは目覚まし時計をうるさそうに引き出しに放り込むが、パッと起きて、鼻歌を口ずさみながら着替える。窓を開いて、洗面器で歯磨きする。カメラはフィックスのまま、ベッドから起きて手前に歩いてきて、バストショットになるぐらい近くまで彼女が来るのを、ゆるいPANだけで撮りつづける。

カメラが、被写体の動きに追従する。すると、女優の身体から発する生命感が、何の装飾もなく、むき出しになる。カメラワークとは、つまり装飾であり文法であり、ちょっとPANするだけでも意味を帯びてしまうのだ。その効果をこのカットではキャンセルして、生き生きと動く被写体が主導権を握っているのだ。


舞台上のダンスの閉幕と同時に、映画も終わるラストシーンも鮮やかだった。
ダンスの幕が閉じると映画も終わってしまうわけだから、そこにはもはや映画独自のドラマは存在しない。ただし、主人公のバレリーナは、舞台袖で見守っている恋人に軽くキスをしてから舞台に戻る。その後に、バレエが最後まで終わると、彼女の人生がいかに充実しているか、何の作為もなく語り切れてしまう。

何も、構図やカッティッングだけが、映画の武器ではないのだ。シナリオ的な構成によって、シーンに特別な意味を与えることができる。(ただし、その作劇は演劇でも可能なところが悩ましい。映画の原理とは関係ないのかな、とも思う)


さて、『道中の点検』。これは、異様な映画であった。
ドイツに占領されたロシアの雪原地帯を舞台にした戦争映画。モノクロなので、背景は真っ白。軍服が淡いグレーで、あちこちに浮かぶ。
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パルチザンたちの抵抗を描いているが、ショートエピソードのパッチワークで、何か大きなストーリーがあるわけではない。

もっとも鮮烈だったのは、捕虜になったロシア兵たちが、船で移送されるシーン。
船の舳先が映る。つづいて、レコードと蓄音機のアップ。ロシア語の民謡のような曲が聞こえている。蓄音機からPANすると、タバコを持った手が映る。さらに、カメラはティルトUPして、タバコを持っている男の顔を撮る。それは上半身裸の、若いドイツ兵である。
次のカットは、画面を真正面から見ている数人のロシア兵たち。無表情だ。
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(上のスチールでは斜めを向いているが、実際にはカメラの正面を向いている。)
次のカットで、カメラはロングに引く。何十人ものロシア兵が、微動だにせず、無言で音楽を聴いている。カメラは、そのままズームバックしていく。さらに、何百人かのロシア兵が、画面に入る。
そして、画面左右に船の縁と、川がフレームに入る。「これは、捕虜を乗せた巨大な輸送船なのだ」と分かる。船のあちこちにドイツ兵が立っていることから、彼らが捕虜であることも分かる。

朴訥な構図、機械的なカメラの動きが、この状況がいかに過酷なものであるかを、端的に伝えている。映画でしか語りえない、しかし決して物語ではない「状況」のみを、最大限の効果で表現している。
僕が求めているのは、つねにそうした、映画の根源的な、単一の「機能」だ。
富野監督に「今さらそんなことを……」と呆れられるのも、無理はないのかも知れない。


来月のコロンビア旅行は、中止した。同国が、日本人に対して行動制限措置をとっていること(もし熱があったら、観光などできない)、同国でも感染者が出てしまったこと。
僕がコロンビアの人だったら、アジア人旅行客はウィルスをバラまきに来たようにしか見えないので、いまいましく思うに違いない。


宇崎ちゃんポスターを批判されて『献血のためには必要だ!』と怒っていた連中は献血に行ったのか?行ってない?ああ、やっぱりおっぱいを好きなように公共の場で鑑賞したかっただけだったか。うん知ってた

自分の行為を、ただそれだけで完結させることが出来ず、自慢するか誰かを罵倒するか、いずれにしか使えない人。まあ、一種のパーソナリティ障害だろう(パーソナリティ障害でないにしても、そう言われても仕方がないぐらい、醜い失言をしていると思う)。

そして、「イライラするから、高みから誰かを叩きたいなー」と思ったとき、「二次元キャラの好きなオタク」が、少なくともSNSではターゲットとして格好なのだと思う。実社会では萌えキャラが町おこしとして成功している例が多いので、SNSの中での難癖は、基本的に相手にしなくていいとは思う。
そんなことより、もっと重要な話題がある。

女性の「着ぐるみ」着る男性 性に悩んだ先で得た「社会との接点」

僕のトークイベントにも、着ぐるみを作っている男性が見えたことがあった。
「オタク」とは単にアニメやゲーム、漫画ファンのことを指すのではなく、「自分の性とうまく付き合えない」「男性として、あるいは女性としての自信がない」=「結果的に、実社会で上手に立ち回れない」「重圧ともいえるぐらいのコンプレックスを抱えている」人のことなのかも知れない。

性表現に無頓着なオタクっているんだろうか? 実社会で自分の性や身体に自信がない分、二次元の美少女・美少年に自己投影したり、熱烈な愛情を注いだりするのではないだろうか? オタク・コンテンツが美少女・美少年をセールスポイントにするのには、社会的・心理的な必然があるのだと思う。そのデリケートな部分は、僕は断固として守っていきたい。
これから生まれてくる、社会と上手く付き合えない子供たちのためにも。

(C)1951 AB Svensk Filmindustri

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2020年3月 4日 (水)

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1/700スケールのプラモデルが、いま面白い! ピットロードの提案するミニチュア模型の楽しみ【ホビー業界インサイド第56回】
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『この世界の(さらにいくつもの)片隅に』版大和のプラモデルが、Amazonのレビューで「ついにこういうものを売り出してしまいましたか…。制作委員会監修?軍港があったため、呉は空襲の災禍に見回れたにではなかったのでしょうか。軍都広島は原爆で人類史上まれに見る大虐殺を経験したのでは。所詮、『男たちのYAMATO』よろしく、ノスタルジーだけの感傷だけの映画でしょうか。こういうことだけはしてほしくなかった。」(
……と書かれてしまった、ピットロードさん。だけど僕は、ちゃんと御社製品のクオリティを指先で実感してますので、今回も取材させていただきました。
こんな地味な記事、誰も読まないだろうと思っていたら、2日間もアクセスランキング第一位でした。


最近、レンタルで観た映画は『ひまわり』と『イヴの総て』。
『ひまわり』は大学の友人から勧められ、『イヴの総て』は母の好きだった映画で、両方とも20代のころに観た。
当時は、「なるほど、よく出来たプロットだな」と思った程度だった。いま観ても、『イヴの総て』は、やはりよく出来た演劇でしかなくて、映画としてのアイデンティティは欠けていると思う。

『自転車泥棒』から22年後にデ・シーカの撮った『ひまわり』には、いくつか良いシーンがあった。
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ソフィア・ローレンの演じる主人公は、夫を探してソ連へ行く。夫は戦場で記憶喪失になって、ソ連のどこかで別人として暮らしているのではないか……と、彼女は疑っている。
探し当てた家には、見知らぬ若い女がいる。彼女とは何も言葉を交わしていないが、主人公はベッドに枕がふたつ並べられているのを見て、すべてを悟る。
上のカットで、主人公は何も言わない。ただし、画面外から夫と暮らしているであろう見知らぬ女が、子供をしかっている声が入る。子供は洗面器で手を洗わされているので、水の流れる音が聞こえている。主人公は何も言わないが、画面外の音が彼女の孤独を語っているのだ。
画面外は、生活臭のある喧騒に満ちている。しかし、画面内にたった一人で立ち尽くす主人公は、それらの日常の外に追い出されている。画面内にいる者こそが、画面外の「世界」から疎外されている――黒澤明も、しばしば、このような演出を使っていたような気がする。

カット内に何を入れて、何をカットの外に置くか。情報のよりわけによって、シーンの持つ意味はまるで変わってくる。
フレームに収められている被写体が、常に「選ばれている」とは限らない。「取り残されている」だけかも知れないのだ。


一ヶ月後に南米コロンビアへ旅行の予定なのだが、欧州やオーストラリアではアジア人差別が激化していると聞く。現地に住んでいる人たちのツイートを読むと、今に始まったことではないという。
とは言え、日本国内もトイレットペーパーの買い占め、電車内でのケンカなど、さして民度は変わらない。なぜか僕は「差別をなくそう」とは言えない。差別をしてしまうのが人間だから、風通しのいい社会にできれば、差別など目立たなくなっていくだろう(差別した本人が痛い目を見るだろう)と考えている。
人間が愚かなのに、いきなり差別感情という患部だけをキレイに除去できるほど、甘いものではないはずだ。

たとえば、「ヘイトスピーチとレイシズムを乗り越える国際ネットワーク 」を名乗る「のりこえねっとTV」が、以下のような番組を配信するようだ()。
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確かに、中年男性は若い女性から見たら気持ちが悪いだろう。僕も、頭が禿げているし50代だし、キモくて申し訳ないと思いながら生きている。
あと、中年男性が不審な行動をとったり、無知で無神経なくせに社会で威張っているのは、同性の僕から見ても不愉快だ。
だから、『シリーズ キモいおじさん』という番組を企画する気持ちは分かるし、どんな内容なのか楽しみにしている。配信をやめろとか謝罪しろとか、一切思わない。仁藤夢乃さんの活動すべてに賛成ではないが、著書を読んで、共感するところもある。

……というか、悪いけど真面目に反論する気になれない。僕の敵はこんな低次元にはいないと、いつも思ってしまう。

上のように、人間は誰でも差別する。誰でもが、誰かを加害しうるのだ。白人だから差別しないとか、女性だから差別しないなんてことはない。誰でもが、時と場合によっては加害する側に回る。だから、人間は怖い。だから、その人間の度し難さを前提に、本質的な意味で「誰もが幸せに暮らせる社会」を目指さなくてはならないのだ。
「確かにおじさんはキモいけど、俺だけは例外ですよ」「差別はいけませんよ」などという次元では、本質に触れられない。人間は差別するし誰もが偏見を持っている。その汚れきった自分勝手な我々が共存するには、忌避や嫌悪をこらえて和解の道を探すよりないのだ。


JAなんすんのポスター騒動以降、『ラブライブ!サンシャイン!!』を、Twitterで「児童ポルノ」呼ばわりしている人がいる。
僕が「ネタバレ」という言葉を嫌いな理由が、ちょっと分かった。「児童ポルノ」も「ネタバレ」も、「それが何であるかは具体的に言えないが、とにかく忌避せねばならない」、本質を欠いた代名詞にすぎないからだ。「児童ポルノ」と言われたら、誰もが個人の乏しい経験や想像の中から、「自分にとっての最も醜悪なもの」を漠然と想定して話をするしかない。
その無責任さを、「ネタバレ」という言葉にも感じる。「なぜネタバレを避けねばならないのか、その理由を話したらネタバレになる」消極性、主体性の欠如。そうした虚無的な態度が、社会を、人心を枯れさせる。

(C)1970 - Compagnia Cinematografica Champion (It) - Films Concordia (Fr) - Surf Film Srl - All rights reserverd.

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