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2020年2月 9日 (日)

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アンの生きる現実は、空想を使わないと描写できない――。「赤毛のアン」第12話を見る【懐かしアニメ回顧録第63回】
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アニメーションは、線と色の面で描かれた絵を「現実だと思ってもらう」表現です。その「現実」の中に本物ではない「空想」が混入したとしても、やはり線と色の面で描く以外に方法はありません。『赤毛のアン』第12話は、そのアニメーションの不便さと約束事を逆手にとったエピソードなのです。
空想の中のアンは、現実には持っていない白いドレスを着ていますが、それは空想である証拠とはなりません。なぜなら、『赤毛のアン』ではアンの想像物すら、線と色の面で分け隔てなく描いてきたからです。それを知っている視聴者は、アンの想像の中に現実が織り込まれているであろうと類推して、ドキドキするわけです。原作小説は完全な会話劇なので、アニメとはまた別の種類のサスペンスを、読者は体験することになります。


インフルエンザが回復してすぐ、『お熱いのがお好き』を借りてきたら、すごく面白かった。しかし、この作品は2017年にいちど観ていた()。
売れない音楽家のコンビが、女性だけの楽団にまぎれこむ。寝台列車の中で、女たちを集めた酒盛りが始まる。狭いベッドから、女たちのなまめかしい足がニョッキリと飛び出しているのを、後ろから撮っている。これは酒宴が行われていることの説明ではなく、何か言葉にしづらい、異様な状況だけが引き起こす“美しさ”なのだと思う。
その足だらけのワンカットが入ることで、独特の艶かしさがシーンに加わるのだ。

翌日、同じビリー・ワイルダー監督の『サンセット大通り』を借りてきた。
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この作品はミュージカルとして舞台化されているぐらいだから、映画独特のメカニズムが機能しているのかと言われれば、ちょっと疑問だ。映像を使って「脚本を説明しているだけ」にも見える。
しかし、大通りをちょっと入ったところに隠微な洋館が人知れず建っていて、そこに行く宛てのない主人公が紛れ込む……というシチュエーションに、すっかり魅了された。
その館に住むのが、時に忘れられた元女優、裕福な女主人……これもいい。ゾクゾクする。母方の祖父の家は、ずっしりとした大きな屋敷で、洋間に布団を持ち込んで、祖母と一緒に毛布にくるまりながら『ハエ男の恐怖』などをモノクロテレビで見たものだった。あの時代に、映画的記憶の断片が形成されたように思う。

つまり、僕が生まれた時代、映画はすでに古い表現だった。『サンセット大通り』は1950年の映画だが、1930年代以前のサイレント映画の時代に材をとっている。1950年代、すでにサイレント映画は「過去の遺物」だったのだ。今の人からすれば、70年前の『サンセット大通り』だって時代遅れに感じるかも知れないが、当時の映画界にはトーキーよりも長いサイレント映画の歴史が、悠然と横たわっていたのだ。その歴史の長大さに気づかされるのだから、古典映画は大事に観ないといけない。
10年後の『サイコ』のメイキングを観ると、カラー以前のモノクロ映画の時代、さまざまな技術が開発されていたことが分かる。つまり、トーキーもカラーも、劇映画の仕組みを抜本的に変えたわけではない、ということ。いわんや、IMAXだの4Dだのが、映画を新しくするわけがない。


丸一週間経過したのでインフルエンザは完治したようだが、本日は喉が痛い。症状は緩やかなので、今回は単なる風邪だと分かる。

思えば、一歩も外に出ずに閉じこもって寝るしかなかったインフルエンザの日々すら、自分には内省をもたらしてくれる有意義な時間だった。自分の来し方について、じっくり考えた。大きな怪我も病気もなく、金持ちとは言えないが日々の暮らしに困らないぐらい稼げて、ストレスのたまらない仕事を選んで自己実現できているのだから、自分は恵まれている。
「普通は、フリーランスでそんな順調に暮らしてはいけない」と編集者に言われて、ハッとなった。そう、上手いこと進むように工夫はしてきたのだ。

20代、ただ若いだけで本当に金がない時期だって、妻子のいる友だちが激安の焼きそばを買っておいてくれたり、死ぬような事態にはならなかった。
先日、別の編集者と打ち合わせした後、道を歩いていて、じわじわと幸せを感じた。彼のことを、「いい加減な男なのではないか」と疑っていた自分を恥じた。「他人を信頼できる」、それが何よりの幸せなのかも知れない。

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