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モデルグラフィックス 2020年 04月号 発売中
●組まず語り症候群 第88回
今月の連載では、ピットロードの「1/700 世界の現用戦闘機セット」を取り上げました。
ところで、同社の『この世界の(さらにいくつもの)片隅に』コラボの戦艦大和のプラモデルが、「反戦映画なのに、こんなコラボ商品はけしからん」と怒られているのをTwitterで見かけた。
兵器のプラモデルを組み立てるのは、戦争賛美につながるという短絡ではあるが、その短絡に気づかぬフリをしているのが現在の模型業界でもあると思う。「兵器のプラモデルは戦争賛美だ」に返す説得力ある言葉を、模型業界は持っていない。どっちを向いても、視野狭窄のミリタリーマニアばかりというのも、事実ではないだろうか。
では、大和の建造に関わった人たちも罪人なのか?という問いかけを、『この世界の片隅に』はしていると思う。戦争中に恋愛していた人たちは、そんなにも無残で惨めなのか? そこまで戦時中のことを酷く言えるほど、お前たちには罪がないのか?
そのように責めたうえで、わざと許すような人の悪さが、少なくとも原作からは感じられた。映画では、その部分がフワッと緩くなりすぎたように思う。
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大学のころに授業で観て、ぐっすり眠ってしまった『怒りの葡萄』を借りてきた。
20歳になるかならないかの若造の感性なんて、少しも当てにならないと良く分かった。50歳をすぎた今なら、この映画の磨きぬかれた完成度が、よく分かる。「若いころに観て寝てしまったから、あの映画とは感性が合わない」などと、寝ぼけたことは言っていられない。
主人公がラスト近くで、母親に別れを言う。その内容は小説で読めばいいような観念的な言葉ばかりだ。
しかし、次のカットで、彼は真一文字に画面を横切る壮大な地平線を、ひとりで歩いていく。そのシンプルなカットは、彼の孤独を表現しているのではない。彼に、たくさんの出会いが待っていることを予感させる。彼のセリフが陳腐であればあるほど、続くカットは雄弁になる。
(驚くべきことに、80年前の映画だ。その間、映画は何をしていた?)
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『怒りの葡萄』は、言葉に尽くしがたい。
気に入ったシーンをあげれば、旅の途中でカフェに寄った一家が、パンを安く売ってもらおうとするところ。
カフェの女は「パンは15セントなので、10セントでは売れない」と、ケチなことを言う。だが、主人公の父は「老人に水で湿らせたパンを食べさせなくてはならない」と説明する。店の主人は、10セントでパンを売る。
さて、父親が店から出て行こうとするとき、2人の子供たちがアメを見ている。女は、「アメは1セントよ。2本で」と言う。その次のカットで、店の常連客が、無言で顔を見合わせる。その無言のカットで、女が子供たちのために、アメを安く売っているのだと分かる。
その後、客たちが「アメは一本5セントだろう?」と説明して、女に多めに金を渡してねぎらう芝居が続くが、そこは蛇足なのかも知れない。この優しい、幸福感のあるシーンが持続してくれるなら、少しでも長い方がいいような気もする。
映画はただ見ているだけで、どんどん目の前を流れていってしまう。指の間を、砂がこぼれていくように。それが勿体ない、と思わせる。こうして感想を記さないまま、流砂のように時間が無駄になっていくのが怖い。どんどん記憶が薄れて、言葉が枯れていく。
まるで、滝のように流れ落ちるのが時間というものだ……と実感しなおすために映画という表現形式があるかのような、奇妙な感覚。
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新型コロナウィルスで、なぜかトイレットペーパーが売り切れている。
コンビニの前で、12ロール入れのトイレットペーパーを四個、さらにティッシュペーパーを自転車のカゴに詰め込んでいる女性がいた。
そういう人たちは、今までの人生も、すべて他人の価値観のまま、主体性なく生きてきたのだと思う。
はっきりと形のある自我、心の底から自尊心を構築できている人は、ごくわずかだ。僕もあなたも、子供のころの生育環境、たまたま出会ってしまった大人たちに影響を受けずには育ってこられなかった。その間に、あらゆる種類の偏見を覚えた。「自分は決して間違っていない」などとは、口が裂けても言えない。常に間違っているかも知れない、そう認めることが勇気だ。勇気のある人は、社会には本当に少ない。
もし間違いを認めながら、少しでも正しい道を選ぼうとしている人に出会えたなら、それは財産だ。勇気がないくせに決定権だけ持たされた可哀想な連中に、無理して自分を合わせる必要はない。ほとんどの人間が、濁りきった泥沼に浸かったまま一生を終える。たった一人でもいいじゃないか、創造的な人生を歩め。
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