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2020年1月14日 (火)

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年末年始に『赤毛のアン』を見たのに続き、一週間ほどかけて『母をたずねて三千里』、全52話を見た。
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過去、藤津亮太さんと対談連載をやっている頃、彼が「アメデオ」とか「フィオリーナ」とか当たり前のように比喩に使うので、その度にあわてて本編を見て確認する……という体たらくであった。全話ぶっ通しで見られる視聴環境が整って、感謝するしかない。
高畑勲さんの本を読んだら、この作品については「ネオレアリズモ」と書かれていて、『~三千里』がなければ、テレビアニメはネオレアリズモには1ミリも近づけなかったのではないかと思う。よほど重宝がられたのか、富野由悠季さんが最終回をふくむ多くの絵コンテを担当している。
「しかし」と言うべきか、「だから」と言うべきか、『ガンダム』の前に『~三千里』ありなのだ。この作品の後の高畑作品『赤毛のアン』が、ややファンタジックなデザートのような甘ったるい作風だったことも、とても納得がいく。それぐらい『~三千里』は重たく、強い必然性に支えられ、また冷徹なリアリズムに縛られてもいる。


いくつも、驚かされたシーンがある。
内気なフィオリーナがマルコに励まされ、路地で人形を躍らせると、通りすがりの人たちが喜んでくれる。フィオリーナは「まあ、嬉しい」なんて顔はしない。ただ、驚きのまま呆気にとられた表情で静止する。そのストイックな表現に、胸を打たれた。
一枚絵で静止したフィオリーナの顔。歌に合わせて踊る、命のないはずの人形。「止め」と「動き」。アニメーションという表現の機能が、むき出しになっているように感じた。
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あいるはまた、ブエノスアイレスまで来たマルコが、ペッピーノ一座と再会するシーン。マルコは疲労困憊して、公園のベンチで寝てしまう。その直前、彼は公園にいた子供たちに話しかけるのだが、子供たちは一言も発せず、マルコを怪しんだ様子で立ち去ってしまう。
つまり、マルコにとって世界は無慈悲で、彼は世界との結びつきを失ってしまう。彼が眠る前に見る公園。そのワンショットは、望遠レンズで、公園を平板にとらえている。横に並んだ木々の間を、子供たちが走っている。その向こうには道路があるのだろう、馬車が横切る。それはいわば、美しくもなければ楽しくもない、完全な無関心に封じこめられたショットだ。

僕の知っているアニメ番組は、とりあえず華やかに、楽しく、面白く脚色するものであった。
このショットは、正反対だ。マルコは世界に見放されている。話しかけた子供たちは走り去ってしまった。無味乾燥とした、味気ない絵が必要だ。大袈裟に泣かせる絵なんかではなく、何の感情も誘わないワンショット。それがリアリズムなのだと思う。絵を何枚も重ねて、さらに色を塗っていくアニメーションにとって、「無感情の絵」が、いかに難しい課題であったことか。
(そのショットの直後、ベンチで眠っているマルコの顔の近くに、小鳥がとまる。それは、フィオリーナがマルコの元へ近づいてくる予感のような演出だ。小鳥が幸せを運んでくる――その瞬間、僕の知っているアニメーションが、ポンと画面に戻ってくる)


ちょうど『~三千里』放送と時期が重なる頃なのだが、祖父の弟さんが家に泊まりに来たことがあった。
「君もこっちへ来て、漫画を見なさい」と、おじさんは僕を呼んだ。応接間のテレビには、『ドン・チャック物語』が映されていた。この番組がどれほど幼稚なものか、当時の僕にはよく分かっていた。あれは、恥ずかしい体験だった。とにかく彩度の高い色で塗り、目を大きく描いて、なるべく派手に、大袈裟に……それが、テレビアニメの常識だった。高畑勲さんは、反逆を企てたのだ。
それはテレビアニメ番組のヌーヴェル・ヴァーグであり、ヌーヴェル・ヴァーグの着火点となったネオレアリズモだった。


マルコやフィオリーナ、視聴者が応援したくなるキャラクターは、もちろん可愛らしいキャラクターデザインだ。永井一郎さんの演じる、ときにはマルコの不幸な境遇を利用して金稼ぎしようと企む、しかし憎みきれないペッピーノの親父さんですら「可愛い」デザインだ。視聴者へ「この人は善人なので、応援していいですよ」と目配せしているのだ。脚本レベルで、どれだけ複雑な人物に描かれようと、絵によってキャンセルされる部分がある。
キャラクターデザイン、それに朗々と感情に訴える哀切な音楽が、このアニメの安心材料といえるだろう。だが、自分の境遇をペッピーノ一座の出し物にされたときの、マルコの無表情を忘れることができない。マルコの旅そのものを劇中劇にするアイデア自体、悪趣味と言えるものだ。フィオリーナが「私、もうやりたくない」と拒絶するので、視聴者は自分の感覚の正しさに、ホッと胸をなでおろす。

しかし、不幸をダシにしたり見世物にしたりするほど人間はしたたかでずる賢いと、何十年か生きてきた人間なら気づいてしまう。
物語の終盤、イタリア人だけが集まる食堂で、マルコのためにカンパが集められる。遠くアルゼンチンまで働きに来ている酔っ払いたちは愛国心にかられて、肩を組んで歌いだす。僕は、このシーンで涙を流したが、彼らは文字通り酔っているだけではないか、素面に返った途端、マルコにあげた金が惜しくなるのではないか? 頭の片方で、その可能性を捨てきれないでいた。そのような得体の知れない曖昧さを、この作品は喚起する。何より、そのスケール感に圧倒される。
涙など、つくづく当てにならないものだ。

そう言えば、完璧な無表情で、人間には食べられない豆をパクパクと食べる白い猿、アメデオ。
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僕はアメデオが次に何をするか楽しみで仕方なかったが、あの表情のなさ、冷たい雪の中でもマルコと一緒にいるのに、どこか別世界で生きているような不気味さが、あのマスコット・キャラクターの魅力なのだろう(マルコが腹を空かせていても、アメデオはマルコに豆を分けたりはしない。そんな擬人化された分かりやすいキャラクターではないのだ。アメデオの先読みできない行動だけは、いつでも説得力があって、信用できた)。


最近見た映画は、ゴダール『軽蔑』(二回目)、ジャームッシュ『パーマネントバケーション』、ルイ・マル『恋人たち』。
ワタリウム美術館に、フィリップ・パレーノ展を観にいった。

©NIPPON ANIMATION CO., LTD.

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