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2020年1月 5日 (日)

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キャラクターからメカニックまで――デザイナー・安田朗のこれまでとこれから【アニメ業界ウォッチング第61回】
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劇場版『Gのレコンギスタ』を応援する意味もこめて、以前からお願いしたかった安田朗さんにご登場いただきました。

複数の透過光が引き立てる「勇者エクスカイザー」の変形シークエンス【懐かしアニメ回顧録第62回】
90年代後半、サンライズに見学に行ったとき、ロボットの合体バンクはQAR(クイック・アクション・レコーダー)を使って、特別丁寧に作画されると説明を受けました。しかし、演出的に評価される機会は少ないと思います。


年末年始に観た映画は、『地獄に堕ちた勇者ども』、『ベニスに死す』、『ダイナマイトどんどん』、『ツィゴイネルワイゼン』、『ブルークリスマス』など。
しかし、たまたまYouTubeで『赤毛のアン』第1話を観て、どうしても続きが気になり、dアニメストアで全50話を観終えた。
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高畑勲さんの作品としては、『アルプスの少女ハイジ』『母をたずねて三千里』と比較されてか、今ひとつ評価が高くない気がする。宮崎駿さんがレイアウトから抜けた痛手も、後半にくっきりと影響が出てしまっている。回想シーンを多用して作画の遅れを取りもどそうと焦っているのも、はっきり分かる。アンが大人っぽく成長し、マリラが涙もろくなった終盤は、最初のころの生き生きしたムードではなくなっていく。

逆に、どうして前半に魅力的かというと、空想癖のあるアンの世界観を肯定しながらも、マリラの覚めた目線を忘れずに描き、作品の中に「空想-現実」という拮抗する力が維持されていたからだろう。アンが「ああ、なんて悲劇的なのかしら!」と大袈裟に嘆いた直後、マリラの呆気にとられた驚き顔が「止め・無音」でインサートされる。そのタイミングが、くやしいぐらい面白い。
高畑さんの『映画を作りながら考えたこと』を引っ張り出して『アン』について語ったインタビューを読むと、原作を「ユーモア小説」と評していて、なるほど確かに笑える。マリラがアンの大袈裟な言動に慣れてくると、「そんなわけがないだろう」「またバカなことを言ってないで」とリアクションが手馴れたものに変化していき、そこも抜群に面白い。アンの空想とマリラの現実、どちらも対等に扱う姿勢がいい。双方の立場にたって、大真面目に描いている。羽佐間道夫さんの、いっさい感情をこめないナレーションが、作品の姿勢を体現している。


一方で、マリラがお気に入りのブローチをなくしてしまい、アンに盗みの疑いがかけられる第11~12話のサスペンスフルな展開も見事だった。
なぜなら、「空想癖のある少女を肯定的に描く(決して否定はしない)」という作品の基本姿勢を、視聴者が疑いはじめるからだ。マリラはアンがブローチを盗んだものと決めつけて、珍しく長めのモノローグが入る。いつもはアンが喋りつづけるはずなのだが、このエピソードでは逆転している。
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また、アンは自分の空想をマリラとの交渉の武器に転用する。アニメでは、彼女の非現実的な空想を本物のように1クールかけて描いてきたわけで、このエピソードでもアンの空想は本物として、セル画で描写されねばならない。視聴者も、そのいつもの段取りにコロリとやられる。セルに描かれたものはお皿であれ妖精であれ、それが空想なのか現実なのか視聴者には区別しようがない。自分の常識に照らして、「妖精が実在する世界ではないから、これは空想なのだ」と分別するしかない。このエピソードは、視聴者の常識を利用するというか、つけこむのだ。小説なら台詞だけだから、こういうミスリードは生じえない。
(いま気がついたが、現実と空想が等価に描写され、痛々しいほど拮抗する第12話は、富野由悠季さんの絵コンテであった。)

確認のため、第11話と第12話を見直してみたが、マリラ役の北原文枝さんの見事な芝居を聞くにつけ、テレビアニメは声優のものだと思う。キャラクターの印象は、半分は声優が決めている。
『アン』は綱渡りのようなスケジューリングのため、アフレコでは、演技の最初と最後をデルマで印しただけのリールが使われたという。そのような過酷な環境下で、生き生きとキャラクター像をつくりあげる。誉められたことではないのかも知れないが、それも一種の文化なのだと思う。

(c) NIPPON ANIMATION CO.,LTD.Presented by Janime.com

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