« 2019年12月 | トップページ | 2020年2月 »

2020年1月27日 (月)

■0126■

「エクスカイザー」から「ダ・ガーン」まで……谷田部勝義監督が、30年前の「勇者シリーズ」の始まりを振り返る【アニメ業界ウォッチング第62回】
Photo_20200126232401
サンライズさんからいただいた、完全独占インタビューです。監督は、このインタビューのために、足をお運びくださいました。僕も、十分に下調べが出来ました。外部の宣伝会社が何社も合同で取材させるパターンが増えましたが、それでは品質の高い仕事は出来ません。

月刊モデルグラフィックス 2020年3月号
●組まず語り症候群 第87夜
●模型で読み解く『この世界の(さらにいくつもの)片隅に』延長版3
『この世界~』応援企画は、今回で短期連載終了です。最後は、フィギュア造形家、ペーパークラフトの作家さんたちにご協力いただきました。


アンジェイ・ワイダ監督の遺作、『残像』をレンタルで。
Photo_20200127000002
片手・片足を失った知られざる画家、ヴワディスワフ・ストゥシェミンスキ教授の晩年を描いた映画。
冒頭、草原で若者たちが絵を描いている。画面右側に二人の若者がカンバスを立てて談笑しており、画面真ん中、奥からひとりの女性が歩いてくる。その女性の歩みだけが、「縦の構図」を描いている。このカットには静止と運動がある。ドラマを感じさせる。その女性は、やがて教授の弟子となる。

あるいは、教授が部屋で絵を描いていると、カンバスが真っ赤に染まる。つづいて、窓も赤く染まる。そういう演出なのだろうと思っていると、実は建物の外に赤く大きなレーニンの旗がかけられていると分かる。絶えず、フレームの中の情報が洗練された形で示されるので、緊張感が途切れない。
(劇中、教授がゴッホの『糸杉のある麦畑』をスライドに映しながら、画面が四分割されていると学生たちに説明する。ゴッホの絵を分析すれば、我々が視点を移動させながら風景を見ていることが分かるのだという。この講義だけでも、傾聴に値する。もし、こんな意識でアンジェイ・ワイダが構図を決めているとしたら、ますます襟を正してこの映画を見る必要があるだろう。)


学生たちが、教授の部屋に集まってくる。教授は、「芸術も恋愛も、自分の力で勝負するしかない」といった話をする。
すると、冒頭の女学生の顔がアップになる。彼女は何か言いたそうだ。再び、教授の顔へとカメラは戻る。学生たちは談笑しながら、部屋を出て行く。女学生だけが教授のそばに来て、やはり何か言いたげに、しかし「失礼します」とだけ言って出て行く。カメラは、彼女の動きに合わせてPANする。それは、教授の主観カットなのだ。
教授に恋愛感情をもつ女学生だけを動かし、彼女だけをカメラが追う。それだけで、何の台詞もなくても、ドラマが生じる。もちろん、前後にピタリと静止した、落ち着いたロングの絵が必要だ。構図、被写体の動き、カメラの動きのみで、冷静に感情を描き出していく。それが、映画の機能だ。

確かに俳優の表情も素晴らしいのだが、それは演劇に属する部分で、映画の原理とは遠いところにある。台詞も同様。ロッセリーニの『戦火のかなた』もDVDを買って観たのだが、あまりの台詞の多さに唖然とさせられた。

唯一、黒人のMPがイタリアの貧民窟の惨状に言葉を失い、ジープで走り去るシーンが良かった。
Photo_20200127015001
だが、彼が無言で立ち去る直前には、泥棒の容疑をかけられた少年が「パパもママも爆弾で死んだよ。ドカン、ドカン」と擬音を発する饒舌さが欠かせない。


先週月曜日は、Bunkamura ザ・ミュージアムの「永遠のソール・ライター」展へ。平面(写真)を平面(壁)に並べただけの展示。壁の三面に、時間差でランダムに写真が映される展示のみ良かった。今はスマホという平面が主流の時代なのだから、お金をとる美術館は平面に頼っている場合ではないと思う。
私のトークイベントは、ついに明日火曜日、28日開催()。

(C)2016 Akson Studio Sp. z o.o, Telewizja Polska S.A, EC 1 - Lodz Miasto Kultury, Narodowy Instytut Audiowizualny, Festiwal Filmowy Camerimage- Fundacja Tumult All Rights Reserved.
(C)1946 - MGM

| | コメント (0)

2020年1月19日 (日)

■0119■

1月28日(火)「対人恐怖症歴30年の独身中年男は、海外旅行でどんな目にあった?」(
Dscn3172_2234950x713
28日夜、「高円寺pundit'」にて開催です。
予約受け付け中なので、ぜひ多くの方に「対人恐怖症で電車に乗るにも難儀するオジサンが、海外旅行に行って大丈夫なのか?」、貴重な話を聞きにきていただきたい。リア充の貧乏旅行自慢とは違う、独特の感覚と距離感、これは他では絶対に聞けません。


『母をたずねて三千里』のショックから、少し最近のアニメも観てみよう、という気になった。
スタジオポノックの『小さな英雄-カニとタマゴと透明人間- 』、これはレンタル店でDVDを借りてきた。冒頭の「ポノック! ポノック!」と連呼する主題歌からして、作品に一貫したコンセプトがないのを誤魔化すため、ブランド名だけで盛り上げようという無理を感じて、とても苦しかった。
Dscn3172_2234950x713_20200119095101
百瀬義行監督の『サムライエッグ』からは、日常的リアリズムが感じられた。
ただ、全般的にコンセプトが固まる前に「今はコレが流行りなんですよ!」あるいは「流行りなんて関係なく、コレが描きたいんですよ!」と、内輪で盛り上がり、出資者も「元ジブリのスタッフなら、おそらく間違いないのでは……」と黙ってしまったのではないだろうか。そうやって「自分を騙す」ことが、仕事ではいちばん怖い。


次に、ウェブ配信で『メイドインアビス』TV版と『ドロヘドロ』第1話。
MAPPA制作の『ドロヘドロ』は、まず声優二人の掛け合いがいい。アバンの会話が、まずOKだった。体重を感じさせるアクションも、堂に入っている。そこから始まるOPは、武闘派のヒロインが中華料理を作りながらハイになっていくアシッド系の映像で、センス抜群。林祐一郎監督の名前は、ちょっと覚えておきたい。
Dscn3172_2234950x713_20200119101301
萌えボイスではなく腹から声が出ていて、男言葉で話すヒロインが、とにかく魅力的(主人公にビールを投げ渡すとき、ちょっとウインクしたりする。そのダサい芝居も作風にマッチしている)。手描きの、ザリザリした荒っぽい動きが、3DCGキャラの普及しすぎた現在、むしろ新鮮である。(昨夜、第2話を観て、ようやく3DCGだと分かった……部分的に手描きということらしい)


曲者は、『メイドインアビス』。テレビ版は、10話まででやめていた。美術監督さんに取材したぐらいだから、2017年の放送当時は原作漫画も読みながら、そこそこ熱心に見ていたはず。(ということは、三年前から、ちょっずつアニメの取材を減らしていったんだな。)
Dscn3172_2234950x713_20200119103401
今回あらためてテレビ版のラストを観たが、10話から13話は圧巻だった。主人公のリコは、猛獣の毒によって左手が膨れ上がり、目や口から血を流しながら、相棒のレグに腕を切ってくれるよう頼む。二人を助けたナナチは、かつて人間の女の子だったグロテスクな生物と暮らしている。
子供たちが、大人によって人体実験されていた過去が明らかになるが、これはヘンリー・ダーガーだな……と、確信した。
ダーガーは重厚な架空戦記をバックボーンに、同時に子供たちが大人によって無慈悲に惨殺され、全裸で内臓を撒き散らして死ぬ様子を挿絵にしていた。それは明らかにダーガーの性的嗜好の顕現であり、『メイドインアビス』も同じだと思う。ラストに登場するナナチは“ケモナー”であり、主役のリコとレグは“ぷに”とか“ショタ”と呼んで間違いないと思う。

作り手が、オタク的な性嗜好をセールスポイントにして作品を売るのは、別に構わない。80年代のOVAなんて、全部そうだった。
Dscn3172_2234950x713_20200119111101
だけど、ターゲットにされたオタク的な輪の内側に属する人たちが、『メイドインアビス』に普遍性があると思うなら、それは間違いではないだろうか。この作品で起きる悲劇は、『母をたずねて三千里』のように、実社会の仕組みによって、やむなく生み出されてしまうものではなく、異世界の設定によるものでしかない。悲劇のための悲劇、陶酔するための残酷を「そういう世界設定なので」で作れてしまう。
つまり、作り手の嗜好で無限に残酷な描写が出来てしまう。そこは、自覚しておく必要があるだろう。「好き」と「優れている」とは、別のことだと意識しておいた方がいい(「号泣した」を作品の評価軸にすると、好き嫌いだけで生きていくことになる)。

あと、僕は「劇中キャラが歌っている」という設定の主題歌が、どうしても幼稚に感じられる。正確には、「幼児向けアニメのようなフォーマットを、あえてマニア向けにアピールしている」わけだよね。その仕組みにコロッと取り込まれるような、受け手はそんな脆弱でいいんだろうか?と思う。
「こんな可愛い絵なのに、こんな残酷な描写が!」って驚き方は、「Aに見えて実はBでした」という作り手の仕組んだコンセプトを「Aだと思っていたら、実はBなのか!」と、額面どおりに受けとっているに過ぎないのであって、「評価」ではないよね。でも、SNSの世界では、誰でも1秒でも早く答えに到達したい。立ち止まって考えないと、バカになっていく。


最後にオマケ的話題……。
定期的にTwitterに回ってくる主張、「模型業界は子供向けのプラモデルを作れ、でないと業界が滅びる」「俺たちが子どもの頃に熱中したビッグワンガムを再販すべき」、これを初めてリアルタイムで目にした。おそらく同世代であろうツイート主さんは、「クラウドファンディングで資金を集めてはどうか」と他人事のように言っているので、本気でビッグワンガムを復活させようとは考えてないわけで、したがって本気で批判する気はない。
しかし、3D-CADを駆使した現在のスケールモデルの正確さ、低年齢層に向けたバンダイのキャラクターモデルのたゆまない取り組みを、まるっと無視して「昔のほうが良かった!」と主張する僕たち世代は、毎日毎日、感覚を研ぎ澄ませていないと、すでにボケ老人の領域なのだな……と戦慄した。

いや、実は40~50代だから感覚が鈍磨していくわけではなく、ほとんどの人は向上心も目的もなく、若い頃からボーッと生きてるんだろう。調べよう、自分で確かめようという人は、滅多にいない。
何かを面白いと感じるセンスは、磨かないと錆びていく。本当の快楽、本当の幸福は、自ら追い求めないと、その存在すら感知できない。


最近観た映画は、とてもキュートな恋愛映画『パーティで女の子に話しかけるには』、『~三千里』の原点であろう『自転車泥棒』を久々に。どちらも配信で。

(C)2018 STUDIOPONOC
(C)2020 林田球・小学館/ドロヘドロ製作委員会
(C)2017 つくしあきひと・竹書房/メイドインアビス製作委員会

| | コメント (0)

2020年1月14日 (火)

■0114■

年末年始に『赤毛のアン』を見たのに続き、一週間ほどかけて『母をたずねて三千里』、全52話を見た。
Ddmsbcrf646dc5ca51a4d0b9e04a16155a1b282
過去、藤津亮太さんと対談連載をやっている頃、彼が「アメデオ」とか「フィオリーナ」とか当たり前のように比喩に使うので、その度にあわてて本編を見て確認する……という体たらくであった。全話ぶっ通しで見られる視聴環境が整って、感謝するしかない。
高畑勲さんの本を読んだら、この作品については「ネオレアリズモ」と書かれていて、『~三千里』がなければ、テレビアニメはネオレアリズモには1ミリも近づけなかったのではないかと思う。よほど重宝がられたのか、富野由悠季さんが最終回をふくむ多くの絵コンテを担当している。
「しかし」と言うべきか、「だから」と言うべきか、『ガンダム』の前に『~三千里』ありなのだ。この作品の後の高畑作品『赤毛のアン』が、ややファンタジックなデザートのような甘ったるい作風だったことも、とても納得がいく。それぐらい『~三千里』は重たく、強い必然性に支えられ、また冷徹なリアリズムに縛られてもいる。


いくつも、驚かされたシーンがある。
内気なフィオリーナがマルコに励まされ、路地で人形を躍らせると、通りすがりの人たちが喜んでくれる。フィオリーナは「まあ、嬉しい」なんて顔はしない。ただ、驚きのまま呆気にとられた表情で静止する。そのストイックな表現に、胸を打たれた。
一枚絵で静止したフィオリーナの顔。歌に合わせて踊る、命のないはずの人形。「止め」と「動き」。アニメーションという表現の機能が、むき出しになっているように感じた。
2
あいるはまた、ブエノスアイレスまで来たマルコが、ペッピーノ一座と再会するシーン。マルコは疲労困憊して、公園のベンチで寝てしまう。その直前、彼は公園にいた子供たちに話しかけるのだが、子供たちは一言も発せず、マルコを怪しんだ様子で立ち去ってしまう。
つまり、マルコにとって世界は無慈悲で、彼は世界との結びつきを失ってしまう。彼が眠る前に見る公園。そのワンショットは、望遠レンズで、公園を平板にとらえている。横に並んだ木々の間を、子供たちが走っている。その向こうには道路があるのだろう、馬車が横切る。それはいわば、美しくもなければ楽しくもない、完全な無関心に封じこめられたショットだ。

僕の知っているアニメ番組は、とりあえず華やかに、楽しく、面白く脚色するものであった。
このショットは、正反対だ。マルコは世界に見放されている。話しかけた子供たちは走り去ってしまった。無味乾燥とした、味気ない絵が必要だ。大袈裟に泣かせる絵なんかではなく、何の感情も誘わないワンショット。それがリアリズムなのだと思う。絵を何枚も重ねて、さらに色を塗っていくアニメーションにとって、「無感情の絵」が、いかに難しい課題であったことか。
(そのショットの直後、ベンチで眠っているマルコの顔の近くに、小鳥がとまる。それは、フィオリーナがマルコの元へ近づいてくる予感のような演出だ。小鳥が幸せを運んでくる――その瞬間、僕の知っているアニメーションが、ポンと画面に戻ってくる)


ちょうど『~三千里』放送と時期が重なる頃なのだが、祖父の弟さんが家に泊まりに来たことがあった。
「君もこっちへ来て、漫画を見なさい」と、おじさんは僕を呼んだ。応接間のテレビには、『ドン・チャック物語』が映されていた。この番組がどれほど幼稚なものか、当時の僕にはよく分かっていた。あれは、恥ずかしい体験だった。とにかく彩度の高い色で塗り、目を大きく描いて、なるべく派手に、大袈裟に……それが、テレビアニメの常識だった。高畑勲さんは、反逆を企てたのだ。
それはテレビアニメ番組のヌーヴェル・ヴァーグであり、ヌーヴェル・ヴァーグの着火点となったネオレアリズモだった。


マルコやフィオリーナ、視聴者が応援したくなるキャラクターは、もちろん可愛らしいキャラクターデザインだ。永井一郎さんの演じる、ときにはマルコの不幸な境遇を利用して金稼ぎしようと企む、しかし憎みきれないペッピーノの親父さんですら「可愛い」デザインだ。視聴者へ「この人は善人なので、応援していいですよ」と目配せしているのだ。脚本レベルで、どれだけ複雑な人物に描かれようと、絵によってキャンセルされる部分がある。
キャラクターデザイン、それに朗々と感情に訴える哀切な音楽が、このアニメの安心材料といえるだろう。だが、自分の境遇をペッピーノ一座の出し物にされたときの、マルコの無表情を忘れることができない。マルコの旅そのものを劇中劇にするアイデア自体、悪趣味と言えるものだ。フィオリーナが「私、もうやりたくない」と拒絶するので、視聴者は自分の感覚の正しさに、ホッと胸をなでおろす。

しかし、不幸をダシにしたり見世物にしたりするほど人間はしたたかでずる賢いと、何十年か生きてきた人間なら気づいてしまう。
物語の終盤、イタリア人だけが集まる食堂で、マルコのためにカンパが集められる。遠くアルゼンチンまで働きに来ている酔っ払いたちは愛国心にかられて、肩を組んで歌いだす。僕は、このシーンで涙を流したが、彼らは文字通り酔っているだけではないか、素面に返った途端、マルコにあげた金が惜しくなるのではないか? 頭の片方で、その可能性を捨てきれないでいた。そのような得体の知れない曖昧さを、この作品は喚起する。何より、そのスケール感に圧倒される。
涙など、つくづく当てにならないものだ。

そう言えば、完璧な無表情で、人間には食べられない豆をパクパクと食べる白い猿、アメデオ。
2_20200114201901
僕はアメデオが次に何をするか楽しみで仕方なかったが、あの表情のなさ、冷たい雪の中でもマルコと一緒にいるのに、どこか別世界で生きているような不気味さが、あのマスコット・キャラクターの魅力なのだろう(マルコが腹を空かせていても、アメデオはマルコに豆を分けたりはしない。そんな擬人化された分かりやすいキャラクターではないのだ。アメデオの先読みできない行動だけは、いつでも説得力があって、信用できた)。


最近見た映画は、ゴダール『軽蔑』(二回目)、ジャームッシュ『パーマネントバケーション』、ルイ・マル『恋人たち』。
ワタリウム美術館に、フィリップ・パレーノ展を観にいった。

©NIPPON ANIMATION CO., LTD.

| | コメント (0)

2020年1月 5日 (日)

■0105■

キャラクターからメカニックまで――デザイナー・安田朗のこれまでとこれから【アニメ業界ウォッチング第61回】
T640_843189
劇場版『Gのレコンギスタ』を応援する意味もこめて、以前からお願いしたかった安田朗さんにご登場いただきました。

複数の透過光が引き立てる「勇者エクスカイザー」の変形シークエンス【懐かしアニメ回顧録第62回】
90年代後半、サンライズに見学に行ったとき、ロボットの合体バンクはQAR(クイック・アクション・レコーダー)を使って、特別丁寧に作画されると説明を受けました。しかし、演出的に評価される機会は少ないと思います。


年末年始に観た映画は、『地獄に堕ちた勇者ども』、『ベニスに死す』、『ダイナマイトどんどん』、『ツィゴイネルワイゼン』、『ブルークリスマス』など。
しかし、たまたまYouTubeで『赤毛のアン』第1話を観て、どうしても続きが気になり、dアニメストアで全50話を観終えた。
D_z1kbmucaem_wn
高畑勲さんの作品としては、『アルプスの少女ハイジ』『母をたずねて三千里』と比較されてか、今ひとつ評価が高くない気がする。宮崎駿さんがレイアウトから抜けた痛手も、後半にくっきりと影響が出てしまっている。回想シーンを多用して作画の遅れを取りもどそうと焦っているのも、はっきり分かる。アンが大人っぽく成長し、マリラが涙もろくなった終盤は、最初のころの生き生きしたムードではなくなっていく。

逆に、どうして前半に魅力的かというと、空想癖のあるアンの世界観を肯定しながらも、マリラの覚めた目線を忘れずに描き、作品の中に「空想-現実」という拮抗する力が維持されていたからだろう。アンが「ああ、なんて悲劇的なのかしら!」と大袈裟に嘆いた直後、マリラの呆気にとられた驚き顔が「止め・無音」でインサートされる。そのタイミングが、くやしいぐらい面白い。
高畑さんの『映画を作りながら考えたこと』を引っ張り出して『アン』について語ったインタビューを読むと、原作を「ユーモア小説」と評していて、なるほど確かに笑える。マリラがアンの大袈裟な言動に慣れてくると、「そんなわけがないだろう」「またバカなことを言ってないで」とリアクションが手馴れたものに変化していき、そこも抜群に面白い。アンの空想とマリラの現実、どちらも対等に扱う姿勢がいい。双方の立場にたって、大真面目に描いている。羽佐間道夫さんの、いっさい感情をこめないナレーションが、作品の姿勢を体現している。


一方で、マリラがお気に入りのブローチをなくしてしまい、アンに盗みの疑いがかけられる第11~12話のサスペンスフルな展開も見事だった。
なぜなら、「空想癖のある少女を肯定的に描く(決して否定はしない)」という作品の基本姿勢を、視聴者が疑いはじめるからだ。マリラはアンがブローチを盗んだものと決めつけて、珍しく長めのモノローグが入る。いつもはアンが喋りつづけるはずなのだが、このエピソードでは逆転している。
T640_843189_20200105153601
また、アンは自分の空想をマリラとの交渉の武器に転用する。アニメでは、彼女の非現実的な空想を本物のように1クールかけて描いてきたわけで、このエピソードでもアンの空想は本物として、セル画で描写されねばならない。視聴者も、そのいつもの段取りにコロリとやられる。セルに描かれたものはお皿であれ妖精であれ、それが空想なのか現実なのか視聴者には区別しようがない。自分の常識に照らして、「妖精が実在する世界ではないから、これは空想なのだ」と分別するしかない。このエピソードは、視聴者の常識を利用するというか、つけこむのだ。小説なら台詞だけだから、こういうミスリードは生じえない。
(いま気がついたが、現実と空想が等価に描写され、痛々しいほど拮抗する第12話は、富野由悠季さんの絵コンテであった。)

確認のため、第11話と第12話を見直してみたが、マリラ役の北原文枝さんの見事な芝居を聞くにつけ、テレビアニメは声優のものだと思う。キャラクターの印象は、半分は声優が決めている。
『アン』は綱渡りのようなスケジューリングのため、アフレコでは、演技の最初と最後をデルマで印しただけのリールが使われたという。そのような過酷な環境下で、生き生きとキャラクター像をつくりあげる。誉められたことではないのかも知れないが、それも一種の文化なのだと思う。

(c) NIPPON ANIMATION CO.,LTD.Presented by Janime.com

| | コメント (0)

« 2019年12月 | トップページ | 2020年2月 »