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40年近く変わらないデザイン……「装甲騎兵ボトムズ」をプラモデル化しつづけるウェーブの熱意と誠意【ホビー業界インサイド第54回】(■)
高校時代から仕事をもらい、モデルグラフィックス編集部や初期のワンダーフェスティバルに連れて行ってくれたウェーブさんに、取材に行ってきました。キャラクターモデルの取材は、来年も積極的にやります。
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小学校時代、第一作目の『スター・ウォーズ』に熱中していた友人と一緒に、『スター・ウォーズ スカイウォーカーの夜明け』の初日に行ってきた。まあ、彼と観にいく映画は酒の前の余興みたいなものなので、「初日に行く」のは一種のイベントである。
(吉祥寺オデヲンだったのだが、前の席の人の座高が高く、字幕の真ん中あたりがずーっと見えず、英語を頭の中で翻訳しながら観るハメになった。これだから僕は、映画館が好きではない。)
たぶん今後は、『スター・ウォーズ』だからといってお祭騒ぎするムードは、冷めていく気がしている。
『ハン・ソロ/スター・ウォーズ・ストーリー』の興行的失敗がいい兆しで、80年代後半の、旧三部作の完結による「冬の時代」が再来して、本当にしつこいファンだけが、それぞれの思い入れで追いかけているほうが幸せなんじゃないだろうか。僕はEP1~3の新三部作が好きという変わり者で、わけてもEP1公開前夜のフィギュア・ブーム、リバイバル玩具ブームの雰囲気が忘れられない少数派なので、「冬の時代」はけっこう居心地がいいはず。まあ、なんとなく負けそうなヤツ、恵まれてないヤツを応援するのが好きなんだ。
『スカイウォーカーの夜明け』は、死んだはずのキャラクターまで総出演、EP6を焼きなおした予定調和で、無難に、穏当に事を済ませたい人は大好きだろうと思う。創作というのは「ぶっ壊す」ことだと僕は思っているので、まるでお話にならない。右でも左でも、黒でも白でも何でもいいんだろうな。ディズニーランドに貢献できさえすれば。
続三部作自体が、ディズニーランドの題材を求めて墓を掘り返したマーチャンダイジング、企業活動にすぎないので、真面目に論評する気にもなれない。平和が訪れたはずの銀河で、ふたつの勢力が何をめぐって争っているのか、やっぱり最後まで分からなかった。
さて、EP7『フォースの覚醒』公開のとき、僕が危惧したことは、「最初の『スター・ウォーズ』だってご都合主義だったじゃないか、だから新作だってこの程度でいいんだ」と、自分の懐古趣味を正当化する人たちの出現だった。「あのテーマ曲を聴くと、自然と涙が出てくる」って、それは懐メロを聞いて若かったころを思い出しているに過ぎないよね。
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でも、僕は「泣けるかどうか」しか問題にしない人たちをバカにしている以上に、恐ろしく感じている。
「自然と涙が出てくる」主体性なき感想は、映画の価値はさておき、情緒だけを問題にしたポスト・トゥルース的な風潮だから。「難しいことは分からないけれど」式の責任回避、主体性放棄の態度が、僕は何より怖い。
ストーリーを最後まで明かしたところで、ストーリーを効果的に伝えるのは画面効果なのだから、映画の価値が減じるとは思わない。先日、レンタルで岡本喜八監督の『ブルークリスマス』を観たのだが、誰が何でどこでどうしているのかサッパリ分からないのに、面白い映画は山ほどある。物語でなければ、では何が面白いのか? それを解き明かすことが、作品を鑑賞する意義ではないだろうか。
僕も『スカイウォーカーの夜明け』で誰が生き残って、誰が復活して誰が死んだ……などと、わざわざ書く必要は感じない。だけど、ネタバレという概念がストーリーに“しか”映画の価値はないと誤解させ、作り手に「ただひたすら予想を裏切ったり、理屈ぬきで情緒に訴える展開」ばかりを用意させているのではないか? 映画をアミューズメント化させているのではないか? その疑念は去らない。
「ネタバレになるので言えないけど、とにかく泣けた」、これは思考の放棄ではないのだろうか。本当は「ネタ」などどうでもよく、実は考える価値さえなく、「泣けた」事実だけが重要なのではないだろうか。僕は、そういう鈍磨した心理状態が怖い。
なので、これからも古い映画を見つづけて自分の無知を思い知りつつ、発見を繰り返していきたい。新しくて大ヒットしている映画にも価値はあるはずで、そちらもなるべく見ていきたい。
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火曜日は、東京都現代美術館へ。
二枚綴りのチケットを買って、「ダムタイプ」展と「ミナ ペルホネン/皆川明」展。「ダムタイプ」はひとつひとつの作品が大きいせいか、展示数そのものが少なく、やや物足りなかった。「ミナ ペルホネン」はまったく知らないファッション、アパレルの世界の展示だが、素晴らしかった。
たとえば、上の写真のように「これまでの仕事」を並べるとしたら、普通は時系列にする。この展示は違う。時代はバラバラで、造形美だけを基準にしているのだ。あるいは、使わなかった布、書き散らしたアイデアなども展示して、作家が何を捨ててきたのか明らかにする。服を買って着ている人たちの暮らしを映像で、文字で明らかにしていく。すると、服の価値が立体的にあぶり出されてくる。
物事を、作家の仕事を豊かに「伝える」アイデアと構成力、それが見事だった。美術館は自分のペースで回れるので、飽きない。常設展も含めて、3時間も歩いていた。
(C)CAPITAL PICTURES/AMANA IMAGES
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