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2019年12月28日 (土)

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木曜日、たまたまネットで見かけた期間限定の体験型美術館“teamLab Planets TOKYO”()へ行ってみた。
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館内はスマホを持って入って撮影OKだが、肉眼で見たままを撮影不可能だし、平面で見ても何の意味もない。
まず、入場券を買ったら入り口で並ばされ、30~40人ぐらいで鑑賞説明を受ける。荷物類はすべてロッカーに入れて、靴を脱いで靴下も脱いで、裸足になる。ズボンの裾は、膝下まで捲くる。水の中にザブザブ入る展示もあるからだ。
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安心したのは、ツアーのようにグループで歩いて回る形式ではなかった点。説明を受けた後は、順路どおりに歩いていけばいい。気に入ったら、ひとつの展示空間に閉館までいてもいい。あちこちにスタッフが立っているが、彼らに「さあ、次の展示へ」と促されるようなことはない(混雑しすぎないように、入場したい時刻だけはチケットを買うときに決める)。
どの展示(というか部屋)も暗くて、天井も壁も鏡張りだったりするので、出口が分からないような場合はスタッフに聞けばいい。
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水の中を歩いていくと、CGの鯉が泳いでくる。本物のように挙動するが、光の軌跡を引いて泳いだりもする。記録された画像を投影しているわけではないので、鯉の動きは予測できない。
鯉だけでなく、花が咲いている場合もある。しかし、足元で花はみるみる枯れてしまう。もう一度、花を見たいと思う。それが、水の中を歩く動機になる。前も後ろも、最初も終わりもない。この開放感は凄い。
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最後に、先に入った人たちの「わあーっ」という歓声が聞こえてきたのが、上の展示。案の定、まったく見えたままには撮れてないが、あれはあの場所に行かないと決して分からない。プラネタリウムのように天井が半球型になっており、大小さまざまな花が遠くから頭上まで近づいてきたり、咲いたり散ったり、さまざまなストーリーを展開する。
これらの花の動きにも同じパターンはなく、ひまわりが群となって体全体を包む込むような動きをしたり、花びらが視界全面に散ったり、いつまで見ていても飽きない。(ほとんどの人が、床に寝そべって鑑賞していた。普通の美術館や映画館で、そんなことあるだろうか?)

床も鏡面になっているので、地平線のあたりを見ていると、空全体がぐるぐる回るような巨大なトリップ感を味わえる。何が4DXだ、何が没入感だ、この展示を体感してから言えよって気持ちになってしまう。


すっかりリラックスして、曇天の新豊洲の駅前に出た。美術館の前には店もあったのだが、ガスコンロが故障して食べ物は売っていなかったので、コーヒーを頼んだ。駅のまわりの閑散とした風景すら気持ちよく感じた。
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ちょうど買いたいものがあったので、新豊洲からゆりかもめに乗って、ガンダムベース東京へ向かった。
すると例えば、上のような展示物も何が面白くないのか、どうすれば良くなるのか、漠然と考えが向かう。自分の考える楽しさとは何か、どうすれば世の中が少しでも面白くなるか。美術館へ行くのは楽しいが、それはコーヒーと軽食を味わうためでもある。最低でも、その場でコーヒーは口にしたい。
その「いいコーヒーを飲みたい」と思わせる動機は、何なのか。歩いた距離なのか、施設の雰囲気なのか。どうして、どの映画館も窮屈に感じるのか。もっと言うと、どうして通勤電車はあんなに圧迫感があるのか。なぜ、海外旅行はストレスがないのか。環境をエンタメ化すれば、生きづらさも低減されていくのではないか。


帰宅してから、レンタル屋で借りてあったキルギス映画『馬を放つ』。
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東洋とも西洋ともつかないキルギスの風景、民族衣装がいい。
だけど、「この映画は信用できる」と思ったのは、冒頭で馬を盗むシーン。同僚がトイレに入ったとき、外からカギをかけてしまう。カギをかけた男の顔から手前のカギへと、ピントが送られる。とてもシャープだし、なぜカギにピントを合わせたのか物語的な意味もある(映画前半では、誰が馬泥棒かがメインとなるため)。

他には、妻と息子が家を出て行ってしまった後、主人公がひとりで泣くシーン。家族で寝ていた部屋に、馬のおもちゃが置いてある。しかし、息子と遊んでいるシーンでは、そんなおもちゃは出てこない。つまり、家族を失って、主人公が民族の誇りとしてこだわっている馬だけが、「馬の概念」だけが残されたという意味だ。
そうした小道具の使い方が知的で、感心させられる。号泣だけが感動ではない。

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2019年12月25日 (水)

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モデルグラフィックス 2020年 02 月号
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●模型で読み解く『この世界の(さらにいくつもの)片隅に』延長版-2
片渕須直監督インタビューも込みの連載第2回は、ピットロードさんへ取材。難易度の高い1/700大和を、初心者が手にとるかも知れない『この世界の(さらにいくつもの)片隅に』仕様として発売することの意義を聞いてきました。

●組まず語り症候群 第86夜
今回はPLUMさんのプラアクトシリーズから、インジェクション成型のみで再現された「クサリ」を取り上げてみました。


黒澤明の『静かなる決闘』をレンタルDVDで観た翌日、『この世界の(さらにいくつもの)片隅に』を立川で観てきた。
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三年前はゼロ号試写に呼んでいただき、「とても泣けるから自分の目で確かめてみて」的な声が多くて、「えっ、そんなに分かりやすい映画?」と違和感をおぼえたものだった。もっと正確に言うと、「確かに泣けるだろうけど、そんなお涙頂戴の映画を貴方がたは求めていたのか? 単に泣かせるために映画を観てもらうのか?」と、反発に近い気持ちを抱いた。
それ以来、『この世界~』には、ずっと疎外感をかんじていた。この映画の意義、価値は着実に認められ、それが多数の受賞に結びついたのは理解できるし、喜ぶべきこと。
一方で、依存性の高い映画とも思う。すずさんはアイドル性があって可愛くて、全体に笑えるシーンが多くて、「おもしろうてやがて悲しき」式に最後は泣くことだって出来る。「愛らしい映画です、号泣しました」とでも言っておけば、それだけで受容される(うまく言えないけど、この映画には「許す」という機能があると思う)。

あと、片渕監督は博識でサービス精神が豊かだから、取材するのが楽なのよ。僕がやってる連載だって、かなり監督の発言に依存していると思う。考えることを監督に任せすぎて、受け手はどんどん楽になる。それでも『この世界~』さえ取り上げれば、一定数のファンは反応してくれる。一方で「今ひとつ、あの輪に入りづらいなあ」という人は、ますます疎外されていく。監督のご機嫌うかがいのような感想ばかりが、果たして健全な反応と言えるんですかね?
そんな予定調和を求めていたの? 『さらにいくつもの』を観ても、やっぱり「うん、確かに別の映画になってますね!」と合言葉を言わないといけないの? そう言わないと仲間はずれにされるんじゃないの? ある種の窮屈さを感じながら、映画館の席に座った。
 
でね、僕は泣くどころか、大きな溜め息をついていた。映画のトーンが、何とも苦い、気まずいものになっていて、笑ったり泣いたりするより「ぐぬぬぬぬぬぬ……」って感じ。すずさんと周作さんの交わすちょっとした会話に厳しい、ビターなニュアンスが加わってしまって、いたたまれなくて席を立とうかと思ったぐらい。でも、これを求めていたんだな。もう可愛い映画ではないし、手放しで泣ける映画でもない。嫌いな人もいると思う。僕は今回のほうが、断然好き。


映画館で映画を観ることの意味って、別にスクリーンの大きさでも音響の良さを味わうためでもないと思う。映画館では、映画に主導権がある。途中で止められなくて、最後まで凝視するしかない。「もうやめてくれ!」と思っても、止まってくれないんです。
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すずさんが周作とリンの過去を知ってしまって、それはもう原作漫画を読んでれば知ってるはずじゃん。「ああハイハイ、このシーンね」とタカをくくっていると、秘密を知ってしまうシーンが、その後のすべての会話に影響していく。漫画なら、読むペースを変えたり、途中でやめたりも出来る。映画は突進していくんですよ。
特に、すずさんと良い関係だった水原さんが泊まりに来るシーン。前作では何もなかったけど、今作ではすずさんと周作さんが気まずくなっているタイミングで来る。「えっ、ちょっと待って!」「今は来るな!」って感じ。
同時に、どうして周作が自分の妻を男と二人きりにさせたのかも、かなり難しいんだけど、前作よりは納得がいく。理由というかヒントぐらいはつかめる。そういうシーンが、いっぱいある。戦争が終わってすずさんが慟哭するシーンも、これだけいろいろ抱えたままなら、そりゃあ泣くでしょう、といった具合に。……大変な読解力が必要とされるけど。

こういうこと書いて、「ネタバレしてる」って思う? あのね、映画館でぶっ通しで観ないと、絶対にこのニュアンスは分からない。原作を読み返しても、あの苦い、切ない、しかし止まることなく突き進んでいく日常、すずさんの心境がどうであろうが、夫が憎かろうが何だろうが、必ず落とされる原爆、必ず終わる戦争、それでも容赦なく続いていく日常のあれこれの力強さ、残酷さは映画の奔流の中にしかない。


晴美さんが亡くなったり、戦災孤児を連れて帰ったりするんだけど、それらはもう「泣かせ」ではない。リンさんの秘密と等価値に感じられる。
逆に、リンさんと周作の過去を抱えたままだから、すずさんは酷い目にあっても生きていけたのかも知れない。戦災孤児を連れ帰れるほどの力が出たのかも知れない。そして、映画が終わっても何も解決してないんだよ。あいかわらず、夫に対して忸怩たる思いを抱えたままなのだろう。失った右手が戻ってこないように。

今回の映画は、そうなかなか依存を許してくれない厳しさがある。
この割り切れなさに、僕は元気づけられたけどね。この後の人生、何とかなる気がしてきた。

©2018こうの史代・双葉社/「この世界の片隅に」製作委員会

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2019年12月21日 (土)

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40年近く変わらないデザイン……「装甲騎兵ボトムズ」をプラモデル化しつづけるウェーブの熱意と誠意【ホビー業界インサイド第54回】
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高校時代から仕事をもらい、モデルグラフィックス編集部や初期のワンダーフェスティバルに連れて行ってくれたウェーブさんに、取材に行ってきました。キャラクターモデルの取材は、来年も積極的にやります。


小学校時代、第一作目の『スター・ウォーズ』に熱中していた友人と一緒に、『スター・ウォーズ スカイウォーカーの夜明け』の初日に行ってきた。まあ、彼と観にいく映画は酒の前の余興みたいなものなので、「初日に行く」のは一種のイベントである。
(吉祥寺オデヲンだったのだが、前の席の人の座高が高く、字幕の真ん中あたりがずーっと見えず、英語を頭の中で翻訳しながら観るハメになった。これだから僕は、映画館が好きではない。)
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たぶん今後は、『スター・ウォーズ』だからといってお祭騒ぎするムードは、冷めていく気がしている。
『ハン・ソロ/スター・ウォーズ・ストーリー』の興行的失敗がいい兆しで、80年代後半の、旧三部作の完結による「冬の時代」が再来して、本当にしつこいファンだけが、それぞれの思い入れで追いかけているほうが幸せなんじゃないだろうか。僕はEP1~3の新三部作が好きという変わり者で、わけてもEP1公開前夜のフィギュア・ブーム、リバイバル玩具ブームの雰囲気が忘れられない少数派なので、「冬の時代」はけっこう居心地がいいはず。まあ、なんとなく負けそうなヤツ、恵まれてないヤツを応援するのが好きなんだ。

『スカイウォーカーの夜明け』は、死んだはずのキャラクターまで総出演、EP6を焼きなおした予定調和で、無難に、穏当に事を済ませたい人は大好きだろうと思う。創作というのは「ぶっ壊す」ことだと僕は思っているので、まるでお話にならない。右でも左でも、黒でも白でも何でもいいんだろうな。ディズニーランドに貢献できさえすれば。
続三部作自体が、ディズニーランドの題材を求めて墓を掘り返したマーチャンダイジング、企業活動にすぎないので、真面目に論評する気にもなれない。平和が訪れたはずの銀河で、ふたつの勢力が何をめぐって争っているのか、やっぱり最後まで分からなかった。
さて、EP7『フォースの覚醒』公開のとき、僕が危惧したことは、「最初の『スター・ウォーズ』だってご都合主義だったじゃないか、だから新作だってこの程度でいいんだ」と、自分の懐古趣味を正当化する人たちの出現だった。「あのテーマ曲を聴くと、自然と涙が出てくる」って、それは懐メロを聞いて若かったころを思い出しているに過ぎないよね。


でも、僕は「泣けるかどうか」しか問題にしない人たちをバカにしている以上に、恐ろしく感じている。
「自然と涙が出てくる」主体性なき感想は、映画の価値はさておき、情緒だけを問題にしたポスト・トゥルース的な風潮だから。「難しいことは分からないけれど」式の責任回避、主体性放棄の態度が、僕は何より怖い。
ストーリーを最後まで明かしたところで、ストーリーを効果的に伝えるのは画面効果なのだから、映画の価値が減じるとは思わない。先日、レンタルで岡本喜八監督の『ブルークリスマス』を観たのだが、誰が何でどこでどうしているのかサッパリ分からないのに、面白い映画は山ほどある。物語でなければ、では何が面白いのか? それを解き明かすことが、作品を鑑賞する意義ではないだろうか。

僕も『スカイウォーカーの夜明け』で誰が生き残って、誰が復活して誰が死んだ……などと、わざわざ書く必要は感じない。だけど、ネタバレという概念がストーリーに“しか”映画の価値はないと誤解させ、作り手に「ただひたすら予想を裏切ったり、理屈ぬきで情緒に訴える展開」ばかりを用意させているのではないか? 映画をアミューズメント化させているのではないか? その疑念は去らない。
「ネタバレになるので言えないけど、とにかく泣けた」、これは思考の放棄ではないのだろうか。本当は「ネタ」などどうでもよく、実は考える価値さえなく、「泣けた」事実だけが重要なのではないだろうか。僕は、そういう鈍磨した心理状態が怖い。
なので、これからも古い映画を見つづけて自分の無知を思い知りつつ、発見を繰り返していきたい。新しくて大ヒットしている映画にも価値はあるはずで、そちらもなるべく見ていきたい。


火曜日は、東京都現代美術館へ。
二枚綴りのチケットを買って、「ダムタイプ」展と「ミナ ペルホネン/皆川明」展。「ダムタイプ」はひとつひとつの作品が大きいせいか、展示数そのものが少なく、やや物足りなかった。「ミナ ペルホネン」はまったく知らないファッション、アパレルの世界の展示だが、素晴らしかった。
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たとえば、上の写真のように「これまでの仕事」を並べるとしたら、普通は時系列にする。この展示は違う。時代はバラバラで、造形美だけを基準にしているのだ。あるいは、使わなかった布、書き散らしたアイデアなども展示して、作家が何を捨ててきたのか明らかにする。服を買って着ている人たちの暮らしを映像で、文字で明らかにしていく。すると、服の価値が立体的にあぶり出されてくる。
物事を、作家の仕事を豊かに「伝える」アイデアと構成力、それが見事だった。美術館は自分のペースで回れるので、飽きない。常設展も含めて、3時間も歩いていた。

(C)CAPITAL PICTURES/AMANA IMAGES

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2019年12月16日 (月)

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EX大衆 2020年1月号 発売中
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特集記事「ポケットモンスターが教えてくれたこと」の中で、同人誌研究家の三崎尚人さんに取材、1998年に同人作家が刑事告訴された「ポケモン同人誌事件」を振り返っています。


三鷹市役所納税課から、「オール東京滞納STOP」というキャンペーン(?)の刷られた督促状が送られてきた。「差押えやタイヤロック、捜索等の滞納処分など、多様な徴収対策に取り組んでいます」と結ばれており、いつもにも増して脅迫めいている。脅して払わせるのではなく、税金に対する理解を促して、納得して払ってもらうべきではないのか?
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というか、確かに僕は遅れ気味ではあるが、今月最初に6万円も、都市民税を払ったばかり。これから大きな収入があるから、また払おうという気持ちでいた。脅される謂れはない。
そこで、土曜日でも窓口を開いているというので、30分ほど歩いて市役所まで行ってきた。すると、これ見よがしに設置されたタイヤロックが目に飛び込んできた。これを目にするのが不愉快きわまるので、ずっと市役所には行かず、駅前の市政窓口で払っているんだ。撤去してほしい、とメールでお願いしたことさえある。
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その時の会話はすべて録音して、こちらにアップしてある()。「権力を振りかざしてるじゃないですか?」という僕の問いに、三鷹市職員さんは「まあ、そうですね」と答えてしまっている。
NHKもまったく同様なのだが、「丁寧に話して聞かせて、納得してもらって払ってもらう」努力を放棄させるのが、こうした嫌悪や恐怖を引き起こす力づくの示威行為だ。僕が納税は世のため、人々との助け合いのためだと思っていても、市役所側が「滞納は許しません!」「財産を没収します!」と、最初からケンカ腰では僕の誠意も消し飛ぶ。リンクした動画を見てほしいが、僕が払ったばかりの6万円を女性の職員は「期限内に払ったわけではないから、払ってないですよね」と言い換えている。期限内でないと、いくら払っても納税したことにならないんですと。

もうね、話し合いになるわけないでしょ? 相手は権力と組織にガードされてるから、何とでも言えるわけ。動画の最後、僕は「……恥ずかしい」と言い残しているけど、彼らの脅迫行為が情けなくて、泣いてましたからね。
だって、すべての仕事は他人のため、世の中を良くするためにあるんじゃないの? 市役所は、納税者を脅すことが快感になってしまってないか? だとしたら、俺はあなた方の余興につきあって、せっかく稼いだ金を払いたくない。納得のうえで気持ちよく納税したいのに、ことごとく気分を害しているのは、市役所側じゃないか。喜んで払えるように工夫すればいいのに、バカだよね。企画力がない。


まあ、「廣田のこういうところが嫌いなんだよ」って人も多いだろう。「決まりは決まり」「ひとりだけ例外は許されない」など、小学校の頃から刷り込まれた価値観に、50代にもなればガチガチに脳が硬化させられていく。「自由には責任がともなう」って分かった風な賢しらな言い方があるけど、それ自体が自由を放棄した、身をもって自由を体験したことのない組織人間の悲しい言い訳なんだよ。

僕は自分で企画を考えて、自分で取材して構成を考えて記事を書いて、読者さんに少しだけ暇つぶしを楽しんでいただく。ちょっとだけ楽しい思いをしてもらう。その対価として、お金をもらえているわけだよね。
お金がほしいがためだけに、面白くもないものを「面白いですよ」と宣伝したりはしないわけ。そうしなくていいように、ウソをつかなくても仕事が出来るよう、努力というか工夫して注意してきたよね。他人を脅して、困らせてカネを得ているヤツには分からないだろ? この澄み渡った空気。濁りのない自由。
ちょっとでも、わずかでも世の中が過ごしやすくなるように、誰もがイヤな思いから逃れられるように……そう思って仕事してますからね。理想をもって。
理想がない人は他人を説得できないから、脅迫するしかなくなるんじゃないだろうか。別に役人でなくても、ちょっとした人間関係で優位に立ちたい人って、脅すような威圧的な会話を好む。豊かな理想のないニヒリストは、どんどん冷酷になり孤独の中に篭城していく。


最初から税金を天引きされている方は不愉快だろうけど、僕のように収入に波がある人間は、「税金は払えるときに払う」しかない。「払わない」わけではない。
まずお金を得たら、生活に困るところから埋めていくわけですよ。家賃とか光熱費とか。で、今月は数万多く稼げだぞとなったら、やっぱり映画に行こう!とか、美術館に行くとか本やプラモデルを買うとか、美味い食べ物だとか、まずは幸せになること、心が豊かになることを考えますよね。それを我慢しろ、ひとりだけ贅沢すんなって空気が、本当に日本には充満している。3千円のパンケーキを食うなとかさ。

動画の中でも少し話しているように、僕は貯金が少ない時、税金を払わないでいたら口座を凍結されてしまったことがある。
次に何が起きると思う? 強制的に生活保護を受けさせられる。ちょっと待ってくれ、今月だって少しだけど原稿料が入ってくるし、再来月には数十万入ってくると説明しても、無理やりボロいアパートに引っ越しさせられた。つまり、収入に波があるがゆえに貯金をコントロールして切り抜けていくのがフリーランスなのに、市役所は「定収入がなきゃ駄目!」「清掃員か警備員に転職しろ!」って均してしまう。
人間は幸せになるために生きているのであって、税金はその助けになるべきではないのか? やってることが逆なんだよ。まるで文化的ではない。「納税者」という名前の家畜を飼ってるみたい。


昨夜は、クリント・イーストウッド監督の『恐怖のメロディ』を観て、眠気が吹き飛ぶほど面白かったのだが、また今度。110円でレンタルしてきた映画で、こんなにも充実した時間をすごせるのか。
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お金のない若者に言いたい。少しでも余裕ができたら、映画を観よう。本を読もう。少しでもいい、文化的なことに時間とお金を使おう。あなたは納税する機械じゃない。生まれながらに、自由の翼だ。

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2019年12月12日 (木)

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「マイマイ新子と千年の魔法」は、積み重なった世界を“鏡”で指し示す【懐かしアニメ回顧録第61回】
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10周年記念上映で観て、気になった「鏡」について書きました。
10年も経ったことだし、「初興行時には不入りで、熱心なファンが活動したおかげで……」といった枕詞は、今後は不要と思います。10周年記念でアートブックを作ることになったときも、「当時どういうことが起きたのか記録しておきたい」という案に、僕は賛成しませんでした。他の映画と同様、純粋に作品の価値だけで生き残っていってほしいからです。


最近レンタルして観た映画は、ロバート・レッドフォード監督『ミラグロ/奇跡の地』、フランシス・コッポラ監督『タッカー』、そして市川崑監督『現金と美女と三悪人』。
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『現金と美女と~』、これが圧倒的に凄い。タランティーノの原型みたいな感じ。
このバージョンは短縮版で、原題は『熱泥地』だそうだけど、ラストに地獄のような泥火山が出てくる。もちろん、本物ではなくて特撮。その特撮の泥火山が、ひとつの見せ場になっている。主人公の男とヒロインを追ってきた男が、馬からふり落とされて、泥火山に転落する。『ターミネーター2』みたいに、片手を伸ばしたまま沈んでいく。特撮としては稚拙な部類なのだが、表現としては破天荒で力強い。

つくづく、「泣ける映画」=「優れた映画」という考え方が、いかに狭量で偏向しているか思い知らされる。泣ける要素などひとつもなくて、ショボい銃撃戦や殺し合いばかりだし、ヒロインは変にエロいしドラマはないし、ミニチュアからマットペイントから、ヘンテコな特撮シーンが満載。だけど、その天衣無縫のムチャクチャさが“熱い”んだ。
冒頭が客船の中で(セットと特撮のみ)、途中から山の中に舞台が移るんだけど、狼が遠吠えしてるカットがある。明らかに、普通の犬なんだよね。笑ってしまうけど、だけど「これは狼なんだよ、本物なんだよ!」と映画が訴えているかのようで、かえって感動する。


カット割りも出鱈目で、ラストで主人公たちを追ってきた男が馬に乗っているわけ。馬の走る足と、乗っている男の顔がカットバックするんだけど、ぜんぜん繋がってない。俳優が馬に乗っておらず、スタジオでそれっぽい演技をしているのがモロバレ。だけど、そのほうが「意図」は強烈に伝わってくる。
黒澤明なら、何としてでも俳優を馬に乗せるじゃん? あとクリストファー・ノーランだとか、やたら現物主義だよね。本物の戦闘機を飛ばすと、映画の格が上がる、みたいな即物的な価値観。

だけど、そればかりが映画じゃないんだよ。低予算ゆえの事情が露呈しているからこそ、さっきまでセットだったのにカットが変わるとロケになったりするからこそ、現場の、生身の熱気が伝わってくる。きっと、企画の段階でも撮影現場でも、思うようにいかなかったんだろう。
思うようにいかなかった映画には価値がないの? 監督のイメージを完璧に再現するのが映画なの? 「完成度の高い」映画ばかり観ていると、歳とるのが早くなるよ。


友人とDMでやりとりしていて、たまたま、シュナムルさんの話になった。
彼は、自分から『魔方陣グルグル』の幼女キャラがアカウント名の由来だと告白しておきながら()、「主食はナムル」とか「朱奈」とか、由来を曖昧にして二次ロリコン疑惑から逃れようとしているよね。でも、彼が描く小学生の娘のイラスト()って、このキャラに似てない? 写真は一枚もなくて、奥さんも娘もイラストばかり。
しかも、奥さんは学者で料理が上手くて、娘は小学生で本を読むのが好きなんでしょ? 彼の知性に対する憧れが、イラストに仮託されているように思う。奥さんや娘にこうあってほしいのに、実際は奥さんはお笑い番組見てゲラゲラ笑っているし、娘はハナクソほじってる……って話ならリアルだし、そういう作り話が出来るなら、器がでかいと思う。だけど、理想を理想のまま絵にしてしまっている未熟さが、(嫌味でもなんでもなく)シュナムルさんの魅力だと思うし、そういう意味ではファンなのかも知れない。

Twitterでアベ政権や性表現、何かしらに対する不満を温存しながら悪態をついている人は、実生活に大きな欠損を抱えている。実際にアベ政権がなくなったり、萌えポスターがなくなったら、彼らは次のターゲットを探して、自分の抱えた欠損から目をそらしつづけると思う。「世界に対して恥だ」とか「日本は遅れている」とか、曖昧とした正論らしきものにしがみつきながら。
それでいいんだよ、それが人間だもの。彼らのことは、僕は本気で憎いとは思えない。

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2019年12月 4日 (水)

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昨日は雨が小降りだったので、国立近代美術館の「窓展:窓をめぐるアートと建築の旅」()へ。
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(スマホを忘れていったので、画像は公式HPより)
ご覧のように、前庭にコンセプトモデルを移設してまで、象徴としての「窓」、概念としての「窓」、モチーフとしての「窓」、物理的存在としての「窓」、古今東西から自由自在に作品を引っ張ってきて、展示方法も多様。「窓」以外の共通項がまったく無い奔放さが良かった。

途中、「西京国」という、架空の国へ行くための税関もあり、そこでは歌をうたうなり踊るなりしなくてはいけない。
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まあ、ちょっと学芸員の自己満足っぽいんだけど、他の展示もかなり好き放題なので、それほど気にはならない。……気にはならなかったのだが、一日たって考えてみると、作品の発想は浅知恵かな。歌とか踊りが平和の象徴とは限らない。

展示物のキャプションに、学芸員の個性や自説が出すぎてしまっている。こんな好き勝手な解釈を書くんなら記名でやるべきじゃないかと思うんだが、それも美術館の個性なのかな。学芸員の意図が見えないほうが、カッコいいとは思う。


映画でもそうなんだけど、「作品を見る」こととは、時間を止めて、自分を幽霊のように透明な認識装置にしたい願望と、表裏一体なのだろう。少なくとも、僕は作品を見ている間だけは肉体を捨てていられる。理想どおりではないこの肉体を、邪魔とも感じている。

映画といえば、黒澤明の『素晴らしき日曜日』。これも大学の授業で観たはずなのだが、すっかり忘れていた。
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ひとつだけ素晴らしいカットがあった。
沼崎勲と中北千枝子のカップルが、ささやかな楽しみを求めてさまよう。電車に乗って移動するシーンで、カメラは並んで座る沼崎と中北をティルト・アップで、足元から撮る。楽しくてソワソワしている中北が、足をパタパタと動かしている。そのまま楽しそうな二人の全身を下から撮って、カメラは二人の頭上へ。すると、そこではつり革が並んで、ゆらゆら揺れていた。
そのつり革の動きは、言うまでもなく二人の急くような期待、喜びを表現している。そのカットが見られたのだから、まあ良いじゃないかと思う。


1月28日(火)「対人恐怖症歴30年の独身中年男は、海外旅行でどんな目にあった?」
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こんなトークイベント、開催します。旅好きな方は、どうぞ。
写真をまじえた旅行記……ということになるんだろうけど、僕の場合、対人恐怖(というかパニック発作に近い)が海外旅行している間はほぼ治ってしまう……という点が売りで、おそらく「生き方」の話になるんだろう。 

でも、この「生き方」をテーマにする、言語化するってのが面倒を呼ぶのかも知れないな。
なんだか、僕の周りには上手く生きられてない人たちが、集まってきやすい気がしている。ネットでの僕の言動に意義をとなえてくる人は、勝手に僕を美化したり、いい加減な感情移入をしていると思う。俺は、俺のために生きている。誰かの期待にこたえるためじゃない。
この半年の間に、二人ぐらいの見知らぬ人に「あなたはあなたの人生を生きてください」とお願いせざるを得なかった。俺のことなんか気にせず生きてほしい。

僕は毎日、好きな時間に起きて、ほとんど一人で誰とも話さずに過ごしている。その贅沢な時間は、自分で手に入れた。友だちとワイワイやるだけが人生の成功じゃないよ。

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