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2019年11月 5日 (火)

■1105■

レンタルで、フランス映画『真夜中のピアニスト』。
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不動産ブローカーの青年が、荒れた生活の合い間合い間に、ピアノのレッスンに通う。
普段の乱れた暴力的な生活は、手持ちカメラで撮られている。終始、青年の周囲2メートルぐらいにカメラが近接しているので、画面内の情報が少なく、すさまじいストレスを感じる。ところが、中国人女性の家にレッスンに通うシーンだけは、上のスチールのように安定した構図で、カメラも固定だ。
2種類のカメラワークが、青年の心理状態にシンクロしている。こう書くと単純なようだけど、僕はそのコンセプトだけで映画になっている、映画として成立していると感心する。青年がなぜピアニストを目指しているのか、正直よく分からない。だが、そうした脚本上の些事はどうでもいい。


中国人教師の家は、つねに窓から陽の光がそそぎこみ、柔らかい絵づくりだ。
レッスンの後、お茶を飲むシーンが二箇所ある。ひとつめは、フランス語の話せない女教師に、青年が物の名前を教える。最後に「これは、マッチだ」と、マッチを示して、煙草に火をつける。ところが、その部屋は禁煙だと前のシーンで女教師は注意したはず。なので、青年はマッチをすった後、怒られたであろう。
ようするに、マッチをすったところでシーンがバツンと切れている。何か言い切る前に次のシーンへ行く。
ふたつめのシーンで、青年と女教師は無言でお茶を飲んでいる。青年は満足そうな笑みを浮かべている。それだけで、2人の関係がどれほど良好なのか分かる。なぜなら、青年は他のシーンでは何かしら怒鳴ったり、イライラしているからだ。そういう映画だから、無言のシーンが引き立つわけだ。

やはり、構造によってしか、映画は感情を喚起しえない。少なくとも、ワンカットなりワンシーンなりが単独で突出した表現力を持つことはあり得ず、他の要素との関係によって、初めてテーマなりメッセージなりが立ち上がってくるのだと思う。
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映画の後半、青年はいつものように、マンションから不法滞在している住民を叩き出す仕事に出かける。住民たちは、中国人教師と同じように、白人ではない。青年は彼らに手を出さず、黙って仲間たちの暴力的な振る舞いを凝視している。カメラはじっくりと、無言の青年の顔を撮っている。冒頭シーンでは、不法滞在している住民たちに対して、青年も暴力を振るっていた。しかし、中国人教師と懇意になった後は、暴力を振るわずジッとしている。
前後の比較によって、青年の心境が変化したであろうこと、また人種間の軋轢といったテーマが、うっすらと浮かび上がってくる。いきなり青年の顔をアップにしても無意味で、ふたつのシーンの比較の中でこそ、表情が意味を帯びてくるのだ。


もうひとつ、言葉も重要な要素だ。
中国人の女教師は中国語とベトナム語しかできない。青年は「言葉も通じないのか?」と、声をあらげる。しかし、彼がレッスンを投げ出そうとした時、女教師は自国語で彼を強く叱責する。字幕では一言も翻訳されないし、青年に言葉の意味が分かるわけでもない。しかし、彼は黙ってレッスンに戻る。
一方、青年は自分の父親を騙した金持ちの男に、脅しの電話をかける。その男は外国人なので、フランス語は話せない。「お前、言葉も話せないのか?」と、青年は相手をフランス語で罵倒する。
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これもやはり比較であって、言葉が通じないから感情が伝わることもあれば、通じないから憎しみが増すこともある。そして、中国人教師とマフィアのような外国人、この2人はラストシーンで同じ場所に現れる。交互に描かれてきた二つの世界が、ラストで交差する。
この映画は、何かを言い切る前にシーンを唐突に切るのだが、幕切れもやはり鮮やかであった。別に謎が明かされるわけでも何でもない。ラストで誰が死のうが死ぬまいが、どうでもいい。映画の価値は、そんなことでは変わらない。

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