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2019年11月13日 (水)

■1113■

月曜から泊りがけで、兵庫県立美術館の「富野由悠季の世界」展へ。
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「富野作品・制作資料展」と思って見に行ったほうが、戸惑わずにすむだろう。「資料展」でなければ、安彦良和氏の原画やレイアウト、安田朗氏の油彩画(キービジュアル)が展示されている理由が分からない。セル画も美術ボードも、富野さんの仕事ではない。商業アニメは複数のプロの手で作られるものであり、演出家の仕事は絵コンテや企画書、修正指示だけではない。口頭でのやりとり等、形に残らない部分が、かなりの範囲を占めるのではないだろうか。
あと、話に尾ひれがついた「おまんこ舐めたい」発言も含めて、富野さんは自己言及によって自分の世界をつくっているように思う。先日、2~3年ぶりに富野さんにインタビューしたが、露悪的なパフォーマンスで自分を糊塗したり鼓舞したりすることも、作家性なのではないだろうか。

ようするに、この展覧会は富野さんの企画意図や演出意図を額面どおりに受けとりすぎ、「一本残らず傑作」という予定調和から作品を並べただけであった。例えば、「女」とか「空間」とか「科学」などのテーマで大きく切ってくれたら、作家の世界が立体的に見えたのではないだろうか。
生真面目すぎるのが気になった。恥ずかしいところ、みっともないところも含めて富野由悠季という作家だと思うので。


学芸員たちはバカではないので、フレームの概念や演出の効果は、よく把握している。解説文を読めば、それは分かる。
ただ、絵コンテの横に完成画像のキャプチャや完成映像をエンドレスで流すことで、絵コンテという仕事の本質が見えるのかというと、それほど単純なものではあるまい。セルアニメは、薄いセルやレイヤーを重ねて厚みのない映像をつくるわけだが、出来上がった映像から、深みや奥行きを視聴者は知覚する。その映像のメカニズムを前提にしたら、二次元資料の羅列には終わらなかったはずだ。
『Gのレコンギスタ』のメガファウナの航路図は複雑で、「Febri」にカラー見開きで構成したとき、デザイナーが悲鳴をあげた。しかし、今回の展示では、刻々と変化する『G-レコ』の勢力図を富野さんが色つきでメモしていたことが分かった。ああいう図を投げっぱなしにしないで、立体として構成しなおすことは出来なかったのだろうか。

乱暴な言い方をすると、この展示会は「紙が並べてあるだけ」だ。
紙といっても、高荷義之氏や安田朗氏の原画は別格だ。額をくっつけて、じっくりとテクスチャーを観察してきた。また、見慣れたはずの大河原邦男氏の設定画にも、ありありと鉛筆の筆圧を感じることが出来る――が、それは作品個々の制作資料であって、演出家・富野由悠季の仕事ではない。
ここ数年はアニメ関係の○○展が増えたが、展示のしやすさが増加の理由ではないだろうか。紙を並べれば、形になってしまうのだ。


偉そうに批判してみたが、実は国立近代美術館の高畑勲展には、行っていない。こちらは模型が展示してあったり、高畑監督の言葉があちこちに散りばめられていたり、“立体的な”展示方法が試みられていたようだ。
僕はアニメの展覧会ばかり行っていてはバカになってしまう気がして、特に国立新美術館には、暇を見つけては通うようにしている。その代わり、シド・ミード展にも高畑展にも行かなかった。だったら、都内の知らない美術館に行ってみたい。その欲望のほうが上回った。

ボルタンスキー展に行って、古着の匂いや2メートル程度までしか届かないささやき声も“展示”し得るのだと知った。
だったら、富野ゼリフのあれこれを、うるさいぐらい会場に響かせたっていいじゃないか。結果、「富野のアニメって、やっぱり難解だ」という感想を持ち帰ることになっても、「あれもこれも傑作でしたね。さて、最後に『G-レコ』を宣伝しておきます」などという予定調和よりはいい。そういう生ぬるいファン心理や幼稚っぽい「大人の事情」からの脱却が、思春期に『ガンダム』や『イデオン』を見てしまった者のテーマではないだろうか。

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