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PLUMの「1/80 中央線」は、昭和~平成の記憶を刺激するプラモデル【ホビー業界インサイド第53回】(■)
こういう良いネタは、ホビーショーで見て記憶して、自力で取材交渉します。
プレスリリースを待っているようでは、生き生きした記事は書けません。
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さて、劇場版『Gのレコンギスタ Ⅰ』「行け!コア・ファイター」である。初日第1回を観るべく、モデルグラフィックス誌の撮影の帰り、調布のホテルに投宿し、朝7時に宿を出てモーニングを食べてからシアタス調布へ向かったのは、通勤ラッシュを避けたいがためである(家から調布へは、バスで30分)。
――まあ、とにかく驚いた。
途中までは、やっぱりフレームに入る被写体が多すぎ、あちこち説明過多だったり説明不足だったりして、ゴチャゴチャしているのはテレビ版と変わりがない印象(宇宙海賊なのに、地球上の島に基地があるとか……)。モノローグも、ちょっと追加しすぎ。
だけど、タイトルが「行け!コア・ファイター」でしょ? テレビでは段取りっぽかったコア・ファイターの合体シーン。ベルリが活躍するのを、アイーダがサポートしなくてはならない。だけどアイーダは、恋人を殺したベルリの顔を立てるなんてイヤなわけ。この感情描写が、テレビでは希薄だった。劇場版では、アイーダが操舵手のステアに寄り添う芝居に、ほんのちょっと台詞が付加されていた。他にも、いくつか追加があったかも知れないが、アイーダの複雑な心情を、しつこいぐらい丁寧に追っている。
戦闘後、いやいやベルリの活躍を手伝ったのに、ドニエル艦長に促されて(テレビではあっさりしていた台詞が、いささかコクのあるものになっている)、アイーダはベルリにお礼を言わないといけない。ひとりで苦しむシーンが追加されている。
その後、無理を押してベルリにお礼を言う。見ている側は、アイーダの苦しさがピークに達していると分かる。そこへ、クリム・ニックがひらりと飛び込んできて、ベルリに関係ない話をする。見ている側は、クリムをめちゃくちゃ邪魔に感じる。というか、クリムが話している間に、アイーダがフレームから消えているじゃないか。こんなストレスのある流れでいいの?
と、カメラがPANすると(途中で視界を遮るようにモビルスーツが入るのが効果的)、アイーダは狭いエレベータに乗っていた。エレベータで、死んだカーヒルに泣いて謝っている。カメラが引くと、泣いているアイーダの前に、大きく整備兵が入ってきて、大声で何か実務的なことを喚きながら仕事している。すると、アイーダの孤立感がいっそう引き立つ。
……と、コア・ファイター合体の前後から、アイーダの感情描写に徹していて凄いなあと思ってテレビ版を確認したら、大きな流れは、ほとんどテレビのまま! ちょっとした順番の変更やインサートのみで、機能的に情感をかもし出している。
だから、「再編集」の目的が、要約や矛盾点の解消や効率化ではなくて、既存カットに新しい意味を与えて、文芸性を高めることにシフトチェンジしている。やはり只者ではない、富野由悠季。
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しかし、わけても気に入ったのは、ベルリにお礼を言わねばならないアイーダが、Gセルフに宇宙用パックを取り付けているのを見て、「ああ、そういうこと……」と力なく呟くカット。つまり、自分の感傷とは関係なく、他のスタッフはベルリを認めているし必要としているし、事態は勝手に進んでいるのだという意味が加わっている。
確認のためテレビ版を見て、びっくり仰天。宇宙用パックの絵は、何ひとつ変わっていないのだ。ただし、パックを見るのはベルリであり、彼は「あれ、僕が使うんだ!」とはしゃいでいる。
アイーダの嘆息とベルリの稚気は、同時に存在しうる。映画版では、アイーダにスポットを当てた。映画というか、フィルムの編集というのは、そういうことが出来てしまう。同じカットを残したまま、それを見ている別のキャラクターのカットを繋いで、意味を変えることが出来る。メカの背中に語らせることだって出来る。だてに、ロボット物の再編集ばかりやってきた監督ではないのだ。
なので、本質的な意味で「映画」のメカニズムを理解したければ、『G-レコ』は見逃せない。
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ひさびさに、ヴィスコンティ監督の『ベニスに死す』。これがDVDで観られるのだから、レンタル屋ももう少し頑張れる。
普段は映像の色合いなんてことは気にとめないが、この作品の絵画的な美しさには息をのんだ。「絵画的」とは、ピタリと静止した画面のことではない。むしろ、急速にズームしたりPANしたり、画面は非常によく動く。砂浜で、風にはためく天幕の淡い色調……などが、絵画を思わせるのだ。
映画の前半で、カメラはダーク・ボガードの演じる老音楽家の目の役割を果たす。彼が魅了される美少年の姿を追って、カメラはしきりにPANする。切り返しで、少年を陶然と見つめている老音楽家。背景がボケていると、何となく彼を身近に感じる。一方で、美少年を追うカメラは背景までピントが合っており、どこかよそよそしい。ふたつのレンズが、見つめる者と見つめられる者とを隔てている。
映画の後半では、2人は同じフレームの中に収まることが増えていく。まるで老音楽家が、少年の属する彼岸の世界に近づいていくように感じられる。
なぜそう感じられるかといえば、「少年がピアノを弾いているのを老音楽家が見ている」シーンで、老音楽家が立ち上がってホテルの執事と話しはじめる。会話が終わって老音楽家がピアノの方へ歩き、カメラは彼を追う。しかし、そこには少年はいない。ピアノの音だけは鳴っている。少年は、本当は実在しないのかも知れない。
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そのピアノの音をきっかけに、老音楽家の若いころの回想シーンが始まる。
この売春宿の回想シーンでは、少年が弾いていた「エリーゼのために」を、若い売春婦が弾いている。シーンの最初で、老音楽家は太った女と並んで座っている。壁には鏡があり、反対側の壁に扉があって、誰が出入りしているのか見える。つまり、老音楽家の見ている風景が同一フレームの中に収まっている。ピアノの音は、鏡に映った隣室から聞こえているのだ。
老音楽家は、若い女に促されるようにして、隣室へと入る。すると、その隣室の壁にも、やはり鏡がある。時間経過があって、若い女は下着姿でベッドに寝ている。その姿は、鏡の中のものであった。
鏡の中の部屋に入ったり、性行為の相手が鏡の中にいたりするせいで、このシーンは老音楽家の深層心理に潜入していくかのようだ。そして、「エリーゼのために」が少年と売春宿を繋いでいるということは、老音楽家はやはり少年にセクシャルな欲望を持っているのではないだろうか?
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セクシャルな欲望といえば、舞台となるベニスにはコレラが流行りはじめ、町のあちこちに白い消毒液がまかれる。
考えすぎだと言われても構わないが、僕にはこれが精液のメタファーに感じられる。
老音楽家は消毒液の匂いに耐えられず、何人かに「この匂いはなんだ?」「何が起きているんだ?」と聞いて回るが、誰も本当のことを答えてくれない。ようやく、ホテルの執事がこっそりとコレラが流行っていることを打ち明けてくれる。
老音楽家は、ただちに少年の母親に家族を連れてベニスを立ち去るよう、警告する。その場に現れた少年の髪に、老音楽家は震える手で触れる……のだが、そのシーンは髪に触れるところで終わり、ホテルの執事がコレラの件を話し終えたシーンへ戻る。つまり、本当は老音楽家は家族に警告しておらず、少年に触れてもいないのではないか。
美への羨望、過去、疫病。この三要素が、象徴的な映像でシャッフルされるので、とても受け止めきれない。死が隣り合わせている表現は、生きている者には手に負えない気がする。
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