« ■1014■ | トップページ | ■1021■ »

2019年10月17日 (木)

■1017■

台風の脅威が完全に過ぎ去ったのを確認して、約束どおり、小学校時代の友人と『ジョーカー』を観にいった。
20191010ds11_p
最近はヒーロー映画から遠のいていて、評価の高い『ダークナイト』という映画にも首をひねった過去があるので、やや警戒はしていた。でも、思ったよりずっと品位と知性があり、ヒーロー映画でお馴染みの奇想天外な万能新兵器(どんなに渋くデザインしてもバットモービルが出てくると私は白ける)は、ひとつも出てこない。
唯一の凶器、それはありふれた一丁の拳銃である。拳銃は重要なモチーフで、主人公アーサーの恋人は手で拳銃の形をつくり、頭を撃ちぬくフリをする。それを見たアーサーも、指鉄砲で自分を撃つジェスチャーをする。その自虐的なユーモアは、実はとりかえしのつかない出来事を暗示してもいる。

この映画は、何か特筆すべき構造を持っているわけではない。凝ったプロットを、丁寧な美術、衣装、撮影で見せてはいるのだが、びっくりするような構造を持っているとは言えない。「プロットを説明している」という意味では、よくある凡庸な映画であり、いたって正気だ。
だけど、このプロットの持っている力強さは、いつか誰かの役に立つ。少なくとも、犯罪者扱いされたばかりの僕()は、救われた気がした。
ハリウッドのメジャー映画が「犯罪者になってしまったのは、あなた自身のせいではない」と明快に宣言するのは危険でもあるが、必要なことなのだと思う。キャラクターではなく、テーマに殉じた映画だった。ばかげた続編にはつながらなそうなので、晴れ晴れした気持ちになれた。


レンタルで、『夏の夜は三たび微笑む』。ベルイマン監督作なのに、拍子抜けするぐらい通俗的な作品であった。

僕が危惧しているのは、「名作、良作」が「泣ける映画」と定義づけられているのではないか?ということ。みんな、映画の中に無理にでも「泣けるシーン」を見つけようとしているのではないか。無理にでも「泣けた」という感想に持ち込もうとしていないか。
結果、配信には分かりやすい人気作だけが残り、感情移入を拒むような難解な作品はレンタル屋の店頭で埃をかぶることになる。

観客が何をもって「泣ける」かというと、おそらく自己犠牲だったり親子の愛情だったりするのだろうが、それらはプロットに込められたものであって、映画の構造とはいささかも関係がない。プロットにばかり着目するから、映画=プロットだと早合点し、「伏線」にこそ価値があり「ネタバレ」によって価値が損なわれると信じられている。

映画の「構造」とは、『ジョーカー』でいえばラストシーンがそれに当たる……と、一度は書いたのだが、ラストシーンは映画の「構造」ではなく、やはり「プロット」に過ぎないのではないかと反省した。以下に書き直す。
20191010ds11_p_20191017154201  
ドンデン返しのラストシーンなんかより、僕が友達に「どこが良かった?」と聞かれて答えたのは、シーンが変わっても、ジョーカー(アーサー)のポーズがほとんど同じだった所だ。確か洗面台に手をついているポーズで、ロング・ショットだった。別のシーンになったのに、ほぼ同じポーズ、サイズだった。背景と照明が変わったので、別のシーンだと分かる。
あるシーンがロングで終われば、次のシーンはアップで始めるなど、サイズを変えて「シーンが変わりました」と明示するのが劇映画の文法だ。ポーズとサイズが同じままだと、ちょっと異様な、不自然な印象を与える。それは、映画の構造に踏み入って、僕たちが何を見ているのか問い直そうとする試みだ。
見慣れた文法から外れたシーンの繋ぎ方をすると、少なくとも映画を見ていて不安になるし、それは映画の企画意図とマッチしているように思われる。

Warner Bros.Ent.All Rights Reserved TM & (C)DC Comics

|

« ■1014■ | トップページ | ■1021■ »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« ■1014■ | トップページ | ■1021■ »