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2019年10月30日 (水)

■1030■

モデルグラフィックス 2019年 12 月号 発売中
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今月の組まず語りは、クラウンモデルの「バリエーションロボ ハリアー」です。
僕の記事は、「色すら塗らないなんて手抜きなんですか?」とよく怒られるけど、そういう方はビッシリと塗った作例がページを埋めているのが模型雑誌……という固定観念があるのでしょう。


一昨日に見て、翌朝に見直したレオス・カラックス監督の『ボーイ・ミーツ・ガール』。レンタル店で、借りてきた。
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上の2枚の写真を見てほしいが、主人公役のドニ・ラヴァン、相手役のミレーヌ・ペリエ、お互いが出会うまで別々にストーリーが進行するのに、同じチェック柄の服を着ている。主人公は冒頭で恋人に逃げられ、書き溜めてあった詩や絵を捨てられてしまうが、そのゴミの中にも同じチェック柄のスカーフが入っていて「彼女(恋人)の好きだった色だ! あの女、何もかも持っていきやがって!」と激昂する。そのスカーフは、悲劇的なラストで、主人公が覆面のように顔にまく……と、その演出は難解すぎて意図が分からないのだが、「やがて出会う2人が、同じ柄の服を着ている」、そのような観念的な世界なのだと、かなり早い段階で理解できる。
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つまり、「2人は同じ店で同じブランドの服を買ったのではないか」などという日常的リアリズムでは、この映画は理解できない。『男はつらいよ』だったら、そのようなエクスキューズが必要だろう。マーベル映画でも、同じ服を着た人物が別々に出てきたら、何らかの説明が必要だ。しかし、映画の種類は、ひとつではない。
「やがて2人は出会う」「同じものを心に抱えている」、そうした文学レベルの「事実」を伝えるには、「同じ柄の服を着ている」視覚情報で伝えるしかない。少なくとも、それがこの映画の構造である。


他にも、抽象的な演出が散見される。
主人公はあるパーティに潜入し(その潜入にいたる段取りが、また入り組んでいるのだが)、ミレーヌ・ペリエ演じる彼女と出会う。
その前に、かつての恋人の新しい彼氏に電話をかける。「電話はどこですか?」と女主人に聞くと、通された部屋は託児室で、赤ん坊がいっぱい泣いている。その部屋を、うんと引いた絵で撮っている。その部屋で彼は元恋人とその彼氏に別れを告げ、ミレーヌ・ペリエ演じる憧れの相手の電話番号を手に入れる。赤ん坊がいっぱい泣いている部屋は、いわば主人公の心の中と解釈することも出来る。

もっと分かりやすいシーンが、後に出てくる。
主人公は憧れの彼女と台所で出会う。彼女の気を引くため、主人公は詩を口にする。すると、横に置いてあったケトルの湯が沸いて、シューッと大きな音を立てる。言うまでもない、彼女と出会えて高揚した主人公の感情を表現するには、湯の沸騰した音を入れるのが何より効果的だろう。
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さて、2人は台所に並んで腰かけて話しはじめるのだが、主人公はまだチェック柄のジャケットを着ており、元恋人の置いていった同じ柄のスカーフを取り出したりする。ところが、ミレーヌ・ペリエはもうチェック柄のズボンは履いていない。やがて、主人公もジャケットを脱ぐ。
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暑いから脱いだのだろうか? この映画の、この場面では「暑いから」ではない。出会うべき2人が出会ったので、新しい関係へ進んだ。そう解釈をせざるを得ない観念性が、この映画では視覚として露呈している。
『市民ケーン』、あるいは黒澤明なら、こういう演出をやる。『ボーイ・ミーツ・ガール』は日常的なリアリズムに縛られた映画ではないけど、やや古典的な側面もある。


ところで、いささかショックではあったのだが、僕が10年前にこのブログで何を書いていたか、どう思っていたか、今ごろ調べて言質をとろうとしている人がいる。僕が過去に何を考えていたか、いちいち気にしている人が、このブログの読者に3人もいる。Twitterと違って、ブログにはブロック機能がないので、防ぎようがない。

確かに僕は過去のブログを残してはいるけど、単純に消すのが面倒なんだよ。それに僕は、昨日よりは今日、今日よりは明日をよりマシな自分として生きるよう努力している。他人の考えがどうなのか、なんて気にしつづけて停滞しているあなたとは違うよ。僕の10年前なんて、いまの僕より愚かに決まってるじゃん。その愚かな僕の発言を検索して調べるなんて時間の無駄だし、そんなことに労力を割いているあなたの人生は失敗作だと思う。

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2019年10月27日 (日)

■1027■

片渕須直監督の「マイマイ新子と千年の魔法」を救った小さな映画館「ラピュタ阿佐ヶ谷」の支配人が10年前を振り返る【アニメ業界ウォッチング第59回】
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10年前、『マイマイ新子と千年の魔法』の上映回数が次々と減らされていく中、社会人でも見やすい夜の時間帯を設定し、映画にマッチした上映形態を模索してくれたラピュタ阿佐ヶ谷さん。石井紫支配人に、初めてインタビューしました。
石井さんが、クールといってもいいぐらい冷静に事態を見ていたことが分かり、かえってホッとしました。こういう落ち着いた視点があってこそ、『マイマイ新子』は延命されたのでしょう。
岩瀬智彦プロデューサーにも10年目にして初めてインタビューしましたが()、こういう、作品を素直に愛している作り手たちが、美談とは言い切れない苦い気持ちを我慢しながら、火を消すまいと努めてくださったのだと思います。

『この世界の片隅に』がヒットした時、名前の通った映画関係者の方が「『マイマイ新子』ってあんな傑作なのに、公開当時はどうしてヒットしなかったんですか?」なんて言っていたけど、「あなたこそ当時、どこで何してたの?」と思います(業界の中にいて、もし当時のことを知っていたら、ネットで広めるぐらいのことは出来たはず)。
他人の残した結果だけを受け取っておいて、「まあ、俺も当然、評価してはいたけどね、言わなかっただけで」的に後だしジャンケンするのは、非常にみっともない。
「すみません、公開当時は『マイマイ新子』の存在すら知らなくて」と言う人のほうが、むしろ有り難いです。当時の状況を正直に語ってもらった方が、後の人が歴史を知る手がかりになりますよね。粉飾して見栄をはるような人には、人知れず消えていく映画は救えないと思います。


コッポラ監督がマーベル批判のスコセッシ監督を擁護「嫌悪すべき」

このニュースを受けて、マーベル映画のファンが「コッポラなんて二流」とツイートしていて、ずいぶんと叩かれた。
その人が他人とやりとりしているツイートを読んでいたら、コッポラの映画は見るには見たけど、「面白くなかった」のだという。面白くないから、価値がない……まあ、一般の映画ファンなら、それで十分だろう。けど、映画評論家ですら、メディアでは「面白かった」「泣けた」レベルだよね?
自分が見てつまらなくても、その作品には価値がある。その価値を言い当てようとすると、他者の評価軸を受け入れざるを得なくなる。すると古今東西の本を読んで、多面的なものの見方を追求することになる。ぼんやりと目の前に飛び込んできた映画だけ見ていても、価値観は磨かれない。大ヒット作か、最新の映画にしか興味が向かわないようなら、かなり深刻な事態。僕も、うっかりしているとそうなってしまう。

「自分の快・不快以外の価値はどうでもいい」という人は、老いるのが早いと思う。萌えキャラがポスターに使われるたび、Twitterに愚痴レベルの批判を書いている人も、自分の快・不快だけで生きている。「泣いた」ことの気持ちよさを持って映画の価値に代えようとする態度も、僕からすれば同レベルだ。
それと、映画って時間芸術だから、またたく間に目の前を過ぎ去っていってしまう。僕は最近、30代までに見た映画をレンタルしてきて、50代の視点から見直そうと試みている。若い頃は経験不足で知識の裏づけがないから、浅い部分で理解しようとしていたんだと恥ずかしくなる。だから、一度見た映画の評価を、やすやすと決めないこと。100点評価で何点なんて書いてしまうと、そこで評価がフリーズして思考も凍結するから、本当にやめた方がいい。
でも、たいていの人は自分の価値意識が変化して、映画への評価がそのつど変わることの流動性に耐えられないわけ。そして、自分固有の、今日ただいまの価値意識を表明することは孤独なんだよね。俺は、その孤独によって得られる何かがあると信じている。自分の価値意識をバージョンアップするには、今日の恥に耐えるしかない。


最近見た映画は、レンタルでハワード・ホークス監督の『リオ・ブラボー』、ジョン・カーペンター監督の『ゼイリブ』。
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『ゼイリブ』は、初めて見た。主人公が非常にアクティブに動いて、自発的に宇宙人(かどうかも分からないうちに)をバンバン撃ち殺しはじめる。でも、見ている側は彼に「頑張ってもらいたい」と思う。少なくとも、彼がピンチになると「ここで死ぬなよ、生きのびろよ」程度には感情移入していると思う。
なぜなら、この流れ者の主人公は、最初の30分ぐらい、ひたすら町で起きている異常な事態を「見るだけ」だから。どんな映画でも事態に関与せずに「見るだけ」のキャラクターは、椅子に座って動かずに「映画を見ているだけ」の観客と同化する。『ダイ・ハード』の暴力的な主人公に感情移入できるのは、彼が人質が殺されるのを「見ていることしか出来ない」シーンがあったからだろう。

『ゼイリブ』に説明なく登場する重要な小道具は、サングラス。主人公がひたすら「見る」ことでしか、観客は事態を把握できない(なにしろ、彼の主観映像でしかドクロのような宇宙人を見る手段はないのだから)。第三者視点にカメラを置くと、そこには宇宙人は映っていないのだ。
この関係、この構造こそが『ゼイリブ』を独特の、他に類を見ない個性的な映画にしているのではないだろうか。その強い個性さえ認めることが出来れば、他の無理やりな展開など気にはならない。

(C)1988 StudioCanal. All Rights Reserved.

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2019年10月21日 (月)

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レンタルで、シドニー・ルメット監督の『セルピコ』。
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同じルメット監督でアル・パチーノ主演の『狼たちの午後』は良かったし()、犯罪物という意味では連続性があるはずだが、どうも『セルピコ』はピンと来なかった。ルメット監督の『オリエント急行殺人事件』も、舞台劇をそのまま撮ったようなアバウトな印象しかない。
そうなると、『狼たちの午後』を見たときの自分の感覚も当てにならないのか、あるいはその当時のほうが冴えていたのか、ちょっと不安になる。


土曜は編集者と2人、昼間から飲んだ。彼と別れてから、何ヶ月ぶりかでガールズバーへ行った。
一時期、たまにキャバクラやガールズバーへ行っても、着いてくれた嬢には必ず敬語で話すという偽善的なふるまいをしていた。敬語で話すのを、まずやめてみた。「僕はキャバクラに連れて行かれても、自分から女の子に気を使ってしまうので、かえって疲れるんですよね~」って男に、何人出会ってきただろうか? テンプレなんだよね。ええかっこしいの嘘つきの。そんないい人アピールしたって無駄だよ、楽しく遊んできたくせして。
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あと、「そういうお店に無理に、付き合いで仕方なく連れて行かされたことはあるけど、自分の金では行ったことない」とかさ。他人の金で楽しんだんであれば、かえってタチが悪いよ。「僕は女の子を金で買ったりはしませんよ、潔白ですよ」ってポーズだけなんだよ。5千円だろうが五十円だろうが他人の金であろうが、女の子の容姿と態度と時間を、アンタは金で買ったんだよ。
「売春宿に行ってセックスせず、会話だけして帰ってきた」なんていうのは、自慢にならない。男なんて、童貞であれゲイであれ何であれ、糞尿と精液のつまった袋よ。
そんな汚い自分を恥じすぎず、嫌いすぎず、開き直らないことだろう。


で、ひさびさのガールズバーは、そこそこ楽しかった。エレベーターの中で、妙に警戒されるという体験()をした後だけに、女性を嫌わずにすんだ。
女の子は三人いて、そのうち一人がなんと、【エストニア~デンマーク~アイスランド】を旅してきたそうで、写真をいろいろと見せてくれた。ようするに、「そろそろ旅に出ろ」って啓示でもあった。
海外を旅している間、それこそ飛行機に乗った瞬間から、僕は自分のことをいちばん大事に考え、自分の欲望を肯定し、ありありと靴の底から頭の先まで「自分自身」になれるのを感じる。日本社会では、どうでもいい大義名分とかキャバクラに入店しておいて敬語で話すような偽善的倫理観に拘束される。

女性というのは、僕にとっては得体の知れない圧倒的な「他人」であって、だからこそ、普段は怖い。最近は軽くなったが、電車で隣に座られるだけで緊張して、汗が噴き出してくる。だから、二十数年間も精神安定剤を服用している。もの心のつく前の幼年期、何か致命的な体験をしたのかも知れないな。いずれにしても、僕は自分を正常だなんて思ってない。
海外でも、マルタ共和国の都会っぽいバスで、隣に十代の女の子が座ったときは、汗が出てきた。混雑した近代的なバスは、あまりに日本的シチュエーションであった。そうでないかぎりは、海外では女性に話しかけられることが多いので、素直に「嬉しい」と思ってりゃいいんだ。
生きている以上は、自分を肯定しないとダメ。ガールズバーに行って救われたんなら、そんな低レベルの自分を認めてやらないと。


ところで、俺がN国党支持というだけでコメント欄で咬みつき、なぜかTwitterをブロックしてきた卑怯者・ものくる@monocuruさんは、まだこのブログ見てるのかな? こっちが無防備なのを知っていて、先回りして絡んだことすらないTwitterをブロックして自分の発言は見られまいとする、その姿勢がクズなんだよ。N国アンチの人って、なぜかヘナヘナ・ナヨナヨした卑怯者が多い。

© 1973 STUDIOCANAL

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2019年10月17日 (木)

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台風の脅威が完全に過ぎ去ったのを確認して、約束どおり、小学校時代の友人と『ジョーカー』を観にいった。
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最近はヒーロー映画から遠のいていて、評価の高い『ダークナイト』という映画にも首をひねった過去があるので、やや警戒はしていた。でも、思ったよりずっと品位と知性があり、ヒーロー映画でお馴染みの奇想天外な万能新兵器(どんなに渋くデザインしてもバットモービルが出てくると私は白ける)は、ひとつも出てこない。
唯一の凶器、それはありふれた一丁の拳銃である。拳銃は重要なモチーフで、主人公アーサーの恋人は手で拳銃の形をつくり、頭を撃ちぬくフリをする。それを見たアーサーも、指鉄砲で自分を撃つジェスチャーをする。その自虐的なユーモアは、実はとりかえしのつかない出来事を暗示してもいる。

この映画は、何か特筆すべき構造を持っているわけではない。凝ったプロットを、丁寧な美術、衣装、撮影で見せてはいるのだが、びっくりするような構造を持っているとは言えない。「プロットを説明している」という意味では、よくある凡庸な映画であり、いたって正気だ。
だけど、このプロットの持っている力強さは、いつか誰かの役に立つ。少なくとも、犯罪者扱いされたばかりの僕()は、救われた気がした。
ハリウッドのメジャー映画が「犯罪者になってしまったのは、あなた自身のせいではない」と明快に宣言するのは危険でもあるが、必要なことなのだと思う。キャラクターではなく、テーマに殉じた映画だった。ばかげた続編にはつながらなそうなので、晴れ晴れした気持ちになれた。


レンタルで、『夏の夜は三たび微笑む』。ベルイマン監督作なのに、拍子抜けするぐらい通俗的な作品であった。

僕が危惧しているのは、「名作、良作」が「泣ける映画」と定義づけられているのではないか?ということ。みんな、映画の中に無理にでも「泣けるシーン」を見つけようとしているのではないか。無理にでも「泣けた」という感想に持ち込もうとしていないか。
結果、配信には分かりやすい人気作だけが残り、感情移入を拒むような難解な作品はレンタル屋の店頭で埃をかぶることになる。

観客が何をもって「泣ける」かというと、おそらく自己犠牲だったり親子の愛情だったりするのだろうが、それらはプロットに込められたものであって、映画の構造とはいささかも関係がない。プロットにばかり着目するから、映画=プロットだと早合点し、「伏線」にこそ価値があり「ネタバレ」によって価値が損なわれると信じられている。

映画の「構造」とは、『ジョーカー』でいえばラストシーンがそれに当たる……と、一度は書いたのだが、ラストシーンは映画の「構造」ではなく、やはり「プロット」に過ぎないのではないかと反省した。以下に書き直す。
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ドンデン返しのラストシーンなんかより、僕が友達に「どこが良かった?」と聞かれて答えたのは、シーンが変わっても、ジョーカー(アーサー)のポーズがほとんど同じだった所だ。確か洗面台に手をついているポーズで、ロング・ショットだった。別のシーンになったのに、ほぼ同じポーズ、サイズだった。背景と照明が変わったので、別のシーンだと分かる。
あるシーンがロングで終われば、次のシーンはアップで始めるなど、サイズを変えて「シーンが変わりました」と明示するのが劇映画の文法だ。ポーズとサイズが同じままだと、ちょっと異様な、不自然な印象を与える。それは、映画の構造に踏み入って、僕たちが何を見ているのか問い直そうとする試みだ。
見慣れた文法から外れたシーンの繋ぎ方をすると、少なくとも映画を見ていて不安になるし、それは映画の企画意図とマッチしているように思われる。

Warner Bros.Ent.All Rights Reserved TM & (C)DC Comics

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2019年10月14日 (月)

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「天空のエスカフローネ」の主役ロボットが、「竜」に変形する意味と効果【懐かしアニメ回顧録第59回】
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アニメーションに登場する巨大ロボットは、あらかじめ合金玩具かプラモデルになることを前提にデザインされてきたので、劇中での演出から評価されることは、ほとんどなかったと思います。ガンダム・シリーズのロボットも、いきなり「宇宙世紀○○年の技術では……」と劇中の架空設定の話ばかりで、大変気の毒と思います(模型雑誌も、すべてそういう解説ばかりですね。架空の設定話のほうがライターも編集者も「考えなくてすむ」から楽というだけの話ですよ。演出のことを書こうとしたら、実写映画も幅広く見てないと無理ですから)。
今後、僕がどんどん演出面から評価してあげます。


台風一過の日曜日、いっぱい買い物をして晴れ晴れとした気持ちで、自分のマンションに帰ってきた。エレベーターを待っていると、玄関からメガネをかけた女性が歩いて来たので、一歩退いて場所をあけた。こういう時、挨拶をすべきなのだろうが、無視されることもあるので黙っておいた。
女性が僕のあとにエレベーターに乗ってきたので、ボタンを押そうと「何階ですか?」と聞いた。女性は「いえ、大丈夫です」と答えた。僕と同じフロアで降りるのかと思い、「ああ、五階でいいんですね」と、僕は答えた。
さて、エレベーターは五階に着いた。入り口近くに立っていた僕は、女性を先に降ろすのが礼儀だと思い、「開」ボタンを押して待っていた。すると女性は、「別の階ですから」と答え、そのまま立っていた。僕は先に降りて、女性は階数のボタンを押していないエレベーターの中に残った。

ちょっとよく分からないのだが、おそらく僕に階数を教えたくなかった、何階に住んでいるのか知られたくなかったのだろう。
あるいは、他人の世話になりたくない、関わりたくないという気持ちも分かる。そういう時、僕はエレベーターには乗らず、ちょっと周囲を歩いたり、郵便ポストに投げ込まれたチラシを眺めたりして時間をつぶす。たまに、同じようにロビーで気まずさを避けている人がいるので、「うんうん、分かりますよ」と親近感を抱きながら、僕はさっさと一人でエレベーターに乗る。
だけど、昨日は逆であった。
もしかすると、僕が泥棒か性犯罪者に見えたのかも知れない。ひょっとすると、ものすごく臭かったのかも。でもだったら、エレベーターに一緒に乗るのもイヤだったと思うのだが……。


僕は今年から、小学校の同窓会を欠席することにした。直接的な理由は、二年前の同窓会で女性たちが話しているところへ話しかけたら、確か3人いたと思うのだが、全員に無視されたこと。
別にセクハラ発言をしたのではなく、どれぐらい酒を飲めるか、という話題だったと思う。そのうち一人の女性が、facebookでかなり大量に飲めると書いていたので、「あなたが一番いっぱい飲めるんじゃない?」とか、そんなことを話しかけた。でも、その本人も無言。周囲も無言。僕は、男たちとの話の輪に戻った。
その後、facebookでのリアクションもなくなった。彼女たちが反応しているのは、結婚して子供もいる男性たち。少なくとも僕らの世代では、妻子持ちであることは、絶対的な安心材料。僕は彼女もいないし、結婚願望もなく、ひとりで生きるのが楽しいのだが、妻子持ちに比べると「何が楽しくてひとりで生きているのか分からない」と怪しまれてはいるだろう。「そんな得体の知れないヤツが一人前に同窓会なんて来て、一人前に異性に話しかけるな」と、そう言われたような気がした。そう思ったほうが、少し気が楽じゃない? 自分の会話スキルが下手すぎたとか、何か異様な犯罪者的なムードを発散していたのではないかと悩むよりは。

ちょっと卑屈とは思うけど、距離を置いたほうがお互いのためだろう?
妻子に暴力をふるって、時には殺してしまうような男さえいるけど、やっぱり、実社会で既婚者の安心感は鉄壁ではないだろうか。
結婚していなくても、初代面でいきなり「僕の彼女がですねえ」「私の付き合ってる彼氏が」と切り出す人たちの気持ちが、俺には分かる。社会性を示すには、「そのうち結婚するかも知れない相手がいますので」「ひとりで悶々としている気持ち悪い独身とは違いますよ」と、嘘でもいいから相手に示したほうが賢い。


僕には、異性の友達がいない。仕事以外で女性と話すことはないし、特に話したいとも思わない。男はみんな女に飢えている、それは幻想だ。
表現規制に反対する活動をしていた頃は、BL好きの女性から僕の知らない世界の話をいろいろと聞かせてもらって、けっこう楽しかった。もし、「綺麗なお姉さんと会話したい」程度のことなら、キャバクラやガールズバーで十分。何だったら、VRとかAIでいいんじゃない? それって、「女性をひとりの人間として見てない」のかな? エレベーターや同窓会で無視するのは、男性の人権に配慮していると言えるの? よく分からない。

僕は、男と女は社会で同権とは思っていない。どうしても体力や体格に差があるし、女性の方が圧倒的に損をしていると思う。政治活動でも、街頭でビラを配っていると、女性ばかり絡まれると聞く。もちろん、男に絡まれるんだよ。体の大きな男が目の前に立ったら、そりゃあ怖いだろうと思う。男という男が嫌い、男はみんな憎いって女性がいるのも、分かるんだ。
だから、男女が同じ権利を持つには、男性が女性に立場を譲ってあげないといけない。それを不合理とは思わない。
僕は歩いていても女性に道をあけるし、重たいドアを開けるし、席だって譲るよ。それは、女性のほうが損をするような社会だから。……でも、もういいよね。必要ないよね。異性のいない国へ行きたい。「親切してやってんだから感謝しろ」とは、少し違う。だけど、僕の考え方って報われない。消耗する。
性別は、めんどくさい。男でも女でもない存在になりたい。

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2019年10月13日 (日)

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アオシマが「未来少年コナン」のプラモデル化で模索した「アニメ」から「模型」への最適解【ホビー業界インサイド第52回】(
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「ホビージャパンヴィンテージ」で取材させていただいた青島文化教材社さん。『イデオン』の取材中にふと気がついたのは、アニメの表現が違えば、プラモデル化の商品コンセプトも作品ごとに違っていて当然ではないか、ということ。もちろん企画者や時代による技術の変遷もあるだろうけど、『コナン』は作画のシンプルさに対して、実在する「機械の模型」として強烈なアプローチがなされていることが明らかになったと思います。
もしバンダイが作っていたら、ガンプラと区別のつかないものになっていただろうし、それが良いのか悪いのか、僕らはもっと考えてもいいんじゃないかと思います。


最近レンタルしてきた観た映画は、メリル・ストリープ主演の『幸せをつかむ歌』、ハワード・ホークス監督の『赤ちゃん教育』。
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メリル・ストリープは年齢以上に、性格の破綻したアマチュア・ロック・ミュージシャンという役どころがイメージをぶっ壊していてナイスだった。日本語吹き替えの一柳みるさんも、捨て身の演技だったと思う。

ネット配信が盛んになって、一週間以内に物理的に返却しなきゃいけないレンタルDVDは衰退しつつあるけど、ネット配信は「つまらないから、また次に見よう」と、安易にやめてしまうことが出来る。強制力がないので、作品一本の価値が軽いんだよね。
映画館で観ることの価値はスクリーンの大きさや音響の良さなどより、始める時間も終わる時間も映画館が決める(観客がコントロール下に置かれる)、そこから生じる緊張感なんだと思う。


関東にひさびさに巨大な台風が来て、「こんな時に、そうまでして目立ちたいか?」という人たちが、Twitterでは散見された。危険な場所に行って動画を撮ってくる人は分かりやすいほうで、「災害に備えてコレとコレは絶対に準備してください」「まだまだ油断は禁物ですよ」「今度はこういう危険が出てきますから、皆さん、気をつけてください」と命令したがる人は、僕はけっこう怖い。
たとえ「私は○○の専門家なのですが」と前置きしていても、不特定他者に対する支配欲がむき出しになっていて、恐怖を感じる。

そんな中、NHKから国民を守る党の三鷹市担当とされる山本たかひらさん(同党の議員ではない)が、昨年の大阪の台風の動画をあたかも現在の江戸川区かのようにツイートして、大炎上してしまった。アンチN国が、一晩で優勢になった。
僕は山本さんに投票したし、彼が政敵を批判する時に「(違法薬物をやっているかも知れないから)尿検査をすべき」とツイートしていたので、DMでクレームをつけたこともあった。僕のイベントに招待したことさえあった(多忙とのことで来てくれなかったが)。地元民なりに愛着を感じていたので、彼が結果的にデマを広めたことに少しは責任を感じている。

最初は憤りしかなかったのだが、「山本さんは学習障害なのではないか」という書き込みを見て、ハッとした。過去の動画を見ると、確かに彼は、論理的な話が出来ない。参ったなあ……。デマを広めた責任はとってもらいたいが、どこからどう話をすればいいのか……。


埼玉補選での立花孝志さんの手際は見事だし、しっかりと大義名分も用意してあるのだが、それを理解して評価できるのは、同じぐらい頭のいいエリートだけで、一般の有権者には伝わっていないと思う。
立花さんの頭のよさは「インテリ」って意味ではなく、「パチンコ必勝法」的な、処世術としての実用的賢さだから、お上品な左翼系知識人には嫌われるだろう。
一方、自分でモノを考えられない底辺(って言い方はよくないとは思うのだが)の人たちって、思ったよりも数が多い。ネットでよく「○○で草」「○○はバカ、キチガイ」としか書けない人がいる。2ちゃん全盛期から、定番のスラングしか発せない人たちっていたよね? そういう人って、荒しにでもなるしか居場所がない。でも、彼らも有権者なんだよね。そして、自分でモノを考えられない、自分の意見も何もない(だから騙されやすいし、反○○って単純な考えに流されやすい)人たちが、世の中の七割ぐらいじゃないかと、僕は踏んでいる。だから、投票率が低いんだよ。

自分でモノを考えられなくて、人の意見に対して「違う」「そうは思わない」程度しか言えない人たちは弱者であろうから、責められない。でも、N国党はそういう「多数派」によって勢いを削がれつつある、と感じている。

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2019年10月 6日 (日)

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レンタルで『マディソン郡の橋』、ルイ・マル『鬼火』。
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『マディソン郡~』は、当時言われていたように陳腐な昼メロなのだが、最後には泣いてしまった。僕だって、映画を観て泣く。というか、たいていの映画で泣いている。ただ、「泣いた」ことをもって映画の評価に代える、「私の情動が最優先なので、それ以上は語りたくない」「ネタバレになるので言語化しない」という態度には、背筋が寒くなる。「泣いた、泣いた」で、どんどんバカになっていく。
「泣いた」と「ネタバレ」は、「誰かにとって不快な表現は法律で禁じろ」式の、思考の手抜きに直結している。「犯人が憎いから、裁判抜きで死刑にしろ」……情動を最優先すると、結局はそこへ漂着する。


クリント・イーストウッドとメリル・ストリープが互いを誉めながら惹かれあっていく様子には、鼻白む思いがするのだが、ほぼラスト近く、2人が再会するシーンで一気に惹きこまれた。
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イーストウッドはトラックから降りて、雨の中、ストリープの方へ歩いてくる。しかし、ストリープは旦那と買い物に来ているため、自分たち夫婦のトラックの助手席から動けない。
彼女の脳天を打ちのめすように、雷の音が大きく響き、不意にカットが切り替わると、それは旦那がストリープの横に乗り込んでくるアクションの途中である。
イーストウッドはトラックに戻り、夫婦のトラックのすぐ前を走る。ストリープは今すぐにもドアを開けて、イーストウッドのところへ行きたい。ところが、旦那やイーストウッドは自分の感情で動いているのに、ストリープは旦那の横から動くことが出来ず、ただ、イーストウッドの去りゆくトラックを凝視しているだけだ。

つまり、「自分の意志で動けず、ただ事態を見ているしかない」登場人物に、「ただ映画を観ているしかない」観客は感情移入せざるを得ない。登場人物に共感させるには、演劇や小説とは異なる映画独自の手法・メカニズムが必要になってくるのだ、と意識しておいてほしい。
「泣きました!」ですませていると、どんどんバカになっていく。「浮気は許せないので、この映画の登場人物には感情移入できません」とかさ。劇の外と中をゴッチャにした倫理観も、バカの兆候だと思うんだよな。


先日、知り合って日の浅い人に「NHKから国民を守る党に投票したし、立花孝志を支持している」と言ったら、「ええーっ」と呆れられた。彼は「俺は左翼といってもいいような人間ですよ」とも言っていたが、僕だって今後、共産党やれいわ新撰組に入れるかも知れない。
それで彼とケンカになったわけではなく、脱原発デモや秘密保護法に反対する活動をしていた自分が、単に「右傾化」しただけかも……と、立ち止まって考えるキッカケになった。

立花さんは揚げ足をとられる言動が多すぎるので、さすがに少し気をつけてもらいたいが、忘れられない動画が、いくつかある。
そのひとつは、6月の臨時総会のもの()。9分あたりから、能力の低いボランティアの人の仕事を奪いたくない、失敗しても構わない単純作業をあえて作る……という話をしている。「伊藤くん」という人の話をしているうち、ちょっと涙声になって、後から「伊藤くんを見ていると、自分の辛かった時を思い出す」と、ちょっと言い訳のようなことを言っている。
「頭の悪い民族は虐殺しよう」なんてことを、自分の理想や野望としてストレートに、ダイレクトに語るような、そんな便利な分かりやすい人間ではないよ。彼の中にも、俺の中にも、神と悪魔がいる。俺の父親は殺人犯だし、「決して人を殺さない」人間なんて、この世にいない。人を生かしうる人間は、同時に人を殺しうる。


国会議員や政党の偉い人たちが、立花さんの元発言を精査しないで、単なる「ええカッコしい」で「人道的に許しがたい」とか何とか、耳障りのいい綺麗事を紋切り口調で並べていることの方が、俺は恐ろしい。そうやって議論や考察、検証、思考が空洞化していくんだよ。どんな映画を観ても「泣いた」「ネタバレだから詳しくは言えない」、それと同じこと。しょせん、言葉にするほどの事じゃないんだろ? 信念もなければ、自分が何にどう感動したのかも探ろうともしない、「お気持ち」がすべて。この20年ぐらいの日本人、ずーっと「お気持ち」主体だよね。

日常の中に、どうにも解決できないモヤモヤがあって、そこに「アベ政権」あたりをポコッと当てはめているだけじゃないの? 
仲間と当たり障りのないデモをやって「増税されちゃったけど、次こそがんばろう」「まだ次があるよ、次が」……その人の生き方が、ぜんぶ露呈しているよね。本気じゃないんだよ。本気だったら、右翼であるか左翼であるかなんて関係なく、互いに認め合えるはずじゃないだろうか。

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