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絵による“例え話”で怪異に説得力を持たせる「化物語」の発想【懐かしアニメ回顧録第58回】(■)
10年前の放送当時、『化物語』は文字の大量のインサートに多くの人が戸惑い、それを読解してこそ初めて作品の価値が分かる……といった風潮があり、中には明らかに漢字を読み間違えている人もいて、その雰囲気がとてもイヤでした。
この記事の中では、「体重がない」「軽い」といった視覚化不可能な感覚、画面に一切姿を現さない「蟹」の存在感をどうやって描出しているか?に着眼しています。「原作が小説なのだから、文字で書かれたシーンをそのまま映像にしてやればアニメになるだろう」という幼稚なものではなく、むしろ文字を信用していないからこそ、読めないほど大量の文字を画面にそのまま出すような演出が出来たのではないか?と思うのです。
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一昨日の夜、レンタル店で借りてきた黒澤明監督の『野良犬』が、あまりに自意識過剰というか「意図の塊」のような作品なのでウンザリして、なぜか野村芳太郎監督の『鬼畜』が見たくなった。レンタル店に行けば置いてあるのかも知れないが、何しろ夜中だ。YouTubeの有料配信で300円だったので、中学以来40年ぶりに見はじめた。
事前にネットで感想やレビューに目を通すと、「緒形拳の父親が浮気しているので、最後まで感情移入できず」「子供を捨てたり殺そうとする映画なので、許せない」式のものばかりで、みんな映画を「スクリーンの中に入りこんで、疑似体験すべき娯楽」と思い込んでいるのが、よく分かった。
せめて、終始ノースリーブで汗に濡れた白い肩を丸出しにしている岩下志麻がエロい……と書くのが礼儀であろう。
その岩下志麻が、いちばん幼い子供の顔にビニールがかかっているのを放置して、結果的に殺してしまうシーン。印刷機で仕事している岩下の背中を、黙々と撮っている。グッとズームで寄るのだが、岩下は決して振り向かない。カメラはただ、彼女の物言わぬ背中だけを撮り続けている。台詞がない分、彼女の“殺意”だけは強く伝わってくる。
子供が死んでしまった後、緒形と岩下の会話シーンで、子供の顔にかぶせられるビニールが落ちてくる様子を、ハイスピードで撮ってインサートしている。妙な言い方だけど、そのビニールが落ちてくるカットが綺麗なんだよね……。まあ、「このカットは○○の暗喩なんだよ! 観客のみんな、分かるかな?」と終始つめ寄ってくるような『野良犬』なんかより、職人監督・野村芳太郎が時おり見せる凄みあるカット・ワークのほうが数段上、という発見があった。
もう夜中の3時ごろだが、矢も盾もたまらず、今度はAmazonプライムで野村芳太郎監督の『震える舌』。
余計な感情描写は省いて、破傷風に襲われる幼い子供と両親、医者たちのミッション物に徹しており、「入院○日目」「午後○時○分」など字幕スーパーがインサートされる冷徹さに好感をもった。渡瀬恒彦の父親が「自分も感染しているのではないか」と、そればかり気にして間接的とはいえ、妻を犠牲にしているなど、意地の悪い心理描写がひとつひとつ効いていた。
結局、朝まで3本続けて邦画三昧だった。
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さて、『鬼畜』も『震える舌』も僕が小学校高学年~中学生のころ公開された映画で、どちらもテレビで見たはず。高校時代の友達が「舌かんじゃったよー!」と『震える舌』のモノマネをしていて、「結構みんな見てるんだな」と気づかされた。
『鬼畜』で娘を置き去りにするシーンも、あちこちでギャグに使われていた。
結婚していたころ、妻の連れてきた犬が僕によく懐いていたので、わざと「明日、遠くへ捨ててきてしまおう」「こんなに丸々と太っていておいしそうだから、今日のご飯にしよう」などと、寝床でジョークを飛ばしていた。
離婚した後も、犬をしょぼい遊園地に連れてき、ソフトクリームを食べさせて、くたくたに遊びつかれさせたところで置き去りにする……という妄想(その妄想の中では、犬は幼稚園児レベルの会話が可能)を繰り返し頭に描いた。その妄想の元ネタは、中学時代にテレビで見た『鬼畜』だったのだろう。
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だが、『鬼畜』だけではない。
小学一年生ぐらいのころ、親戚の叔父さんに、井の頭恩賜公園へ連れて行ったもらったことも、おそらく妄想の元ネタなのだ。
熱帯温室にソフトクリームを売る店があり、あまり食べたくないのだが、叔父さんが「食べな」と買ってくれたことを覚えている。広くもなければ人もあまりいない小さな遊園地、動物園……。
多分あの日は何か大人たちの事情があり、まだ大学生の叔父さんが、僕を押しつけられたのであろう(その叔父さんは子供の相手が苦手そうで、僕も子供扱いされることに抵抗があり、気まずい雰囲気だった)。
そんな幼いころの、寂しい思い出は、こんなにも長いこと僕の心に巣食い、センチメンタルな妄想を抱かせる。
野村芳太郎という人は、子供がひどい目に遭う映画を少なくとも2本は撮っているわけで、どこか僕と似たような性癖があったのかも知れない。一種の自己憐憫とでも言えばいいのだろうか?
幼年時代とは実は寂しいものであり、大人に優しくされるほど、得体の知れない切なさのようなものがこみ上げてくる(祖父が酒屋でオレンジジュースを飲ませてくれたり、喫茶店でプリンを食べさせてくれたことも、なぜか“寂しい思い出”として、僕の記憶に刻まれている)。
そう言えば小学校のころ、図書室で「かわいそうなお話」という童話集を見つけて、ゾクゾクしたのを覚えている。借りて帰って、家で泣きながら読んだのだが、それは「哀れむ」「悲しむ」という娯楽だった。『鬼畜』『震える舌』は、そうした秘めやかな娯楽要素に支えられている気がしてならない。
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