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2019年9月28日 (土)

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ホビージャパン ヴィンテージ Vol.2 30日発売
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今年2月の月刊モデルグラフィックス誌の『この世界の(さらにいくつもの)片隅に』は60ページほどの特集でしたが、作例が半分以上を占めていました。なので、僕が独力でつくったページは1/3程度で、あとは作例ページに入れるコラム類、その他、版権元さんとのやりとりを引き受けていました。

今回の『イデオン』は作例ページをのぞく約40ページをひとりで構成し、樋口雄一さんや湖川友謙さんのインタビューは自分でとりつけ、ランナー状態のキットの撮影も自分でディレクションし、次にはキットをすべて素組みして、二度にたわってスタジオで撮影してもらい、どの写真をどう配置するかページのラフを切り……と、アオシマさんの取材申請以外は、すべて自分でやりました。
何しろ、サンライズへのプレゼンも僕がやって、「まあ、廣田さんの著書的な扱いなら、何も口出ししませんよ」と(笑)、その約束は守られて、アニメ記事に付き物の「版権元からの理不尽な直し」は一文字もありませんでした。
アオシマさんの信頼も得られて、パーフェクトな仕事ですね。


これが、僕なりの「模型誌」です。
【模型言論プラモデガタリ】でも『イデオン』を取り上げ、あの時の取材がベースにはなっていますし、表紙は【プラモデガタリ】会場に持ち込まれたタンゲアキラ氏の「作品」をそのまま使わせてくれってお願いしましたので、読者が参考にすべき「作例」とは違います。もうひとつの「作例」?には、僕はまったく関与していません。

模型雑誌が惰性のように続けている、「どんなスゴイ作品だったかストーリーとキャラ解説を少々」、「では後はお待ちかね、有名モデラーたちによる作例です、どーぞ」。さもなくば「監督のロングインタビューつけました、ここに正解が書いてありますよ、多分」といった、怠惰で無責任な誌面構成に抵抗があった……というより、いつまでそんなことやってんの?と、おそらく千人以上のアニメ関係者にインタビューしまくって、ここ数年はあらゆるジャンルのプラモデルを素組みして、模型メーカーにどんどん取材するようになった僕に、やることはただひとつでしょ?

アニメーションの構造と、プラモデル製品の構造に、関連性を見い出す。探す。検証する。理解する。
これは、アニメに詳しいだけじゃ出来ないんです。また、模型界の常識だけではアニメ媒体に深くダイブすることは出来ない。「作画」までは気づいても「演出」には踏み込めない。言うまでもなく「プラモもアニメも大好きです」程度では仕事、ことに新しい仕事はできません。
アニメとプラモの隙間を埋めるのであれば、紙媒体だって、まだまだ使えるじゃないか。作品数の豊富な80年代アニメなら、団塊ジュニア世代が支えてくれている。勝算はある。まだまだ、これからやること一杯あります。


一昨日は、六本木の森美術館まで「塩田千春展:魂がふるえる」へ。
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雑多な店舗が無秩序に散乱した、森タワーまで汗だくで歩いていく。1Fのチケットカウンターで国立新美術館の半券を見せると、200円引きになる。
まあ、それは有難いとして美術館へはどう行ったらいいの? なんとシティビューとかいう展望台と同じフロアにあるので、そっちの客と一緒にエレベーターに乗らないといけない。静かに美術館に行く客と、展望台へ行くノリノリの観光客がゴッチャ……で、まず気持ちは削がれるよね。
フランス料理を食べに来た客と、ホッピーとモツ煮を食べに来た客を混ぜてしまうぐらい、無神経だと思った。

美術館を出ると、展望台も見られる。景色は最高に素晴らしい。だけど、あちこち入っちゃいけないスペースがあって歩きづらいし、静謐な美術館を出てきた客に何を感じさせたいの? 国立新美術館は、そこまで考えてるよ。出口から外に出ると、空間が余韻になるんだよ。
森タワーの俗物ぶり、乱雑ぶりが、あれこれぶち壊しにしていく。


それぐらい、塩田千春展は良かったんだけどね。作品の下をくぐったり、立ったり座ったりして眺められる広大なインスタレーション。単純に、「こんな何千万本の糸、どうやって展示してるんだ?」という驚きもある。赤は血管であり内蔵であり……という直喩が、僕のような無知にも優しい。
泥まみれの風呂で、ひたすら顔を綺麗にしようともがく映像作品も、学生時代に見た実験映像のようで気持ちよかった。映画館より美術館が面白い。毎週、どこかの美術館に行きたい。
六本木の裏手の、安い飲食店も面白いし……。
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そして、昨日は全日本模型ホビーショーか! あれこれ「いつ出るんですか、これ欲しいなあ~」などと下品に好き放題を話した後、「連載見てますよ」「本読みました」と言われて、ドキッとすることが何度かあった。取材の成果は、また後日!

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2019年9月25日 (水)

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プラモデルなのか、ゲームグッズなのか? 「1/12テーブル筺体」を発売した株式会社ヘルメッツって何者だ?【ホビー業界インサイド第51回】
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ヘルメッツ代表の兒玉さんは理工学系のオタクで、文系の落ちこぼれオタクの僕には欠如している知性と熱狂をお持ちの方でした。機械や数字に強いオタクには、一方的な憧れがあります。

月刊モデルグラフィックス 2019年11月号 発売中
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今月の「組まず語り症候群」は、上記のヘルメッツさんの「1/12テーブル筺体」を取り上げさせていただきました。シューティング・ゲームにハマれなかった僕の、羨望の気持ちを書きました。


この十日間ほどの間に観た映画は、ゴダール『パッション』、野村芳太郎『砂の器』、シドニー・ルメット『オリエント急行殺人事件』。
『パッション』は相変わらず何がなにやらサッパリ……なのだが、ドキュメンタリックなシーンに、そのシーンがあたかも過去の出来事であるかのようなナレーションが被さる。僕たちは、たった今、目の前で流れている映像を「映画における現在」と勝手に解釈している。ゴダールは、その法則を壊す。彼の映画では、いつが「現在」なのか、見失ってしまうことがしょっちゅうだ。

『砂の器』は「ストーリーを説明してみろ」と言われても面倒なだけなのだが、クライマックスで丹波哲郎演じるベテラン刑事が事件のあらましを推察し、同時に犯人である作曲家の演奏会がスタート。オーケストラをBGMに、刑事の仮説と作曲家の追想が“同じ映像”として展開される。その構造こそが、『砂の器』であって、最後に誰が死んだとか何が起きたとか、そんなことは映画の「構造」の前には無意味。
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思考を停止させ、言論を封印する「ネタバレ」という言葉が僕たちから何を奪っているのか、そろそろ考え始めるべきではないだろうか。
何しろ、『スター・ウォーズ』シリーズの解説で、ダース・ベイダーがルークの父親であることが「重要なネタバレ」として伏せられてしまう世の中である。


NHKから国民を守る党の周辺、毎日いろいろなことが起きている。
地方選挙では、N国党からの候補者がボランティアと一緒に地道に活動して、勝ったり負けたりしている。NHK撃退シールは、1日数百枚は発送されている(ちゃんとレシートの写真がアップされている)。
だが、話題のほとんどは立花孝志代表が誰に公開討論を申し込んだとか、名誉毀損で訴えたが裁判に負けた、脅迫容疑で警察に呼ばれた……などの、あえて注目を集めるための「仕込み」めいた話題ばかりで、N国党への批判も仕込まれたネタに集中している。
今度は誰を訴えるとか、そのあたりの話に僕は辟易しているのだが、立花さんは政治家になる前から好戦的な性格なので、今後も変わらないだろう。

どちらかというと左翼がかった“純粋な”人たちから、N国党は蛇蝎のように嫌われている印象がある。
新日本婦人の会のように、いまごろ消費税増税反対デモをやって、何百人集まったと自慢しながら、内心では「どうせ増税は避けられない」「でも、一応反対したという思い出だけは残しておきたい」「次また、何か反対するための燃料がほしい」……と、矮小な自我をもてあましている人たちのターゲットになりやすい。
左翼は反権力のスタンスで、その点では僕と同じはずだが、なぜ巨大利権組織のNHKを問題視しないのか、不思議でならない。暴利をむさぼるNHKを擁護している左翼までいる。


左翼がダメなのは、与党精神がないから。「私たちは弱い、弾圧されている被害者だ」という立場で自分の意見を正当化しておきながら、どうすれば権力に具体的ダメージを当たられるかの方法は留保しつづけ、「とにかく反対するのだ」という精神論に逃げている。
「明日から現政権が消滅するので、あなた方の好きにしていいよ」と言われても、彼らは別の権力者を見つけ出して、「弱者」「被害者」の立場に甘えつづけるだろう。

N国党に反発している人たちにも、「市民の自由な言論が潰される」「民主主義の危機」と、弱者スタンスを維持している人が多いように見受けられる。いやいやいや、君らほど自由な発言している人たちはいないと思うよ? 今ちょっと検索しただけで「クズ」「暴力団」「反社会勢力」、あと「ナチスの再来」「オウム以上に危険」と、言いたい放題なのだが、どこが言論の危機?
本当は自由を満喫しているくせに「不自由で困っている」「弾圧されている」と装うのは、卑劣だよ。まあ、それがあなた方の処世術なんだろうけどさ。

この国は、自分なりの強固な意見を持って、具体的な方法を編み出して実践する人を叩く傾向にある。「みんな我慢してるんだ、お前もみんなに合わせろ」、これが根底にある。NHKだけでなく、個人が責任を放棄して組織に隠れ、一人称が「我々」になることって、よくある。「みんなに合わせろ」、これが諸悪の根源なのかも知れない。

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2019年9月16日 (月)

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絵による“例え話”で怪異に説得力を持たせる「化物語」の発想【懐かしアニメ回顧録第58回】
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10年前の放送当時、『化物語』は文字の大量のインサートに多くの人が戸惑い、それを読解してこそ初めて作品の価値が分かる……といった風潮があり、中には明らかに漢字を読み間違えている人もいて、その雰囲気がとてもイヤでした。
この記事の中では、「体重がない」「軽い」といった視覚化不可能な感覚、画面に一切姿を現さない「蟹」の存在感をどうやって描出しているか?に着眼しています。「原作が小説なのだから、文字で書かれたシーンをそのまま映像にしてやればアニメになるだろう」という幼稚なものではなく、むしろ文字を信用していないからこそ、読めないほど大量の文字を画面にそのまま出すような演出が出来たのではないか?と思うのです。


一昨日の夜、レンタル店で借りてきた黒澤明監督の『野良犬』が、あまりに自意識過剰というか「意図の塊」のような作品なのでウンザリして、なぜか野村芳太郎監督の『鬼畜』が見たくなった。レンタル店に行けば置いてあるのかも知れないが、何しろ夜中だ。YouTubeの有料配信で300円だったので、中学以来40年ぶりに見はじめた。
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事前にネットで感想やレビューに目を通すと、「緒形拳の父親が浮気しているので、最後まで感情移入できず」「子供を捨てたり殺そうとする映画なので、許せない」式のものばかりで、みんな映画を「スクリーンの中に入りこんで、疑似体験すべき娯楽」と思い込んでいるのが、よく分かった。
せめて、終始ノースリーブで汗に濡れた白い肩を丸出しにしている岩下志麻がエロい……と書くのが礼儀であろう。

その岩下志麻が、いちばん幼い子供の顔にビニールがかかっているのを放置して、結果的に殺してしまうシーン。印刷機で仕事している岩下の背中を、黙々と撮っている。グッとズームで寄るのだが、岩下は決して振り向かない。カメラはただ、彼女の物言わぬ背中だけを撮り続けている。台詞がない分、彼女の“殺意”だけは強く伝わってくる。
子供が死んでしまった後、緒形と岩下の会話シーンで、子供の顔にかぶせられるビニールが落ちてくる様子を、ハイスピードで撮ってインサートしている。妙な言い方だけど、そのビニールが落ちてくるカットが綺麗なんだよね……。まあ、「このカットは○○の暗喩なんだよ! 観客のみんな、分かるかな?」と終始つめ寄ってくるような『野良犬』なんかより、職人監督・野村芳太郎が時おり見せる凄みあるカット・ワークのほうが数段上、という発見があった。
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もう夜中の3時ごろだが、矢も盾もたまらず、今度はAmazonプライムで野村芳太郎監督の『震える舌』。
余計な感情描写は省いて、破傷風に襲われる幼い子供と両親、医者たちのミッション物に徹しており、「入院○日目」「午後○時○分」など字幕スーパーがインサートされる冷徹さに好感をもった。渡瀬恒彦の父親が「自分も感染しているのではないか」と、そればかり気にして間接的とはいえ、妻を犠牲にしているなど、意地の悪い心理描写がひとつひとつ効いていた。
結局、朝まで3本続けて邦画三昧だった。


さて、『鬼畜』も『震える舌』も僕が小学校高学年~中学生のころ公開された映画で、どちらもテレビで見たはず。高校時代の友達が「舌かんじゃったよー!」と『震える舌』のモノマネをしていて、「結構みんな見てるんだな」と気づかされた。
『鬼畜』で娘を置き去りにするシーンも、あちこちでギャグに使われていた。
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結婚していたころ、妻の連れてきた犬が僕によく懐いていたので、わざと「明日、遠くへ捨ててきてしまおう」「こんなに丸々と太っていておいしそうだから、今日のご飯にしよう」などと、寝床でジョークを飛ばしていた。
離婚した後も、犬をしょぼい遊園地に連れてき、ソフトクリームを食べさせて、くたくたに遊びつかれさせたところで置き去りにする……という妄想(その妄想の中では、犬は幼稚園児レベルの会話が可能)を繰り返し頭に描いた。その妄想の元ネタは、中学時代にテレビで見た『鬼畜』だったのだろう。


だが、『鬼畜』だけではない。
小学一年生ぐらいのころ、親戚の叔父さんに、井の頭恩賜公園へ連れて行ったもらったことも、おそらく妄想の元ネタなのだ。
熱帯温室にソフトクリームを売る店があり、あまり食べたくないのだが、叔父さんが「食べな」と買ってくれたことを覚えている。広くもなければ人もあまりいない小さな遊園地、動物園……。
多分あの日は何か大人たちの事情があり、まだ大学生の叔父さんが、僕を押しつけられたのであろう(その叔父さんは子供の相手が苦手そうで、僕も子供扱いされることに抵抗があり、気まずい雰囲気だった)。

そんな幼いころの、寂しい思い出は、こんなにも長いこと僕の心に巣食い、センチメンタルな妄想を抱かせる。
野村芳太郎という人は、子供がひどい目に遭う映画を少なくとも2本は撮っているわけで、どこか僕と似たような性癖があったのかも知れない。一種の自己憐憫とでも言えばいいのだろうか?
幼年時代とは実は寂しいものであり、大人に優しくされるほど、得体の知れない切なさのようなものがこみ上げてくる(祖父が酒屋でオレンジジュースを飲ませてくれたり、喫茶店でプリンを食べさせてくれたことも、なぜか“寂しい思い出”として、僕の記憶に刻まれている)。

そう言えば小学校のころ、図書室で「かわいそうなお話」という童話集を見つけて、ゾクゾクしたのを覚えている。借りて帰って、家で泣きながら読んだのだが、それは「哀れむ」「悲しむ」という娯楽だった。『鬼畜』『震える舌』は、そうした秘めやかな娯楽要素に支えられている気がしてならない。

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2019年9月13日 (金)

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国立新美術館へ、『話しているのは誰? 現代美術に潜む文学』へ。
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現代美術家6人のグループ展で、写真からインスタレーションから映像から、いろいろ見られて1,000円は安い。
原爆や沖縄の基地問題をテーマにしているけど、入場時に渡される解説書を読まないと、なんだかサッパリ分からないと思う。でも、僕は自分の「感性」なんてものだけを頼りにする方が、よっぽど怖い。解説書も含めて作品なのだ、と考えた方が絶対に得だ。プラスになる。

山城知佳子さんの作品は、30分ほどの短編映画。といっても、これといってストーリーがあるわけではなく、沖縄で絵画を制作する様子をドキュメンタリー調に撮ったり、琉球語で行われる寸劇を撮ったりしている。
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上の画像はワンシーンだけど、アスペクト比が変でしょ? スタンダードより横幅が狭い、IMAXに近いんじゃないの? だけど美術館の一角を暗幕で仕切っているだけなので、スクリーンは小さい。その代わり、スクリーンの横に大きな樽が転がしてあって、上映と上映の間には天井からスポットライトを床に当てて、馬の走る音を流したりして、ムードを高めている。
こういう、空間丸ごとを使って「上映する場」を作るのであれば、3Dでも4DXでもいいんじゃない? もちろんIMAXデジタルでも。


だけど、新美術館はサンドイッチもおいしいし、何より空間の使い方がいい。窓から見える樹の配置、ガラスや木材の配分。椅子の傾き、配置、すべてが優れている。すべてが創作的。「勉強になる」というか。
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乃木坂駅から直通で来られて、帰るときは美術館の中をつっきって、そんなに暑くもないので六本木駅へ抜ける。
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大袈裟かも知れないが、サンドイッチやコーヒー、六本木の裏側を歩く道、人々、それらも含めた巨大な空間、歩いている時間までもが「作品」という気がする。……そう考えたほうが、将来、ひとつの価値観として実を結んでくれそう。正直に言うと、映画館へ行って「帰りの道まで作品の一部だ」と感じたことは、一度もない。
まあ、上野の美術館も意味なく有名俳優を使って客寄せしたり、ひどいもんだけどね。新美術館は別格と思っている。来月も、きっと行くよ。


トイレを我慢させられる映画館よりは、寝転んで家で観られるレンタルDVDの方が、僕には向いている。最近観たのは、クリント・イーストウッド監督の『恐怖のメロディ』、ウィリアム・ワイラー監督の『ローマの休日』。
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『ローマの休日』は大学の授業で観たはずなんだが、今回のほうが良かった。
Twitterでも指摘したが、アン王女が宮殿を脱け出す時、三輪トラックの荷台に忍び込む。トラックが走り出して、ローマの庶民的な風景が見えると、笑顔になった王女のまわりで、積まれているビンや鍋などの金物がガラガラと音を立てる。その音が、王女の喜びを表現している。拍手のようにも、笑い声のようにも聞こえる。
そうやって小道具を使ったり、構図を使って何とかして登場人物の「内面」とか「気持ち」を物理的に表現するのが、僕は映画だと思う。セリフで「嬉しい」と言わせれば喜びが伝わるのだろうか? それでは、表現になってない。


ところがね、アン王女とグレゴリー・ペックの記者とが別れるでしょ?
孤独なペックのところに新聞社の上司とカメラマンが来て、約束の特ダネ記事はどうした?と詰め寄る。上司を帰したあと、ペックは2人の思い出を記録してくれたカメラマンに「もう特ダネ記事なんて書く気はない」と告げる。カメラマンは「でも、写真はいい出来だよ」と、2人で王女の写真を見はじめる。
このシーン、不思議と胸がしめつけられた。なぜだろう?と、考えた。2人は「この時は、本当に驚いたなあ」「この写真にタイトルをつけるとしたら……」と盛り上がる。劇映画というフィクションの中に、さらに写真という虚構を設けることで、シーンの実在感を強調している……いや、逆に「あのシーンもこのシーンも、映画なんてぜんぶ作り事だ」と確認しているようにも見える。だから切ないのだろうか?

演出としては、演劇でも成り立つ凡庸なものなんだけど……。分からない。
上に書いた荷台でビンや金物が鳴るシーンは、この映画の中で「映画」が機能している数少ないシーンだ。あとは、通俗的な「ドラマ」であるに過ぎないと思う。だけど僕は、グレゴリー・ペックが写真を見るシーンで、背後から盲点を突かれた気持ちになった。

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2019年9月 5日 (木)

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“やられメカ”から世界観を構築する――。出渕裕の仕事と美学【アニメ業界ウォッチング第57回】
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20年前に「東京ロボット新聞」で1回、「月刊モデルグラフィックス」で2回インタビューしたことのある出渕さんに、ご登場願いました。僕らの世代でいうと「ブチメカ」なので、徹底して敵側の話ばかり聞いています。


月曜までに30ページほど書かねばならないんだけど、こういう時こそ映画を観なくては。
ウイリアム・ワイラー監督の『おしゃれ泥棒』、ロベール・アンリコ監督の『暗殺の詩/知りすぎた男どもは、抹殺せよ』。後者は凄い邦題がついているが、『冒険者たち』の監督作なので、男2人女1人のサスペンスフルで大人っぽい逃亡劇をたっぷり楽しめる。生ハムとワイン、釣りをするシーンもある。

しかし、ここではオードリー・ヘプバーンとピーター・オトゥール主演の『おしゃれ泥棒』に触れておこう。
1966年の映画で、何かアイデアに新味があるわけではない。後半、オードリーは「美術品泥棒」のオトゥールとヴィーナス像を盗み出すが、そのアイデアがとり立てて面白いわけでもない。だが、映画のほとんどでオードリーが右、オトゥールが左に立っていることに気がつくと、俄然、面白くなってくる。
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オードリー演じる娘は何もせずブラブラしているだけだが、父親は凄腕の贋作画家だ。父と一緒に映るシーンでも、オードリーは必ず右に立っているか、座っている。オトゥールと一緒のシーンでも、2人はサッと身を交わして、結局はオードリーが右側に落ち着く。
では、いつオードリーは画面左側に来るのだろう? オードリーがオトゥールに銃を向けるシーンでは、彼女はほぼ左側に立っている。後半、ヴィーナス像を盗んでまで欲しいのか、と聞かれて「欲しい」と答えるカット、オードリーは左である。ラストシーンで、オードリーが初めてオトゥールに嘘をつくカット。オードリーは左だ。

ようするに、彼女がイニシアチブを握るシーンでは、彼女は左側にいる。
それ以外のシーンで左側にいるのは、父親かオトゥール、贋作画家と美術品泥棒、どちらも人を騙して手玉にとる役柄だ。気がつけばこの映画、オードリーは男2人にリードされるばかりで、自発的に動くことはない。彼女がわすがながらに主体性を発揮するシーンで、ようやく画面左側に立つ。


以前にもこういう映画を見たぞ……と思い出したのが、ヒッチコック監督の『泥棒成金』だ()。
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この映画では、泥棒のケーリー・グラントが画面左側を占めているのだが、グレース・ケリー演じる娘に翻弄されるうち、画面左の「優先位置」をどんどん彼女に明け渡していく。ヒッチコックなら、さすがに俳優がどちら側にいて、どちらへ向かって歩くか計算していただろうと思う。
11年後の『おしゃれ泥棒』が、『泥棒成金』を参考にしていても不思議ではない。それを裏づけるかのように、『おしゃれ泥棒』でのオードリー・ヘプバーンは、「ヒッチコック」というタイトルの本を読んでいる。……まあ、当時のヒッチコックは『サイコ』と『鳥』で、今でいうホラー映画の巨匠のような立場だったので、演出意図はまったく別のところにあるだろうとは思う。


僕にとって「映画が面白い」とは、画面内の俳優の位置が決まっていたり、あるいは展開に応じてカメラワークや構図が変わったりすることであって、決して「物語」ではない。だが、映画の本質を「物語」にして、ラストシーンが「ネタバレ」するとかしないとか、伏線を回収できているかいないかを評価軸にした方が、観る側は「楽」なのである。
メディアに登場する映画評論家は、まず構図の話などしない。平然と「ネタバレ」がどうのと言うし、あっさり「泣いた」なんて言ってしまう。映画を語る言葉がどんどん痩せていくので、観客は3Dよりも4DXのほうが高級だとか、IMAXで見ないと迫力が伝わらないなどと、自分の体験した上映形式に優越感を見い出すしかない。

僕はつい最近、スマホの画面で映画を観て、ちゃんと面白いことに愕然とした。むしろスマホのほうが、構図をしっかりと確認できる。
スマホでもIMAXでも3Dでも、四角いフレームのどこに何が位置しているかは変わらない。フレームの中に時間があり、時間とともに情報が変化していく。それ以外に、映画を定義づける要素はないと思う。
もし映画の本質が「物語」なら、ゴダールの映画は「伏線も何もない、劣った映画」にされてしまう。


最後に、またN国党関連の話題。この「さゆふらっとまうんど」さんがNHKの上田良一会長の会見に激怒している動画()。
俺が受信料を払いたくないのは、NHKという組織の愚鈍さ、無神経さ、公平さに対する関心の無さを知っているからだよ。「廣田さん、質問に答えてください」とか偉そうにコメント欄に書いてきた人()。そんなにNHKを必要と思うなら、あなたが高い受信料を払って支えればいいじゃん。
どうせ「みんなが平等に払ってるんだから、払うべきだー」程度にしか考えてないんでしょ? 本当の自由、リスクを賭けて自由を勝ちとろうなんて考えたことないんだろうな。俺をブロックしながら、そっちはこのブログを見放題、それこそ不公平じゃないのか? 恥を知れよ。 

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