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2019年7月14日 (日)

■0714■

Amazonプライムのレンタルで『フランケンシュタインの怪獣 サンダ対ガイラ』、『空飛ぶゆうれい船』、『ぼくらの七日間戦争』など、31日のトークイベント()が自衛隊テーマなので、自衛隊というか自衛隊車両の出てくる映画ばかり見ている。
『サンダ対ガイラ』は大学時代、ビデオを持っている知り合いに貸してもらって観た。
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ラス・タンブリンと水野久美、ふたりの大人だけを中心にドラマが展開し、自衛隊が作戦行動するシーンだけ視点がドキュメンタリックに変化する、そのクールな構成に驚いた。大人の男女2人が怪獣を追う艶っぽいドラマが、自衛隊のシーンになると突如として分断されてしまう。この映画には、ふたつの時間が流れている。

両者を結びつけるのが、(人間によく似たルックスの)善の怪獣が悪の怪獣を追う生々しい特撮シーンだ。善の怪獣サンダは、崖から転落しそうな水野久美を助けるため、足に怪我をしてしまう。そのため、クライマックスの戦いでは片足を引きずったまま無理を押して、悪の怪獣ガイラを追う。手負いの怪獣、という異様な存在は感情移入を拒む。しかし、水野久美演じる研究員はサンダを保護すべきだと訴える。観客は、彼女の立場を支持すればいいのだろうか?
肉片が飛び散っただけで、無限に細胞分裂を繰り返すモンスターには、細菌だとか公害だとか、ようするに社会から見て“バッちいもの”、“汚いもの”が投影されている。そんな汚い怪獣に愛着を示す水野久美の役柄には、やはり理解しがたい頑なさを感じて、この映画を冷たく強固なものにしている気がした。


僕を最も戦慄させたのは、人食いの怪獣ガイラが自衛隊の攻撃に追われて、自分の生まれた海へ戻ろうとして山村を駆けるロングショットだった。
ガイラの手前には、ガイラから逃げているはずの村民たちが、ガイラと同じ方向へ走っている。逃げる怪獣と、怪獣から逃げている人々が同じ方向へ走る……そのショットには、「人々を追う怪獣」「怪獣から逃げる人々」といった、分かりやすい構図に当てはめようのない絶望感があった。
村民たちもガイラも、死の恐怖から逃れようとしている点では同レベルであり、すなわち人食いの怪獣をも上回る脅威が、この世界に存在していることになる。物語、シナリオでは語りえぬ領域を、多重露光の特撮ショットが存分に描きえていた。


『ぼくらの七日間戦争』は、一種独特のリアリティを持つ映画だった。大学時代、劇場で観て以来だ。
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「リアリティ」とは、ようするに2階から転落してケロッとして立ち上がるのか、大怪我をするのか……といった、身体レベルの話にすると分かりやすい。
中学生11人が、廃工場に立てこもる。しかし、水や食料はどうする? 途中、白いタンクトップ姿の宮沢りえが美脚を披露しながら食糧補給に来るが、だからそこで料理するほどの設備があるのか? とにかく水はどう調達している? トイレはどうしているのだろう?と、いちいち気になってしまう。
映画の後半は、工場から子供たちを追い出そうと試みる教師、機動隊との攻防戦が占める。だが、子供たちはあらゆる種類のワナをしかけて大人たちに圧勝し、鉄パイプなどで出来たワナにはまった大人たちは怪我をしている様子がない。いわば、この映画には生身の身体がない。無声映画時代のコメディに立ち返ったかのように、フィルムの中にだけ存在する現実から遊離した身体だけがある。
そう考えると、子供たちがこれといった要求もなく、自分の身体だけを人質に大人を脅かす奇妙な構図にも、なんとなく納得がいく。

ところで、戦車まで投入して廃墟を要塞化して立てこもるプロットは『うる星やつら2 ビューテル・ドリーマー』にも通じるアイデアで、その原風景は安保闘争に求められると思う。『ぼくらの七日間戦争』のラストで、子供たちはなんと「次は国会議事堂だ!」と宣言する。
そういえば、子供たちが立てこもった工場も学校も、国会議事堂とシルエットが似ている。


“私たちは「ただしさ」を渇望するあまり、「ただしさ」を与えてくれる「わかりやすくシンプルで、裏表のない悪」を求めるようになった。”
僕が「ネタバレ」という便利な言葉を嫌悪し、忌避する理由が、ここに書かれている。
ようするに、たかたが映画の感想や評価ごときにコストはかけたくない、だけど共感を得たいし否定されたくない。結果、肯定でも否定でもない「ネタバレだから言えない」「ネタバレだから言うな」といった、思考の放棄にたどり着いたのだろう。

(C)1966 TOHO CO.,LTD.
(c)1988 角川映画

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