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人型メカのアクションを登場人物の回想シーンにシンクロさせる「マクロスプラス」の演出力【懐かしアニメ回顧録第56回】(■)
『機動戦士Vガンダム』、『∀ガンダム』、今回の『マクロスプラス』、とにかく劇中設定やスペックとは関係のない、台詞や映像だけから読みとれるメカニックの面白さに触れてきました。
今回は『マクロスプラス』のYF-21が「鏡に映った自分」を殴ってしまうカットが、その少し後の回想シーンで、「イサムを殴るガルド」「ミュンに乱暴しようとした自分を鏡の中に見てしまうガルド」と重なるのではないか、という仮説を立てています。
この仮説に若干の分があるのは、YF-21がガルドの思考を勝手に読みとって実行してしまうロボットだからです。ここで「ロボット」と書くと、「いや、可変戦闘機だろ?」「バトロイドだろ?」とツッコミが入りそうですが、一般名詞に分解して、なるべく広く伝わる、そのような批評を目指しているのです。
すなわち、モビルスーツを「ロボット」と僕は書きたいし、いきなり「MS」で通じるような文章からは距離を置きたいわけです。
また、メカ描写や劇中設定を決しておろそかにしたいわけではありません(今回はYF-21のBDIシステムに触れていますし)。
メカを都合よく切り離した人間ドラマ解析も、やはり自分の目指すところではありません。メカの存在や振る舞いが、どう文芸的に機能しているか、それを読み解きたいのです。
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さて、月末の【プラモデガタリ】のテーマが自衛隊なので(■)、片っ端から昭和の映画を借りてきたり、あるいは配信サイトを検索したりして、毎晩見ている。
『野性の証明』、『戦国自衛隊』と連続して出演した角川春樹の秘蔵っ子、薬師丸ひろ子の主演三作目『セーラー服と機関銃』。制服少女+銃器は本作が初めてだと思うので、ついでに観てみた。
相米慎二監督作なので難解ぶりは覚悟していたが、脚本が比較的オーソドックスな分、長回しやロングショットが際立って感じられた。
いちばん驚いたのは、新宿・太宗寺で薬師丸の配下のヤクザたち、彼女を慕う男子高校生たちが飲んだり踊ったりしていて、薬師丸本人は観音菩薩像の腰に菩薩と同じポーズで座っているシーン~暴走族のバイクを奪い、夜道を移動撮影するアクティブな長回しだ。
バイクに子分と二人乗りしてからの台詞は、明らかにアフレコで、エコーがかけられている。「組長、俺の背中に雨が降ってますよ」と、子分は言う。後ろに乗っている薬師丸は「大丈夫、もう晴れたから」と答える。普通の映画なら、アップにして薬師丸の涙ぐらい撮りそうな“泣かせ”のシーンだ。
セットではない、スクリーンプロセスでもない、夜道のロケはネオレアリズモ、ヌーヴェル・ヴァーグで高感度フィルム、小型カメラによって実現された。ドキュメンタリックな手持ちのカメラワークも、同様だ。
しかし、相米慎二は常に空間を意識して、カメラと被写体の距離を気にしている。冒頭、薬師丸がブリッジしているカットの、奇妙なフレームサイズ。風祭ゆきの演じる謎の女を薬師丸が問い詰めるシーンで、ソファの後ろから這い登り、ドタンと手前にすべり落ちながら台詞を言うカットもそう。
ラスト近く、渡瀬恒彦と薬師丸が屋上であれこれ燃やしながら、別れの会話をかわしている超ロングのカットも、俳優との距離をひたすら計算しているかに見える。
一言で言うなら、それは俳優にとっては自由、観客にとっては事態や状況を把握しづらい、不自由なカットだ。
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もし相米慎二が存命なら、僕は何とかしてインタビューをとりに行っただろう。
こんな奇妙な映画しか撮らないポルノ出身の監督に、メジャー配給会社の正月映画を任せてしまった1981年の映画業界は、ネジが外れていて無責任だったと言える。とにかく、当時の邦画は冷え切っていたから。一方で、主題歌・出版とのメディアミックスで斬りこんできた角川映画にとっては、独裁的に、最も有利に戦える戦場でもあった。角川春樹は、臆するところがなかった。
風祭ゆきのヤクザの娘が、全裸の渡瀬恒彦と激しいセックスをしている。それを、薬師丸は間近に見てしまう。
撮影当時の薬師丸は高校二年生であった。淫行条例などのおかげで、同じシーンを2019年に撮影することは不可能だろう。その他、薬師丸が飲酒するシーンもある。公開当時、一部の学校では不謹慎なので鑑賞禁止にされたそうだが、今なら映倫が先回りしてR-18に指定するだろう。人権意識が向上し、ポリコレが普及した結果、映画は社会の隷属物になったのだ。
ラストシーン、新宿の雑踏を、セーラー服に大人びたパンプスを履いた薬師丸がタバコを吸う仕草をしながら歩いてきて、子供と一緒に機関銃をもったフリをして、地下鉄の排気口のうえに立つ。マリリン・モンローのように、スカートが舞い上がる。ゲリラ撮影である。
すると、通りを歩く人々が薬師丸に好奇の目を向けて、グルリと彼女を取り囲む。そこへ、薬師丸の「ワタクシ、愚かな女になりそうです、マルッ」とモノローグが入る。実際に、画面に「○」がインサートされて終わり。エンドロールも何もないし、もちろん「エンドロールでも席を立つな」「ネタバレすんな」とうるさい映画ファンもいなかった。
昭和の時代、映画は自由の証だった。粗暴で反社会的、法律などお構いなし。濡れ場や暴力は、正月映画だろうが当たり前に挿入される。映画は風にさらされていた。相米慎二はシバキ棒を持って現場をうろつき、子役だろうがアイドルだろうが怒鳴りつけた。
インテリヤクザの世界で、彼らの過去作をションベン臭い名画座に観にいこうとすれば、ちょっとした覚悟が必要だった。今はどうだろう? 製作委員会にかしづいた宣伝業者、ネタバレ禁止令、法外な版権使用料、映画会社のチェックを受けた太鼓持ち記事……日本人が従順で大人しくつまらなくなったことは、映画界を見れば分かる。
(C)KADOKAWA 1981
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