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2019年7月15日 (月)

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「イデオン」のメカニック・デザイナー、樋口雄一さんが教える“敵をつくらず生きる自由放埓な創作人生”【アニメ業界ウォッチング第56回】
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毎月開催している【模型言論プラモデガタリ】のゲストとしてお呼びして、その前に個展に挨拶に行って……と、三度しかお会いしていないのに、樋口さんの磊落な性格のおかげで、気安く海外旅行の話などもできました。


『ぼくらの七日間戦争』を見た翌日、戦車と廃墟と立てこもりなら『うる星やつら2 ビューテイフル・ドリーマー』だろう、と思ってAmazonプライムでレンタルした。高校時代に「フィルムコミックを読みながらドラマ編LPを聴く」という変な視聴体験をして、大学に入ってから1回、卒業してから1回見ていると思う。
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「ロマンアルバム イノセンス押井守の世界」によれば、この映画は、前作『うる星やつら オンリー・ユー』を「ただのテレビのでかいもの」と反省した押井守監督が、映画らしさを求めてリベンジした作品のはずだ。
「テレビのでかいもの」という表現にはピンとくるものがある。定番のギャグや観客が見慣れているシチュエーションをくまなく入れて、涙あり笑いありに仕立てれば、たいていの観客は満足してしまう。
90分なり2時間なりの長さのアニメならば、すなわち映画と呼べるのだろうか? 押井監督の言う「映画」とは「実写映画」のことではないのか? 「押井守の世界」で、押井監督は『オンリー・ユー』と併映の『ションベン・ライダー』(相米慎二監督)を比較にあげて、「こんな映画をつくっていいのかというぐらい、勝手な映画」「やりたい放題やっていて、話がさっぱり分からないんだけど、映画として何か妙に面白い」と言っている。


なぜ、『ビューティフル・ドリーマー』は映画に見えるのだろうか?
即答できる人は少ないと思う。その人の中に、暫定的であれ、映画の定義が固まっている必要があるから。さらにと言うと、「映画」と「アニメ映画」の違いとは、単に「本物の俳優を撮っている」「絵で描いてある」程度のものなのだろうか?

『ビューティフル・ドリーマー』 を見ていて、まず気がつくのはOFFゼリフの多さだ。画面外からのセリフが、かなり多い。
わけても印象的なのは、友引町が廃墟となった直後、コンビニで食糧をかき集めるシーンから始まる、メガネのモノローグだ。サクラ、面堂、あたるのモノローグもある。OFFゼリフといえば、前半で温泉マークとサクラさんが会話するシーンで、カメラが2人から外れてPANし、黒闇に会話だけが聞こえるカットがある。

ことテレビアニメにおいては、絵とセリフ、音声が一致していることが多い。画面内で爆発が起きると、修飾するようにドカーンと音が入る。そうではなく、キャラクターの顔のアップにドカーンと音が入り、振り向くと煙の上がっているカットが入る……これだけで、映像の意味は膨らむ。つまり、絵の情報、音の情報をズラすだけで、その瞬間の意味は多層化する。
(押井監督も好きなゴダールの映画は、画面外から抽象的なモノローグが乱入することが多い。)


もうひとつは、長回し。これは「多い」とまでは言えないけど、諸星家での食事シーンは特筆すべきだろう。
あのカットで、食卓を囲んだキャラクターたちはみんな別々の動きをしていて、ちょくちょくセリフが入る。ロングで、全員が同じフレームに収まっている。
このカットは、OFFゼリフなんかより、かなり「映画っぽさ」の核心に触れていると思う。食事を描くには、手と口をリピートで動かせば食べているように見える。このカットでもリピートは使われているが、キャラクターが勝手に話したり独自の芝居をするところは送り描き、すなわち頭から順番に描かねばならない。

歩いたり、話したりする芝居は、セルアニメの場合、リピートが基本だ。ロトスコーピングでないかぎり、同じ動画をリピートさせて撮れば動いて見える。『ビューティフル・ドリーマー』でいえば、あたるがテレビ版第1話の鬼ごっこのシーンに戻ってしまうシーン、背景のモブが単調な同じ動きを繰り返している。リピートは省コストな技法ではあるが、セルアニメの本質ではないかと思っている。
面堂がハリアーを持ち出し、メンバーみんなで友引町の姿を目撃する衝撃的なシーンでも、あたるやラムの髪の毛はリピートで揺らめいている。同じ絵に戻っては動き、動いては戻る……つまり、僕には時間がループして見える。

「バンク・システム」を聞いたことがあると思う。ロボットの合体シーンとか汎用性の高い芝居の動画を保存しておき、別のシーンで使いまわす。
『ビューティフル・ドリーマー』 では、学園祭の準備のシーンで、同じ動画が使いまわされている。時間がループしていることを表現するのに、同じ絵を使いまわすことは理にかなっている。しかし、それはセルアニメがリピートに頼っている、という本質を種明かしすることにもなるのではないだろうか?
諸星家での食事シーンは、その本質からはみ出している。リピートの中で、キャラクターが予想外の動きをする。その「予想外」の部分が「映画的」なのかも知れない。なぜなら、実写映画は回想シーンでもないかぎり、同じコマを二度と再び使うことはないからだ。


OFFゼリフと送り描きの両方が使われたシーンがある。面堂が、しのぶを車で送る夜道のシーン。ヘッドライトに照らされた道だけが動画で描かれ、セリフは画面外から入る。このような情報の遮断も、『ビューティフル・ドリーマー』では多く使われている。冒頭、アップだけ繋いで全景をなかなか見せないのは、その典型だろう。

しかし何より、押井監督はリピートに頼らねば日常芝居すら描けないセルアニメの構造を目の前にして、送り描きでないと描けない予想不可能な時間を作り出そうとしたのではないだろうか。つまり、アニメの癖というか、「質」を壊すことでしか、アニメは「映画」になれないと考えたのではないだろうか。
「ループする時間を抜けだす」テーマは、ループする動きを破壊しようとする作画によって、何より雄弁に語られている。
「なぜ『ビューティフル・ドリーマー』 が映画的なのか」、ストーリーをいくら吟味しても、いくら作中の謎を解き明かしても、分からないと思う。何がどう見えているのか、裸眼で見なければ。

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