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2019年7月21日 (日)

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GEOでレンタルしてきた『わが谷は緑なりき』。大学の授業でウトウトしながら見たはずだが、それは『怒りの葡萄』であった。
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しかし、いずれの作品も『駅馬車』のジョン・フォード監督作である。1941年にして、非常に高度な撮影だ。幾重にも重なった煙は、実際には黒や灰色ではなく、モノクロフィルムで映えるような色を選んだのではないだろうか(赤をモノクロで撮ると血には見えないと『サイコ』のメイキングで言っていた)。逆光の中、雨だけがシャープに撮れているのは、照明効果のおかげなのだろうか?
僕はやはり、モノクロ映画時代に映画という表現形式が、技術的に完成したと認識せざるを得ない。ここ2~3年の、僕の新しい発見だ。


終盤近く、「あっ」と声が出そうになったシーンがある。
舞台である炭鉱町で事故が起きる。主人公の少年は、大人たちと一緒に地下の坑道へ降りて、父の姿を探す(坑道のセットも、素晴らしくよく出来ている)。しかし、大怪我をした父は息絶えてしまう。
カットが変わると、女たちが男たちの帰りを待っている。エレベーターの滑車が回り、男たちが坑道から上がってくる。一段目のエレベーターには疲弊した男たちがガックリと肩を落として、座り込んでいる。エレベーターのメカニカルなディテール。まるで絵画のように、ピタリと静止した男たち。
続いて、エレベーターの二段目がフレームにINする。そこには、父の亡骸を抱いた少年が座っている。彼の兄が、両手を広げて二人を見下ろしている。やはり、彼らは微動だにしない。ただ下から上へ移動するだけのエレベーターの単調な動きが、本来なら動いて感情表現するはずの人間たちの凝固したポーズを、異様に浮かび上がらせる。その方が、理不尽な悲しみの大きさが伝わってくるのだ。

こんな高度な演出が、今の映画にあるのだろうか? 時が一方向に進むと思ったら大間違いで、僕には40~50年代の映画のほうが刺激的だ。


本日は、参議院選挙日。
山田太郎さんも立候補しておられるので、昨日はたくさんのツイートが回ってきた。2014年、GMOメディアのブログにフィギュアを載せていた方たちが「児童ポルノを掲載している」として強制削除された件で、僕は抗議署名を集めた()。その際、国会議員だった山田太郎さんの秘書さん(AFEE:エンターテイメント表現の自由の会の坂井崇俊代表)から連絡があり、「一緒に抗議に行きましょう」と打診された。国会議員が一企業に抗議に行くと威圧感があるので、個人と同行したほうが都合がいいとの理由だった。僕は電話でアポをとるのが苦手なので、渡りに船と坂井さんにお願いした。
なので、僕と山田さん、坂井さんが一緒にGMOメディアに抗議に行ったのは間違いない。しかし、僕はこの日まで山田さんとも坂井さんとも会ったことがなく、署名は誰にも相談せず、ひとりで集めた。

昨日、山田さんの支援者の方が署名を「提出抗議してくれたのが山田太郎氏」として、記事のリンクを貼ってツイートしてらした。
しかも、削除されたフィギュアは「児童ポルノ」ではなく「猥褻物」にされたと書かれており、一千以上もRTされただけでなく、「Amazonでアダルト物とされていたフィギュアが一般向けに訂正されたのも山田さんの功績だったのか」といった意味の、明らかな事実誤認の返信までつけられていた。
さすがにこれは看過できないので、訂正のツイートを僕から行った。当時撮られた写真も、AFEEのアカウントに残っていた。その写真で署名簿を手渡しているのは坂井さんであって、僕はいちばん後ろで手を添えている程度だ(画像引用元)。
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繰り返すが、僕はこの日まで山田さんとも坂井さんとも会ったことがなく、署名は誰にも相談せず、ひとりで集めた。というか、僕はいつでもそうしている。


上の画像がネット配信で流れたとき、「その後ろにいる人は何なの?」と、視聴者からコメントされた。
「あれっ、そうなっちゃうのか」と思ったよ。僕は無名のライター、もう一方は国会議員。山田さんが僕をないがしろにしたことは多分ないけど、周囲からは「あれは山田さんの功績」として定着してしまう。意図的に、「山田さん当選のため、この無名ライターには我慢してもらおう」と支援者の人たちが考えるのも無理はない。まあ、大変無礼な話ではあるが。
だけど、この抗議署名で僕を評価してくれた人たちは「フィギュア趣味の当事者である個人が声をあげたことが大きい」と言ってくださった。その「名もない個人が声を上げた」という部分は、政治文脈では邪魔なんだと思う(念のため言うと、山田さんご自身が僕を邪魔と思っているわけではない……と思うが、支援者が都合よく解釈してしまうことは今回、非常によく分かった)。

当該ツイートは削除され、ご本人は「事実を書いただけだが、選挙日になったので削除した」といったツイートしてらしたが、そのツイートも今では無くなっている。
「表現規制反対」というと、いつも同じメンバーが顔を揃える。僕もイベントで皆さんに出演していただいたし、僕のほうがゲストやインタビューで呼ばれることもあった。しかし、新しい人、それこそ「無名の個人」がいつまでも出てこないことに、閉塞感をおぼえる。
一極集中させず、個人それぞれが自分の趣味や仕事の領域で、自尊心のために戦う……それが、僕の理想だ。普段から大声で「表現規制に反対します」なんて言わなくても、自分の領域が侵犯されたら、勇気と誇りをもって戦う。そのために頑健な自尊心を育むことが何より大事なはずで、政治家に「何とかしてください」では世界は変わらない。
なので僕は、徒手空拳でどこまで何がやれるのか、試してみたい。今回のように、自分の行動を「なかったこと」にされないためにも。

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2019年7月15日 (月)

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「イデオン」のメカニック・デザイナー、樋口雄一さんが教える“敵をつくらず生きる自由放埓な創作人生”【アニメ業界ウォッチング第56回】
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毎月開催している【模型言論プラモデガタリ】のゲストとしてお呼びして、その前に個展に挨拶に行って……と、三度しかお会いしていないのに、樋口さんの磊落な性格のおかげで、気安く海外旅行の話などもできました。


『ぼくらの七日間戦争』を見た翌日、戦車と廃墟と立てこもりなら『うる星やつら2 ビューテイフル・ドリーマー』だろう、と思ってAmazonプライムでレンタルした。高校時代に「フィルムコミックを読みながらドラマ編LPを聴く」という変な視聴体験をして、大学に入ってから1回、卒業してから1回見ていると思う。
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「ロマンアルバム イノセンス押井守の世界」によれば、この映画は、前作『うる星やつら オンリー・ユー』を「ただのテレビのでかいもの」と反省した押井守監督が、映画らしさを求めてリベンジした作品のはずだ。
「テレビのでかいもの」という表現にはピンとくるものがある。定番のギャグや観客が見慣れているシチュエーションをくまなく入れて、涙あり笑いありに仕立てれば、たいていの観客は満足してしまう。
90分なり2時間なりの長さのアニメならば、すなわち映画と呼べるのだろうか? 押井監督の言う「映画」とは「実写映画」のことではないのか? 「押井守の世界」で、押井監督は『オンリー・ユー』と併映の『ションベン・ライダー』(相米慎二監督)を比較にあげて、「こんな映画をつくっていいのかというぐらい、勝手な映画」「やりたい放題やっていて、話がさっぱり分からないんだけど、映画として何か妙に面白い」と言っている。


なぜ、『ビューティフル・ドリーマー』は映画に見えるのだろうか?
即答できる人は少ないと思う。その人の中に、暫定的であれ、映画の定義が固まっている必要があるから。さらにと言うと、「映画」と「アニメ映画」の違いとは、単に「本物の俳優を撮っている」「絵で描いてある」程度のものなのだろうか?

『ビューティフル・ドリーマー』 を見ていて、まず気がつくのはOFFゼリフの多さだ。画面外からのセリフが、かなり多い。
わけても印象的なのは、友引町が廃墟となった直後、コンビニで食糧をかき集めるシーンから始まる、メガネのモノローグだ。サクラ、面堂、あたるのモノローグもある。OFFゼリフといえば、前半で温泉マークとサクラさんが会話するシーンで、カメラが2人から外れてPANし、黒闇に会話だけが聞こえるカットがある。

ことテレビアニメにおいては、絵とセリフ、音声が一致していることが多い。画面内で爆発が起きると、修飾するようにドカーンと音が入る。そうではなく、キャラクターの顔のアップにドカーンと音が入り、振り向くと煙の上がっているカットが入る……これだけで、映像の意味は膨らむ。つまり、絵の情報、音の情報をズラすだけで、その瞬間の意味は多層化する。
(押井監督も好きなゴダールの映画は、画面外から抽象的なモノローグが乱入することが多い。)


もうひとつは、長回し。これは「多い」とまでは言えないけど、諸星家での食事シーンは特筆すべきだろう。
あのカットで、食卓を囲んだキャラクターたちはみんな別々の動きをしていて、ちょくちょくセリフが入る。ロングで、全員が同じフレームに収まっている。
このカットは、OFFゼリフなんかより、かなり「映画っぽさ」の核心に触れていると思う。食事を描くには、手と口をリピートで動かせば食べているように見える。このカットでもリピートは使われているが、キャラクターが勝手に話したり独自の芝居をするところは送り描き、すなわち頭から順番に描かねばならない。

歩いたり、話したりする芝居は、セルアニメの場合、リピートが基本だ。ロトスコーピングでないかぎり、同じ動画をリピートさせて撮れば動いて見える。『ビューティフル・ドリーマー』でいえば、あたるがテレビ版第1話の鬼ごっこのシーンに戻ってしまうシーン、背景のモブが単調な同じ動きを繰り返している。リピートは省コストな技法ではあるが、セルアニメの本質ではないかと思っている。
面堂がハリアーを持ち出し、メンバーみんなで友引町の姿を目撃する衝撃的なシーンでも、あたるやラムの髪の毛はリピートで揺らめいている。同じ絵に戻っては動き、動いては戻る……つまり、僕には時間がループして見える。

「バンク・システム」を聞いたことがあると思う。ロボットの合体シーンとか汎用性の高い芝居の動画を保存しておき、別のシーンで使いまわす。
『ビューティフル・ドリーマー』 では、学園祭の準備のシーンで、同じ動画が使いまわされている。時間がループしていることを表現するのに、同じ絵を使いまわすことは理にかなっている。しかし、それはセルアニメがリピートに頼っている、という本質を種明かしすることにもなるのではないだろうか?
諸星家での食事シーンは、その本質からはみ出している。リピートの中で、キャラクターが予想外の動きをする。その「予想外」の部分が「映画的」なのかも知れない。なぜなら、実写映画は回想シーンでもないかぎり、同じコマを二度と再び使うことはないからだ。


OFFゼリフと送り描きの両方が使われたシーンがある。面堂が、しのぶを車で送る夜道のシーン。ヘッドライトに照らされた道だけが動画で描かれ、セリフは画面外から入る。このような情報の遮断も、『ビューティフル・ドリーマー』では多く使われている。冒頭、アップだけ繋いで全景をなかなか見せないのは、その典型だろう。

しかし何より、押井監督はリピートに頼らねば日常芝居すら描けないセルアニメの構造を目の前にして、送り描きでないと描けない予想不可能な時間を作り出そうとしたのではないだろうか。つまり、アニメの癖というか、「質」を壊すことでしか、アニメは「映画」になれないと考えたのではないだろうか。
「ループする時間を抜けだす」テーマは、ループする動きを破壊しようとする作画によって、何より雄弁に語られている。
「なぜ『ビューティフル・ドリーマー』 が映画的なのか」、ストーリーをいくら吟味しても、いくら作中の謎を解き明かしても、分からないと思う。何がどう見えているのか、裸眼で見なければ。

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2019年7月14日 (日)

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Amazonプライムのレンタルで『フランケンシュタインの怪獣 サンダ対ガイラ』、『空飛ぶゆうれい船』、『ぼくらの七日間戦争』など、31日のトークイベント()が自衛隊テーマなので、自衛隊というか自衛隊車両の出てくる映画ばかり見ている。
『サンダ対ガイラ』は大学時代、ビデオを持っている知り合いに貸してもらって観た。
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ラス・タンブリンと水野久美、ふたりの大人だけを中心にドラマが展開し、自衛隊が作戦行動するシーンだけ視点がドキュメンタリックに変化する、そのクールな構成に驚いた。大人の男女2人が怪獣を追う艶っぽいドラマが、自衛隊のシーンになると突如として分断されてしまう。この映画には、ふたつの時間が流れている。

両者を結びつけるのが、(人間によく似たルックスの)善の怪獣が悪の怪獣を追う生々しい特撮シーンだ。善の怪獣サンダは、崖から転落しそうな水野久美を助けるため、足に怪我をしてしまう。そのため、クライマックスの戦いでは片足を引きずったまま無理を押して、悪の怪獣ガイラを追う。手負いの怪獣、という異様な存在は感情移入を拒む。しかし、水野久美演じる研究員はサンダを保護すべきだと訴える。観客は、彼女の立場を支持すればいいのだろうか?
肉片が飛び散っただけで、無限に細胞分裂を繰り返すモンスターには、細菌だとか公害だとか、ようするに社会から見て“バッちいもの”、“汚いもの”が投影されている。そんな汚い怪獣に愛着を示す水野久美の役柄には、やはり理解しがたい頑なさを感じて、この映画を冷たく強固なものにしている気がした。


僕を最も戦慄させたのは、人食いの怪獣ガイラが自衛隊の攻撃に追われて、自分の生まれた海へ戻ろうとして山村を駆けるロングショットだった。
ガイラの手前には、ガイラから逃げているはずの村民たちが、ガイラと同じ方向へ走っている。逃げる怪獣と、怪獣から逃げている人々が同じ方向へ走る……そのショットには、「人々を追う怪獣」「怪獣から逃げる人々」といった、分かりやすい構図に当てはめようのない絶望感があった。
村民たちもガイラも、死の恐怖から逃れようとしている点では同レベルであり、すなわち人食いの怪獣をも上回る脅威が、この世界に存在していることになる。物語、シナリオでは語りえぬ領域を、多重露光の特撮ショットが存分に描きえていた。


『ぼくらの七日間戦争』は、一種独特のリアリティを持つ映画だった。大学時代、劇場で観て以来だ。
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「リアリティ」とは、ようするに2階から転落してケロッとして立ち上がるのか、大怪我をするのか……といった、身体レベルの話にすると分かりやすい。
中学生11人が、廃工場に立てこもる。しかし、水や食料はどうする? 途中、白いタンクトップ姿の宮沢りえが美脚を披露しながら食糧補給に来るが、だからそこで料理するほどの設備があるのか? とにかく水はどう調達している? トイレはどうしているのだろう?と、いちいち気になってしまう。
映画の後半は、工場から子供たちを追い出そうと試みる教師、機動隊との攻防戦が占める。だが、子供たちはあらゆる種類のワナをしかけて大人たちに圧勝し、鉄パイプなどで出来たワナにはまった大人たちは怪我をしている様子がない。いわば、この映画には生身の身体がない。無声映画時代のコメディに立ち返ったかのように、フィルムの中にだけ存在する現実から遊離した身体だけがある。
そう考えると、子供たちがこれといった要求もなく、自分の身体だけを人質に大人を脅かす奇妙な構図にも、なんとなく納得がいく。

ところで、戦車まで投入して廃墟を要塞化して立てこもるプロットは『うる星やつら2 ビューテル・ドリーマー』にも通じるアイデアで、その原風景は安保闘争に求められると思う。『ぼくらの七日間戦争』のラストで、子供たちはなんと「次は国会議事堂だ!」と宣言する。
そういえば、子供たちが立てこもった工場も学校も、国会議事堂とシルエットが似ている。


“私たちは「ただしさ」を渇望するあまり、「ただしさ」を与えてくれる「わかりやすくシンプルで、裏表のない悪」を求めるようになった。”
僕が「ネタバレ」という便利な言葉を嫌悪し、忌避する理由が、ここに書かれている。
ようするに、たかたが映画の感想や評価ごときにコストはかけたくない、だけど共感を得たいし否定されたくない。結果、肯定でも否定でもない「ネタバレだから言えない」「ネタバレだから言うな」といった、思考の放棄にたどり着いたのだろう。

(C)1966 TOHO CO.,LTD.
(c)1988 角川映画

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2019年7月 9日 (火)

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昨日は、六本木の国立新美術館の、クリスチャン・ボルタンスキー展へ行った。
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ボルタンスキーについては、何も知らない。20代のころ、雑誌『夜想』か何かで、死者を祭った祭壇の作品を見たおぼえがある程度。名も知れない人々のモノクロ写真を集め、電球で囲み、錆びたブリキ缶を積んで祭壇にする。何の説明もなくても、そこから静謐な死を感じずにおれない。
特に気に入ったのは、三脚にランプとコートがかけられた『発言する』という作品だ。ランプの下に行くと、コートの中に仕掛けられたスピーカーが反応して、「怖かった?」「あなたは、風になったの?」など、英語と日本語で聞いてくる。彼らは亡霊ではなく、むしろ生者が僕という死者に、死の瞬間について質問しているのだと気づき、これはヴァーチャルな臨死体験なのだと分かってくる。(上の写真で、やや右側に黒い人影が見える。それが『発言する』だ)


見知らぬ人々の古い顔写真をあしらった祭壇やヴェールなどの儀式めいた、宗教めいた展示物の中、心音や風鈴の音を聞きながら歩いていくのは、まるで墓参りのようだった。
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「出口」という事務的な標識が見えたとき、「ああーっ」と声が出てしまった。それほど没頭していたし、自分の記憶や身体を意識して、鋭敏になってもいたし、心地よくもあった。展示方法や照明について、また現代美術特有の難解さを批判する気は急速に覚めていった。
出口のあたりで、女性が連れの男性に「地下一階で、ボルタンスキーのドキュメンタリーを上映中、1時間だって」と話しかけていたので、迷うことなく地下へ直行した。バラバラの向きに椅子の置かれた休憩スペースで、そのドキュメンタリーはテレビモニターに、エンドレスで上映されていた。最初から最後まで観ていたのは、僕ひとりであった。撮り方や編集の工夫された、非常に優れたドキュメンタリーだった。

ボルタンスキーの父親はパリ解放まで、地下室で二年間暮らしていた。ボルタンスキーは終戦間際に生まれたが、あまりにも異常な家庭で育ったため、アルバムには友達の写真を貼って、自分の人生を互換性・普遍性のあるものへと組み替えた。名も知らぬ死者たちの遺品を買い集めて、すべての人生と死を等価に扱った。
ボルタンスキー自身の言葉でそう語られると「ああ、やっぱりね」と納得するのだが、作品を見れば、そのコンセプトは理解できてしまう。その伝達力が凄い。

つくづく僕は、名画が壁にかけられ、制作年やマテリアルの記された小さなプレートを頼りに順番どおりに歩く展覧会が退屈で嫌いで、「自分の感性」のみで「作品から何かを感じとる」、その俗物根性を軽蔑しているのだと、あらためて分かった。
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ボルタンスキー展の感想を検索すると、やっぱり「現代アートを見ている私ってカッコいい」と言わんばかりの俗物はいるんだけどね。アートオタクというか、本当は向上心なんかなくて、ただ低俗な自分を糊塗するために「アート」って口にする連中。若いころの僕もそうだったが、50代をすぎた今は自分を誤魔化す余裕なんてない。良くなかったものを「良かったよ」なんて言っている時間なんてない。
そして、この歳になってボタルンスキーを知ったところで、決して遅すぎることなんてないのだ。


「泣けたかどうか」で映画の良し悪しを判断する風潮はすっかり定着したが、最近は「伏線を回収できているかどうか」が、優れた映画の判断基準らしい。学校のテストや受験勉強で「考える」能力を蕩尽しつくしてしまった僕らは、表現物に「回答」があると信じ込んでいる。期末テストの答えを先に知ってしまうのと同じ次元で、「ネタバレ」という概念にすがっている。「ネタ」とは映画の面白さの「回答」であり、それが「バレ」てしまったら映画鑑賞が「答え合わせ」になってしまうと、本気で信じている。
そして、「ネタバレするから言えない、言わない」は意志を放棄し、コミュニケーションを断絶させる態度だ。「言ってはいけない」「言うべきではない」……今の日本を窮屈にしている倫理的病理。主体性を放棄しながら、相手の発言や行動だけはコントロールしたい、虚無的な欲望。僕たちは今よりもっと無気力になって、感動する力を失っていく。

映画を知りたければ、「感性」なんてものにすがってないで、図書館で映画の本を探してほしい。くだらないライターが刹那的に書いたレビューなんかじゃなくて、何十年前の本であっても、専門家が研究した本から手がかりを見つけてほしい。不思議なことに、求めている時には、思ったような本が手に入る。
そして、何となくでいいから、系統だてて映画を見る癖をつけてほしい。20代の僕は、淀川長治が選んだ戦後からの年間ベスト10を、とにかく片っ端から見て、リストに印をつけていった。淀川長治が優れているからじゃない、とにかく何か、映画を見るための指針が欲しかった。ぼんやりと感覚だけで映画を見ているのが、怖くなったんだ。

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2019年7月 8日 (月)

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人型メカのアクションを登場人物の回想シーンにシンクロさせる「マクロスプラス」の演出力【懐かしアニメ回顧録第56回】
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『機動戦士Vガンダム』、『∀ガンダム』、今回の『マクロスプラス』、とにかく劇中設定やスペックとは関係のない、台詞や映像だけから読みとれるメカニックの面白さに触れてきました。
今回は『マクロスプラス』のYF-21が「鏡に映った自分」を殴ってしまうカットが、その少し後の回想シーンで、「イサムを殴るガルド」「ミュンに乱暴しようとした自分を鏡の中に見てしまうガルド」と重なるのではないか、という仮説を立てています。
この仮説に若干の分があるのは、YF-21がガルドの思考を勝手に読みとって実行してしまうロボットだからです。ここで「ロボット」と書くと、「いや、可変戦闘機だろ?」「バトロイドだろ?」とツッコミが入りそうですが、一般名詞に分解して、なるべく広く伝わる、そのような批評を目指しているのです。
すなわち、モビルスーツを「ロボット」と僕は書きたいし、いきなり「MS」で通じるような文章からは距離を置きたいわけです。

また、メカ描写や劇中設定を決しておろそかにしたいわけではありません(今回はYF-21のBDIシステムに触れていますし)。
メカを都合よく切り離した人間ドラマ解析も、やはり自分の目指すところではありません。メカの存在や振る舞いが、どう文芸的に機能しているか、それを読み解きたいのです。


さて、月末の【プラモデガタリ】のテーマが自衛隊なので()、片っ端から昭和の映画を借りてきたり、あるいは配信サイトを検索したりして、毎晩見ている。
『野性の証明』、『戦国自衛隊』と連続して出演した角川春樹の秘蔵っ子、薬師丸ひろ子の主演三作目『セーラー服と機関銃』。制服少女+銃器は本作が初めてだと思うので、ついでに観てみた。
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相米慎二監督作なので難解ぶりは覚悟していたが、脚本が比較的オーソドックスな分、長回しやロングショットが際立って感じられた。
いちばん驚いたのは、新宿・太宗寺で薬師丸の配下のヤクザたち、彼女を慕う男子高校生たちが飲んだり踊ったりしていて、薬師丸本人は観音菩薩像の腰に菩薩と同じポーズで座っているシーン~暴走族のバイクを奪い、夜道を移動撮影するアクティブな長回しだ。
バイクに子分と二人乗りしてからの台詞は、明らかにアフレコで、エコーがかけられている。「組長、俺の背中に雨が降ってますよ」と、子分は言う。後ろに乗っている薬師丸は「大丈夫、もう晴れたから」と答える。普通の映画なら、アップにして薬師丸の涙ぐらい撮りそうな“泣かせ”のシーンだ。

セットではない、スクリーンプロセスでもない、夜道のロケはネオレアリズモ、ヌーヴェル・ヴァーグで高感度フィルム、小型カメラによって実現された。ドキュメンタリックな手持ちのカメラワークも、同様だ。
しかし、相米慎二は常に空間を意識して、カメラと被写体の距離を気にしている。冒頭、薬師丸がブリッジしているカットの、奇妙なフレームサイズ。風祭ゆきの演じる謎の女を薬師丸が問い詰めるシーンで、ソファの後ろから這い登り、ドタンと手前にすべり落ちながら台詞を言うカットもそう。
ラスト近く、渡瀬恒彦と薬師丸が屋上であれこれ燃やしながら、別れの会話をかわしている超ロングのカットも、俳優との距離をひたすら計算しているかに見える。

一言で言うなら、それは俳優にとっては自由、観客にとっては事態や状況を把握しづらい、不自由なカットだ。


もし相米慎二が存命なら、僕は何とかしてインタビューをとりに行っただろう。
こんな奇妙な映画しか撮らないポルノ出身の監督に、メジャー配給会社の正月映画を任せてしまった1981年の映画業界は、ネジが外れていて無責任だったと言える。とにかく、当時の邦画は冷え切っていたから。一方で、主題歌・出版とのメディアミックスで斬りこんできた角川映画にとっては、独裁的に、最も有利に戦える戦場でもあった。角川春樹は、臆するところがなかった。
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風祭ゆきのヤクザの娘が、全裸の渡瀬恒彦と激しいセックスをしている。それを、薬師丸は間近に見てしまう。
撮影当時の薬師丸は高校二年生であった。淫行条例などのおかげで、同じシーンを2019年に撮影することは不可能だろう。その他、薬師丸が飲酒するシーンもある。公開当時、一部の学校では不謹慎なので鑑賞禁止にされたそうだが、今なら映倫が先回りしてR-18に指定するだろう。人権意識が向上し、ポリコレが普及した結果、映画は社会の隷属物になったのだ。

ラストシーン、新宿の雑踏を、セーラー服に大人びたパンプスを履いた薬師丸がタバコを吸う仕草をしながら歩いてきて、子供と一緒に機関銃をもったフリをして、地下鉄の排気口のうえに立つ。マリリン・モンローのように、スカートが舞い上がる。ゲリラ撮影である。
すると、通りを歩く人々が薬師丸に好奇の目を向けて、グルリと彼女を取り囲む。そこへ、薬師丸の「ワタクシ、愚かな女になりそうです、マルッ」とモノローグが入る。実際に、画面に「○」がインサートされて終わり。エンドロールも何もないし、もちろん「エンドロールでも席を立つな」「ネタバレすんな」とうるさい映画ファンもいなかった。
昭和の時代、映画は自由の証だった。粗暴で反社会的、法律などお構いなし。濡れ場や暴力は、正月映画だろうが当たり前に挿入される。映画は風にさらされていた。相米慎二はシバキ棒を持って現場をうろつき、子役だろうがアイドルだろうが怒鳴りつけた。
インテリヤクザの世界で、彼らの過去作をションベン臭い名画座に観にいこうとすれば、ちょっとした覚悟が必要だった。今はどうだろう? 製作委員会にかしづいた宣伝業者、ネタバレ禁止令、法外な版権使用料、映画会社のチェックを受けた太鼓持ち記事……日本人が従順で大人しくつまらなくなったことは、映画界を見れば分かる。

(C)KADOKAWA 1981

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2019年7月 3日 (水)

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情景作家・山田卓司、昭和~平成~令和をつらぬく“時代を見つめる視点”を語る【ホビー業界インサイド第48回】
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静岡ホビーショウのタミヤさんのブースで、中学どころか小学校のころに初めて名前を覚えたプロモデラー、山田卓司さんとお会いした。初めて会ったとは思えないほど、山田さんはくだけた口調で雑談をたっぷりしてくださり、放課後の部室のような雰囲気のインタビューとなった。
中~高校時代の語彙は、タミヤニュースとホビージャパンによって収集された。人は否応なく、集められた語彙によって世界観を構築する。山田さんと初対面の気がしなかったのは、どこかで世界観が共通しているせいなのだろう。


月末の【プラモデガタリ】のテーマが「自衛隊」なので()、昭和の角川映画、80年代のアニメばかり毎日2本ずつ借りて見ていた。レンタル屋になくて、配信にしかない作品も増えてきた。
是枝裕和監督の『万引き家族』、これは有料配信オンリーで、DVDレンタルの方が安いので借りてきた。
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耳障りの悪いタイトルだが、是枝監督の過去作『誰も知らない』の路線。ネグレクトと虐待から子供を救い上げ、善行の結果として擬似家族が構成される。その擬似家族という設定が、あまりにもフィクショナルなのだが、題材のリアリティなどどうでもいい。題材を、映画というメカニックでいかにして切り取って、2時間の四角いフレームの中に配置しなおすか。映画の値打ちは、そこにしかない。
なので、僕は題材はわりと何でもいい。男女の恋模様を、アクション映画のようにダイナミックに撮ることだって出来るだろう。それが映画の機能、メカニズムなのだ。


この映画の中で、(一家の「母親」役である)安藤サクラを、真正面から捉えたシーンがある。
ひとつは、よその家の5歳児を誘拐同然で家においていることを、クリーニング屋の同僚に見抜かれるシーンだ。小津安二郎のように、真正面での切り返しがつづく。このシーンは、太陽光が真横から入っていて、人物に強い木漏れ日が当たっている。まるで決闘シーンのようなカッコいい撮り方をしていて、「こんなのどうやって撮ったんだ?」と、声が出てしまった。
このシーンで、安藤サクラは「(子供のことを)喋ったら殺す」と、同僚に言う。同僚は、安藤の真横スレスレを、背中を見せながらすれ違って、その場を後にする。まるでヤクザ映画のように、「肩で風切る」ってやつだ。安藤が肩にかけたタオルを、シュッと勢いよく抜いたところで、このシーンは終わり。

ようするに、撮り方ひとつで会話シーンを決闘のように見せてしまう、それが映画の機能なのだ。魔法でもなければ「思い」なんて無責任なものでもない。


もうひとつ、安藤サクラを真正面から撮ったのは、後半の取調室のシーンだ。
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公式のスチールでは、そのシーンは押さえられていないので、本編を見て欲しい。
取調室のシーンは三つあって、それぞれ照明も違えばカメラアングルも違えば、たとえば二回目のシーンでは安藤にカメラが寄っていくようカメラワークが加えられている。

誰もが驚愕するのは、三つめの取調べシーンだろう。池脇千鶴の演ずる警察官との“対決”シーンだ。
安藤も池脇も、真正面からのみ撮られている。池脇に問い詰められた安藤は、泣いているのに髪を直すフリをして、涙をぬぐう。
このカットは、アンバー調の落ち着いた色調になっている。クリーニング屋の裏での対決シーンのような、ぎらついた質感ではない。だが、真正面からのアングルなので、否応なく、2人の女優はぶつかって見える。対決しているように見えるのは、映画の持つ冷徹なメカニズムが機能しているせいであり、そこに安藤が複雑な表情と吐息のようなセリフを吹き込むことで、ようやく「思い」が伝わる。そういうものだと思う。


豪華キャストである。松岡茉優の実家のシーンで、彼女の妹がちょっとだけ顔を出す。いかにもこれから売り出します、次は準主役で使いますといったキラキラした雰囲気のアイドルのような子役を使っている……と思って調べたら、すでに主役で一本撮っていた。
映画に金がかかっている、とはこういうことだ。低予算の映画なら、身内でキャストを揃えるしかない。それゆえのリアリティが出ることは、自主映画を見れば分かる。海外で賞をとれる是枝監督の作品には、金をかけざるを得ない。『万引き家族』だって、フジテレビが出資している。前述したような、粘り強さの必要なカットを撮れるようにはなった。しかし、もはや是枝監督に、切実な貧困は撮れない。

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