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「きみと、波にのれたら」の愛らしいキャラたちの秘密を、キャラクターデザイナーの小島崇史が明かす【アニメ業界ウォッチング第55回】(■)
昨夜遅く、『きみと、波にのれたら』が上海国際映画祭で最優秀アニメ作品賞(金爵賞)を受賞したニュースが入ってきました。
宣伝会社を通すと、いつも複数社の囲み取材にされてしまうので、小島さんに直接取材を申し込みました。
ただ、宣伝会社が『きみと、波にのれたら』の試写会に招いてくれなければ、そもそも取材を思いつきもしなかったので、僕から担当窓口に連絡して、原稿を見せてから掲載しました。修正は何も入らず、小島さんの若くて貪欲な姿勢が読みとれる記事になったと思います。
出演俳優や主題歌アーティスト中心の宣伝がなされていますが、『きみと、波にのれたら』に関しては正解だと思います。
監督やアニメーターの名前や作風を気にするのは、一部のマニアックな人たちだけで十分。オタクだけが受信できる萌えだとか属性だとかを除外したところに、この作品の価値があると思うので……(そうは言っても、勝手に百合だとかツンデレ妹だとか受信してしまうからオタクなんだけどね。「百合好きな人は観にいくといいよ」といった薦め方は、僕はやっぱり好きになれない。そこまでアニメという表現を、自分の甘ったるい享楽のネタとしては使えない)。
「∀ガンダム」が会話で聞かせる、品のいい「ミリタリー趣味」【懐かしアニメ回顧録第55回】(■)
藤津亮太さんの生配信番組に出たとき、好きな場面としてメモしたのが、この第46話「再び、地球へ」で新戦艦ホエールズを修復、艤装する群像劇です。
作業用モビルスーツをめぐって、月と地球の技術レベルの差や名称、使い方の違いに驚いたり、笑ったりする会話があり、僕はそれをミリタリックに感じたのです。
ロボットの性能差をキーにして会話を展開させ、価値観の違いを作劇するのは、正確には「ミリタリック」なのではなくて、リアリティの出し方のひとつに過ぎないとは思います。シナリオ上のテクなので、特筆するほどでもないのかも知れません。
でも、第一作『ガンダム』のアバンタイトルの太陽光がスペースコロニー落下の光だと誤読するのは読解力が低いからであり、それは「今からでも色んな映画を観て勉強してください」ですむとして、コロニー落下説への反論として「コロニーが落ちたのはシドニーだから南半球のはずですよね」と言われたとき、もう返す言葉が見つからなかったです。コロニーが落ちたのは一基だけ、しかもオーストラリアのシドニーであるとしたのは、ムック「ガンダム・センチュリー」における創作に過ぎません。
「ガンダム・センチュリー」説を、サンライズが作品を貫く公式宇宙世紀年表にまとめ上げたのが、ちょうど20年前なのです。
作品の外の世界で検証材料を探す、という少し面倒なことをやる人が減って、とにかく作品の内側で与えられる情報に埋もれて安心していたいライト層が増えたのは、放送当時の小学生たちが中年になって、学ぶことをやめたからでしょうか? 『めぐりあい宇宙』の狡猾な中隊長ザクが「男気あふれる上官」などと誤読されているのは、彼らが小学生の脳のまま、フィクションを読む訓練を放棄してしまったからではないのでしょうか?
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もうひとつ、『機動戦士ガンダムUC』のヒットで、モビルスーツを呼ぶときに形式番号を入れたり、「○○系」のように開発系譜(バックボーン)を感じさせるセリフを入れることがリアリティ、ミリタリズムだと捉えられるフシがあって、それに異議を唱えたかったことも『∀』のコラムを書いた動機です。
『機動戦士Zガンダム』で、MSVを適当な色で塗って「どんな形でもいいから、とにかく古いメカの有象無象」として出したところまでは、まだドラマのコントロール下にモビルスーツたちが収まっていたと思うのです。MSVの設定は、プラモファンがテキストとして読むために考えられたものなので、映像に転用する時は無視してしまって構わない。映像作品をつくるとは、そうした判断の積み重ねです。
けれども、『ガンダムUC』は「MSVありき」、「宇宙世紀の裏設定ありき」でドラマが書かれてしまっている。形式番号のような、作品の外で遊ぶべき情報が、脚本に書かれてしまっている。それは作品をつくる姿勢として、だらしがない。
無論、メカニックデザインのカトキハジメさんと作画監督の玄馬宣彦さんは、「ドラマは監督に任せるから、プラモファン、モビルスーツ・フェチの夢を作画で叶えたい」と自覚していたのでしょう。そのオタク心を理解していなければ、僕は『UC』の原画集を、自ら進んで構成したりはしません。自ら申し出て、玄馬さんにインタビューしません。
ようするに、形式番号なんかを登場人物が口にしてしまう作劇は、単に局所的な「モビルスーツ・フェチ」であって、断じて「ミリタリズム」ではないのだと、観る側も分かっている必要があります。
『ガンダム』20周年にあたって、富野由悠季監督は、もう一回り外周の人たちに届く作品を目指したのでしょう。それには、「ガンダム・センチュリー」に起源を持つ細かすぎる設定は足枷にしかならない、と分かっていたのです。しかし、『∀』の試みは、少なくともビジネスとしては失敗でした。「ガンダム・センチュリー」発祥の年表に寄りかかった『UC』がプラモデルともども大ヒットして、テレビにまでなったのですから。
ガンプラ・ブーム時に小・中学生だった、団塊ジュニアを頂点とする世代が、作り手と受け手を構成しているのだから、ビジネスとして『UC』は正しい。
怪獣オタクが「東宝特撮へのリスペクトとオマージュ」でつくった『ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』もそう、『スター・ウォーズ』もそう、「幼いころに作品を楽しんだ恩返しとして、その作品を同世代に向けて、大資本でつくる」平面的・直線的なリサイクルが、エンタメの主流になってしまった。
だから、湯浅政明監督のような僕より年上の人が、僕よりうんと若い未知の観客に向かってオリジナル作品をつくると、応援せずにはいられないのです。
(C) 2019「きみと、波にのれたら」製作委員会
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