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2019年6月27日 (木)

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月曜日(24日)は、毎月開催しているイベント【模型言論プラモデガタリ】第6回、『スター・ウォーズ』エピソード1~3(新三部作)であった。
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「キャベツ太郎」さんとして、模型界隈で知られ広く愛されている『スター・ウォーズ』ミニチュア研究家の鷲見博さんにゲストとして来ていただき、これまで顧みられることの少なかった新三部作のミニチュアを、徹底的に分析・解析していただいた……と、概要だけを書くと味気ないのだが、このイベントのために鷲見さんが独力で制作したプレゼン資料は、なんと600~700枚。紙芝居のように話とスライドを組み合わせて複雑にオーバーラップさせたり動画と効果音を挿入したり、徹底して“魅せる”プレゼンテーションであった。

そればかりではない。映像から割り出して「ここは同じ流用パーツを使い回している」「ただし気泡が入っているので、シリコンで複製したはずである」と、己の観察力だけを頼りにミニチュアの構造を考古学のように読み解き、さらには流用パーツの出自を探り当てて当該キットを購入、自分でパーツを並べて実際に検証するのだ。EP1以降、最近作では模型をスキャンしたデータも使われるので、当然、CG技術の進歩も織り込んで解析をより正確なものにしている。

鷲見さんはBANDAI SPIRITSのプラモデル製品の考証を担当しており、またディズニーの媒体にも記事を提供しているため、当日のプレゼンテーションがいつ公式なソースとして活用されるか分からない。そのため、当イベントしては初めて、撮影をお断りすることにした。
版権元やら関係各社やらに無用な気をつかって……という、昨今流行の神経質かつ低姿勢かつ無気力なエクスキューズではない。あくまで、鷲見さんが今後も研究を続けられること、研究成果を生かした活動をつづけられることを目的とした自衛策である。
理想を言うなら、こういう人には誰かが資金提供するなりして、心おきなく研究に打ち込めるような安全な環境を整備すべきではないか。


1時間で収まるよう、直前までリハーサルを繰り返していた鷲見さんのプレゼン中、客席からは「おおーっ!」と何度となくどよめきが上がった。僕も舞台のすみで観客の一人となって、何度も拍手をした。あのプレゼンを見られなかった人は、損をしたと僕は思う。
その後、僕の映画史と新三部作とを絡めたプレゼンに移行すると、鷲見さんは精力を使い果たした様子で、本当に放心していた。「ねえ、鷲見さんはどう思いますか?」と聞くと、真顔で「……えっ?」と振り返るので、ちょっと笑ってしまった。発言にも態度にも、ウソのない人だ。気どったり、他人を見下したりもしない。

ただ、僕のプレゼンは、IMAXや3Dや4DXを「映画の進歩」だと前提する風潮に意義を唱えるものなので、二度ほど客席がシーンと静まったのをおぼえている。気まずい雰囲気だった。
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そこで、「いや、遊園地ではなく映画館に来てもらうため、映画会社も必死なんでしょうね」と助け舟を出してくれたのも、鷲見さんであった。イベント後、ささやかな打ち上げをしたが、その場でも鷲見さんが映画文化について真剣に考えている……少なくとも、盲目的に賛美したり、迂闊に誉めたり、過剰に批判したりもしないことが、はっきり分かった。
阿佐ヶ谷駅まで、鷲見さんとしみじみ語り合いながら帰った時間は、その日でいちばんの贅沢だったかも知れない。


ここ2~3年、古典と呼ばれる映画を積極的に見て、僕は70年代のアメリカン・ニューシネマ以降、劇映画の表現・演出に抜本的な変化が起きていないことを知った。
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上は、映画誕生から1977年の『スター・ウォーズ』公開までの主な出来事だ。先日のプレゼンで使った。
劇映画の演出は、実は最初の30年ぐらいでほぼ完成しており、40~50年代に頂点を迎えた。まだ、モノクロ映画が主流だった時代のことだ。ヒッチコックの『サイコ』を好きな人は多いと思うが、あれはカラーが当たり前となった60年代に、モノクロ映画時代に培われた潤沢なテクニックを動員してつくられた作品だった。
時代が、一方向へ進むとは限らないのである。今日より明日の映画が、退化してないとは言い切れない。

「明日の方が今日より必ず進歩している」と信じることの無責任さを、僕はいつも感じている。「昔はよかった」と同じ思考停止だと思う。
それこそ、『スター・ウォーズ』のテーマではないが、愛情と憎しみは表裏一体なのだ。「とにかく好きだから」は怖い。「なぜ好きなのか?」と立ち止まったところから、確実な身のある進歩が始まるのだと思う。しかし、そこまで慎重な人はとても少ない。

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2019年6月24日 (月)

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「きみと、波にのれたら」の愛らしいキャラたちの秘密を、キャラクターデザイナーの小島崇史が明かす【アニメ業界ウォッチング第55回】
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昨夜遅く、『きみと、波にのれたら』が上海国際映画祭で最優秀アニメ作品賞(金爵賞)を受賞したニュースが入ってきました。
宣伝会社を通すと、いつも複数社の囲み取材にされてしまうので、小島さんに直接取材を申し込みました。
ただ、宣伝会社が『きみと、波にのれたら』の試写会に招いてくれなければ、そもそも取材を思いつきもしなかったので、僕から担当窓口に連絡して、原稿を見せてから掲載しました。修正は何も入らず、小島さんの若くて貪欲な姿勢が読みとれる記事になったと思います。

出演俳優や主題歌アーティスト中心の宣伝がなされていますが、『きみと、波にのれたら』に関しては正解だと思います。
監督やアニメーターの名前や作風を気にするのは、一部のマニアックな人たちだけで十分。オタクだけが受信できる萌えだとか属性だとかを除外したところに、この作品の価値があると思うので……(そうは言っても、勝手に百合だとかツンデレ妹だとか受信してしまうからオタクなんだけどね。「百合好きな人は観にいくといいよ」といった薦め方は、僕はやっぱり好きになれない。そこまでアニメという表現を、自分の甘ったるい享楽のネタとしては使えない)。

「∀ガンダム」が会話で聞かせる、品のいい「ミリタリー趣味」【懐かしアニメ回顧録第55回】
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藤津亮太さんの生配信番組に出たとき、好きな場面としてメモしたのが、この第46話「再び、地球へ」で新戦艦ホエールズを修復、艤装する群像劇です。
作業用モビルスーツをめぐって、月と地球の技術レベルの差や名称、使い方の違いに驚いたり、笑ったりする会話があり、僕はそれをミリタリックに感じたのです。
ロボットの性能差をキーにして会話を展開させ、価値観の違いを作劇するのは、正確には「ミリタリック」なのではなくて、リアリティの出し方のひとつに過ぎないとは思います。シナリオ上のテクなので、特筆するほどでもないのかも知れません。

でも、第一作『ガンダム』のアバンタイトルの太陽光がスペースコロニー落下の光だと誤読するのは読解力が低いからであり、それは「今からでも色んな映画を観て勉強してください」ですむとして、コロニー落下説への反論として「コロニーが落ちたのはシドニーだから南半球のはずですよね」と言われたとき、もう返す言葉が見つからなかったです。コロニーが落ちたのは一基だけ、しかもオーストラリアのシドニーであるとしたのは、ムック「ガンダム・センチュリー」における創作に過ぎません。
「ガンダム・センチュリー」説を、サンライズが作品を貫く公式宇宙世紀年表にまとめ上げたのが、ちょうど20年前なのです。

作品の外の世界で検証材料を探す、という少し面倒なことをやる人が減って、とにかく作品の内側で与えられる情報に埋もれて安心していたいライト層が増えたのは、放送当時の小学生たちが中年になって、学ぶことをやめたからでしょうか? 『めぐりあい宇宙』の狡猾な中隊長ザクが「男気あふれる上官」などと誤読されているのは、彼らが小学生の脳のまま、フィクションを読む訓練を放棄してしまったからではないのでしょうか?


もうひとつ、『機動戦士ガンダムUC』のヒットで、モビルスーツを呼ぶときに形式番号を入れたり、「○○系」のように開発系譜(バックボーン)を感じさせるセリフを入れることがリアリティ、ミリタリズムだと捉えられるフシがあって、それに異議を唱えたかったことも『∀』のコラムを書いた動機です。
『機動戦士Zガンダム』で、MSVを適当な色で塗って「どんな形でもいいから、とにかく古いメカの有象無象」として出したところまでは、まだドラマのコントロール下にモビルスーツたちが収まっていたと思うのです。MSVの設定は、プラモファンがテキストとして読むために考えられたものなので、映像に転用する時は無視してしまって構わない。映像作品をつくるとは、そうした判断の積み重ねです。

けれども、『ガンダムUC』は「MSVありき」、「宇宙世紀の裏設定ありき」でドラマが書かれてしまっている。形式番号のような、作品の外で遊ぶべき情報が、脚本に書かれてしまっている。それは作品をつくる姿勢として、だらしがない。
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無論、メカニックデザインのカトキハジメさんと作画監督の玄馬宣彦さんは、「ドラマは監督に任せるから、プラモファン、モビルスーツ・フェチの夢を作画で叶えたい」と自覚していたのでしょう。そのオタク心を理解していなければ、僕は『UC』の原画集を、自ら進んで構成したりはしません。自ら申し出て、玄馬さんにインタビューしません。

ようするに、形式番号なんかを登場人物が口にしてしまう作劇は、単に局所的な「モビルスーツ・フェチ」であって、断じて「ミリタリズム」ではないのだと、観る側も分かっている必要があります。
『ガンダム』20周年にあたって、富野由悠季監督は、もう一回り外周の人たちに届く作品を目指したのでしょう。それには、「ガンダム・センチュリー」に起源を持つ細かすぎる設定は足枷にしかならない、と分かっていたのです。しかし、『∀』の試みは、少なくともビジネスとしては失敗でした。「ガンダム・センチュリー」発祥の年表に寄りかかった『UC』がプラモデルともども大ヒットして、テレビにまでなったのですから。
ガンプラ・ブーム時に小・中学生だった、団塊ジュニアを頂点とする世代が、作り手と受け手を構成しているのだから、ビジネスとして『UC』は正しい。
怪獣オタクが「東宝特撮へのリスペクトとオマージュ」でつくった『ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』もそう、『スター・ウォーズ』もそう、「幼いころに作品を楽しんだ恩返しとして、その作品を同世代に向けて、大資本でつくる」平面的・直線的なリサイクルが、エンタメの主流になってしまった。

だから、湯浅政明監督のような僕より年上の人が、僕よりうんと若い未知の観客に向かってオリジナル作品をつくると、応援せずにはいられないのです。

(C) 2019「きみと、波にのれたら」製作委員会

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2019年6月19日 (水)

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アマゾンプライムで借りて観たドキュメンタリー、『VHSテープを巻き戻せ!』……甘酸っぱくも、厳粛な気持ちにさせられる映画だった。
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誰もが、時代の流れとともに確実に何かを喪失していく。喪失にどう対峙するのか。別れを惜しむだけなのか、物理的手段で喪失を最小限度に押しとどめるのか? 根性と気合だけでは何も出来ないぞ、と言われたような気もする。

インターネットをはじめて間もない20年前は、僕はもっと喪失と正面から向き合っていたと思う。僕はもっとナーバスで、ちょっとしたことでよく泣いていた。
『VHSテープを巻き戻せ!』は、フィギュア・ブームの渦中に製作された劇映画『ブリスター!』のエンドロールに付け加えられたコレクターたちのドキュメント・パートを思い起こさせる。僕も、『ジャイアント・ロボ』のジャンボ・フィギュアと一緒に出演している。あのフィギュア・ブームのことなら、まだまだ現実に書き残せるチャンスを用意している。
だけど、「あれだけお世話になったVHSテープのことはどうするんだ?」と、もし聞かれたら……。以下、思いつくままに書く。


僕が15年ほど前まで運営していた80年代オタク文化サイト『メガ80's』を覚えている人は、世の中に数人ほどだろう。今はテキストも画像も何も残っていない。
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そのサイトの中に「ダニメ・ライブラリー」というコーナーがあり、当時100円均一で古本屋に売られていたOVA、学習雑誌のオマケVHSに収録されていた探偵推理アニメ、児童向けの気色悪い童話アニメ、とにかく何でもいいから知らないアニメを再生して、ひどい部分は容赦なく笑いながら、それでも手のひらに零れ落ちずに残った「価値」を何とか言語化しようと試みた。
『動画王』を発行していたキネマ旬報社に書籍化の話を持っていったら、担当者は「ああ、『超クソゲー』のアニメ版みたいな感じですね」と即座に分かってくれたが、会議で却下されたそうだ。その後、80年代マイナーOVAのレビュー本が出るには出たが、今の世相を反映して版権元やら原作者やら関係者やら……に気をつかいまくった大人しいレビューばかりで、何ら新しい価値を提示できていなかった。

みんなが目に見えないトラブルを勝手に避けまくった結果、もしかすると手に触れられたかもしれない奇跡のような感触を取り逃がしている。だから、最高のオーガズムを未経験の童貞・処女のまま、「まあ世の中こんなもんだろ」と白けきって育った大人たちが、「傑作」とか「名作」とか乾いたスシネタみたいな飾り言葉を並べ、若い人たちはパサパサの寿司の味しか知らない。
それが本当の喪失だ。VHSでしか販売されなかった無数の低予算映画を救うのは、新しいフォーマットよりもまず、価値をかぎ分ける嗅覚なのだ。鋭敏であれ、ずる賢くあれ、スケベであれ、清濁を併せ呑め、なおかつ誰よりも謙虚で誠実であれ。


今の絶対的貧困は、何よりジョークが通じない。
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80年代、それこそレンタルビデオ屋と自主映画作家が誰よりも冒険心に富んでイキっていた時代、どこかで映画レビューの同人誌を見つけた。『鉄男』のレビュー記事に、監督やキャストたちに向かって「この金属フェチのド変態ども!」と書きなぐってあり、それが誉め言葉であることは『鉄男』見た人なら分かるはず。今、それが通じない。「ド変態なんて書いたら、監督や俳優が気分を害するからナシで」と、けっこう本気で言っているのだから怖い。
名作、傑作という言葉の使われ方の軽さ。
ドブを掃除したら、真珠も一緒に流れてしまう。汚い言葉が汚いのであれば、綺麗な言葉は綺麗のままだ。それでは足りないから、言葉があり、知性があるのに。

若い人がさ、「爆発がいっぱいあって、バズーカ砲とかガンガン撃つ頭の悪い映画がいい」とか言ってるけど、でも君が言ってるのってデジタル3Dとか4DXで、ネットから座席指定できる安全な映画のことだよね?
この『VHSテープを巻き戻せ!』の中に、『アラビアのロレンス』が、映画館で繰り返し上映されていた頃の話が出てくる。スプライサーによる編集の痕跡、フィルムのエマルジョン面についた傷、それぞれが物語である。
そして、上映中、「必ず何かが起きた」という証言。「何かが」と言っただけで、分かる人には分かるよね? パーフォレーションが壊れていて、フィルムが流れてしまうとか、音が出てなかったり、2コマ同時に映写されたり、リールのかけ間違いで順番がメチャクチャになっているとかさ。平然とタバコを吸うジジイ、映画にファックシーンが出てくると一緒に腰を降りはじめる温厚そうなオジサン、カメラの三脚を立てている映画泥棒、誰に対しても気をつかわなすぎる傍若無人の観客ども。あのニコチンの充満した、アンモニア臭い空気の中でしか育たない知性があった。

僕が忘れかけていたのは、そういう種類の、いわば犯罪めいた領域に属する知性なのだ。「犯罪めいた」と書いただけで、ネットではただちに犯罪を示唆しているとか言われて通報されかねない、そんな世界になってしまった。
で、あなたは本当は何を喪失したの? 股間に手をあてて、よく考えてみよう。


この映画にはアダルトビデオがホームビデオで撮られはじめた時期の証言も出てくる。「ビデオの画質は、覗き見している感覚。見てはならないものを見ている気分だった」……18禁ビデオを見て、背徳的な気持ちになったことのない男に、生きる価値はない。

京王八王子駅近くのレンタルビデオ店には、手作りパッケージの怪しげなアダルトVHSも隅っこに並べられており、中身はダビングにダビングを重ねた割と合法的なアダルト物なのだが(いやダビングしている時点で違法だが)、盗撮したような不鮮明なモノクロ写真をコピーしてマジックで着彩したパッケージの醸すイリーガル感、あれを手にしてレジに向かうときの後ろめたさ……ああした、おいそれと人には言えない臭気ムンムンのありふれた非合法的な体験の欠片こそ、明日のための糧だ。
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「まるで、地球がゲロを吐いたみたい」……VHSテープの山を目の前にしたビデオ収集家の青年が、陶然と呟く。映画『VHSテープを巻き戻せ!』の中でも、美しいシーンのひとつだ。

汚物にまみれた、泥だらけの朝。二日酔い、完全に無駄に終わる一日。誰からも見放された、空っぽの日々。そこから何か掴みだそうとすることは、危険ではある。だけど、言論も表現も、危険を承知のうえでのことじゃなかったのか? とっくに覚悟してたはずだよな? 無駄に終わるかも知れない、恥をかくかも知れない、だけど、本当に「中身」を失うよりはマシだ。そういうことだったんじゃないのか? いつの間に、人目だけを気にする俗物に成り下がったんだ?

(C)Imperial Poly Farm Productions

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2019年6月18日 (火)

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【模型言論プラモデガタリ】第6回
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●テーマ「スター・ウォーズ/EP 1~3」って、実は面白いんだぜ?
来週月曜、24日に開催が迫りました。ゲストの鷲見博さんは『スター・ウォーズ』の撮影用ミニチュア研究家として知られ、バンダイ・スピリッツのプラモデル・シリーズにも大きく貢献しています。僕はバンダイへの取材時に知り合い、模型展示会でのエンタメ性の高い濃密なプレゼンを拝見し、今回、登壇をお願いすることにしました。
昨夜時点で、プレゼン資料は500枚をこえたそうで、これから実現可能な範囲に削るのだそうです。しかも、『スター・ウォーズ』のEP1~3ですからね。これはめったに見られないトークになります。もう後から「知ってたら行ったのに!」とか言わないでください。前売り券だけでなく、手軽なWEB予約も始まりました。


ほぼ数年ぶりに塗料を買って、プラモデルを塗装してみた。
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最近、自分の中では見逃せないブームとなりつつある可動美少女プラモの一種、メガミデバイス。キット付属の武器が好きではなかったので、別売りのものを持たせて、きれいな立ちポーズをつけているだけで楽しかった。ただ、オレンジの成形色があまりに淡すぎる気がしたので、その部分だけ塗装してみよう、という気持ちになった。

完全に素組み、メーカーの創意工夫だけを享受したい僕が、どうしてポリシーを曲げて塗ってしまったのか。それは可動美少女プラモが、カスタマイズを前提としたキット仕様で、組み上げるのに必ず「自分の好み」で髪型や表情のパーツを選択せねばならない(しかも、その根拠は自分の嗜好に求めるしかない)特殊性に尽きる。
意に反して、「こっちのパーツが好きだ」「いや、このパーツは付けない方が可愛い」と、眠っていた自分の嗜癖がズルズルと引き出されていく。好みに準じたカスマイズが表現と呼べるレベルにまで洗練されている人から、僕のように「癖」レベルで止まっている者までいるから面白いのだろうし……ハマってない人からすれば「あんな人形、気持ち悪い」「あんな悪趣味なもの、どこがいい?」と見えるのだろう(そう思われているとしても、決して怒ってはいけない)。


さて、塗装の話だ。
ペインターのせなすけさんという方の動画で、最近人気のシタデルカラーの塗り方を見て、まず愕然とした。これまで、取材などでシタデルを試し塗りさせてもらったことはあった。その時はパレットのうえで水で薄めるようなことはせず、ボトルに直接、筆を入れていたと思う。絵の具のように、濃度を調節しながら塗らなければならない。
均一な塗装面をつくるためのベースカラーを水で薄めながら塗るのだから、もちろん濃度の高い部分と低い部分が出てきて、ムラになる。三回ぐらい繰り返すとプラの下地が隠れてくれるが、塗膜はデコボコ。一回塗ればピシッと下地が隠れるイメージがあったのだが、均一に塗るのは至難の業だ。この塗料、ひとつ590円もする。

塗りながら「あーあ、ムラになっちゃった」「ヘタクソだなー」とウンザリしてきて、手に着いた塗料で、きれいに印刷された顔パーツを汚してしまい、思い出したことがある。
中学や高校のころ、漠然と「他の人と違うことをしたい」「漫画が好きなので上手く描けるんじゃないか」と勘違いして油絵を習っていたころ、目の前の絵がひたすら汚らしく、だけど表面だけ取り繕った照れ隠しのような描き方になっていき、自分に理想の絵なんてないんだと思い知らされ、それでも筆を動かさねば作業が終わってくれない……あの塗炭のような苦しみだ。
当時はプラモデルやソフトビニール怪獣を改造したり塗装したりしていたはずで、そっちは(自己流だったせいか)苦にならなかった。


しかし、著書()にも詳しく書いたことだが、ガレージキットの完成見本を依頼されるようになると、ゆっくり時間をかけて、その仕事は苦痛に変わっていった。
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大学を出て20代後半になると、自分の下手さがありありと実感され、それでも完成見本を仕上げなくては生活費がない、来月の家賃も払えない……という状態が、苦しくて仕方がなかった。お金をもらうには恥ずかしいボロボロの出来上がりで、だけどお金がなくては生きていけない。

ささやかな趣味として、80年代のロボット・プラモデルを古い玩具屋で買い集めて、いっさい色を塗らずに成形色のまま組み立てると、プラスティックの色がポップで可愛らしくて、たちまち魅了されてしまった。
いま、思い出したよ……。当時は古いホビージャパン誌を買っては、広告ページで模型店を調べ、最寄り駅まで訪ねて電話で開店しているかどうか確かめて、歩いて回っていた。90年代後半、『エルガイム』『バイファム』あたりのプラモデルは店頭在庫しかなく、ボロボロの箱のキットを400円や500円で買い集め、片っ端から組み立てて、成形色のまま、ミニコンポのスピーカーの上に飾っていた。
今にして思うと、素組みによって、かなり精神が慰撫されていた、救われていたんだ。そうだったんだ。ひさびさに塗装してみて、思い出したよ。それで、今でも塗装せずに成形色のまま形にするのが好きなのかも知れない。


“ガンプラ・ブームだった1980年代、バスの中で小学生たちが話していた。
「うちの弟が、1/60ガンダム買ったよ」
「よし、家に持ってこい。上手いかどうか見てやる」
上手いかどうか見てやる……あの冷たい一言が、いまだに耳から離れない。”(

塗装しながら、その過程をTwitterにアップロードしてみたが、反応は薄かった。自分でも、あまり魅力的とは思ってなかったので仕方がないが、「一歩踏み出して塗装にトライしてみよう!」(そうすれば君も仲間だ)的なフレンドリーさ、あれは嘘だ。下手な人間には、みんなとことん冷たい。無関心。
この疎外感の側に立ったプラモデルのハウトゥ本は、おそらく皆無じゃないだろうか。
徒競走で、ビリッケツを笑われながら走ったことある? ありゃあ、子供心にも屈辱だよ。あの屈辱を忘れるため、押し返すために漫画やプラモデルを頑張っていたはずなのに、どうしても優劣の世界で比べられてしまう。「初めて塗りました!」とゲタを履かせれば、まわりの先輩たちが「よく頑張った」「次も頑張ろう」と励ましてくれるかも知れない。だけど、次はない。下手な人間には、居場所がない。僕は、よく知っている。

あの疎外感を知っている人間だからこその本を、来月、刊行予定です。『親子で楽しむ かんたんプラモデル』(株式会社スティングレイ刊)。ビリッケツを走っていた、いま走っていると思っているあなたのための本。この本の中に、優劣や上手い下手はない。

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2019年6月11日 (火)

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土曜日、小学校時代の友だち2人と、新宿へ『ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』を観にいった。
その帰り、二軒目の居酒屋で「フリーライターって、ページあたりいくら貰えるの?」と友人M君が聞くので、正直に最低額を答えたところ、「それじゃあ食えないなー」「そうか、やっぱり食えないんだなー」と納得したように頷きはじめた。本人によると「食えない」ではなく「厳しい」と言ったそうだが、どちらにしても、僕の原稿料を「安い」と思ったのは確かだろう。
以前にもこのブログに書いたが、僕は雑誌やWEBの原稿料だけで家賃や光熱費を払い、税金を払い、海外旅行にも行っている。「食えない」わけでも「厳しい」わけでもない。「楽しい」の一言だ。もし貯金が目減りしてきて「厳しい」と感じたら、新しい企画を考えて提案するのみ。仕事なんて道に転がっているわけじゃない、自分でつくるものだ。それぐらいアイデアを用意している人間に対して、勝手に「厳しい」などと言い放つM君とは何者なのか?

僕が20年前に出した本の共著者。自分の本名で公になるような仕事はしたことがないんじゃないだろうか。
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当時、M君は小さな出版社をやめたばかりだった。
この本を出してから20年、僕は3冊の単行本を出して、来月には通算5冊目の著書が出る予定だ。しかし、M君が本を出すとか、どこかの雑誌で連載をやってるといった話はまったく聞かない。ここ数年は「奥さんが外に出て働き、M君本人は家で家事や子育てをしている」、ようするに「主夫」業だと聞いたことがある。
その件について本人にメールで確認してみたが、何の返事もない。『ゴジラ』を観た翌朝、早くから仕事があると聞いたが、何の仕事なのかいっさい口にしない。その癖して「廣田の原稿料は安い」である。
念のため言っておくが、「主夫」として生きるのも、本人が幸せならば良いじゃないか。翌朝の仕事というのが、誰にでもできる雑務であっても、それが面白いとか家計の足しになって幸せにつながるんだというなら、おおいに結構だ。人生、楽しいのが一番。たとえ他人から見て貧しくても、本人が幸せならいいじゃないか。

M君のムカつくところは、自分の喜びや幸せについては一切口外しないくせに、人の原稿料だけ聞きだして「安い」と断じる卑怯さだ。メールで「じゃあ、お前はいくら稼いでるの?」「今どんな仕事してるの?」と何度か聞いてみたが、彼は質問には一切答えなかった。


上に画像を貼った共著を制作しているとき、M君はとにかく作業が遅かった。彼のスピードに合わせていたら、僕がスケジュールどおりに作業した意味がなくなる。ところが彼は「一応、この本は俺の著書でもあるわけで、俺にも権利がさあ……」などとゴネるので、電車の中で「お前、やることやってから権利を主張しろや!」と大声で怒鳴ってしまったことがある。
その数年後、彼とは仲直りしたのであるが、僕と街で出会ってしまわないかビクビクしながら暮らし、夢に僕が出てきた翌朝は奥さんが不審に思うぐらい、ベッドの上でガタガタと震えていたのだという。さすがに、それを聞いて可哀想にはなって謝罪した。
その頃の彼は、まだ子供もおらず、出版や編集の仕事を少しずつやっていたんじゃないかな。彼が何をやりたいのか、出版の世界で生きたいのかどうしたいのか、とにかく何も話さない人間なんだ。

だけど、僕はいっぱいアイデアがあるから、「先日こんなことがあって面白かった」「この映画が好きだ」「今度こんな企画を考えてる」と話すわけ。
すると、彼はいちいち「ゲーッ……お前、そんなの本気でいいと思ってるの?」と難癖をつけてくる。それは彼の性癖なんだと思う。僕が「女優の○○さん、可愛いなあ!」と言ったとすると、「オエーッ、趣味悪う」とか平気で言う。「そういうお前は、誰が好みなんだ?」と聞くと、「いや別に……」と話をそらす。そういう人、あなたの身の回りにいませんか?
しかも、M君のひどいところは、いったん話が終わってから蒸し返すんだよね。もう他の友だちを交えて別の話題に移っているのに、ニヤニヤしながら「まあ、この人は○○が好きな変わり者でらっしゃいますからね」と、僕の肩をポンと叩く。僕が「オエーッ」とか「ゲーッ」とか言われてグッとこえらたのに、追い討ちをかけるような嫌味を言う。それが毎度のことで、先日、原稿料を安いと言われた席でも「ハイ、えーと、廣田くんは○○でらっしゃるそーなのでー」とニヤけながら肩を叩く。
こうして書いてみると、M君はとっくに友だちではないな。電車の中で怒鳴られたことを根に持っていて、少しずつでも報復したいのかも知れないな。


2009年、僕は同人誌の編集をM君に頼んだ。その頃がいちばん仲良くしていたと思う。彼はかつてのようなグズではなく、スケジュール通りに仕事を終わらせてくれた。
その頃の彼には子供ができていて、可愛くて仕方がないって感じで、よく子供の話をしていた。僕には子供はいないけど、彼にも生きがいが出来たんだな、良かったなと思った。

大学時代のM君は、「小説を書いている」「詩を書いている」と口では言っても、とうとう完成した作品を見せてくれることはなかった。……そういう人って、あなたの周りにもいると思う。というか、世の中そういう人のほうが多いんだろう。
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僕が『我々は如何にして美少女のパンツをプラモの金型に彫りこんできたか』を出したとき、M君は感心したように「お前、あんな本出したんだなあ」と話しかけてきた。僕が謙遜して「いやあ、あの本は編集者がほとんど作ってくれたんだ」と答えると、「ああ、なーんだ! お前が書いたんじゃないの! なーんだ!」とM君は満面の笑みになった。
なんというか、他人を自分のレベルに引きづり下ろして、それによって安心したがる。ほんの2~3分の会話で、相手から「安心材料」を引き出して、「俺も大した人間じゃないけど、お前も同じだな」的な嘲笑で会話を終える。

ようするに、M君は「代案がない人」。他人のアイデアにダメ出しはするけど、かと言って自分ならどうしたい、という代案が出せない。好き嫌いでもいいんだ。そんなに僕の趣味が悪いのであれば、君の好きにしていいよと言ったところで、彼は自分が「趣味悪い」と言われるのだけはイヤなんだよ。自分からパンツを脱いだり、少しでも自分を危険をさらすことだけは絶対にしない。その代わり、他人のパンツを下ろさせて「ちっちゃいチンコだねー!」とは笑うわけ。
M君のお父さんは医者で、家はお金持ちだった。父親はM君が何か失敗すると「喜ぶ」とのことだった。そういう親子関係の中で、そこそこインテリでプライドが高く育ってしまって、だけど実行力がない……可哀想ではあるよね。僕はオタクで変態で、生命力の強いドブネズミで、良かったと思う。

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2019年6月 7日 (金)

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ようやく時間ができたので、『きみと、波にのれたら』のマスコミ試写会へ。試写会へ二度以上も足を運ぶなんて、それこそ『マイマイ新子と千年の魔法』以来ではないだろうか。
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隣に女性が座ったのだが、映画が始まって30分ほどで鼻をすすりあげはじめ、とうとう映画が終わるまで泣きっぱなしであった。確かに前半、主人公の女子大生と若い消防隊員がぐんぐん仲良くなっていく描写には、不思議と胸がしめつけられる。「自分にもこういう過去があった」とか「こういう恋愛に憧れる」ってことではない。理由が分からないので、戸惑ってしまう。
ティザーにも使われている、主役2人が鼻歌のように主題歌をうたう、あのBGMが効果的(……って、何に対してどう効果的なのか?)なのは、間違いない。
だけど、こんなにもシンプルでストレートな恋愛モノに、どうしてもこうも惹きつけられているのか、まるで説明できない。少なくとも、「感情移入」なんていう、くだらない気持ちではない。


たった4人の登場人物たちが、「私は将来こうなりたいから、だから当然、今はこうしてるわけ」とそれぞれ自立していて、変なことをしているときは「変ですよね」と気まずそうにする、感情的にならないところに好感がもてるのかな。あと、自分の胸のうちを、くどくどセリフで語らない。
だからこそ、あれこれ片づいた最後の最後に、主人公がひとりで泣くところがいい。あそこで泣かなかったら、映画が終わらない。その冷静な判断は監督か脚本家か、誰の功績なんだろう……。


Twitterで、実写版の『デビルマン』を原作ファンに薦めたところ、場の空気が悪くなったことを面白げに書いている人がいた。
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2017年にも、『デビルマン』をネタにしたツイートがあった。「サンドバッグにしてもいい、ひどい出来の映画」としてネタ化しているのは知っているし、無理ないなとも思う。だからといって、嵩にかかって『デビルマン』を力まかせに殴りつけたり、「あのシーンが意味不明」「あの演技が酷かった」と溜飲を下げている人たちはみっともないというか、「あんまり沢山の種類の映画を見てないんだろう」「経験不足だから仕方がない」と覚めた目で見てしまう。
彼らは最新のハリウッド超大作、ようするにSF映画、ヒーロー映画、アクション映画、戦争映画しか見てないんだと思う。邦画ではせいぜい、アニメと怪獣映画と特撮映画だけにしか興味がなくて、「好きな映画だけを見るのは当然、何が悪いんだ」って開き直ってるんでしょ?
実際には多様なジャンルの映画を見ているとしても、『テビルマン』を袋叩きにしている時点で、「ああ、ろくすっぽ映画を見てない例の低レベルな人たちね」と僕は見なす。「百点中2点」だとか、減点法で優劣をつけられると頑なに信じている「映画通」の皆さんね……と。


レンタルしてきた『我等の生涯の最良の年』が退屈だったので、十数年ぶりにNetflixで『デビルマン』を見ることにした。
那須博之監督といえば、僕が大学のころは『ビー・バップ・ハイスクール』がヒットしていて、映画館まで見に行ったことがあった。あとは『紳士同盟』『新宿純愛物語』……と、東映にとりこまれた人だと分かる。『デビルマン』で商店街の屋根が出てきたとき、「ああ、やっぱり那須さんの世界だな」と、ちょっと笑ってしまった。この監督は悪魔だとか世界の終わりだとか、興味ないんだよ。誰かが無理強いしたんだよ。

実写『デビルマン』の路線は、同じ東映の『最終兵器彼女』へと引き継がれる。『最終兵器~』では、僕は監督から脚本の修正を頼まれたので、どんなに酷い制作状況か聞いている。脚本は、僕の直した通りにはならず、酷い部分は酷いままだった。監督から聞いた話で耳を疑ったのは、「撮ったおぼえのないシーンがあった」こと。もちろん思ったような作品にならず、監督は人間不信に陥り、丸十年間、映画を撮れなかった。病気療養のような状態だったと思う。
制作体制がグズグズだと、映画って、演出や脚本以前の段階で空中分解してしまう。映画評論家って、そういう事情を知らないし伝えないから、観客は「監督が悪い」「俳優が悪い」と思いこんでいる。プロデューサーを責める人なんて、ほとんどいないよね。マスコミも、プロデューサーにはめったに取材しない。
プロデューサーだけでなく、関連企業の無理強いもある。よほどの低予算でないかぎり、キャスティングだってスタッフィングだって監督の思うようにならない。何しろ、『最終兵器彼女』には監督が撮ったおぼえのないシーンが存在するんだよ? 『デビルマン』の制作状況がどれほど劣悪なものだったか、想像つくだろう。

「個性的な映画は、個性的な現場からしか生まれない」、これは押井守監督の言葉だけど、悪い意味でも現場がすべてなのだ。「才能」なんかじゃなくて、「現場」の「実務」次第で良くも悪くもなるのが映画。


そんな制作サイドの事情は観客には関係ない? お金を払ったんだから文句を言う権利がある? 無知でいたければ、それはあなたの自由だ。

『スター・ウォーズ』エピソード1が公開された1999年、ある雑誌の編集者から「ライター仲間で今年の映画ベストワンとワーストワンを決めている」と連絡があった。「廣田さんは、どの映画が良かったですか?」と聞くので、エピソード1と答えた。「えっ、マジですか」と、相手は苦笑した。「みんな『マトリックス』をベストにあげてますよ? 『スター・ウォーズ』はワーストなんですけど、本当にいいんですか?」と言われて、どうも集計されなかったようだ。
『マトリックス』が好きな人はそれはそれでいいんじゃないの、とは思う。たとえ世界の全員が『マトリックス』を嫌いでも、あなた一人だけは好きでいつづけるよね? だって創作の世界って自由なはずでしょ? 映画の出来不出来なんて数値化できない、だからみんな「泣いた」って書くんでしょ? それぐらい、創作物への評価って流動的なんじゃないの? 俺は『マトリックス』が好きではないけど、20年前に見た『マトリックス』と明日見る『マトリックス』は違うんだよ。映画は時間芸術であって記憶しておくしかないから、見る年齢やコンディションによって印象が変化する。それを「評価」としてアウトプットするのは至難の業で、だから5点評価が重宝されるんだよ。
僕は明日やってくるかも知れない未知の価値観に対して、謙虚でありたい。自分の心にどんな変化が起きても、落ち着いて受け入れたい。だから、クソだのカスだの最悪だのと決めつけないんだ。『デビルマン』をクソだカスだ最悪だと決めつけているあなたは、明日やってくる変化に耐えられない、したがって今より賢くなることはない。僕があなた方を「ああ、例のつまんない人たちね」と一蹴するのは、そういう理由からです。

十年ぶりに『デビルマン』を見ていて、阿木燿子のお母さんが宇崎竜道のお父さんに「浮気したことある?」って聞くでしょ。オイオイ周囲に暴徒が迫ってるのに、そりゃないぜって思うんだけど、今回はグッときた。俳優が真剣に演じると、メタクソな脚本の意図を凌駕することがある。
現場はメチャクチャな環境だったに違いないけど、一部の俳優たちは何とか表現として成立させようと頑張っている気がして、そこに感動させられた。たとえ50年前、60年前の作品だって、映画は生きているんだ。

(C)2019「きみと、波にのれたら」製作委員会

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2019年6月 4日 (火)

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デジタルと出会ってから何が変わったのか? 河森正治の発想と実験【アニメ業界ウォッチング第54回】
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毎月開催しているトークイベント【模型言論プラモデガタリ】のゲストとして河森さんに連絡をとったところ、たまたま河森正治EXPOの開催宣伝時期と重なっていて、ついでにインタビューも申し込みました。この取材は【プラモデガタリ】の前に行ったものです。なので、取材は4月ですね。
『地球少女アルジュナ』の第4話を見てファンレターを送り、DVD化のときに「廣田というライターなら必ずやってくれる」とブックレット編集、キャッチコピーを依頼され、『創聖のアクエリオン』では未経験なのに「これだけ雑誌記事が書けるなら、必ず脚本も書ける」と、いきなりCDドラマの脚本をまかされたり、10年ちょっと前は河森さんにいろいろな体験をさせてもらいました。


先月30日が【プラモデガタリ】の第5回(「イデオンとアオシマ」)で樋口雄一さん、山根公利さんにゲストとしてお越しいただき、帰りの打ち上げで「翌朝、河森EXPOだよね」なんて話していました(なんとめまぐるしい毎日なんだろう……)。招待券をいただいていたので、昨日、行って来ました。
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いろいろ、思うところはあります。河森さんを作家としてクローズアップしたいのか、クリエイターの名前を冠してキャラクターのイベントをやりたいのか。両方がせめぎ合っているような印象がありました。
最近、アニメ関連のクリエイターにフォーカスした展覧会が多いのですが、アニメという限られた経路から流入してきた情報にしか興味がない、それで一生をやりすごせてしまうのだとしたら、それは果たして豊かなんだろうか……。
アニメーションが世間から軽視されていた70年代ならば、市民権を得るための戦いには大きな意味があったと思います。今は、マーチャンダイジングとして市場が安定しているので、ファン向けにグッズを売る商売になっているんじゃないでしょうか。市場があることと市民権を得ることは、また別のことのはずです。

ただ、河森EXPOには、まさしく河森さんだからこその突破口もありました。それが、世界中を旅して撮ってきた写真のエリアです。


河森さんの旅行話は、「フィギュア王」の連載や「河森正治デザインワークス」の手伝いをしている十数年前、くりかえし聞かされてきました。深夜のファミレスで河森さんの話を聞いていると、独特の酩酊感をおぼえました。あの感覚を展示にするのであれば、かなりエキサイティングです。

おそらく、誠意あるスタッフが河森さんのそばにいたのでしょう。旅エリアの向かい側は河森さんの出生してからの年表になっていて、ひとりのクリエイターの人生を縦軸と横軸から垣間見ることができます。この十倍ぐらいの規模のスペースを使ったなら、僕はおおいに意義があったと思います。
『マクロス』が好きだから『マクロス』の展示があって良かった、バルキリーが好きだからバルキリーの絵が見られて良かった……だとしたら、僕らは何のために歳をとったんだろう? もはや進歩することのない「大きな子供」になってしまっていないか?と考えてしまいます。ビジネスとしては、「死ぬまで『マクロス』のグッズを買ってくれ」「新しいものに手を出さないでくれ」、これで丸く収まるので、なおさらです。


そして、グッズになりようがない『地球少女アルジュナ』と『KENjIの春』のコーナーは、やはり立ち止まる人が少ない。
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それでも、びっくりするぐらい丁寧に絵コンテが貼ってありました。ただ、絵コンテや動画用紙は机の上で作業するためのサイズです。展示には向いていません。
【プラモデガタリ】で河森さんがラフスケッチを持ってきた時は、クリアファイルに収めた原画を、会場で拡大して壁に投射したのです。それをお客さんはスマホに撮って、Twitterやインスタグラムにアップロードします。会場に来られない人たちは、河森さんの原画をPCのブラウザかスマホアプリで見るわけです。今、テキストデータですらURLを貼らずに、いきなりスクショで見せる時代です。

そうした刹那的かつ絶対的な変化を決して見逃さず、では美術館に行って油絵を見ることに、本当に意義があるのか正直に考えてみるべきだと思うのです。もし絵を見なくても、美術館に行くこと自体が目的化しているなら、新しい価値を見つけられるはずです。絵を見るのはオマケでいいのかも知れない。実際、アニメ系の展示イベントは限定グッズがメインで、展示物はオマケではないでしょうか。
そんなのはイヤだ、展示物に価値を与えて、目に見えないものを持ち帰ってもらうのだ……と意識したところから、本質的な仕事が始まるのだと思います。「金になれば何だっていい、価値なんてなくてもいい」、これは私に言わせればガキです。
しかし一方、お金を落としてもらって経済を回さないといけない。人をだますことなく、気持ちよくお金を使ってもらって社会を豊かにするにはどうしたらいいのか。そこまで考えている人間は、ごくわずかです。頑張りましょう。


【模型言論プラモデガタリ】第6回 テーマ「スター・ウォーズ/EP 1~3」って、実は面白いんだぜ?(
今月24日(月)夜、開催です。

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