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2019年5月14日 (火)

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アニメ関連の催し物ばかり行っている自分に嫌気がさしてきたので、上野公園へ、美術館めぐりに。まず、東京都美術館のクリムト展。平日午前なのに、やっぱり混んでいる。
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ひとつの絵の前に20人もお客さんがたかっている状態なので、まったく話にならない。係の人が「中へお進みください」って言わないと、みんな頭から順番に見ようとして行列をつくってしまう。動物園のパンダじゃないんだからさ。

本当によろしくないなあ……と思うのは、絵そのものより、短いドキュメンタリーを映写したモニターの前に人だかりができやすいこと。家でテレビを見る感覚って、昭和生まれには強烈なんだと思う。「ハイこういうお話でした、どうぞ感動して帰ってくださいね」と、手短にまとめてもらわないと、何かを見た気になれないんだろうな。
音声ガイドは、一体全体どういう狙いなのか稲垣吾朗を起用して彼の写真まで貼りだしてるし、大企業がいっぱい協賛に名を連ねているから、愚民どもをキャッチして金にかえないと成り立たないイベントなんだろうな。全長34メートルの絵が展示されますよって、実は複製だしね。バカにされてるんだと気がつかないと。


このままでは収まりがつかないので、やや閑散とした雰囲気だった国立近代美術館へ。ル・コルビュジエ展。
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こちらは、建築模型から壁面に投射したCG映像から、あらゆるメディアを投入していて楽しいし、何より適度に空いている。シックな装いのひとり客が多くて、とても居心地がよかった。しかも、60歳ぐらいの男女が「ホラ、ここのスロープがさ……」と、マニアックな話をしていた。何しろ、われわれのいる近代美術館そのものをル・コルビュジエが設計したのだから、彼の作品の内部で、彼の業績を追っているとも言えるわけ。

おまけに、キュビズムを批判しながら描いていた絵というのが、あまりカッコよくない。絵をやめて建築に進んでから、頭角をあらわしたんだな。解説文は難解でありながらも、ひとつひとつの文を追っていくと、ドキュメンタリーを見ているかのような苦みばしった現実感があった。
(大きく引き伸ばした当時のモノクロ写真や、批評活動のベースだった雑誌類が並べられているのも、現実味を増すための良い演出だった。ヌーヴェル・ヴァーグもそうだけど、表現者が批評家を兼ねてるのって凄いことだし、必要なことのようにも思える。)

日大芸術学部は、映画の授業はいっぱいあったけど、「美術史」ってのはなかったような……俺が専攻しなかっただけだろうけど、どこからどこまでが古典で、どこからが近代で、写真と絵画と建築がどう関係していったのか、今からでも学びたい。小学校~高校の美術(図工)の時間は「感じるままに描け」っていう最悪なものだった。クリムトの絵を「いい絵か悪い絵か、ただ感じろ」と突き放すのだとしたら、それは文化的と言えるのかな……。


最近の映画は、ロバート・レッドフォード監督の『大いなる陰謀』、フェデリコ・フェリーニ監督の『カビリアの夜』。
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どうも、フェリーニのように祝祭的な映画を撮っている人がロッセリーニ(というかネオレアリズモ)を手伝っていたというのが解せないでいたのだが、『カビリアの夜』を見て、これもひとつのネオレアリズモのあり方なのだろうと納得がいった。1957年だから、ロッセリーニの『イタリア旅行』から三年後。
ひとつひとつのエピソードはやはり夢の中のように茫洋としていて、リアリティはない。背景で音楽を演奏している人たちがいて、つねにパーティのような賑やかな雰囲気が漂っている。
ラストも同様で、求婚された男から金を騙しとられた娼婦のカビリアは、絶望して地面に倒れふす。そのまま夜になってしまい、彼女は寂しい山の中の道を、よろよろと歩き出す。すると、近くでキャンプでもしていたらしい男女がギターなどで音楽を奏でながら、涙で化粧の溶けたカビリアの周囲を踊りながら歩き出す。「こんばんは!」と、カビリアに挨拶する女がいる。カビリアは力なく笑い返して、彼らとともにヨロヨロと歩きつづけて、そこで終わり。客観的に見れば救いのない凄惨な終わり方……という意味では、間違いなくネオレアリズモなのだ。

ようするに、山の中の若者たちはカビリアの心象風景であって、「たまたま若者たちが居合わせただけ」と、額面どおりに受けとってはいけない気がする。
カビリアが映画スターの男に誘われるシーンにも、同じことが言える。カビリアはスターの家に招かれるが、そこへ彼の元恋人が帰ってきてしまう。カビリアは浴室に隠れて二人の様子をうかがうのだが、そこには子犬がいる。カビリアは音を立てないよう、子犬を抱きかかえる。
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そのシーンには、別に子犬はいなくてもいいわけ。でも、理不尽に浴室に追いやられて、できれば大声で騒ぎだしてやりたいカビリアの心がその子犬なんじゃないか?と考えると、それはそれで「リアル」だと思うんだ。
とは言え、ドキュメンタリー的な撮り方をすれば即物的に「リアル」になるのが映画なので、そこが本当に厄介! だって、劇映画なのにエキストラとして雇った人に「ふだんはどんな仕事してるの?」とインタビューを始めてしまうゴダールの映画だって、「リアル」と言えてしまうものね。


『カビリアの夜』で検索したら、「感情移入できた、彼女の境遇に共感できる」って感想があったけど、いま映画の見方がすべてそうなっている。あたかも、映画の役割が「共感を誘うだけの古典的な触媒」として終わろうとしているかのようであり、おそらくそれは間違いない。

3Dとか4DXのような、環境に頼った体験型ツールがもてはやされるのも、IMAXのような効率は悪いけど映写面積だけ無闇にでかい上映形式が「臨場感がある」と誉められるのも、「どれもこれも映画なんて似たようなもの」と、世の中が気がつきはじめてるからじゃないのか……。それで、「ネタバレくらった」「ネタバレすんな」と、“あたかも映画に中身があるかのように”振舞ってるんじゃないか?
今の僕の感触だと、映画の話法が刷新されていたのは、1970年代のニュー・シネマが最後。あとはSFXとCGによって、被写体が目新しくなっただけ。50~60年代が、映画の青年期だね。

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