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2019年5月26日 (日)

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“成形色”を売りにしたスケールキット、ついに登場! 「モデルキット999」シリーズが提唱する“プラモデル本来の楽しさ”とは?【ホビー業界インサイド第47回】
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静岡ホビーショーと同日、静岡駅前の小さな宴会室で商品発表会が行われていました。逃さず情報をキャッチして、取材を申し込んでおいたのです。
誰が情報をもってきてくれるわけでもない、仕事は自分でつくるものです。ただ、原稿としてまとめる実務は、編集者の作業も考慮に入れてスケジュールを組まねば、プロとして使いものになりません。この記事は取材は30分ですが、原稿にするのに2日かけました。


僕は古風なライターなので、原稿料だけで生活費を稼いで貯金して、酒や趣味に回すお金があることを誇りに感じています。
プロというのは、「その仕事だけで暮らしていく」以上の意味を持たないのですが、最近は「フリーランス」が副業・兼業という意味にとられるので、フリーライターを名乗るのはやめています。「フリーランス」が「起業」とセットで使われると、もう怪しい匂いしかしません。
同じように、ネットで流行っている「投げ銭」システムでお小遣いをせびったり、欲しいものリストを公開してモノをねだるのも、僕にはみっともない、カッコ悪いものに見えます。


Twitterである人がタクシー代を払わず、たまたま手にしていた小夏を運転手に渡して「優しい世界」としめくくって炎上していましたが、口先で旧来の価値観をすりかえて、「自分だけは周囲に援助され、優遇されるのが当然」「上手いこと得する、ズルしてでもタダで奢ってもらった方の勝ち」に持ち込みたがる人たちは、単に社会性がなくて幼稚なだけでしょう。
「金銭ではなく時間で払う、物で払う時代が来る」と説いている起業家がいたけど、シャレにならないほどの格差社会、目の前の貧困社会を、自分の内部の価値観だけ変えてやりすごそうという悪あがきに見えて、地獄をのぞいている気持ちになります。

労働に対しては、正当な対価を要求すべきです。そうでなければ僕も仕事相手も「しょせん、自分たちのやっていることは安っぽい仕事だ」と堕落し、金銭の価値を貶め、社会を停滞させるだけ、ニヒリズムを蔓延させるだけ。
Twitterで嘘松とかパクツイを見てしまっても、「たとえ嘘でもパクりでも、心が温まったから気にしない」と居直る人は、騙されて搾取されても「自分は不幸ってわけではない」と話をすりかえる、要するに「戦えない人」だと思います。
「戦えない人」は声の大きなもの、言葉の強いものに丸めこまれるので、そういう無気力な社会になってしまっては、僕が困るわけです。労働の対価は、小夏ではく、お金で払っていだたきたい。


いつものことですが、映画を観て「泣いた」しか言わない。あれも、やっぱりやめた方がいい。
「あの映画、どうだった?」「泣いた。もう、ただひたすら泣いた」……そう言われると、そこで会話が終わってしまう。「自分の心は繊細だから、踏み込んでくるな」とコミュニケーションや議論を遮断しているわけです。そうまで自分を純粋で清廉な人間だと思い込むのは、非常に危険です。「自分の心は綺麗だ」と思い込む癖がつくと、人はやすやすと自分の感情最優先の「正義の暴徒」と化して、他人をリンチにする。

さらに言うと、「泣く」ことが、単なる共感を意味するだけになりつつある。「泣く」ことの価値が安っぽくなっている。
“表現には「共感=シンパシー」と「驚異=ワンダー」があって、詩や音楽の本質はワンダーだと思うんだけど、今は圧倒的にシンパシーの時代ですよね。”
僕は、映画にワンダーを求めている。映画の構造、表現そのものが「興味深い」ときに感嘆するし、泣きもする。逆に、年末に完結篇が公開される新作の『スター・ウォーズ』のように、あまりに作品が無様で、情けなくて涙が出るって場合もあるでしょ? 「泣く」にも、いろいろな意味があったはずなのに、今は「自分の繊細な感受性が震えた」だけになりつつある。怖いです。
結局、そうした個人の心の堕落は、社会をますます不安にしていく。だから、毅然とした強い心を持っていたい。


最近、「NHKから国民を守る党」の動きが毎日めまぐるしくて、ついついYouTubeを見てしまう。
代表の立花孝志さんとは同い年で、彼は愛国心をもってNHKに入社したらしい。だから、思想的な偏りがゼロではないけど、彼はそれを隠さない。お金についても公表しているし、党の中で何をどう決めているのか、戦略もすべてYouTubeで話してしまっている。
彼が憤るのは、たとえば区役所の選挙管理委員会が自民党OBによって牛耳られ、法律ではなく総務省の指示で立候補をもみ消そうとしている現場に立ち会ったときだ()。これが一番、凄かった。ようするに、彼はズルが嫌いなんだよ。力の強いものにへつらって、ナアナアで誤魔化しながら生きるのがイヤってだけなんだ。

ウソと脅しで塗り固めないと維持できなくなっているNHKをスクランブル化したら、組織は変質せざるを得ないし、日本のあちこちでウソをつきながら仕事している人たちがグラつきはじめるだろう。僕は、そこに期待している。誰もがウソをつかず、正直に自分のやりたいことを仕事にしていっぱいお金を稼いで、自分の幸せを追求する。誰ひとり例外なく、ひとりひとりが幸せになる。それが理想の社会。僕を嫌いな人は不幸でいい、なんて思わないですよ。
だけど、みんな勇気がないから、ちょっとずつ自分を誤魔化しながら生きている。「フリーランス」というウソ、「お金じゃない」というウソ、「優しい世界」というウソ、「泣いた」というウソ……。今、深刻な時代なのは確かだ。

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2019年5月24日 (金)

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モデルグラフィックス 2019年 07 月号 25日発売予定
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平成元年、ガンヘッド出撃!
先月の【模型言論プラモデガタリ】の再録ですが、正式に設定画をお借りしたうえで、河森正治さんのコメントを引用しつつも、ほぼ丸ごとデザインとプロットの関係を語りおろしています。
最近あまり触れてませんが、連載記事「組まず語り症候群」も休まず掲載中、今回で第79回目です。

月刊ホビージャパン2019年7月号 25日発売予定
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“キャラクター文化”としての美少女プラモ、その最新形
巻頭特集にあわせて、2019年の美少女プラモデルの過去と現在と未来を……という編集部からのオーダーでした。静岡ホビーショーをはさんで、丸ごと全部書き直したり、若い編集者には多大な負担をかけてしまいました。第一稿は1990年代の『セーラームーン』や『ときメモ』、『エヴァ』にいたるキャラクター史を追って、研究書籍(90年代末のサブカル評論ブーム)を紹介した荒っぽいものでした。
その後、やはりフレームアームズ・ガール(FAガール)を中心に書き直してほしいと言われて、第一稿の使える部分は使い――すなわち、90年代に起きた美少女キャラクターの氾濫と類型化のパートは残して、そのムーブメントを「データベース消費」という新しい側面から批評した東浩紀さんの『動物化するポストモダン』を中心にすえました。
『動ポ』は、もう18年も昔の本です。だけど、景気の低迷した18年間、キャラクター文化が革新的な何かを生めなかったから、90~00年代を概観せざるを得ないのだ、とも言えるのです。

……とまあ、「キャラクター文化史」なんて言葉自体、模型雑誌にすら載らなくなったご時世に、FAガールを単に「売れてるコンテンツ」でもなく「売れてるんだから、何かしら凄いんだろ」でもなく、パーツを組み立てたり組み替えたりする「データベース消費」という視点から語れただけで、僕にとっては大きく得るものがありました。
読者は、こんな文字だらけのページは面白くないと思います。でも、ページ埋めに適当なことを書いたわけではありません。


FAガールを切り口にすれば、ここ20年ぐらいの間に起きたサブカル(という言葉も滅多に聞かなくなりました)の動きのあれこれを、接続できるように思います。
例えば、ボーカロイドやMMDのように、ユーザーの自主性・主体性・能動性で育ったシステムとFAガールは調和するんじゃないか……と思いついたら、「フレームミュージックガール 初音ミク」って製品が出てるじゃないですか。
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初音ミクって、クリプトン・フューチャー・メディアの公式イラストだけが本物、中心ってわけではないですよね。誰かが二次創作しても、それは誰かが初音ミクを使って自己表現している、フィーチャリングみたいな捉えられ方をする。初音ミクの○○(絵師名)ヴァージョン、みたいな感覚。
FAガールは、ひとつのキットの中で完結してもいいし、互換性のあるパーツを他のキットから流用して形を変えても、とにかく何をしても間違いではない。このキャラはこういう性格だからこんなポーズはとらないとか、この武器はスケールが合わないから装備しちゃダメとか、従来のキャラクター・コンテンツで障壁となっていた公式設定が、そもそも存在しない。
ユーザーが素組みしても、布の服を編んで着せても、ぜんぶ正解である。すべてが単なるヴァージョン違いであって、どれがどれに勝るとか優れているとかいう評価軸すら、介入できない。
(ガンプラの場合、宇宙世紀という公式設定が重たすぎるし、そもそもアニメーションという強固な原作があるし、80年代のガンプラ・ブームの余波で塗装や工作によるヒエラルキーから逃れられない。障壁を乗り越えようと試みたのが、ガンダムビルド・シリーズでした)

さて、武装パーツの入っていないFAガール「イノセンティア」を原稿執筆のために購入して、あらためて驚きました。
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キットの中には数種類のケモノ耳パーツ、ツインテールとショートヘア、大きな胸とぺったんこの胸、素足とメカ足など、膨大なオプション・パーツが含まれていて……というよりオプション・パーツそのものがキットなので、僕は必ずどれかを選ばなくては組み立てられない。やっぱりショートヘアが好きだとか、ケモノ耳の魅力に目覚めたりする。ポージングさせるにも、何かしらの嗜好や性格が反映される。恥ずかしいけど、これはハマる。以前に「轟雷」を買って素組みしたときは、こんな照れは感じなかった。この照れは、おそらく自己表現と直結している。

いま売り切れ中の「ホビージャパンエクストラ」で、FAガールを使って自己表現している作家たちにキラキラした憧れは感じるけど、自分が同じ作品をつくりたいわけではない。自己表現なんだから、「自分は自分だ」と再認識するわけです。
キットの素組みとハイレベルな、アウェイな工作・塗装技術を投入した個人作品が、もしかすると等価かも知れない。少なくとも「部分塗装してビキナー脱出」などのガンプラ的価値観を超越しているのではないか?
これだけの選択肢(オプション・パーツ)から僕たちが好みを選べるのは、ポニーテール好きだとか水色髪に萌えるだとか、メイド服だメガネだ……といった90年代に蓄積されたデータベースがあったればこそ、です。(残念ながら、FAガールでまだメガネは出てないようですが)「メカ少女」という二次創作から出発していることが、あらゆる嗜好や欲望を許容している。僕は、そのルーズさに未来を感じるんです。


18年前に提示された「データベース消費」に気がつくと、バンダイスピリッツさんがカスタマイズ前提の「30 MINUTES MISSIONS」を発売する意図も分かります。ハイスペックな主役機があり、それを中心に量産機があって……という80年代に流行ったサイドストーリー物に見切りをつけた、と読むことができます。だから、あらかじめすべて量産機であり、すべてがヴァージョン違いなのでしょう。
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しかしながら、ワンポイントだけ塗ったり工作したり、ガンプラ的価値観も共存させていく。塗るのが間違いでもないし、素組みが正解でもない。ただ、ロボットにメカ少女的な嗜好は反映させづらいので、もしかするとノーベルガンダムやフェイ・イェンのような少女型ロボが出てからが面白いのではないか?
いずれにせよ、主役ロボットに対して量産機があるからリアルだ、などと化石のようなことはいつまでも言っていられない(笑)。

団塊ジュニア世代だけをターゲットにすれば、80年代回顧ビジネスはまだまだいけるでしょう。僕の世代のライターは、重宝すると思います。だけど、「儲かるからやる」ではなくて、「面白いからやる」方向へ行きたい。そのためには、自分の欲望に素直でなければ。

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2019年5月14日 (火)

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アニメ関連の催し物ばかり行っている自分に嫌気がさしてきたので、上野公園へ、美術館めぐりに。まず、東京都美術館のクリムト展。平日午前なのに、やっぱり混んでいる。
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ひとつの絵の前に20人もお客さんがたかっている状態なので、まったく話にならない。係の人が「中へお進みください」って言わないと、みんな頭から順番に見ようとして行列をつくってしまう。動物園のパンダじゃないんだからさ。

本当によろしくないなあ……と思うのは、絵そのものより、短いドキュメンタリーを映写したモニターの前に人だかりができやすいこと。家でテレビを見る感覚って、昭和生まれには強烈なんだと思う。「ハイこういうお話でした、どうぞ感動して帰ってくださいね」と、手短にまとめてもらわないと、何かを見た気になれないんだろうな。
音声ガイドは、一体全体どういう狙いなのか稲垣吾朗を起用して彼の写真まで貼りだしてるし、大企業がいっぱい協賛に名を連ねているから、愚民どもをキャッチして金にかえないと成り立たないイベントなんだろうな。全長34メートルの絵が展示されますよって、実は複製だしね。バカにされてるんだと気がつかないと。


このままでは収まりがつかないので、やや閑散とした雰囲気だった国立近代美術館へ。ル・コルビュジエ展。
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こちらは、建築模型から壁面に投射したCG映像から、あらゆるメディアを投入していて楽しいし、何より適度に空いている。シックな装いのひとり客が多くて、とても居心地がよかった。しかも、60歳ぐらいの男女が「ホラ、ここのスロープがさ……」と、マニアックな話をしていた。何しろ、われわれのいる近代美術館そのものをル・コルビュジエが設計したのだから、彼の作品の内部で、彼の業績を追っているとも言えるわけ。

おまけに、キュビズムを批判しながら描いていた絵というのが、あまりカッコよくない。絵をやめて建築に進んでから、頭角をあらわしたんだな。解説文は難解でありながらも、ひとつひとつの文を追っていくと、ドキュメンタリーを見ているかのような苦みばしった現実感があった。
(大きく引き伸ばした当時のモノクロ写真や、批評活動のベースだった雑誌類が並べられているのも、現実味を増すための良い演出だった。ヌーヴェル・ヴァーグもそうだけど、表現者が批評家を兼ねてるのって凄いことだし、必要なことのようにも思える。)

日大芸術学部は、映画の授業はいっぱいあったけど、「美術史」ってのはなかったような……俺が専攻しなかっただけだろうけど、どこからどこまでが古典で、どこからが近代で、写真と絵画と建築がどう関係していったのか、今からでも学びたい。小学校~高校の美術(図工)の時間は「感じるままに描け」っていう最悪なものだった。クリムトの絵を「いい絵か悪い絵か、ただ感じろ」と突き放すのだとしたら、それは文化的と言えるのかな……。


最近の映画は、ロバート・レッドフォード監督の『大いなる陰謀』、フェデリコ・フェリーニ監督の『カビリアの夜』。
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どうも、フェリーニのように祝祭的な映画を撮っている人がロッセリーニ(というかネオレアリズモ)を手伝っていたというのが解せないでいたのだが、『カビリアの夜』を見て、これもひとつのネオレアリズモのあり方なのだろうと納得がいった。1957年だから、ロッセリーニの『イタリア旅行』から三年後。
ひとつひとつのエピソードはやはり夢の中のように茫洋としていて、リアリティはない。背景で音楽を演奏している人たちがいて、つねにパーティのような賑やかな雰囲気が漂っている。
ラストも同様で、求婚された男から金を騙しとられた娼婦のカビリアは、絶望して地面に倒れふす。そのまま夜になってしまい、彼女は寂しい山の中の道を、よろよろと歩き出す。すると、近くでキャンプでもしていたらしい男女がギターなどで音楽を奏でながら、涙で化粧の溶けたカビリアの周囲を踊りながら歩き出す。「こんばんは!」と、カビリアに挨拶する女がいる。カビリアは力なく笑い返して、彼らとともにヨロヨロと歩きつづけて、そこで終わり。客観的に見れば救いのない凄惨な終わり方……という意味では、間違いなくネオレアリズモなのだ。

ようするに、山の中の若者たちはカビリアの心象風景であって、「たまたま若者たちが居合わせただけ」と、額面どおりに受けとってはいけない気がする。
カビリアが映画スターの男に誘われるシーンにも、同じことが言える。カビリアはスターの家に招かれるが、そこへ彼の元恋人が帰ってきてしまう。カビリアは浴室に隠れて二人の様子をうかがうのだが、そこには子犬がいる。カビリアは音を立てないよう、子犬を抱きかかえる。
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そのシーンには、別に子犬はいなくてもいいわけ。でも、理不尽に浴室に追いやられて、できれば大声で騒ぎだしてやりたいカビリアの心がその子犬なんじゃないか?と考えると、それはそれで「リアル」だと思うんだ。
とは言え、ドキュメンタリー的な撮り方をすれば即物的に「リアル」になるのが映画なので、そこが本当に厄介! だって、劇映画なのにエキストラとして雇った人に「ふだんはどんな仕事してるの?」とインタビューを始めてしまうゴダールの映画だって、「リアル」と言えてしまうものね。


『カビリアの夜』で検索したら、「感情移入できた、彼女の境遇に共感できる」って感想があったけど、いま映画の見方がすべてそうなっている。あたかも、映画の役割が「共感を誘うだけの古典的な触媒」として終わろうとしているかのようであり、おそらくそれは間違いない。

3Dとか4DXのような、環境に頼った体験型ツールがもてはやされるのも、IMAXのような効率は悪いけど映写面積だけ無闇にでかい上映形式が「臨場感がある」と誉められるのも、「どれもこれも映画なんて似たようなもの」と、世の中が気がつきはじめてるからじゃないのか……。それで、「ネタバレくらった」「ネタバレすんな」と、“あたかも映画に中身があるかのように”振舞ってるんじゃないか?
今の僕の感触だと、映画の話法が刷新されていたのは、1970年代のニュー・シネマが最後。あとはSFXとCGによって、被写体が目新しくなっただけ。50~60年代が、映画の青年期だね。

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2019年5月12日 (日)

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9日(木)は、静岡ホビーショーで取材2件。前日の8日(水)から静岡入りして、ホビーショーに出展しないメーカーさんを訪ねて意見交換した。いくつか、具体化できそうなアイデアが出た。
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夜はホテル近くの居酒屋で、ひとり酒。旅先の常で、ジョッキ二杯と静岡茶ハイ一杯で、すっかり酔いが回ってしまう。バーに寄ってワインでも飲みたかったけど、店で悪酔いするのが怖いので、コンビニのカップワインで我慢した。ホテルの部屋で飲むなら、酔いすぎたらやめればいいし、なにかと調整がきく。翌日は取材があるので、二日酔いにでもなったらシャレにならない。
ひとりで寂しくないのかって思われそうだけど、僕は、旅はすべて一人。誰かと呑むのも、よっぽど仲のいい友達と、月に一度程度。仕事がらみの酒で、窮屈な思いしたくない。みんなでワイワイとか、著名な業界人に囲まれて……ってのは興味ない。僕は僕にしかできない仕事をやっている自覚があるので、価値意識を理解してくれる仲間は少しでいいし、おのずと少数精鋭になる。

こういう、ひなびたスナックがあるところも、地方都市の魅力だ。一軒目の居酒屋で酔ってしまったので、寄るわけには行かないけど。
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こんな風に、家をもたずにホテルを転々としながら取材して歩き、原稿も旅先で書くわけに行かないかな?と、考える。


ホビーショーは、静岡の小学生を招待する特別日にメディア取材が入ってしまって、情報がどんどんウェブにアップされた。
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見本市として最新製品を真っ先に見に行く意義は、ほぼ完全に霧散した。取材で知り合ったメーカーの方たち、いつもは東京で会う模型メディアの方たちと、ふと出会って話しこむ。東京では話しづらいことも、ここなら気楽に口にできる。それが、ささやかな楽しみだ。
声優さんかアイドルか知らないが、若い女性が「ハイーッ、今度は○○さんのブースにやってきましたーっ!」と頑張ってレポートしていたけど、どこもかしこも似たような盛り上げ方をするんだなあ……。なおさら、空虚さが増す。アイドル的な立場の女性にプラモデルを作らせて「どうですか、難しいでしょう? こうすると上手にできるんですよ、知らなかったでしょう?」式に、おじさんがレクチャーするのも男尊女卑で時代遅れに感じる。

女性を、「無知で無垢なアイドル」として使うしか盛り上げ方がないとしたら、模型趣味はどんどん時代に取り残される。僕の取材してきた実感だけど、模型メーカーでは女性の開発者も多く活躍していて、女性モデラーも(顕在化していなかっただけで)以前からいっぱいいる。メディアが頭を切り替えられてないだけだろう。そんな風だから、僕が企画をねじこむ余地がいっぱいあるわけだ。


9日夜に編集者と2人で帰宅して、翌日夜は藤津亮太さんのウェブ番組『アニメの門』に出演。
藤津さんとはマチ★アソビで即席のトークショーをやって以来だから、7~8年ぶりだと思う。お題は『∀ガンダム』なので、静岡へ行く前と帰ってきた夜、しっかりメモをとりながら何度も作品を見直しておいた。藤津さんとは意見が異なりながらも、お互いに「なるほどそう考えたか」と納得しあえて、有意義な2時間になった。

だけど、Twitterでの反応はどうかな?と、キーワードで検索してみたら「これは俺の好きな方向性じゃない、というような論じ方」を、僕が多くしていたという。うーん、どの発言がそうなのかな? 批判する以上は根拠を用意していったはずなので、おおいに首をひねった。「好きな方向性」だとか、そんなレベルでプロが仕事できるわけないでしょ?
というか、自分の名前で仕事してないくせに「知識量はこっちの方が上だぜ!」とイキってる素人さん、本当にめんどくせえ。プラモ媒体は「リスナー」と「プレイヤー」に分かれていて、僕は「リスナー」に徹底しようと決めているので、「プレイヤー」の皆さんに敬遠されることは計算の上なんです。でも、アニメって作り手以外は「リスナー」しかおらず、優れた「リスナー」と愚かな「リスナー」がいるという考え方があるらしく、そこが面倒。

小学校の頃、揶揄するニュアンスで「怪獣博士」って呼び方があった。怪獣博士は、ちょっとでも誤った怪獣情報を聞くやいなや、「それ違うよ!」と横入りしてくるウザい存在。好きなものを使って他人を貶めたり嘲ったりするから、怪獣博士は嫌われるんだと思う。怪獣のことなんて真剣に考えてない無知なクラスメイトが間違った発言をしてくれないと、怪獣博士は己のプライドを維持できないわけだな。
僕は誰とも競いたくないから、いまのポジションを手に入れた。どこへ行くのもひとり、酒を飲むのもひとり。贅沢な身分だと思うよ。他人に勝とうとしてないから、ひとりの贅沢ができる。徒競走で一等とビリッケツがあるのが嫌で、トラックを降りてしまった人間なので。ビリッケツの悔しさとプライドを持ったまま、トラックの外で歩いたり走ったりしているだけなんだ。「お前、トラックの上に乗ったらビリッケツだぞ! みんなと同じルールに従えよ!」と僕を叱ったところで、無駄ですよ。誰とも競うのもやめた人間なので。ビリッケツは確かに悔しいけど、かといって、僕が一等で誰かがビリッケツになるのも嫌なんですよ。

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2019年5月 6日 (月)

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過酷な物語を抽象化する“童話”としての「機動戦士Vガンダム」【懐かしアニメ回顧録第54回】(
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僕は1999年のガンダム20周年前後にライターデビューしたので、当時整備された宇宙世紀年表の「史実」にもとづいて、モビルスーツの全高設定だの出力だの武装だの、あとはリアルだの富野節だの上っ面だけの決まり文句を叩き売りしてきました。
でも言っちゃ悪いけど、模型雑誌っていまだに同じこと書いてますよね。それか、ロボット戦の部分を無視してドラマだけ語るか、どちらかだと思います。

富野由悠季監督は一作ごとに作品のコンセプトを変えているはずですが、しかし、ほとんど上手くっていません。
玩具を売りたいのであれば、第1話で味方のロボットを出さなければ失格です。ドラマを優先した結果、主役ロボを出せなくなった? それは作劇が下手くそであるか、玩具を売るビジネスをバカにしているからです。まず、そこを冷静に見つめないと、本質的な評価はできないと思います。
それでは、当時のスポンサーがどこで、本当に玩具やプラモデルを売らないと番組が成り立たないのか? ちゃんと確認したことがありますか? 評価する側も「あれは玩具会社の都合で……」と出鱈目なごまかしをしていないか、十分に気をつける必要があります。さもなくば、僕たちの洞察力はアップデートできず、「懐かしい~!」と叫ぶたびに脳細胞がどんどん死んでいくだけです。

「富野さんや安彦さんが間違ったことを言うはずがない」という思い込み、僕には全体主義のように見えてゾッとします。
せめてリアルタイムに『ガンダム』を経験してない世代は、オジサン世代の陶酔ぶりを疑いの目で見てください。懐メロと化した『ガンダム』は、醜悪なだけです。


最近、レンタルで見た映画は『ワイルド・スピード』、『勝手にふるえてろ』、『フルメタル・ジャケット』、『トパーズ』、『引き裂かれたカーテン』、『ベン・ハー』。
誰もが『ワイルド・スピード』がもっとも新しい製作年度なのだから、映画の形式としても新しいと認識しているだろう。レストランでの会話シーンを見てみると、立って歩いているモブたち(顔は切れている)をドリー移動でナメて、画面外から主要人物たちの会話を入れる。そのままドリー移動していくと、人物が座って会話している(顔がフレームに入っている)……と、『カサブランカ』の頃と変わらない演出をしている。
だから、映画の形式なんてそうそう簡単に新しくならないんだって……。被写体が派手ならば映画も派手になるというほど、甘いものではない。

反面、『引き裂かれたカーテン』の中盤、農家でのアクション・シーンの迫力はどうだろう?
Highlight
主人公は西側の諜報部員で、お目付け役の男に正体を見破られてしまう。主人公は男に首を絞められ、農家の女は包丁で男の胸を刺し、さらにスコップで足を殴打し、ついにはオーブンの中に頭を突っ込ませて殺す。
短いショットを激しくカットバックさせ、じりじりと男はオーブンに近づいていく。ついに頭をオーブンに突っ込まれた男は絶命するわけだが、死ぬまでが長い。しかも真上から撮っているので、顔は見えずに男の痙攣した手だけがずーっと、ヒクヒク動いている。じれったい。
そして、男が動かなくなると、今度は首を絞められていた主人公と男を引きずっていた女が、ゼイゼイと息を荒くして、その場にへたりこんでいる。何十というカットを短くカットバックさせたあとの、長い長いロングショット。フッテージだけ見ると、確かに古臭い。特殊メイクはチャチだし、撮影も綺麗ではない。
でも、映画は被写体で決まるわけではない。どう撮って、どう繋ぐか。それだけが、映画を支配するんだよ。


でも、ヒッチコックはまだ分かりやすい方であって、ハリウッドが超大作ばかり連発していた50年代後期の『ベン・ハー』は、さすがに間伸びした構図なんじゃない?と油断していると、これがまた引き込まれる。壮大な英雄譚で、『スター・ウォーズ』EP1~3は、これがやりたかったんだな。
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たとえば上のカット。ガレー船で奴隷として酷使されるベン・ハーは、戦争で船が破壊された隙に脱出し、ついでに艦隊の司令官を助ける。助けるというか、復讐の意味で殺さず、生き恥をさらさせるわけだ。
ところが、友軍の船に拾われた司令官は自分に差し出された水を飲まず、奴隷であるベン・ハーに先に渡す。これだけの演技で、彼の心のうちが分かるよね。
ベン・ハーは水を飲み、器を司令官に戻す。すると、司令官は同じ器から水を飲むわけだ。ひとつの器から、奴隷と司令官が水を分け合う。もう、ほんのこれだけで2人の関係が激変したことが分かる。こんなシンプルで雄弁なカット、なかなかお目にかかれない。

だけど、ここまで平板な構図でいいの? カッティングの工夫もないのに、どうして俺はこんなに感動してるんだろう? その理由を考えつづけようとすると、図書館に行って映画の専門書を漁ることになる。だって、ネットには「泣いた」と「ネタバレ」しか書いてないもん。

(C)Universal Pictures
(C) 1959 - Warner Bros. All rights reserved.

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2019年5月 3日 (金)

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モデルグラフィックス2019年6月号
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●組まず語り症候群 第78夜
今月は編集部からの持ち込みで、イタレリ製の1/24トラック・アクセサリーセットです。

異色作「ベターマン」の生まれた時代と環境を、米たにヨシトモ監督が振り返る【アニメ業界ウォッチング第53回】
『ガオガイガー』をリアルタイムで観ていたので、米たに監督がオリジナル企画を撮ると聞いたときは、本当にドキドキしました。だけど、この記事はパプリシティですからね。僕が残したいと思っていた部分は、土壇場で切られてしまいました。

プラモデルやフィギュア製品を「撮影する仕事」とは――? ベテランのホビー専門カメラマン、高瀬ゆうじさんの目撃した昭和~平成のホビー業界【ホビー業界インサイド第46回】
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バンダイ近辺を取材中、ごく普通に耳に入ってきたのが、キャラクター製品専門の高瀬カメラマンのお名前でした。私も、中高校生のころには、誌面でお名前を覚えていました。思わぬ話が聞けたし、記事の反響もあり、満足しています。
予定どおりの話を聞くってのは僕の仕事じゃないし、そうならないように気をつけてるつもりです。ホビー(フィギュアやプラモデル)は、文字パートが非常に弱いですから。


コミティアで発売される同人誌『MANGAの自由』()で、インタビューを受けました。
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GMOメディアが、個人の制作した美少女フィギュアのブログを「児童ポルノ」と呼んで切り捨てたとき、抗議のために署名を集めましたので、それに始まる活動いくつかについて取材されました。最後に抗議活動をしたのは、テレビで児童ポルノ所持容疑の男性の私物として、市販のキャラクター・フィギュアが映されたとき。2016年3月、愛宕警察署まで抗議に行きました。
だけど、その後も美少女フィギュアって酷い目に遭わされています。最近では、フィギュアの首をすげかえてオークションで販売しただけで逮捕されましたよね。著作権法違反の容疑だけそうだけど、版権元からの通報ではなくて、警察の独自判断でした。そして、またしても水着姿の美少女フィギュアが「犯罪」を強調するためにテレビに映されました。

さすがに、ネットで「おかしいのではないか?」という声は高まってきました。
だけど、フィギュアメーカーや模型会社は「我関せず」の立場を貫いています。もし、フィギュアではなく漫画だったら、作家や出版社団体が抗議声明を出すと思います。ホビー業界って、そういう動きが一切ないんです。「社会性がない」と思われても、仕方がないでしょう。文化として未熟だから、警察のいいカモになっているのではないでしょうか。
メーカーさんは弁護士と相談して「黙っていても不利益はない」「余計なことを言うと危険だ」と、判断したのかも知れません。でも、そういう問題じゃないと思います。特に、個人が犯罪者のように排除されているのに、組織に属していながら沈黙しているのは、ちっともカッコよくないです。恥ずかしいです。「児童ポルノ」という、まやかしの言葉の圧力に、まんまと屈しているから。

だけど、酒の席とかでは「廣田さん、ああいう活動してて大丈夫なんですかねえ」なんて説教されるわけ。普段、フィギュアを商売にしている人から。もちろん、全員がそういう卑怯者ばかりじゃありませんけど、組織の中から個人に文句を言うのは楽でしょうよ。どんな立派な製品をつくっていても、どんなに素晴らしい技術やセンスを持っていようとも、心の底で僕は軽蔑してしまう。
だって、酔って僕の活動を批判するのは、「あの時、自分は何もしなかった」って恥じてるからでしょ? 「何もしない」「言わない」のは、頭がよさそうに見えます。でも、「何もしなかった」ことで責任を逃れられるかというと、世の中そんなに甘くはないですよね。皆さん、ご存知のはずだ。   


NHKになぜスクランブル放送をしないのか質問したら逆切れされた3-1
先日の選挙以来、「NHKから国民を守る党」の動きは、とてもスリリングです。上にリンクした電話のやりとりを聞いたら、受信料なんて払う気は消し飛びます。
なぜNHKがスマホやPC所有者からも受信料をとろうと息巻いてられるのかっていうと、不義理やウソや誤魔化しに誰も対峙してこなかった、それだけの話です。「何もしないのが、かえってカッコいい」「ここは黙ってやりすごすのが賢い」と、僕らは義務教育のころから組織への盲従を叩き込まれてきたんじゃないだろうか。牙を抜かれつづけてきた。でも、牙を抜かれたまま人生を終えるのは、どう言い繕っても負けだと思う。負けは負け、勝ちに転じることはない。

NHKのように有名タレントをいっぱい出演させている組織が、そんな詐欺みたいなことを働くわけがない?
その、「有名人が出てるから」「でかい組織だから」間違うはずがないって考えが、すでに「組織への盲従」そのものなんだよ。身も心も差し出せなんて、組織は絶対に言わない。彼らは僕たちに、「とにかく黙っていてくれ」と願っている――。それを忘れないでほしい。

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