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2019年4月18日 (木)

■0418■

先週末から観た映画は、レンタルで『リバー・ランズ・スルー・イット』、ゴダールの『軽蔑』、上映終了間際だというので、新宿のTOHOシネマズで『スパイダーマン:スパイダーバース』。
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『軽蔑』の劇中、ロッセリーニの『イタリア旅行』を上映している映画館が映る。ゴダールは『イタリア旅行』に決定的な影響を受けて作家になったので、「せめて『イタリア旅行』ぐらい観てくれないと、俺の映画は理解できないよ」と示唆しているかに見える。『軽蔑』には、『メトロポリス』のフリッツ・ラング監督も登場し、ゴダールは劇映画の形式を借りながら映画論を展開しているのだと思う。
つまり、劇映画の中には「最低でもコレとコレを踏まえておかないと、さっぱり価値が分からない」タイプの作品がある。いきなりヌーヴェル・ヴァーグを観ても、素人の撮った下手くそな自主映画にしか見えない。なのに、大多数の観客は徒手空拳の「感性」とやらで「どれほど泣けたか=感動したか」によって全映画を等級づけようとする。

映画に限らない。「難しいことはよく知らないけど、とにかく私の感情だけは絶対に正しい」と確信するポスト・トゥルースの傾向が、僕は怖い。大震災……というより、原発事故以降、事実を無視して感情を最優先する態度が、社会の根底に大きく横たわっているような気がする。


「正しさ」は、もはや知識でも文脈でもなければ、観察や議論の中にすら存在していない。個々の「感情」がすべてだ。原発事故のとき、福島で子供が亡くなったというガセネタが流れた。「だから逃げろと言っただろうが!」と、Twitterで激怒している人が大勢いた。なんだか、「そのニュースを待ってたんだ!」と、嬉々としているように見えた。原発事故で子供が死ねば、自分の怒りに正当性が加わるからだろう。
同じころ、「放射性物質は地面に溜まるそうだけど、犬を散歩させても大丈夫なんだろうか?」というツイートがあった。即座に「関東では、飼い犬が血のオシッコを流しながら死んだそうだ」と答えている人がいたので、「どこに出ていたニュースですか?」と聞いたら、何も答えずにツイートを削除してしまった。ようするに、「放射能は危険だ」「関東から逃げろ」と言いたいがために、空想の犬を空想の中で殺す。彼らにとっては、原発事故も放射能被害も子供や動物の命も、怒ったり嘆いたりするための娯楽ネタなんだな……と、呆れもしたし慄然ともした。

僕は、自分のマンションのベランダの汚泥を測定してもらったり、汚染の基準値を超えてしまった食品会社の対応を、電話やメールで追いかけたりした。
汚染米を出荷したため、営業停止になった米屋に行ってみたこともある。子供用の可愛い三輪車が置いてあるのを見て、なんだか怒る気持ちが薄らいでしまった。
自分の足と目で本当のことに触れていかないと、怒ることは出来ない。なぜ怒るかといえば、それは間違いを正して改善したいからだ。ところが、事態の改善などどうでもよく、怒ることや泣くことの気持ちよさに流れさている人たちが、思ったよりも多いことが分かってきた。


ルパンの愛車「フィアット」公式が感謝のツイート

このニュースも、同じことだ。FIAT JAPANが、『ルパン三世』の原作者、モンキー・パンチさんの死に便乗したツイートを行った。
ちょっと詳しい人なら知っていると思うが、フィアットをルパンの愛車に設定したのはピンチヒッターとして演出に加わった宮崎駿さんたちによる勝手な選択だ。僕は原作漫画は少ししか読んでいないが、宮崎さんのエッセイ集『出発点』にアニメ版『ルパン』の愛車をベンツSSKからフィアット500に変更した個人的動機が、克明に書いてある。1996年の本だ。
しかし、ツイートに群がって「ルパン大好きです!」「フィアットもいい車です!」と感情を吐露したいだけの人たちは、事実なんぞ知ったこっちゃないのだ。FIAT JAPANに問い合わせようかと思ったが、彼らは愚民たちを「フィアット、いい車です!」と躍らせたいのだから、遺族にはもちろん、版権元にも承諾を得て、あえて事実に反するツイートを行った。開き直っただけだろう。でなければ、トムス・エンタテインメントあたりが止めているはずだ。

何年か前からささやかれるようになったという、『機動戦士ガンダム』劇中の拡大解釈()もそうでしょ? 「富野監督、凄いです!」って言いたいだけ。
さらに、『ガンダム』オープニングの太陽の光を「スペースコロニー落下の爆発」と捉えた人がいた。「解釈は多様であっていいはず」といった苦しまぎれな言い訳を目にして、苦笑してしまった。反骨精神の塊だった『ガンダム』も、年寄りが酔っ払って歌う懐メロになったのだ。大衆に浸透して俗化して、役割を終えたのだ。こう書くと「また廣田がガンダムの悪口を書いてる」と言われるだろうが、無理して持ち上げるほうが、よっぽど作品を貶めているのではないだろうか?
知り合いの編集者が、かなり本気で「ガンダム世界をテーマにした老人ホームをつくれば、20年後には大儲けできる」と語っていたけど、なかなか良い勘をしている。イヤな発想だけど、商売としては正しい。


「映像作品の解釈は多様でいいはず、人それぞれ」という無責任な言い訳を鏡に映すと、「ネタバレ厳禁」になるのではないだろうか。
「映像作品には、それを事前に知ってしまうと価値の失われる弱点がある。それはおそらく、ラストシーンであろう。よって、ラストシーンを先に知った自分にはアドバンテージがあり、まだ知らない人に教えるのはマナー違反だ」……怠惰でいながらにして優越感を得ようとすると、こういう発想になる。
来週の『ガンヘッド』のイベント()のために、30年前のキネマ旬報を買い集めているが、当時の映画雑誌にはラストシーンまであらすじが書いてあり、公開前のシナリオが丸ごと掲載されていたりした。僕らは、この30年の間、進化できたのだろうか? なぜ、こうまで「怒った」「泣いた」を優先させるようになってしまったのだろう?

© Courtesy of Rialto Pictures.

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2019年4月14日 (日)

■0414■

宇宙世紀的な設定やスペックに頼らない、明快な“ロボット活劇”としての「∀ガンダム」【懐かしアニメ回顧録第53回】

模型雑誌を見ていても「ガンダムの特集」となると、いきなりモビルスーツの形式番号や生産拠点、開発経緯の話になってしまうんですね。『∀ガンダム』は、宇宙世紀のタコツボから縁を切った作品であり、では代わりに何を見せ場にするの?と言ったら、このコラムで解説したような「作画枚数に頼らず、リピートや止め絵をカメラワークを主体に見せる」効率的な戦闘シーンだったのかも知れません。
放送当時、僕はまさしく「コレン、ガンダムと叫ぶ」から『∀』にハマったのですが、その理由は、敵・味方のロボ戦をオーソドックスに見せてくれたからじゃないのか?と思うのです。

ようするに「バカにも分かるように、明快にロボットの戦いを見せられる」、それだけが宇宙世紀モノで当時展開していた『第08MS小隊』、前年にOVAを再編集した映画まで公開された人気作『ガンダムW』にはない、『∀』だけの武器だったのです。でも、棍棒みたいな原始的な武器だったと思います。
その後、キャラクター・ビジネスとしてガンダムを返り咲かせたのは『ガンダムSEED』であり、『ガンダムUC』であったことは言うまでもありません。


上記のコラム記事からは、意図的に「ディアナ・カウンター」という名詞を省きました。ムーンレィスの中に、さらにディアナ・カウンターがある。分かりづらい。地球連邦軍の中にティターンズがあって、エゥーゴもあって、同じロボットを使っている。「ベスパのイエロージャケット」が敵組織の名前かと思ったら、ザンスカール帝国でしょ? この組織の入れ子構造、富野由悠季監督の悪い癖です。その悪い癖を「トミノらしい味わい」と感じてしまう僕たちも、本気で頭を冷やすべき頃合いではないでしょうか。

シド・ミードさんに(まったく新しいアニメ企画ではなく)ガンダムをデザインさせてしまったことにも、疑問があります。
プラモデル化するにはセールスポイントに乏しいし、手描き作画にも向いていない。最後に蝶の羽を生やすのであれば、安田朗さんの柔らかいキャラクターに肌合いのマッチした、シンプルなロボットにすべきだったと、今でも思っています。
小林亜星、西城秀樹、谷村新司……この主題歌チームも、どの世代に訴求力があったのか、僕にはサッパリです。どうも、ビックリさせる方向がバラバラで、商業作品としてのルックスが整わないまま、作品の文学性ばかり評価されてきたのが『∀』の不運ではないだろうか?
そこで今回は、ロボット(モビルスーツという造語もこの作品では上手く機能していない)の戦闘シーンだけに視点を絞って、コラムを書いてみたのです。


現時点の感想を言うと、『∀ガンダム』は誉められすぎで、僕も持ち上げすぎてきたと思っています。
Twitterでは「いいっすよね!」「僕も大好きです!」「懐かしいです!」「泣きました!」で、それ以上に話が進まない。「好きなものを批評する」ことに、僕らは慣れていない。ガンダム・ビジネスにはさほど貢献していない『∀』を「大好き」と言う自分に、酔ってしまっていないか、ちょっと点検してみた方が良さそうです。なぜパーフェクト・グレードで∀が出ないのか? ミードさんのデザインしたターンXやバンディットだけ、まったくの別ブランド、最高級の特別仕様でプラモデルを出せないのか? あちこちに突破口はあったのに突破できなかったのは、何故なのか? 

――こういうこと書くと、「バンダイや富野さんやガンダムの悪口を書いている廣田には、もう仕事を回すな」って言われかねない。そういう幼稚な力関係によって、また輪が閉じてしまうんですよ。課題を抱えた作品が「文句なしの傑作」なんて薄っぺらいレッテルを貼られて、僕らは考えるチャンスを奪われていく。「大好きです」「懐かしいです」と連呼するだけのバカになっていく。富野監督がそんな状況を望んでるんですかね? 僕らにはもっと考える力があり、その力は富野さんが与えてくれたんじゃなかったんですか?


ある仕事で、どうしても『仮面ライダージオウ』を見なくてはならなくなって、その尖ったセンスに腰を抜かしたんです。

「今の小学生って、こんな『マトリックス』を極彩色に染めたようなカッとんだ映像を毎週見てるの?」って。デザインだけではなく、CGや音響(声優の使い方も素晴らしい)も含めた変身シーンが、もうデジタル歌舞伎って感じ。『アベンジャーズ』が、クラシック映画に見えてしまう。
『ジオウ』の変身パターンを一気に見て、「これって『Gのレコンギスタ』のG-セルフ七変化でやれないのかな?」って、ちょっと空しいことを考えてしまって。今からでも、富野さんに進言したら?とさえ思いました。アニメのロボットが特撮ヒーローに勝つには、どうしたらいいんだろう?

あと、東映ヒーローって俳優たちの写真やインタビューを集めたムックまで出てるじゃないですか。お父さん・お母さんは、俳優たちにメロメロなわけで、全方位コンテンツですよね。これがキャラクター・ビジネスの最前線か! そうすると、声優をアイドル化して舞台にあげちゃった方が、ビジネスとしては正しいよね……と、得心がいく。「好き」と「正しい」は別なんですよ。少なくとも僕は、自分の「好き」を疑ってもいい歳です。そして、「好き」の逆は「嫌い」ではありません。もっと上の次元があるんですよ。

(C)2018 石森プロ・テレビ朝日・ADK・東映

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2019年4月13日 (土)

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レンタルでクリント・イーストウッド監督の『パーフェクト・ワールド』。1993年、大学を出て数年、映画を一日に何本も観まくっていた時期、すっかり観た気になっていた。初見のはずだ。
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ラスト近く、銃を外して脱走犯(ケビン・コスナー)との交渉に向かった警察署長(クリント・イーストウッド)の後ろ姿が映る。彼が腰につけている空のホルスターが、チラリと見える。同じカットで、ローラ・ダーンの演じる秘書が歩いているのだが、彼女は手にサングラスを持っている。一瞬、それが銃に見える。
おりしも、脱走犯が銃を持っているかどうか、登場人物たちが懸念しているシーンの直後だ。銃に関するセリフが頭に残っている状態で、空になったホルスターとサングラスを見せられると、サングラスが銃に見えてしまう……これは単なる錯覚で、演出効果ではない。しかし、意図していない偶然も含めたところで、僕は映画を語りたい。それほどの時間が、人生に残されているかどうかは別として。


いつものように、印象に残った演出の話をしよう。
刑務所を脱獄したケビン・コスナーは、一緒に脱獄した相棒が押し入った家の子供を人質にして、逃避行する。冒頭20分ほどで引き込まれるのは、子供が助手席に座っているだけで「何も出来ない」からだ。座っているだけで何も出来ない人物が登場すると、観客はジッとスクリーンを見つめているだけの自分を、その人物に憑依させることで映画に没入できる。

人質にされた子供は逃げ出して、性根の悪い相棒は、畑の中へと子供を追いかける。ケビン・コスナーの演じる善良な主人公は買い物をしているので、子供を助けにいけない。
「早く子供を助けないと、悪い相棒に捕まえられてしまうじゃないか!」と焦りはじめたところで、主観カメラとなる。カメラは、畑に隠れている子供へ手持ちでグーッと寄っていく。それは相棒と主人公、どっちの視点なのだろうか? どっちが先に子供を見つけたのだろう?
情報を瞬間的に遮断することで、観客に謎をかけ、軽度のストレスを与える。ヒッチコック的とも呼ぶべき、オーソドックスなサスペンス演出だ。しかし、最近の映画ではこうした手堅い演出を、滅多に見かけない。映画に興味を繋ぎとめるための、シンプルで力強い武器だと思うのだが……。 


演出ではないが、心をつかまれたセリフがある。
逃避行をつづける主人公と子供は、すっかり擬似親子となって、洋品店で服を買う。店員の女性たちは、どういうわけか満面の笑みで彼らを迎える。「どうして、そんなに愛想がいいんだ?」と主人公が聞くと、店内では笑顔コンテストがあって、いい笑顔をしているとボーナスが出るという。主人公は、その女性店員にチップをやる。
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ところが警察のパトカーが追尾してきていて、店の周囲で派手なカーバトルとなってしまう。主人公を脱獄犯と知った女性店員たちは、大声で口汚く彼を非難する。彼は車を爆走させながら、「オイ、笑顔はどうした?」と皮肉を言う。この粋なセリフには、血が沸騰した。

この映画には、泣かせどころがいくつかある。たいてい、沈痛な面持ちの人物が、座ったまま語るようなシーンだ(座ったまま語る……これも感情移入を促す常套手段)。まあ、それらはあってもなくってもどうでもよくて、泣きたい人は勝手に泣けばいい。
僕は、つくり笑いをしてご機嫌とりをしている社会人たちを、はみ出しものの脱獄犯が乱暴に裏切って「お前ら自慢の笑顔はどうしたんだよ?」と嘲った瞬間、ただひたすら走り続けるフィルムの運動、原理が露呈したような気がして、爽快だった。映画の実体は、間欠運動を続けるフィルム……いや、運動そのものが映画じゃないか。


性犯罪について、ここ何件も無罪判決が出たことを受け、性暴力反対のデモが開催されたという。
Twitterでは「性暴力の無罪判決の撤廃を求めるデモとは、とんでもない」「いや、そんな趣旨のデモではない」と論争が続いていたようだが、主催者は当初、「無罪判決は許さない」と記していた()。批判を受けて、「不当判決は許さない」と書き換えたようだ。
そうした不誠実さは、まあ大目に見ていい。性暴力そのものへの反対や厳罰化なら賛成するし、日頃から女性が不当な立場に置かれていると感じてもいる。
ただね、俺が驚いているのは、デモに対するTwitter上での批判を、参加者がいちいち気にして、批判者に論争を挑んでいるところ。僕も反原発デモには何度も参加したし、政策批判の官邸前行動なんかにも通っていた。いろんな署名をやってきた。世の中に異議申し立てをすれば、思いがけない誤解をされたり、とんでもない方角からデマは飛ばされる、レッテルは貼られる罵倒される嘲笑される……それが当たり前じゃないの? そんな覚悟すらしないでデモやってたの?

かてて加えて、参加者たちが花を配って、その場で「泣いた」そうだね。
だからね、「怒る」「泣く」ってのは気持ちいいんだよ。すぐ「怒る」人、映画を観て「ボロ泣きした」と自慢げな人、ようするに「自分の感情、生理反応に慰撫された」ってことでしょ? 「ああ、すっきりした!」ってのもデモの効果だし、それを認めればすむじゃない。
「また集まろう」「これからも続けねば」ってのは、自分たちが気持ちいいから……と、認めればいい。デモを繰り返せば「性暴力には厳罰を!」ってムードは確実に高まるだろうし、手続きを踏んで法改正していけば理想社会が実現するはずだ。デモだけでは法改正できないし、理想社会も実現しない。その冷徹な現実と向き合わねば、何も変わらないよ。「世の中を変える」って、面倒で膨大な実務の積み重ねなんだよ。

あらためて、「感情の発露」すなわち「怒った」「泣いた」を免罪符にする人たちは好きになれないなあ……と思った次第。

(c)Warner Bros. Entertainment Inc

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2019年4月 8日 (月)

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そういえば観ていなかったなあ……と、レンタルで黒澤明の『デルス・ウザーラ』。
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前作が『どですかでん』、次作が『影武者』であることを考えると、このあたりから馬脚が乱れはじめたんだろうと、納得がいく。 

ロシアの探検家チームが、先住民のデルス・ウザーラという男に出会う。デルスはスピリチュアルな考え方をしていて、たとえば「火が怒ると山火事が起きる」なんて御伽話をする。デルスは焚き火の前に座って、カメラのほうを向いている。デルスの向かい側にはロシア人たちが背中を向けて座っていて、彼の話をバカにするように笑っている。ところが、デルスの背後には、画面左右を覆いつくすように大河が流れている。この構図だけで、デルスの他愛のない発言に、古代からの壮大な時間が備わって説得力が出る。「構図で語る」、これが黒澤明の真骨頂だったと思う。
しかし、この映画で「構図で語る」ショットは、数えるほどだ。苛酷なロケだっただろうから、思ったように撮れなかったのかも知れない。


5日(金)は、「ラフ∞展」のために神田へ。
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この写真は、購入した図録を撮影したもの。撮影OKのエリアは今回の展示のために描かれた新作ばかりで、過去に描かれた正真正銘の「ラフ絵」は撮影禁止だった。言うまでもなく、それら本物の「ラフ絵」こそが見どころであって、目の前で見ないと意味がないからだ。
この展示会では線の荒さがよく分かるように、原寸の何十倍にもラフ絵を拡大している。中には、原画が紛失してカラーコピーしか残っていないものもある。その場合は、「カラーコピーこそがオリジナル」という扱いだ。スキャンしたりコピーしたら、絵画としての価値が落ちるって? アニメーションの現場では、原画はトレースされるし、動画はスキャンしたりセルに転写するのが当たり前だ。
現場の中から、アニメーターやデザイナーの引いた線の美しさを抽出しようと思ったら、それは何も小さな動画用紙である必要はない。

「紙にエンピツで描かれた原画だけが本物」なんて言い出したら、印刷して製本される画集なんてインクの染みでしかない。その盲目的なオリジナル信仰が、展覧会へ行くたびに僕を白けさせてきた。小さな原画を、何十人もが満員電車のような状況で覗きこむ……だったら画集を買うからいいよ、とため息が出てしまう。
今回の展示会は、小さなスケッチを恐れることなく、うんと大きく引き伸ばして、間近でプロの引いた線を見ることが出来る。画集では到底、不可能なサイズで。
アニメ絵、キャラ絵って簡素化されて油絵なんかに比べると情報量が乏しい=価値が低いって見なされてるだろうけど、迷ったり決意したり、はたまた修正したり……の無数の線の重なり、これは記号化できない。完成した一本の線にはない、格別のカッコよさがある。
そのカッコよさを見抜いて、ふさわしい展示のスタイルを選択した。くどくどしたキャラクターの説明やら作品解説やらがないところも、クールだった。


ガンプラと歩んだ40年、ガンダムの生みの親・富野由悠季が語る「“おもちゃ屋スポンサーは敵”という被害妄想」

強化合体メカのGアーマーの玩具のおかげで番組が延命されたことを知る人には、あちこち首をひねらざるを得ない記事。MSVは大勢の小学生が買っていたし、『めぐりあい宇宙』と『Zガンダム』の間は空白なんかじゃなくて、富野監督は新しいコンセプトを毎年考えなおして市場に投入して、クローバーは倒産するまで従来の合金玩具をアップデートしようと試行錯誤していたし、バンダイも悪戦苦闘していた。そのエキサイティングな日々は、僕がイベント()で敷衍するから良いとしても、ロボット玩具が売れるように苦心して作品づくりをしていた富野監督は、もう玩具を売らなくて良い立場になったから、こういう話が出来るんだよな……と複雑な気分。

たとえば、バンダイ周辺で最新の『仮面ライダー』を売ろうとしている人たちは、こんな気楽な発言はできない。僕が取材したかぎりでは、彼らは緊張感をもって、しかも楽しみながら仕事をしている。マンネリは、彼らの敵だから。
キャラクター・ビジネスの最前線はライダーやプリキュアであって、ロボット・キャラクターに対してリアルだ何だと言っているのは、40代以上の「大人」だけ。今の子供たちは、空想キャラクターともっと別の関わり方をしている。そのニーズを探ってキャラクター・ビジネスの戦列に参加するのは、並大抵の努力ではできない。玩具を売るのはもう富野監督の役割じゃないので、彼にキャラクター・ビジネスの話を聞いても、昔話しか出てこない。

僕はもう、気をつかいながら富野監督に話を合わせるような歳でも立場でもないです。ガンダム40周年だからって、それはビジネスとして関わっている人たちが「おめでとう」なら分かる。いちばん昔話を嫌って「現状にカウンターを打て!」 それが僕の知っている富野監督だった。
『G-レコ』を10歳の子供に観てほしいなら、そういうビジネス・スキームを組んでもらいたい。それが本当の戦いであって、信者のようなインタビュアー(僕だってその一人だった)を前に自慢話している富野監督はカッコ悪い。『G-レコ』の劇場版は、僕個人の趣味としては楽しみ。だけど、マーケティングも戦略もない空想のキャラクター・ビジネス論からは、もはや学ぶべきものはない。うんと甘く言うと、ようやく富野さんは純粋な映像作家になれたのかも知れない。
富野監督の死に物狂いの戦いが始まるのは『ガンダム』以降だと思うので、僕は「おめでとう」なんて気持ちになれない。

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2019年4月 4日 (木)

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“水中ニーソ”でお馴染みの古賀学が歩んできた「平面でないと成り立たない模型」の最新形【ホビー業界インサイド第45回】
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古賀学さんからは、メッセンジャーでいろいろとお話を聞かせていただいていて、この日が初対面でした。数日後に僕のイベント【模型言論プラモデガタリ】に登壇していただいたにも関わらず、まったく発言の機会を与えられず、あまりに申し訳なくて、まだ謝罪にいたっていません。

だけど、この日の取材はエキサイティングでした。
アーティストを名乗る方にインタビューしたのは初めてでしたが、アーティストの発言に価値があるとしたら、僕らのような俗世に生きる人間に新しい視点を与えてくれることでしょう。古賀さんの発言は、たとえば映画を見るときに活用できます。模型、プラモデルについて考えるときも役立ててほしいと思っています。
今回、「ホビー業界インサイド」のコーナーに出ていただきましたが、「超絶テクニックをもったスーパーモデラーの話でないと、模型趣味の役に立たない」と考えている人が大多数だと思います。模型雑誌の根底にも、そうしたロジックが働いています。しかし、そんな平面的な思考では、十年もたたずに袋小路に陥るでしょう。古賀さんのように、模型の構造を念頭において、なおかつ即物的にプラモデルを組み立てるのではない、別のフィールドで別のやり方で実践している人から学ばずして、どんな未来があるというのでしょう?


富野由悠季監督は、たびたび「超一流のものを見ておけ」と発言なさってきました。それは、超一流のアニメを見ておけって意味ではありません。美術品、工芸品の凄く高価なもの、別ジャンルで最高レベルの価値を与えられるものを見ておかないと、程度の低い仕事をすることになるぞって意味です。
それが怖いから、僕は海外へ行ったら、なるべく美術館を見るようにしています。すると、古賀さんのおっしゃるように「作品の横に書いてあるのは題名、制作年、材料」だけかもなあ、と気がつけます。権威のあるものを、批判的に見ることも必要です。
あるいは、アニメ関係の美術展はどうでしょう? 「しょせんアニメなんだから、こんな程度で十分だろ? みんな限定グッズが欲しいだけだろ?」って態度が透けて見える場合が多いように思います。それを見抜いて「もっとレベルの高い次元に引っ張り上げてやろう」と思えるようになるためには、やっぱり「超一流のものを見ておく」、それ以外の方法はないように、今の僕には思えます。

あるいは模型の展示だとか、模型雑誌の見せ方はどうでしょう? 「プラモデルはアートじゃない、(しょせん)趣味だから」と言い訳していては、他の趣味に負けてしまうのではないでしょうか。「楽しめればいい」「人それぞれ」「作る喜びを」……僕には、すべて空しく聞こえます。そういう空疎で耳障りのいい言葉の裏に、「塗装や工作の上手な人が一番偉い」という厳格なテクニカル・カーストが存在していることを、みんな知っているはずだからです。
嘘偽りなく「人それぞれ」の状態をつくるのは、生半可ではありません。多様性多様性といいながらトランス・ジェンダーが放逐され、欧米は人権意識が高いと心酔しながら彼らがアジア人蔑視のCMをつくっている状況を見れば、明らかなことですね。


でも、プラモデルは(望ましい形ではないにしても)メディアに露出する機会も増えてきましたし、業界の外に目を転じれば、チャンスは山ほど転がっています。
僕は「下手」の世界で苦しんできた人間なので、「上手い/下手」で格差が生まれる世界とは距離を置きたいです(上手い人はリスペクトしますし、喧嘩をしたいわけではないので)。「下手」の立場から、状況を良くしていきたいのです。6月にプラモデルの本が出ますが、「私は下手だ」というコンプレックスそのものを無効化するような内容になります。

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