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レンタルで、ダルデンヌ兄弟の『サンドラの週末』、タイ映画『バッド・ジーニアス 危険な天才たち』。
ダルデンヌ兄弟の映画は、あいかわらず主人公の背中にカメラが密着して、執拗に彼らの身の上に起きることだけを記録しようと努める。
主人公のサンドラが、自分が不当に解雇されないよう、職場の仲間を説得して回る。少し希望が見えてきたところで、彼女は車の中で夫の手を握る。カメラは助手席に座っているサンドラの横顔を映し、次に、彼女が夫に伸ばした左腕を追って、左にPANする。すると、夫はサンドラの手をしっかりと握っている。再び、カメラはサンドラの顔へPANする。彼女はすっかり安心した表情になっている。
カメラがPANして、戻る。PANすることで、サンドラの気持ちの動きが分かる。カメラの動きに、彼女の気持ちを汲み取ろうとする意志を感じる。ドキュメンタリー・タッチだが、ハプニング的に撮っているわけではない。意志のある、計算された撮り方だ。
それでも、『サンドラの週末』には、これまで見てきたダルデンヌ監督作品のような、ワンカットの中で生じる、取り返しのつかない悲劇的展開が欠落していた。そのため、ダルデンヌ監督作にしては、後味さわやかだ。
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つづいて、『バッド・ジーニアス』の話をしよう。
最初のカットで、主人公の天才少女が、取調室のようなところに座っている。合わせ鏡になっていて、彼女の顔がいくつも画面の奥まで連なっている。サスペンスではよくある演出かも知れないが、この先に仕掛けられた綿密なトリックを予感させる、効果的な選択だと思った。
つづくカットで、ビニール袋に入れられた証拠物が、机の上に乗せられる。それは、水に濡れたスマートフォンである。湿気でビニール袋の内側が曇り、生き物のようにプクッと膨らむ。
最初のカットは抽象的な図像だが、次のカットはシズル感があって、生理に訴えてくる。まずは、この表現の幅だけで期待を抱かせるし、2時間ちょっとの上映時間はその期待を裏切らない。後半では映画に没頭して、時間がたつのも忘れるほどだった。
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優れた演出は、数え切れないぐらいある。
冒頭、主人公の有能さを見い出して、カンニング行為に誘う別の女子生徒が現れる。まずは、彼女が駆け寄ってくる足元のアップを撮る。主人公の天才少女は生徒証の写真を撮っているので、椅子に腰かけている。女子生徒は積極的に「メガネを外したほうが可愛いよ」と、手を伸ばす。そのとき、かすかに天才少女の片足がズズッと後ろに下がる。気圧されて、ひるんだように片足が下がるカットを、抜いて撮っている。これで、2人の力関係が把握できる。
わずかなアクションを逃さず撮ることで、人間関係や物語展開といった有機的な部分を説明する。セリフではなく、画面内の情報を足したり引いたりすることで伝える。それが映画なのだと、僕は信じている。
主人公の少女は国境をまたいだ大規模なカンニング計画を成功させるため、かつて自分のカンニングを告発した有能な男子生徒を仲間に入れる。少女と男子生徒とは、頭のよさも立場も、互角である……と分かるのは、2人を映すとき、それこそ合わせ鏡のようにシンメトリーの構図に収めているからだ。少女が画面左を向いて7:3の割合で撮られているとしたら、男子生徒のほうは画面右を向いて7:3といった具合に。
力関係を図像で示す演出は、黒澤明が得意だった。いや、そもそも後半の手に汗にぎるサスペンスだって、ヒッチコックの模倣といっていい。つまり、この映画は古典の話術を精密にトレースして、自分の手足のように使っているのだ。
僕がいつも不思議に思うのは、2018年の映画より2019年の映画のほうが進化している、アップデートされているという前提で、映画の話題が進んでしまうこと。モノクロ映画からカラーへ、サイレントからトーキーへ、常に進化には反発が伴った。そして、ちょっと調べれば分かることだが、サイレント時代に劇映画の演出は、ほぼ出揃ってしまっている。そして、モノクロ映画時代に、劇映画の様式は完成され、今はその模倣が繰り返されている。
完成された様式の中に、ネオレアリズモやヌーヴェル・ヴァーグが切り開いた即興的な撮り方が、必要に応じて援用されている……という状態が半世紀ほど維持されている。それは、決して悪いことではないはずだ。悪いことがあるとすれば、CGIや3Dや4DXによって、映画が「進化している」と勘違いすることだ。
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