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2019年2月25日 (月)

■0225■

ハセガワ製、「クラッシャージョウ」ファイター1から考える“キャラクターモデルとスケールモデルの最適な距離感”【ホビー業界インサイド第44回】
T640_801778ハセガワさんに直接取材をお願いしたのではなく、サンライズさんから薦められて、取材を組んでいただいたパターンです。
タイミング的に、自分で製品を予約して、素組みした直後にお話を聞くことが出来ました。

メディアミックス爛熟期に生まれた「フリクリ」が喚起する、アニメと漫画の深い関係【懐かしアニメ回顧録第51回】
90年代末~00年代初頭のアニメは、本当にターゲットを想定せず、好き勝手につくっていたんだなあ……と、改めて思いました。ただ、『フリクリ』はどこかニヒリスティックで、日常に充足しているくせにオタクぶっている感じがして、僕は好きではないです。
僕は屈折した人間なので、恥ずかしさや苦悩や葛藤の痕跡が残った作品が好きです。


土曜日は、友人と『アリータ:バトル・エンジェル』を鑑賞。
640_1ヒロイン・アリータの複雑な表情、向こう側の景色まで透けて見える繊細な関節の造形、そして日本語吹き替えの声音に、ただひたすら溜め息を漏らしつづけた。

映画理論家のルドルフ・アルンハイムによると「映画はモノクロであり、またサイレントであるがゆえに、豊かな色彩と音響にあふれた現実の世界とはまったく別個の、自立した世界を構築することができた。つまり現実の機械的な再現ではなく、絵画や彫刻と同じく、独自の文法をもった芸術として価値付けられた」(四方田犬彦『映画史への招待』より)。
アリータというキャラクターは、女優を撮影しただけの「現実の再現」ではない。CGIなので、映画の中でしか存在できない、純粋に映像的な肉体だ。そこに不気味さもあれば美しさもあるわけだ。


原作の『銃夢』が連載されはじめたのは1990年のことで、同じ年、東映はVシネマ・ブランドから『女バトルコップ』を発売した。
『女バトルコップ』は1988年公開の『ロボコップ』、あるいは1987年発売のOVA『ブラックマジック M-66』など、サイボーグやアンドロイドを主役とした当時最先端のSFX映画やアニメとは別世界、東映のメタルヒーローや刑事ドラマに属する泥臭い作品だ。

だが、1980年代後半、大手映画会社が製作~配給まで支配して身動きとれなくなっていた邦画界の、最果てと言ってもいい現場ですら「美女型ロボット」が企画の遡上にのぼっていた事実を素通りしていいものだろうか。
刑事ドラマや特撮ヒーロー番組をつくっていたオジサンたちでさえ、「アニメ好きの若い連中が夢中になっている女のカタチの戦闘ロボ、あれはアリだよな」と思わせた何かがあったはずで。
640それは異性……彼岸にある女体をシンボライズして、いわば「モノ化」して、永遠に愛玩したい欲望ではないだろうか。
30年も前の日本の漫画に着想を得た『アリータ』とて例外ではない。アリータは当初、殺された娘のために用意されていた華奢な義体しか与えられなかった。アリータをカスタマイズした医師のイドは、彼女を娘の理想化された亡霊として、ずっと手元に置いておきたかったはずだ。
(原作漫画には娘の設定がなかったため、イドはずいぶんフェティシズムの強い変人に見えたものだった。)


斉藤環が『戦闘美少女の精神分析』で、サブカル作品に登場する戦う美少女、メカ少女にスポットを当てたのは、2000年のこと。
戦うメカ少女を実写化するにあたって、「現実の機械的な再現」と手を切って、肉眼では見ることのできない(映像として鑑賞するしかない)CGIを選択したのは、果たして誰だったのだろう。
ジェームズ・キャメロンだとしたら、彼が人間そっくりのアンドロイドや(人間が現実と接触するための)人造生物をクリエイトしつづけるのは、何故なのだろう?

30代の前半までは、実体験の少なさゆえに、現実逃避を正当化する理由ばかり考えていた。球体関節人形に魅了されたのも、その頃だ。乏しい読書体験にすがるしかなかったあの鬱屈した日々を、僕はすっかり忘れていた。
『アリータ』は、僕を自閉的な若者へと引き戻すぐらい、強烈な引力をもった映画だった。

(C)2018 Twentieth Century Fox Film Corporation

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2019年2月22日 (金)

■0222■

モデルグラフィックス 4月号 25日発売
Dz8euymw0aasprb●『この世界の(さらにいくつもの)片隅に』特集
企画・構成・執筆でクレジットされています。
序文やアニメ素材の解説パート、片渕須直監督のコメント、モデラーさんとの対談などを、まとめて書き起こしています。自分で撮影に立ち会ってラフを切ったページもありますが、艦船や飛行機パートは編集部にお任せして、ハウトゥ記事だけではなく監督のコメントや対談を入れてもらえるよう、先回りしてテキストを書いておきました。
そのテキストがなかったら、『この世界の片隅に』特集とは呼べないので、編集部が独自にまとめてしまう前に、先に書いて割り込ませておくのです。
しかし、コメントを個別に録音している時間はありませんから、打ち合わせの合間合間に、監督に「この演出ってどういう意味ですか?」と聞いておくんです。後からテキストとして使いやすいよう、聞き方を工夫して。その段取りこそが、ライターの技能ですよ。

また、昨夜のイベント【模型言論プラモデガタリ】で見せた「撮出しデータ」を、この特集では多用しています。
撮出しデータは監督との打ち合わせとは別に、僕が何度かMAPPAへ行って、監督から直接受けとってきました。次に、新作カットのデータを使ってもいいかどうか、東京テアトルさんに確認をとります。
それから、ひとつひとつのデータを開いて、編集部に渡せる状態に区分けしてファイル変換して……と、僕がやったのは主にそういう作業ですね。書くより先に実務、実務の連続です。


昨夜、阿佐ヶ谷ロフトAで行われた【模型言論プラモデガタリ】第2回は、モデルグラフィックス誌の販促イベントとして成立させることが出来て、おかげさまで大盛況でした。
モデグラ誌の自分の担当パートを早めに終えて、イベントのプレゼン資料を作っていくうち、やっぱり、撮出しデータを生の状態でお客さんに見せたくなってきました。
Kimg2922金色はどうして金色なのか考えて、『アリーテ姫』で具体的な表現技法に置換したように、空気感や水や光の質感をレイヤー単位で構築していくエンジニア的手腕も、片渕監督の技能のひとつです(ほかに、エンターテイナーとして脚本を書く才能があることは、『名探偵ホームズ』での大抜擢を考えれば、誰しも納得いくでしょう。『BLACK LAGOON』のシリーズ構成も、優れた計算力の為せる仕事です)。

「感動」や「美しさ」の裏には、必ずメカニックが働いています。「なんとなく良いな」と感じるからには、必ず理由があります。
アニメーションは実写よりは素材を分けやすい(というより、素材を作ってから記録するので実写とは順番が逆)ので、「感動」の秘密を発見しやすいと思います。
ところが、アニメの制作素材を模型趣味と結びつける人が、ほとんどいなかった。いえ、模型趣味を切り離して考えても、現場の制作素材がアニメファンの目に触れる機会は、稀ではないでしょうか。かつては制作資料の詰まっていたアニメ誌は、いまや「版権イラストの載った絵本」です。
「公式」という概念が強くなりすぎて、ひとりひとりの受け手が探究心をもって開墾していけるフィールドが貧しくなっているのではないでしょうか。僕のテーマは、公私ともに「名もない個人が自由に、主体的に力を行使して、理想を実現すること」です。イベントを毎月開催することも、そのひとつです。


“登壇者筆頭の廣田恵介さんは、「マイマイ新子と千年の魔法」のとき、続映を求めるネット署名をしてくださったり、書籍「メイキングオブ マイマイ新子と千年の魔法」の編集をしたりしていただいたのですが、実は、映画学科監督コース出身でありつつ模型雑誌ライターをしておられた方で、さて、今回は。”(

この片渕監督のツイートは、イベント後に気がついたのですが、嬉しいです。
アニメの取材仕事を減らしつつも、アニメと映画と模型をシームレスに、建設的な関係にできないか?と、ここ2~3年は模索していて。日芸時代に撮影・現像・編集でフィルムを触っていたこと、サンライズ在籍時にセル画末期の時代の「撮出し」を見せてもらえたことが、今回のモデグラ特集に繋がっています。

それにしても、『この世界の(さらにいくつもの)片隅に』特集を入稿しおわった古屋編集長Kimg2921_3 がイベントに登壇することになり、楽屋で仕事抜きの話をしている時間、そこにクリーム色のセーターを着た片渕監督が、いつもの包容力をもって現れて、とりとめない話を始めたときの和んだ雰囲気は忘れられません。

僕の身内に不幸があったとき、監督が「私も廣田さんの友達のつもりでいます」とメールをくださったこと、忘れてないです。
監督自身も、つらい目やイヤな目に遭ってきただろうと想像します。初めてお会いした10年前より、とてつもなく人間の器が大きくなりました。しかし、頑固なところは頑固なままだし、こちらの仕事に対しても一定の厳しい目を持っておられます。
書店に並ぶモデルグラフィックス誌は、そういう人の目を通過した本なので、期待して手にとってください。

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2019年2月17日 (日)

■0217■

J Wings (ジェイウイング) 2019年4月号 21日発売予定
Dzh5um2vsaa968z『素組みだからよく分かる! プラモで学ぶ 最新鋭機F-35B 前編』
企画・構成・執筆しました。ハセガワさんの1/72 F-35ライトニングII (B型) “U.S.マリーン”を素組みして、編集部と一緒に「どうしてこういう構造になっているのか?」「このパーツ割りは、実機に比べてどうなのか」と検証しつつ、どこも改造せず塗装もせず、ひたすらキットの美しさを愛でながら、同時に機体構造も勉強しよう……という短期集中企画です。
僕からの持ち込みとはいえ、編集部からの逆提案もあり、おおいに助けられました。また、模型誌以外に、プラモの素組みレビューを載せる!という野望を、まずひとつ満たせました。


本日のダルデンヌ兄弟監督映画は、サスペンス・コーナーにあった『午後8時の訪問者』。
640 ある女医の病院で、扉を閉めた後にチャイムが鳴る。研修医の青年が「急患かも」と立ち上がるが、女医は「無視していい」と青年を止める。
そのチャイムが雪だるまのように大きくなっていき、実は殺人事件の起きるトリガーだったと判明する。

女医は、助けを求めてチャイムを押したのに殺されてしまった黒人女性の映像を、後から警察に見せられ、愕然とする。「あの時、私がチャイムに反応していたら…」と罪悪感にかられて、被害者の死因や名前を探り出そうと歩き回る。
ラストになって、またチャイムが鳴る。モニターを見ると、殺された黒人女性そっくりだ。いわば、「チャイムと黒人女性」で映画全体をサンドイッチする「ブックエンド形式」のプロットだ。

ただ、プロットに頼りすぎ、真相はすべてセリフとして語られるのが、今ひとつだった。
むしろ、カメラがゆっくりとPANして対象物をとらえ、再び人物の顔に戻ってきたとき、すっかり構図のありようが変わっている。その計算されたカメラワークに目を奪われた。手持ちカメラではあるが、常に最適の構図を確保するため、膨大な技術が投入されていると気づかされた。


「お前やってることは法律に引っかかってんだよ!」 コインハイブ事件、神奈川県警がすごむ取り調べ音声を入手

性犯罪者は、かよわそうな反撃してこない女性を狙うそうですね。権力者も同じです。弱そうな相手をマークして、恫喝する。NHKの集金人、税金の催告状、すべてそうです。脅して屈服させる。話し合いで説得しようという発想が、そもそも抜けている。
正論では勝てないので、「犯罪だから」「法律だから」でねじ伏せようとする。

上のニュースを見たとき、仮想通貨を先日の改造フィギュア()に置き換えてみた。
取調室で、「こんな少女の人形なんかをいじって、お前は変質者だろ! 恥ずかしくないのか!」ぐらいは言われたでしょうね。容疑は著作権法違反で、いま違法ダウンロードの刑事罰化が進んでいるので、警察を批判しただけで即逮捕になりかねない。
そして、警察職員だけでなく、マスコミも一般市民も「逮捕されたら有罪確定」と信じている。この国の人権意識など、その程度のものだ。しかし取調べ段階ではもちろん、刑が確定しても人権は消滅しない。それが民主主義だ。主権は、我々にあるのだ。

なので、諦めてはいけない。

(C)LES FILMS DU FLEUVE - ARCHIPEL 35 - SAVAGE FILM – FRANCE 2 CINEMA - VOO et Be tv - RTBF (Television belge)

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2019年2月14日 (木)

■0214■

ダルデンヌ兄弟の監督作品、本日は『少年と自転車』。
Story_pic2ネオレアリズモの代名詞、『自転車泥棒』のようなタイトルだが、どことなく似たようなプロットだ。父親から捨てられた少年が、里親ともうまく行かず、犯罪の片棒を担いでしまう。
『ある子供』『ロゼッタ』と続けてダルデンヌ監督兄弟の映画を観てきたが、『ロゼッタ』がいちばん好きだ。画面内の情報が限られていて、最低限の演技だけで状況をたぐり寄せて、ほんのちょっとした手足の動きでドラマをつくる。

『少年と自転車』はワンシーン・ワンカットではなく、撮りづらいところではカットを割ってしまっている。構図も、計算されてすぎていて端正すぎる。二度だけ入る劇伴も、蛇足に感じられた。(カットを割る、とはすなわち撮影後に編集しているわけで、それ自体が演技とはまた別種類の技巧なのだ。)
ダルデンヌ兄弟は、とてもよくプロットを吟味していると思う。『ある子供』も『ロゼッタ』も、いやおうなく主人公が悪事に陥ってしまう抜き差しならない必然性が感じられた。
ところが、『少年と自転車』の主人公は、あっさりと犯罪に手を貸して、その日のうちに改心してしまう。

だが、それでも、里親と仲直りした少年が、自転車で川べりを走るシーンをシンプルな構図1009514_02 で捉えたPANには息をのんだ。
紆余曲折あった人物が、ただ真っ直ぐに走り、その動きを簡素に追うだけで「事態が解決した」と感じさせる。プロットのどこに、その綺麗なPANを持ってくるか。ストーリーを説明するのではなく、撮ることによってストーリーを生じさせる……それが、鮮やかに出来ていた。


さて、少年と里親の女性がまっすぐ走っていって終わり……でも良かったのだが、この映画はそうは問屋が卸さない。
「ちょっと出来すぎではないか?」というぐらい、少年のおだやかな日常が描かれたかと思うと、不意に過去の事件に遭った被害者が報復に出る。

少年が店を出ると、第一の被害者が立っている。カメラが少年の動きを追ってPANすると、いやおうなく被害者がカメラに入ってしまう。少年は立ち去るが、カメラは戻る。すると、そこに第二の被害者がいて、少年を追いかけはじめる。
決定的な出来事は、ワンカットの中で起きる。ワンカットで撮る、とは、つまり「出来事の記録」だ。だから、緊張感が出る。画面に注視してしまう。ドラマの劇的ポイント、それも複雑な人間関係の転調を、単なる「出来事の記録」として見せきる。それこそが、ダルデンヌ監督の独壇場だ。

そして、少年は不釣合いなまでに酷い報復を受け、心身ともに傷ついたまま、里親と手に入れた平和な日常へと帰っていく。『ある子供』『ロゼッタ』は、かろうじての調和と救いで終わっているが、『少年と自転車』は、思わず「ううう…」と唸り声が出てしまうほど、エグいところで映画が終わる。
しかし、その「ううう…」をもって映画の価値とするのは「ボロ泣きした」=「いい映画」と即断するのと変わらない。生理現象をもって、映画の評価に換えてはならない。

(C)Christine PLENUS

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2019年2月13日 (水)

■0213■

リュック・ダルデンヌ、 ジャン=ピエール・ダルデンヌ兄弟の監督作を観よう!と決意して、まずは『ロゼッタ』。テレビが壊れたので、ノートPCで視聴。
1_fotor15いやはや、『ある子供』と同じ手持ちカメラでオールロケなんだけど、これはこれで痛恨の出来であった。凄い。
ロゼッタという少女が、キャンプ場でアル中気味の母親と極貧生活をしている。彼女は街頭のスタンドでワッフルを売っている青年に優しくされる。ところが、ロゼッタは青年のお節介がうっとおしい。そんなことより、自分の仕事を探したいわけだ。

まあ、例によって何てことないプロットだ。
ロゼッタはキャンプ場近くの池で、魚を密猟している。しかし、バイクの音に怯えて、魚を放してしまう。バイクに乗っていたのは、あの優しい青年だった。青年は「俺が魚を捕ってやるよ」と手を伸ばすが、池に落ちてしまう。
Rosetta1ロゼッタは、その場を逃げ出す。ロゼッタの顔のアップに、青年の悲鳴が重なる。
ようするにこの映画、手持ちなのでワンカットの情報が少ない。すべてを見渡せるわけではないので、それが怖い。セリフも少ない。
ロゼッタは青年を助け上げたものの、青年が去るとき、バイクの音がとてもイヤな感じに聞こえ、後々、それが効いてくる。


さて、青年には秘密があって、ワッフルを自分の焼き台で焼いて、その売り上げは自分のポケットに入れている。ロゼッタは仕事がほしいあまり、店のオーナーに、青年の詐欺をチクってしまう。
店のオーナーとロゼッタが、青年の働く店内へ乗り込む。裏切られたと知った青年は、ロゼッタを睨んでいる。オーナーは激怒して青年を店から追い出し、彼から剥ぎとったエプロンを、ロゼッタに渡して、「お前がつけろ」。
このワンカットで、取り返しのつかないことが起きた、と分からせる。感情なんかより先に、状況と段取りだけが投げ出されている。ワンカットの威力。

それから、青年はロゼッタにつきまとう。無言で、バイクで行く手をふさいだりする。
で、カメラはロゼッタのアップでしょ? バイクの音は画面外から聞こえてくる。「ああ、またアイツが来た」と、観ているこっちも嫌な予感がする。この、端的な音の演出。


バイク音は、ラストシーンでも使われる。重たいガスボンベを運んでいるロゼッタ。背後から、バイク音。ロゼッタはボンベを地面に投げ出して、泣きはじめる。青年が、助け起こす。そこでバツン、と映画は終わる。
6a0168ea36d6b2970c017ee5b72460970d6このカット、予告でも使われている。ネタバレ何のその、という時代である。ガスボンベは、青年の仕事を奪ったロゼッタの罪悪感の象徴だったのかも知れないが、そんな文芸的解釈よりも、僕は絵に対して音がどれだけ威圧効果をもたらすか、そこが面白かった。感動した、と言ってもいい。

いま流行っている映画を観にいくのは、やっぱりSNSで感想を言うためじゃない? そういう映画鑑賞には「相手」がいる。でも、自分だけの興味で、自分ぐらいしか観ないであろう映画をレンタルで観るのは「相手」がいない。自分と向き合うようなところがある。
僕は基本的に、映画と一対一でいたい。順位も点数もつけたくない。

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2019年2月10日 (日)

■0210■

レンタルで、仏映画『ある子供』。
Mv5botuxmzmzmde2nv5bml5banbnxkftztyプロットといい撮り方といい、『自転車泥棒』のような映画……なのだが、これは驚いた。
手法自体は1940~1950年後半のヨーロッパ映画なのだが、今更ながら「街中で、手持ちカメラだけで撮る」手法が、こんなにも威力を持っているとは、驚くほかない。


まあ、まずは落ち着いてプロットを書こう。
少女といってもいいぐらい若い女性が、赤ん坊を抱いている。彼女はお金もなく親もなく、困っている様子だ。ほどなくして、父親である青年が登場する。ところが、彼はまともな職につかず、盗品を売って生計を立てている。
そして、生まれて間もない赤ん坊を、悪い仲間を通じて、子供を欲しがっている家族に一度は売り払ってしまう。青年は赤ん坊を母親に返したものの、彼女からは完全に嫌われてしまう。

ここまでは、まあ序盤である。
悪い仲間から、「赤ん坊を取り戻したなら違約金を払え」と脅された青年は、金策に苦労する。そして、窃盗仲間である中学生の少年を誘って、スクーターでひったくりをする。
ヌーヴェルヴァーグ的手法で撮っているのだから、手持ちカメラの一発撮りだ。ひったくりをされた婦人が「バッグを盗まれた、誰か捕まえて!」と叫ぶ。見知らぬオジサンが走ってスクーターを追うが、もちろん追いつけない。思い切り引きの画面で撮っているから、特にサスペンスフルなシーンというわけではない。
……しかし、ここからが怖い。


スクーターで逃げる青年と少年に、カメラは密着している。少年が「あいつら、追っかけてくるよ!」と叫ぶ。
Mv5bmty0njqxnjaxnv5bml5banbnxkftztyカメラが走るスクーターの前に回りこむと、確かに白い乗用車が追いかけてくる。誰か、義憤にかられた通行人なのだろう……が、カットが切り替わって乗用車のドライバーをアップで撮ったりはしないわけ。
最初から、手持ちカメラで捉えられる範囲のことしか撮れないドキュメンタリックな映画なのだから、画面外の情報を見せるには、カメラを振るしかない。

それまでと同じく、青年たちを追ってくる白い乗用車も「たまたま居合わせた通行人」でしかない。だから怖い。追ってくるのがパトカーだったとしたら、たちまち記号に堕してしまう。しかし、街中でロケして、たまたま映りこむ通行人を気にせず撮っている映画の中で、いきなり通行人が意志をもって主人公に介在してきたら、得体の知れないハプニング感が生じる。
「ただの通りがかりが、主人公を圧倒する力を持ってしまった」、この映画の撮り方の範囲内で最悪の事態が起きたわけだ。


そしてとうとう、青年たちを追いかけていた「通りがかりの人たち」は、ロングで姿こそ捉えられるものの、顔のアップもセリフも一切なく、映画から退場していく。
「畜生、あのワルガキども!」とかセリフが入ったら、神通力が失われてしまう。

青年は、乗り捨てたスクーターを取りに行く。そして少年のほうに戻ろうとして、ギクリと立ち止まる。彼が何を見て立ち止まったのか、それを観客に理解させるには、カメラを振るしかない。早くカメラを振って欲しいのに、恐れている青年の顔ばかり撮っている。
ようやくカメラが彼の視線を追うと、少年が2人の警察官に保護されたところであった……その絶望感。そこから先の無駄のない冷徹なシーン展開、ラストカットまで息継ぐ暇もなかった。

監督のジャン=ピエール・ダルデンヌ、リュック・ダルデンヌ兄弟はドキュメンタリー出身とのこと。この人たちの映画は高い評価を受けているそうだが、僕は一本も観ていない。まだまだ、凄い映画があるものだなあ。

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2019年2月 9日 (土)

■0209■

レンタルで、 米映画『コンカッション』。
640アメリカン・フットボール選手たちの変死をきっかけに、監察医が脳への度重なる衝撃による、新しい病気を発見する。
最初の犠牲者は華々しくフットボールの世界を引退した元選手だ。車の中で寝泊りして白い髪は伸び放題、精神的におかしくなっている。彼が登場したあたりでは、まだフットボールが原因だと分かっていない。

そこで、錯乱する彼が、金属のボールがカチカチと打ち合う卓上アクセサリーを見つけて落ち着くシーンを挿入している。一見すると不可解なシーンだが、後になって、金属のボールが打ち合うのはフットボールでヘルメットを突き合わせることの比喩だったのか……と、分からせるわけだ。


同じシーンの最後、鎮静剤を打たれた元選手が、ドサリと椅子に倒れこむ。頭を画面の左側にして。すると、彼の手前に奇妙なものが置いてある。鳥の頭蓋骨の標本だ。しかも、頭を画面の左側にしている。つまり、元選手と向いている方向が一緒。
後になって、彼を検死解剖した監察医が、激しく頭を使うキツツキなどの鳥類を例に、症状を説明する。
これも、「元選手の脳にキツツキと同じぐらいのダメージが加わっている」ことの暗喩だったわけだ。暗喩というよりは直喩のような気もするが、文語的な解説より前に、視覚効果として小道具を映りこませておく。好きな演出だ。

先日、なにかの映画を誉めているツイートで「起承転結完璧、伏線完全回収」という凄いフレーズを見かけた。起承転結など無視してダイナミックに展開する映画はいくらでもあるし、伏線など回収しなくても、単なる謎かけのような演出が魅力的な場合だってあるだろう。
映画に点数をつけたがる人たちもそうだが、「どこかに百点満点の完璧な表現があるはず」と信じている。彼らにとっての映画は「残念ながら完璧ではない映画」一種類しかなく、従って評価も百点からの減点法オンリーになってしまう。
狭い世界に閉じこもって、あれもこれも理想からは程遠い……と嘆くのは楽だから、長続きする。映画ごとに新しい尺度を見い出すのは、ひょっとすると骨の折れることなのかも知れない。


100円のカップに150円のカフェラテ注いで逮捕の男性釈放(

こんな微罪で逮捕・勾留しなくても……と思うのだが、「50円といえども万引きと同罪」という意見が多くて、怖くなった。逮捕=刑罰ではないのに、「逮捕されたら犯罪者」と考える人ばかり。人権意識が薄くて、他人を罰することに積極的、肯定的。
誰もが誰かに指図して、命令を聞かせるのが好き――。国民性なんだと思う。仕事をしていても、こちらの意向を曲げさせて、何かしら条件を飲ませることに達成感をおぼえる人がよくいる。
何度か書いているように、義務教育は教師が理不尽な権力で、生徒の民主的な回答を踏みにじる場だった。僕らは「個人は無力だ」「意見など持っても無駄だ」と叩き込まれ、自尊心を育てるチャンスを奪われた。

小学1~2年のころ、すでに「お前、責任とれるのかよ」「そんな権利あるのかよ」と、よく言い合っていた。責任感も権利意識もペラペラなまま、年をとってしまった。だから、些細な懲罰と謝罪が、週に何度も繰り返される。そんな茶番で、帳尻を合わせた気になっている。
その根本を正さねば、何を見て感動しても無駄ではないかとさえ思ってしまう。

(C)2015 Columbia Pictures Industries, Inc., LSC Film Corporation and Village Roadshow Films Global Inc. All Rights Reserved.

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2019年2月 3日 (日)

■0203■

原稿が順調に進んでいるので、予約してあった第一回「サンモールスタジオが贈る演劇好きのための映画週間」へ。金子修介監督自ら、作品の解説をされるというので、お顔を合わせておきたかったのが主な理由だ。
Mainところが、上映された『青いソラ白い雲』、これが唖然とするほど爽やかな映画だった。金子監督と、脚本を書かれた金子二郎さんにお会いしたが、「良かったです、びっくりしました」「目に沁みるような、青い空でした」としか言えなかった。おためごかしみたいな、お世辞のようなことは言いたくなかった。

『リンキング・ラブ』もそうだったんだけど、別に磨きぬかれた傑出した企画ではない。犬と人間との交流を、モデルの森星を主演に撮ってほしいという程度の低予算企画だったという。ところがその打ち合わせの日に東日本震災が起こり、映画は震災後、原発事故後の日本へ、たまたま海外へ留学していた女子大生が帰ってきて一文無しになって途方にくれるプロットとなり、犬は脇へ行ってしまった。
ガイガーカウンターを持って自宅を計測するシーンがあり、被災して家を失った人物も出てくるし、放射能まみれの日本、ウソばかりついている政府という言葉も呟かれるが、なんの政治性もない。そこがスマートだ。

2011年以降、原発事故をモチーフにした映画はなるべく見るようにしていたが、いずれも「家族は大事」「普通の暮らしが大事」といった前時代的なテーマへ後退した作品ばかりだった。『青いソラ白い雲』には、不思議な楽観が漂っている。
予告編を見たら、案の定、なんとかして社会派のドラマっぽく見せようとしているが、無理もない。「暖簾に腕押し」とも呼ぶべき肩透かし感が、この映画の魅力だからだ。
邦画でよくある、主人公が思いのたけを泣き叫ぶ、怒鳴るシーンがない。なんとまあ、正直な映画だろうと思う。


金子監督の『ガメラ監督日記』に、「美脚は、映画を見る上での、重要なポイントである」と書かれている。それを裏づけるかのように、『青いソラ白い雲』の森星は、スラリとした長い脚を惜しみなく披露する。
O0800053311378680844この映画を飽きずに見ていられるのは、間違いなく森星の浮世離れした美貌に魅せられるからだ。『ベニスに死す』の魅力の半分以上が、ビョルン・アンドレセンの美少年ぶりに負っていることと同じだと思う。『ミツバチのささやき』の少女役がアナ・トレントでなかったら、ああまで魅力的な映画になっていただろうか? それぐらい、俳優の美しさ、顔立ちは映画の実質を左右する。

その森星が、「美貌しか取り柄がない」と自覚する空虚な女子大生を演じる。彼女は家事全般ができず、くだらないモデルの仕事ばかり受けて自己嫌悪に陥る。
森星の演じる主人公には、信念もなければ生きがいもなく、実質がごっそりと抜け落ちている。それが原発事故後、今後どうなるのか五里霧中だった2011~2012年の空気感と程よく溶け合っている。
作中人物は何かしらウソをついていて、そのウソとウソとが噛み合って擬似家族を形成していく。三木聡監督の『転々』がそういう映画だったし、『かもめ食堂』の荻上直子監督の作品にも、そういうタイプの乾いた、突き抜けた笑いと達観と希望がある。
でも、『青いソラ白い雲』にはもっと空虚だ。森星の美脚しかない、とさえ言える。でも女優の肉体こそが映画のボディ(本体)なのだ……と、今の僕には思える。怪獣映画で、カット割りでも構図でもなく、怪獣の造形が映画の印象を左右するのと同じことだ。

女優の美しさを見せたいのであれば、ひょっとしてカットワークや構図に凝ってはいけない20140421000856e41 のではないか、そういうタイプの映画を自分は見落としてきたし、評価する眼すら持っていないのではないか……という焦りが生じる。
(多分それは、結婚しようが子供が生まれようがアイドルが好きだ、アイドルを信じてると真顔で言う仕事仲間の気持ちを理解しようとすらしなかった、その怠惰に通じるものなのだろう。
いま思い出したが、女優に惚れこんでしまい、女優のアップばかり撮った自主映画が80年代にはいっぱいあり、当時の僕は、それはそれで面白いじゃん……と、上映会に通って、何時間も暗闇に座っていられたはずなのだ。その当時の感覚を、僕は忘れ去ってしまった。)

『青いソラ白い雲』のラスト、なにもかも失った森星が犬の散歩をしながら、大声で歌をうたう。こんなにも綺麗に空を撮れるものなのか……と、圧倒されたことは間違いない。
あのあっけらかんと突き抜けた空を見るためだけでも、『青いソラ白い雲』を観る価値はある。その空の美しさの成分は、森星の美しさが占めているのだろうけど、今の僕は、それを上手く言語化できずに戸惑っている。


日大映画学科を卒業してから30年近くになるが、「これは!」と目からウロコの映画批評は、塩田明彦さんの『映画術』ぐらいだった。
映画は、体験としての純度だけが問われ、SNSのネタとして使い捨てられていく。誰もが観終わってすぐ「号泣した」「ツッコミどころ満載」とツイートして、共感を得ようと懸命になる。
自分の感想がどれだけバズるか、それを仕事にしている人が映画評論家と呼ばれている。フィルムを仔細に分析する人は、象牙の塔にこもってしまった。

僕は、誰にも共感されなくていい。少なくとも、映画に関しては。ただ、ウソをつきたくない。ウソをつかずに生きられる対価が孤独なのだとしたら、僕は喜んで孤独を迎え入れる。

(C) 2011 スパイクエンタテインメント

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