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ハセガワ製、「クラッシャージョウ」ファイター1から考える“キャラクターモデルとスケールモデルの最適な距離感”【ホビー業界インサイド第44回】(■)ハセガワさんに直接取材をお願いしたのではなく、サンライズさんから薦められて、取材を組んでいただいたパターンです。
タイミング的に、自分で製品を予約して、素組みした直後にお話を聞くことが出来ました。
メディアミックス爛熟期に生まれた「フリクリ」が喚起する、アニメと漫画の深い関係【懐かしアニメ回顧録第51回】(■)
90年代末~00年代初頭のアニメは、本当にターゲットを想定せず、好き勝手につくっていたんだなあ……と、改めて思いました。ただ、『フリクリ』はどこかニヒリスティックで、日常に充足しているくせにオタクぶっている感じがして、僕は好きではないです。
僕は屈折した人間なので、恥ずかしさや苦悩や葛藤の痕跡が残った作品が好きです。
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土曜日は、友人と『アリータ:バトル・エンジェル』を鑑賞。ヒロイン・アリータの複雑な表情、向こう側の景色まで透けて見える繊細な関節の造形、そして日本語吹き替えの声音に、ただひたすら溜め息を漏らしつづけた。
映画理論家のルドルフ・アルンハイムによると「映画はモノクロであり、またサイレントであるがゆえに、豊かな色彩と音響にあふれた現実の世界とはまったく別個の、自立した世界を構築することができた。つまり現実の機械的な再現ではなく、絵画や彫刻と同じく、独自の文法をもった芸術として価値付けられた」(四方田犬彦『映画史への招待』より)。
アリータというキャラクターは、女優を撮影しただけの「現実の再現」ではない。CGIなので、映画の中でしか存在できない、純粋に映像的な肉体だ。そこに不気味さもあれば美しさもあるわけだ。
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原作の『銃夢』が連載されはじめたのは1990年のことで、同じ年、東映はVシネマ・ブランドから『女バトルコップ』を発売した。
『女バトルコップ』は1988年公開の『ロボコップ』、あるいは1987年発売のOVA『ブラックマジック M-66』など、サイボーグやアンドロイドを主役とした当時最先端のSFX映画やアニメとは別世界、東映のメタルヒーローや刑事ドラマに属する泥臭い作品だ。
だが、1980年代後半、大手映画会社が製作~配給まで支配して身動きとれなくなっていた邦画界の、最果てと言ってもいい現場ですら「美女型ロボット」が企画の遡上にのぼっていた事実を素通りしていいものだろうか。
刑事ドラマや特撮ヒーロー番組をつくっていたオジサンたちでさえ、「アニメ好きの若い連中が夢中になっている女のカタチの戦闘ロボ、あれはアリだよな」と思わせた何かがあったはずで。それは異性……彼岸にある女体をシンボライズして、いわば「モノ化」して、永遠に愛玩したい欲望ではないだろうか。
30年も前の日本の漫画に着想を得た『アリータ』とて例外ではない。アリータは当初、殺された娘のために用意されていた華奢な義体しか与えられなかった。アリータをカスタマイズした医師のイドは、彼女を娘の理想化された亡霊として、ずっと手元に置いておきたかったはずだ。
(原作漫画には娘の設定がなかったため、イドはずいぶんフェティシズムの強い変人に見えたものだった。)
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斉藤環が『戦闘美少女の精神分析』で、サブカル作品に登場する戦う美少女、メカ少女にスポットを当てたのは、2000年のこと。
戦うメカ少女を実写化するにあたって、「現実の機械的な再現」と手を切って、肉眼では見ることのできない(映像として鑑賞するしかない)CGIを選択したのは、果たして誰だったのだろう。
ジェームズ・キャメロンだとしたら、彼が人間そっくりのアンドロイドや(人間が現実と接触するための)人造生物をクリエイトしつづけるのは、何故なのだろう?
30代の前半までは、実体験の少なさゆえに、現実逃避を正当化する理由ばかり考えていた。球体関節人形に魅了されたのも、その頃だ。乏しい読書体験にすがるしかなかったあの鬱屈した日々を、僕はすっかり忘れていた。
『アリータ』は、僕を自閉的な若者へと引き戻すぐらい、強烈な引力をもった映画だった。
(C)2018 Twentieth Century Fox Film Corporation
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