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レンタルで、フェリーニの『オーケストラ・リハーサル』、ベルトリッチの『ラストタンゴ・イン・パリ』。毎日映画を観るのは、きっとそれなりに寂しいからなのだろう。
『オーケストラ・リハーサル』は、寺院のロケセットのみで撮ったワン・シチュエーション物。だけど、演奏シーンのある映画はプレ・スコアリングを使わなくてはならないので、仕込みがとても大変。
そうでなくとも、たとえばあるカットで電灯がユラユラと揺れたら、次のカットで別の人物を撮っていても、電灯の影が揺れていないといけない。それはやっぱり、スタッフが仕込まないと成立しない。
フェリーニの映画は単純な切り替えしなんてなくて、ワンカットに3~4人ぐらいの俳優がいて、それぞれ勝手なことをやる。ポンとカットが切り替わっても、彼らのおしゃべりがまだ続いている。その声は現場で収録して、編集で自然に繋がないといけない。
たくさんの要素を併走させながら、にぎやかな劇空間を再構成している。だから、劇映画ではあるけど、ドキュメンタリー的な撮り方だよね。
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『ラストタンゴ・イン・パリ』は、1990年前後にベルトリッチが流行っていて、その時に観た記憶があったんだけど、1972年の映画と知って、驚いた。
アメリカではまだまだニューシネマの時代だったはずで、主演のマーロン・ブランドは、『ラストタンゴ~』と同年に『ゴッドファーザー』に出演しているのだから、驚異的だ。
最初の30分ぐらいは、ヴィットリオ・ストラーロの素晴らしいカメラに魅了される。
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男と女がアパートで暮らしはじめる。
女が台所で調理していて、台所はガラスの向こうにある。したがって、女はガラスごしのシルエットしか見えない。男はガラスの手前から「水道の蛇口を止めろ」と怒鳴っている。女は、言うことを聞かない。
そこで男は台所に――すなわち、ガラスの向こう側へ行って、女を追い出して自分で水道を止める。止めると、そのまま台所を抜けて、部屋を出て行く。直後、台所から追い出された女の顔が、大きくフレームインする。
ガラスの向こうを、仮に無意識の世界と仮定するなら、男は女の無意識に入り込んで、そこから女を追い出して、無意識の世界を捨て去ったと捉えることが出来る。そんな想像を引き起こすぐらい、不思議な模様の彫られたガラスの存在が、意味深なのだ。
『ラストタンゴ~』がどういうストーリーなのか、僕には説明できないし興味もない。映画は、構図やカメラワークや俳優の動き、小道具によって、「世界の捉え方」や「考え方」を表すものだと思っている。
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押井守監督の“企画”論 縦割り構造が崩れた映像業界で、日本の映画はどう勝負すべきか(■)
とても重要な指摘。たとえば、プラモデルなんかも70~80年代とは社会の中でのありようが変わっているはずだ。その変化を指摘すると、旧来型の商売をしている人たちの足場がグワッと崩れてしまうんだろう。
だから、何も変わっていないフリをしていた方が、細々と儲けられるのだろう。僕自身は、良いとは思っていない状況を、セコく維持することの方が恐ろしい。
その話と関連するかどうかは分からないけど、「公式」という言葉は「ネタバレ」と同じ階層に属する言葉だと気がついた。ようするに、個人が主体性を放棄している。
原発事故の頃から、状況に対する怒り方、問題提起のしかたが分からなくなり、あきらめた方が楽だと、みんな分かってしまったのかも知れない。
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