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2019年1月18日 (金)

■0118■

原田眞人監督作で、とりこぼしていた映画を観なくては……と、『伝染歌』と『関ヶ原』を借りてきた。『伝染歌』は、去年見たばかりだ。うっかりしていた。
640_1『関ヶ原』は、かなりヒットして賞も貰っているのだが、あいかわらず誰がどこで何をしているのか、さっぱり分からないところが原田映画だなーと思う。これは、ケナしているわけではない。アイドル主演のお手軽ホラー映画のはずの『伝染歌』だって、「こういう映画だよ」とパッと説明できない、猛烈な複雑さと混沌に満ちていて、そこが不思議な魅力なんだよね……。
で、そんな奇ッ怪な映画ばかり撮っている原田監督の思惑とはまったく別のレイヤーで、日本映画界の偉い人たちが利権こみで今年の日アカ賞は誰にやろうか、なんて不毛な会話をかわしてる光景を想像してしまう。いや、想像ですよ想像。


でも、『関ヶ原』を観て良かった、やっぱり原田監督は良い!と思えるところもあって、それは原作の『関が原』で創造された架空の女性キャラクター、初芽の登場するシーンなんだよね。
640このスチールになっているシーンも、大勢の兵たちが通りを突き進んで行く中、パッと初芽だけが立ち止まって振り返る。それまで通りを進んでいたカメラが、彼女と同時にピタッと止まる。彼女の心に寄り添う。きれいなカットだよ。
映画を観るんなら、カメラの動きを楽しまないと意味ないよ。

そして何より、映画が始まって30分ぐらいのシーンが素晴らしかった。夜の廃屋の近くで、初芽は赤耳という老忍者に襲われるが、一撃で返り討ちにする。
赤耳がドカーンと廃屋につっこんで、初芽は「ドンガメ」「(お前の名など)知らんわ」と短く切り返しながら、廃屋とは別の方角へ歩き出す。すると、カメラは2人の真上から俯瞰でシーンをとらえる。赤耳は初芽の行く手をはばむかのように回り込みながら歩くけど、初芽は赤耳の動きを見透かして、ちょっと引き返したりする。
この2人の動きを地面に置いたカメラで撮ると、2人の姿が前後に互い違いに入れ替わるように見えて……「ああ、この2人は会話しながら互いに警戒しあってるな」と分かるわけ。人物の動きと、それを真上から撮るカメラ、真横から撮るカメラとで、2人の不穏な関係が分かる。
映画って、そういうもんなの。カメラの動きで、たとえば“不信感”とか“疑惑”を感じさせる、そういうものなんだ。


まだ、続きがある。初芽は自信満々にまっすぐに歩いて、赤耳が彼女を追う格好になる。カメラは、2人の後を追う。初芽の歩く先には、焚き火が燃えている。
すると、焚き火のまわりに初芽の仲間の忍者たちが、左から右から、ヒラリヒラリと集まってくる。どうして「仲間」だと分かるのか? それは「炎」に集まってくるから。だって、初芽は焚き火の「炎」に向かってまっすぐ歩いていくわけだから、同じ「炎」に集う者たちは、彼女と同じ志向の人間だって理解できるでしょ? “図像”なんですよ、映画って。

で、忍者たちは、それぞれに情報交換する。初芽は有能なので、堂々と切り返すんだけど、仲間のひとりが「どうなんだよ、蛇白?」と声をかけると、初芽がハッと振り返る絵が入る。見ているこちらも、初芽が黙ったから何事かと思うわけだ。
すると、草むらから白い蛇を手のうえでもてあそびながら、真っ黒な服の女が出てくる。
そして、初芽の周囲をゆっくり歩いて回りながら、話す。蛇を手でかわいがりながら。彼女は「忍びは、みんな殺されるよ」と不吉なことを言いながら、「炎」から離れていく。

仲間の集まってきた「炎」から、白蛇だけが離れていくわけだから、その構図だけで、彼女が仲間じゃないって分かるじゃない? 映画って、そういうもんです。
そして、炎の近くにとどまったまま、白蛇を無言で見送る初芽のバスト・ショット。さらに、アップで寄る。初芽の心情を想像させながら、次のシーンへ。まったく見事なものだと思う。
その前後2時間ぐらいは、あまりにも描写が難解すぎて、理解を放棄してしまうけど(笑)、このワンシーンだけで原田節は満喫できるよ。初芽を主人公に撮ってほしかった。


16日(水)は、あるアニメの試写会へ行った後、ラピュタ阿佐ヶ谷へ『マイマイ新子と千年の魔法』を観に行った。平日昼間、10人ぐらいのお客さんでは監督も映画も可哀相……と思いきや、なんと席はほとんど埋まっていた。
50231539_2052849794808924_627631097新子のおばあちゃん役の世弥きくよさんも客席にいて、ロビーは和やかなムードに満ちて、本当に温かかった。木曜以降も、平日昼間にしては盛況だと聞く。「じゃあ、もう大丈夫だな」と安堵するこの感覚、2009~2010年にかけてのラピュタ阿佐ヶ谷の状況そのままだ。

もちろん、観客と監督がわいわいするのが好きじゃない人もいるだろうから、ひとりの帰路で映画の余韻を味わってもいい。
『RWBY』の試写会のとき、僕はひと気のない道を選んで、泣きながら帰ったからね。感想を人に聞かれるのさえ、苦痛だった。

もう何十回映画館で見たか数えるのも放棄した『マイマイ新子と千年の魔法』だけど、やっぱり大胆で、謎めいていて、観るたびに「どういう意味だろう?」と腕組みしてしまう。ミスリードが仕掛けてあるんだけど、別にミスしても大丈夫というか……いつも迷うんだけど、「迷ってもいいよ」と許してもらえるというか……。

(C)2017 「関ヶ原」製作委員会

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2019年1月14日 (月)

■0114■

「ボトムズ」「ダンバイン」「SDガンダム」……バンダイの“ガシャプラ”シリーズが受け継ぐプラモデル本来の楽しさとは?【ホビー業界インサイド第43回】
T640_795183先日、阿佐ヶ谷ロフトのイベントでガシャプラのテストショットをお見せできたのは、こうした取材活動の結果なのでした。
はじめからご縁があったわけでも、コネがあったわけでもなく、こちらからインタビューさせて欲しいとお願いして、「まあコイツなら信用してもいいかな」と思っていただけたのでしょう。


昨夜は、ラピュタ阿佐ヶ谷にて『マイマイ新子と千年の魔法』のアンコール上映。
Kimg282910年前と同じく、夜のチケットを買うために、朝から並ぶ。午前10時前にラピュタに着くと、『マイマイ新子』に資料協力として参加して、以降は普通のファンでいらっしゃるⅠさんが声をかけてくださった。
上映後に再会したⅠさんが「ちょっと飲んでいきましょうよ」と言うので、夜の阿佐ヶ谷の街に引き返したら、「あれ~、どうしたの?」とスタジオへ帰る途中の片渕須直監督に出くわしたりして、そういえば舞台挨拶で司会の山本和宏さんが「あるライターの方が署名を始めまして……」と口にした途端、監督が僕の方を見て「ははは!」と笑ったので、つくづく緩い、ストレスのない夜だった。

山本さんには『この世界の片隅に』のイベントでもちょくちょくお会いしているので、「今日は、山本さんにとっての十年でもありますよ」と、上映前のロビーで肩を叩いた。
「新子も貴伊子も、歳をとらないんですねえ(だから今見ても新鮮なんだ)」と言ったのは、誰だっただろう? とにかく、にぎやかな夜だった。


先日も書いたように、僕は映画館でアニメを観るとき、緊張して猛烈に発汗してしまう。『新子』のときは、なぜか発汗した記憶がない。
特に昨夜は、落ち着いた心境で見られた。
多々良権周防介が初めて登場するカットで、ついさっきまで新子の空想だったはずなのに、すでにもう一本のストーリーが新たに並走していることに気がついて「えっ、これはカッコいい演出だ!」と驚くのは、試写室で見て以来、何十回見ても変わらない。
8558_photo2「千年前」と言いながら、常に「現在」とカットバックさせて、どちらが未来とも過去とも決めつけず、ラストカットはなんと「現代」のふたりから、「過去」のふたりに草笛が受け継がれるところで終わる。「過去」を過ぎ去ったもの、終わったものとして描いていない。
いわば、とこしえの未来だけが躍動しつづけている。死を乗り越えるのではなく、死を巨大な生命の中へと包含してしまう。

貴伊子が諾子の姿となって千年前の世界へ行くのは、かなり突拍子もないアイデアだ。
029_size8_2しかし、ひとつの巨大な「生命」が貴伊子の姿で現れたり、諾子の姿となって現れたりしているにすぎないのではないか? だから、絶望する必要がないのではないだろうか?
新子が夜道で金魚を見つけた直後、なぜか貴伊子が「私、見つけたよ」と言う。ようするに、僕たちみんなが「生命」という媒質によって繋がっていて、互いに同じものであって、それはもちろん死によって分断できる性質のものではない、と。

晴美さんは死んでしまったけど、原爆から生き残った子が北條家の一員となって終わる『この世界の片隅に』のラストは、ひづるという個体が死んでも、赤い金魚が見つかる『マイマイ新子』にそっくり。それはきっと、2人の作家の信じている世界観が似ているということなのだろう。


じゃあ、どうして同じセルアニメ、同じく女子同士の友情を描いた『リズと青い鳥』はしんどいのか?という、先日の話に戻る。
やっぱり、「目を小さくして頭身を高くしましたよ、これなら見られるでしょ?」と言わんばかりのキャラクターデザインが“結界”なんだと思う。その結界の内部に入れれば気持ちいいんだろうけど、僕は弾かれてしまった。単に、好悪の問題なのかも知れない。
「もともとは目の大きなアニメ特有のキャラなんだけど、あえて目を小さくする」試みは、いうなれば、社会にコンセンサスを求めている。そのキャラクターデザインの想定する「社会」は、本当は萌えキャラなんて容認してくれない頑固な大人たちの世界なんだよね? だからコンセンサスを求める必要があるんだよね? 

好感度なんて気にしないで、ひたすら表現欲に徹した映画なら、こちらも我を忘れて見入ることが出来る。『若おかみは小学生!』だって目はでっかいんだけど、表現として受け取れたからね。

(C)高樹のぶ子・マガジンハウス/「マイマイ新子」製作委員会

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2019年1月12日 (土)

■0112■

レンタルで、『リズと青い鳥』。これは苦手だった。なぜ自分がアニメにこだわっているのか、どうして実写に比べてアニメを観るのが楽なのか、問いかけられているような気がして、しんどかった。
640テレビシリーズの『響け!ユーフォニアム』とはキャラクターの頭身や瞳の大きさを変えているのは野心的でいいのだが、結局、声優のハキハキした喋りかたによって台無しにされている気がした。
かといって、実写映画やドラマの俳優を使ってリアリティを狙うのも、こうしたアニメ映画の目論見からは外れている気がする。無菌室のように、内面化された清浄な世界だけを見ていたい、虫のいい願望を満たすのもセルアニメの大切な役割だろう。それこそ、僕のような対人恐怖や「場」のかもし出す気まずさに耐えられずパニックを起こす欠陥人間を癒すために、救うために二次元美少女たちの楽園があるはずで。
でも、本当の楽園ならば頭身を高くして目を小さく描くような“他人のそぶり”を見せないで欲しかった。キラキラの瞳や、ムチムチした太ももを捨てないまま、「映画」を見せてほしかった。


セリフを少なめにして、被写界深度を浅めで、髪の揺れや指の仕草を撮れば、「繊細な芝居」と誉めてもらえるだろう、そこさえ誉めておけば「映画っぽい」と受け取ってもらえるだろう……という見えすいた予定調和が感じられて、しんどかった。「その予定調和の連環に、自分も組み込まれているのではないか?」と、焦るからだ。
実写映画ではなくセルアニメを借りてきた自分の魂胆が、どこかの段階で読まれてしまっている気がする。子供のころから親しんでいるセルアニメを生活に組み入れないと、現実に耐えられないんだろうと思う。本当は「アニメは実写映画と違って、イヤなものや汚いもの、予測不可能なものが出てこないから楽だ」と安らいだ気持ちになりたい、憩いたいはずなんだよね。
アニメで息抜きしたい自分を、心のどこかで嫌悪しているから「しんどい」ことになる。受け入れて、認めてしまえばいいんだろうけど、心の奥底で拒絶している。

内向的な人ほど、自分のオナニーのネタを公では嫌悪する(女子高生フェチの人は、制服姿のポスターを街で見かけただけで怒り出す)けれど、それに近い心理じゃないだろうか。
僕は、映画館でアニメを観るとき、滂沱たる汗をかいて緊張してしまう。隣の席の人に、「どうしていい歳してアニメ見てるんですか? そんなに現実が生きづらいんですか?」と問い詰められているような感じ。


思わず、『惡の華』の第1話を見返してしまったけど、やっぱり安堵する。
『惡の華』はキャラクターの歩き方ひとつとっても、実写の人物をトレースしているので、だらしがない。現実の汚さを、逃げずに抽出してくれる。きれいな、かわいい女の子という設定であっても、意外とガニ股で歩いていたりする。幻滅するんだけど、そこまで認めたうえで「かわいい女の子」として描いているから、そこから先は絶望しなくてすむわけ。正直であることは、何よりも強い。
見たくもない掃きだめに目を向けねば、むき出しの美しさは見つからない。

ここまで書くと、『響け!ユーフォニアム』も『リズの青い鳥』もいいじゃん、綺麗で可愛くて何が悪いって気持ちになれる。現実とも妄想とも、あらゆるものと僕は和解したい。 

(C)武田綾乃・宝島社/「響け!」製作委員会

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2019年1月 9日 (水)

■0109■

レンタル店の準新作コーナーで見つけた、キャスリン・ビグロー監督の『デトロイト』。
Mv5bmja4ndu5mjcyof5bml5banbnxkftztg60代後半のビグロー監督が、まだこんな手に汗にぎる緊張感に満ちた映画を撮りつづけていることに驚愕した。しかも、白人優位社会を根底から揺るがすような危険なモチーフだ。挑戦的だと思う。
戦車が出動し、戦場のような修羅場と化した1967年のデトロイト……いくらセットの建造費用があったって、CGで自由自在に画面をいじれたって、こんな撮り方はできない。つくづく、映画にとってストーリーは二の次だ。うかうかしていると、カメラがブレブレになって、何を撮っているのか分からなくなってしまうだろう。

最初の十数分は、ひたすら暴動が激化していく様子を、群集の中から撮っている。思いつきで撮ったかのような、激しいカメラワークもある。
ところが、あるモーテルで決定的な事件が発生するあたりから、画面に入る要素は限られてきて、カメラは銃撃音の直後に穴の開いた天井へサッと寄ったり、意図のある動きをしはじめる。そこからラストシーンまで、すっかり画面に没入した。
つまり、冒頭の暴動を撮ったシーンで観客の生理が調整され、本編に没頭できるよう仕組んである。その視覚的構成力こそが「映画」、という気がする。(3Dメガネがなければ臨場感が出せない、感じられないでは困ってしまうのだ)


贅沢な2時間を過ごしたが、しかし、日常生活に影響を残すタイプの映画ではない。
Filmstill06201712ストーリーは二の次だと言ったが、ラスト数十分は法廷劇となり、暴行を働いた警官たちにどんな判決が下されるかが気になってしまう。
(ウィル・ポールターは憎まれ役に徹することのできる良い俳優だった)

現場で、カメラマンや監督がどんな仕事をして、その成果物(フィルム)を編集作業でどう並べなおすかが、映画の品位を決定するのだと思う。
最初の『スター・ウォーズ』だって、トラブルの続出した現場で貧しいフッテージしか得られず、編集者を2人投入して、何とか見られるものにしたのであって、あの映画のチャームポイントはその過程にしかない。思い通りに撮れなかったとしても、編集で何とかする。そのプロセスにこそ、映画の生命が宿るんだと思う。映画評論家は、そんなこと一言も言わない。テーマがストーリーが、ネタバレが……と、そんな一生を送りたいのか? こんな膨大な、潤沢な作品たちを前にして?
僕は大学で映画を学びはしたが、プロになれずに挫折して良かったと思っている。こうして、映画について考える体勢、身構えが得られたのだから。

映画を観て「すげえ感動しました! めっちゃ泣きました!」なんてのは、「腹が立ったから相手を殴ってやった」と、レベルが変わらない。
ようするに、個人を守る武器が「泣いた」「腹たった」「憎い」といった情動しかない。酷い、危険な時代だと思う。


明日の阿佐ヶ谷ロフトAのイベント()、当初は数枚しか前売り券が売れてないというので大いに不安だったが、満席とは言わないまでも、予想をこえる数の大勢のお客さんが来られるという。小規模なサイン会を予定していたが、パニックにならないよう留意せねばならない。

もともと、秋山徹郎さんとは別件で仕事していて、このイベントは思いつきで誘ったに過ぎない。必ず来てくれるゲストとしては、キャラクター玩具の専門家・五十嵐浩司さんしかいない。そこまでは身内と言える範囲だし、何も冒険していない。
「きっと無理だろう」と思いながら、湖川友謙さんに一迅社さん経由で連絡をとったあたりから、風向きが変わって、テーマも絞り込まれてきた。
幸いにも、まだ発売されていない『聖戦士ダンバイン』の新製品のテストショットまでお貸しいただけた。メーカーさんのご好意ではあるが、人との関係を大事にしておいて良かった。


これまでの40年間、アニメ作品に登場するロボットをプラモデル化する際は、「アニメの設定画に忠実に再現」という曖昧な尺度に準拠するか、立体化に適したアレンジを施す実務的対応しかなされて来なかった。
その曖昧と実務の間にメスを入れるには、アニメ現場への取材経験が豊富な人間でなければ無理だ。模型メーカーの社員や、塗装や工作の上手いプロモデラーでもないくせに……と、ほとんどの人が疑っていると思う。まあ、そういうもんだろう。そうやってプラモデル業界は成り立っているのだから、異物を歓迎するわけがない。

でも、どこにも属してない、プラモが上手いとか下手というフィールドを避けている個人に、どこまで出来るか、僕は試したい。とりあえず、組織に属していない僕個人の私的イベントで数十人を動員できると証明できて、第二回も決まっている。ロフトさんは、第三回をやりたいと言っている。
ひとまず、それで成功なんじゃない?と思っている。誰かを騙して、無理やり何とかしたわけじゃなくて、何人かの方たちから信頼してもらえてるんだから、それで良くない?って。

何かをやるには、監獄に人を入れて監視したいタイプと、監獄から脱出したいタイプがいるそうで、僕は圧倒的に後者だ。

(C)2017 - Annapurna Pictures

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2019年1月 7日 (月)

■0107■

レンタルで、フェリーニの『オーケストラ・リハーサル』、ベルトリッチの『ラストタンゴ・イン・パリ』。毎日映画を観るのは、きっとそれなりに寂しいからなのだろう。
00013『オーケストラ・リハーサル』は、寺院のロケセットのみで撮ったワン・シチュエーション物。だけど、演奏シーンのある映画はプレ・スコアリングを使わなくてはならないので、仕込みがとても大変。
そうでなくとも、たとえばあるカットで電灯がユラユラと揺れたら、次のカットで別の人物を撮っていても、電灯の影が揺れていないといけない。それはやっぱり、スタッフが仕込まないと成立しない。
フェリーニの映画は単純な切り替えしなんてなくて、ワンカットに3~4人ぐらいの俳優がいて、それぞれ勝手なことをやる。ポンとカットが切り替わっても、彼らのおしゃべりがまだ続いている。その声は現場で収録して、編集で自然に繋がないといけない。
たくさんの要素を併走させながら、にぎやかな劇空間を再構成している。だから、劇映画ではあるけど、ドキュメンタリー的な撮り方だよね。


『ラストタンゴ・イン・パリ』は、1990年前後にベルトリッチが流行っていて、その時に観た記憶があったんだけど、1972年の映画と知って、驚いた。
24587_001アメリカではまだまだニューシネマの時代だったはずで、主演のマーロン・ブランドは、『ラストタンゴ~』と同年に『ゴッドファーザー』に出演しているのだから、驚異的だ。
最初の30分ぐらいは、ヴィットリオ・ストラーロの素晴らしいカメラに魅了される。


男と女がアパートで暮らしはじめる。
女が台所で調理していて、台所はガラスの向こうにある。したがって、女はガラスごしのシルエットしか見えない。男はガラスの手前から「水道の蛇口を止めろ」と怒鳴っている。女は、言うことを聞かない。
そこで男は台所に――すなわち、ガラスの向こう側へ行って、女を追い出して自分で水道を止める。止めると、そのまま台所を抜けて、部屋を出て行く。直後、台所から追い出された女の顔が、大きくフレームインする。
ガラスの向こうを、仮に無意識の世界と仮定するなら、男は女の無意識に入り込んで、そこから女を追い出して、無意識の世界を捨て去ったと捉えることが出来る。そんな想像を引き起こすぐらい、不思議な模様の彫られたガラスの存在が、意味深なのだ。

『ラストタンゴ~』がどういうストーリーなのか、僕には説明できないし興味もない。映画は、構図やカメラワークや俳優の動き、小道具によって、「世界の捉え方」や「考え方」を表すものだと思っている。


押井守監督の“企画”論 縦割り構造が崩れた映像業界で、日本の映画はどう勝負すべきか

とても重要な指摘。たとえば、プラモデルなんかも70~80年代とは社会の中でのありようが変わっているはずだ。その変化を指摘すると、旧来型の商売をしている人たちの足場がグワッと崩れてしまうんだろう。
だから、何も変わっていないフリをしていた方が、細々と儲けられるのだろう。僕自身は、良いとは思っていない状況を、セコく維持することの方が恐ろしい。

その話と関連するかどうかは分からないけど、「公式」という言葉は「ネタバレ」と同じ階層に属する言葉だと気がついた。ようするに、個人が主体性を放棄している。
原発事故の頃から、状況に対する怒り方、問題提起のしかたが分からなくなり、あきらめた方が楽だと、みんな分かってしまったのかも知れない。

(C)1979 Daimo Cinematografica - RAI - Gaumont Television.
(C) 1972 METRO-GOLDWYN-MAYER STUDIOS INC.. All Rights Reserved

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2019年1月 2日 (水)

■0102■

昨日、1月1日は母の命日。もう、8年目だ。
母の命を奪った父親は、昨年、出所した。僕の居所は教えていないし、あの男がどうなろうと知ったことではない。大晦日に武蔵境駅まで歩いて、母のために花を買って、墓前に供えた。

「外国に、行きなさい」と、母はかみ締めるようにハッキリと僕に言うことがあった。幸い、毎年自分のお金で外国へ行くことが出来ている。世の中、いろいろな種類の嘘つきがいることを、母の事件で思い知ったわけだが、僕は百パーセント原稿料だけで家賃、生活費、旅行費、税金、酒代すべてまかなっている。
正直であること――それだけは、お金で買うことはできない。
お金のために、正直さを捨ててしまう人がいる。一度捨てたら、もう二度とは戻ってこない。正直さ、誠実さとは、そういうものだ。


人は人を殺しうる。誰かを救える手は、誰かを殺しうる。
「私の手は殺しなんかしません、救うだけです」なんて言うヤツは、絶対に信用しない。愚かにも賢くもなるから、人間には価値があるんだよ。私だけは無罪です、私だけは例外ですって人間は、心から軽蔑する。
良くなり得る人間は、ようするに悪くもなり得るわけ。本人が悪くならないよう、ちょっとずつ努力するしかない。ちょっとでもマシに、昨日より一ミリでもいいから、好転させるように。向上心の火を消さないように。


正月、どうやって過ごしているかというと、実家がないのでどこにも帰らず、川崎に住んでいるらしい母方の親戚にも会わず、シーンと静かなマンションで酒を飲んだり仕事をしたり、映画を観たりしている。映画は『ブギーナイツ』と『バーフバリ 伝説誕生』。
まあ、お金のかかった映画はそう大きく破綻しないけれど、『バーフバリ』のように被写体の面白さだけで騒がれる映画には、つくづく興味がない。僕は密室で2人の人物が会話しているだけなのに、嵐が吹き荒れるような演出の『普通の人々』、コーヒーカップを世界の謎を丸呑みした魔物のように撮ってしまうヒッチコックの『汚名』が好きだ。

そんなわけで、北口のTSUTAYAと南口のGEOを、行ったり来たりしている。誰とも話さなくていいし、仕事のスケジュールは自分で自由に切ればいいし、銀行口座には一人暮らしするには十分なお金が貯めてあるし、手をつけてない小説も映画もプラモデルも山ほどある。こんな平穏な日々は、なかなか手に入らないよ。


毎日新聞が、「児童ポルノ」の定義をシレッと拡大解釈して、平然と報道していた件()。
だから、「ポルノ」=「性的に興奮するもの」と呼んでいるかぎり、興奮することは悪い・汚いという話にすり替えられ続ける。よく、表現規制に反対している人を「ズリネタを守りたいだけ」と揶揄する人がいるけど、僕はそれの何が悪いの?と思う。何を見て興奮しようが自慰しようが、その人の自由だよ。他人のズリネタに口出して禁止する社会の、どこが自由だよ。

もっと言うと、僕は「マンガやアニメやゲームだけは聖域」とは捉えてなくて、「そんなに規制したければ頑張って別の法律でもつくれば?」と思っている。表現物を規制したいがために、実在する児童を保護する目的の法律(児童ポルノ規正法)をダシに使うな!ってことです。それは誠実ではない、フェアじゃない。子供を人質にとって自分の嫌悪感を正当化しようなんて、薄汚い大人の考えそうなことだ。卑劣だよ。
「子供を守るため」なんて、綺麗事を言うなよ、バレてるよ。子供を守りうる人間は、子供を傷つけうる。傷つけうる手だけが、守りうるんだ。その厳しさを受け入れられないほど、毎日新聞も萌えイラスト嫌悪の人たちも脆弱だってこと。「権力になんとかしてもらおう」ってのは、自由からもっとも遠い発想だよ? 

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