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2019年1月28日 (月)

■0128■

コラム集発刊記念! 高橋良輔監督が語る“文字と言語の作品世界”【アニメ業界ウォッチング第52回】
T640_796850高橋良輔監督にインタビューするのは、『勇者王ガオガイガー』のBD-BOX封入のブックレット以来です。その時、「水陸両用整備装甲車」「機界31原種」などのネーミングは高橋監督の発案では?と質問したのですが、明快な答えは得られませんでした。だけど、その経験が今回のインタビューに繋がっています。

“宇宙用ヘルメット”を使って登場キャラクターの心情を描き出す、「プラネテス」の視覚効果【懐かしアニメ回顧録第50回】
連載コラムです。透明バイザーを使って、キャラクターの顔とキャラクターが見ている対象物を同時に映せる……そこに着眼したまでは良かったのですが、どうにも冴えない文章になってしまいました。文章を書いている時間だけはテンションが上がるので、要注意です。


「ラブライブ!」魔改造フィギュア販売で逮捕…どんな権利侵害があったのか?

先週末に弁護士ドットコムで記事になり、再び話題になった。
(ニュース直後の僕の意見→
取材された弁護士が「改造が許されている例外的なケースでない限り、違法となる可能性がありますので、どうしても趣味で改造をしたい場合は、権利者(著作者)に連絡して許可をとってからにした方がよいでしょう。許可はできれば書面、少なくともメールでもらっておくとより安心です」、つまり個人が趣味でフィギュアを改造する場合でも著作権者の許可をとった方がいいと発言したことから、「そんなバカな」と憤った人が多いようだ。

最初のニュースが流れた時点からその傾向はあったのだが、「僕の考えた法律解釈」を根拠に「ここまではセーフ、ここから先はアウト」と線引きして、「だから○○とか言ってる人はアホ」と、見解の違う他者をさげすむ流れになっている。
勝手に法解釈を広げて逮捕に踏み切った警察を責める人は、ほとんどいない。


自説を述べて、「私の解釈だけがエビデンス」で閉じてしまう一般のTwitterユーザーと逮捕権を有する司法警察職員とでは、招く結果が違いすぎる。
しかし、権力に歯向かうのは怖い。だから、「何もかもが怖い人々は、とりあえず最も強そうなものに縋りつく」(斎藤貴男『安心のファシズム―支配されたがる人々』より)。
結果、警察の勝手な法解釈を肯定したままで「逮捕されたヤツが悪くて、自分たちの趣味は逮捕の対象とならない」ための理屈を捏ね回すことになる。警察からすれば、都合がいい。

僕が小学校・中学校の思い出として真っ先に思い出すのは、何度となく繰り返された学級会での「話し合い」の光景だ。
一時間かけてクラス全員で話し合う。話し合いの方法など学んでいないから、最後には多数決に頼らざるを得ない。「先生、こういう結論になりました」と教師に報告する。教師は「そうですか。でも、その結論ではダメですね。先生の言うとおりにしてください」と、話し合いの成果を台無しにしてしまう。
小学校高学年ともなると、どうせ教師に覆されると学んでいるから、意見を聞かれても「パス」とだけ言って、次の誰かに譲ってしまう。どんな優れた意見を口にしても、教師に潰されるから。
そうやって僕たちは、自尊心を奪われてきた。「選挙なんて行っても無駄だ」と考える大人になってしまった。「警察にたてついても無駄だ」「政府の決めたことが正しい」「反発しているヤツはパヨクだ」。


僕は「アベ政権」が特に劣悪とは思っていないし、反権力気質の人が「反対のための反対」を繰り返している姿を肯定も否定もしない。
だけど、フィギュアの改造……伊集院光さんが、ラジオで「とても丁寧に作られたガンプラにはお金を出してもいいと思ってしまうけど、それも違法なの?」と発言したように、自分の趣味を守るのは、自分しかいない。

3年前、児童ポルノ単純所持で逮捕された容疑者からの押収物として、市販フィギュアがテレビに流された。僕は質問状を出して署名を集め、抗議のために愛宕警察署まで行った()。
自由とは、国家や組織に与えられる物ではない。僕たちの筋肉の中に備わっているものだ。「フィギュアを改造してはいけないのではないか」「この程度の改造ならいいのではないか」「誰かの許可が必要なのではないか」「売らなければ大丈夫ではないか」、そう考えて怯えること自体が、自由を鎖でつなぐこと、自分を檻に閉じ込めることなのだ。

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2019年1月25日 (金)

■0125■

モデルグラフィックス 2019年 03 月号 発売中
51wfmpxzonl■組まず語り症候群 第75夜
今回はエクスプラスさんのソフビ組み立てキット、ガラモンです。

次号特集は、『この世界の(さらにいくつもの)片隅に』です。
次号予告には、僕の名前がキュレーターとして紹介されています。編集部は、てっきり僕を外して進めたいのかと思っていましたが、企画発案者として尊重してくれるようです。ありがたいことです。

レンタルで、スティーブン・スピルバーグ監督の『ペンタゴン・ペーパーズ/最高機密文書』。いい邦題だ。なぜなら、「なんか知らないけど重要機密を暴露しようとする人々がいる」、それだけ覚えておけば十分であって、誰がどんな役なのか理解しなくても、彼らに感情移入なんかせずとも、ちゃんと面白いからだ。
640_1たとえば、機密文書が民間に流出するキッカケとなるのは、ひとりのジャーナリストがかけた電話だ。彼は公衆電話で話しており、カメラはロングで彼の全身をとらえている。何の緊張感もない構図だ。
いきなり「次の番号にかけろ」と電話口で言われ、彼は手帳を胸ポケットから出そうとして、ペンなどを路上にぶちまけてしまう。
公衆電話の受話器は、ぶらんと宙に垂れさがり、ジャーナリストは番号を暗記して、忘れないうちに再び電話をかけようと焦る。隣の電話機にコインを入れようとして、今度はコインが地面にちらばる。
コインやダイヤルのアップがある以外、ぜんぶロングの弛緩しきった構図だ。その構図で無様に慌てるジャーナリストの仕草を撮ると、「さして優秀でもない冴えない男のもとに、すごいニュースが舞い込んだ」ように見えないだろうか?
また、地面に散乱するメモや手帳やコインは、彼の溢れ出る好奇心を代弁しているように見えるのだが、いかがだろう?

「私はジャーナリストではないから、彼の気持ちが分からない」? 感情移入するために映画を見るなら、多くのものを取りこぼしてしまう。
彼の気持ちが分からずとも、彼の気持ちを「どのように表現しているか」、そのテクニックやセンスに僕は唸ってしまう。


アップを効果的に使ったシーンもある。
機密文書を新聞に掲載すべきかどうか、キャサリン・グラハム(ワシントン・ポストの発行人)は、複数の人間と電話で討論する。
640_4何人もの関係者の、まったく正反対の言葉を聞いているうち、キャサリンは右を向く。直後、左を向く。この二つのまったく同じサイズのカットが連続していると、彼女が物理的に首を左右に振っているのではなく、「迷っている」ように見える。
大事なのは、正反対の意見を聞いているキャサリンが、首を右と左に振ったことではない。彼女の「迷っている」心理を表現するため、まったく同じサイズで「右を向く」「左を向く」カットをつないだことだ。

心理とか気持ちとかいう目に見えないものを、目に見える方法だけを使って、「いかにして」表現するか。その「いかにして」の部分に、僕はいつも感銘を受けるわけだ。

映画のラスト近く、ベン・ブラッドリー(ワシントン・ポストの編集主幹)がキャサリンのオフィスへ来て、テーブルの上に何紙もの新聞を次々に並べていく。
他紙も、彼らに追随するように機密文書を暴露したのだ。多数の味方を得た彼らの勝ちである。……いや、構図によって「彼らが勝った」と分かるよう、組み立ててある。
640_5新聞の並べられたテーブルは、とても低い。だから、ベンとキャサリンは真下を覗き込むよりないのである。さらに、その2人の顔を撮ろうとするなら、カメラは低い位置から2人をアオリで撮るしかない。ほぼ真下から撮られた人物は、とてつもなく大きな力を得たかに見える。脚本でも芝居でもなく、「構図」によって状況を描写している。
映画は機能であり、メカニックなのだ。「ストーリー」を理解する必要はない、人物に感情移入する必要もない、映画がどのように機能しているか、それを把握しさえすればいい。

いつの間にか、映画における「感動」は「登場人物の内面を理解し、共感すること」に限定されてしまった。それも感動の一種だけど、映画の構造や語り口を誉める人は、滅多に見つからない。

(C)Twentieth Century Fox Film Corporation and Storyteller Distribution Co., LLC.

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2019年1月24日 (木)

■0124■

レンタルで、金子修介監督の『リンキング・ラブ』。
6403月に開催予定のイベントに、金子監督が出てくださるという。その後、本当に出ていただけるのかどうか、ちょっと怪しいムードになっている。だけど、最近作を観ておくのが礼儀だと思い、借りてきた。
劇中であっさりネタを明かしているように、『バック・トゥ・ザ・フューチャー』そっくりのプロットだ。バブル崩壊直後の日本へ主人公の少女がタイムトリップして、まだ若い大学生の父親と母親をくっつけて、現代へと帰ってくる。
その味つけに、AKB48の楽曲を借りた架空のアイドル・グループが登場する。

無理して誉める義理はないし、風邪っぽいので、初回は冒頭20分ほどで「ああ、80年代のアイドル映画みたい……というか、月曜ドラマランドだな」と油断して、寝落ちしてしまった。起きると、AKB48の曲で制服姿の女優たちがダンスしているシーンだった。「ホントに、こんなかったるいダンスでいいの? こんな平凡なカットワークしか思いつかないの?」と、最初は冷ややかに見ていた。最初はね。
640_1クライマックス、ちょっとした危機を乗り越えて、グループが全員そろって『恋するフォーチュンクッキー』を舞台で歌う。リードボーカルは、主人公の母親だ。客席で見ていた父親が花束を持って、彼女に近づく。曲はサビに入っているが、母親は舞台を降りてきて、父親と向き合う。そして、母親が花束を受けとったところでジャン!と曲が終わる。他のメンバーたちは、客席に手を振ったり、仲間同士で抱き合ったりしているが、それがまるで父親と母親がくっついたことを祝福しているように見える。
ちょうど、『生きる』のハッピーバースデーのシーンみたいに、ふたつの無関係なドラマがひとつのフレームに重なり合って、画面手前のドラマが強化されている。ちょっと待て、これはなかなか大した演出ではないか? と、姿勢を正して頭から見返した。


いや、ホントは誉めたくないんです。金子監督、イベント出てくれるんですか、どうして何も返事してくれないんですか?ってイライラしてるわけだから。
この映画、創作的な部分は本当に少ない。プロットは『バック・トゥ・ザ・フューチャー』だと、映画の冒頭で早々とバラしてしまっているうえ、『バック・トゥ~』で困難だった危機設定はあっさりと省かれている。“おいしいとこ取り”ってやつだ。
主人公は若い母親と父親を結びつけるために、まだこの世に誕生していないAKB48の曲を流用して、即席のアイドル・グループを結成する。オリジナル曲がないわけだから、このアイデアも創作的とは言いがたい。『リンダ リンダ リンダ』で、女子高生たちがブルーハーツの曲をカバーするのとは、次元が違う。
『リンキング・ラブ』は内輪ウケやセルフ・パロディは連発するし、オリジナルな要素は本当に乏しい。

だけど、主人公(演じている田野優花は、元AKBメンバー)がAKBの楽曲と振り付けを即席のメンバーに覚えさせて、アイドルオタクの先輩の前で披露するシーンで、ガツンとくる。
640_2その先輩は1991年に生きている人間なので、「今はアイドル冬の時代だ」と、白けきっている。もちろん彼は、AKBの振り付けなんて見たことがない。だから、主人公たちのたどたどしい物真似ダンスを見て「えっ、何だよ、その可愛い踊り!」って驚くわけ。「でも君たち、アイドルは笑顔で!」って先輩が言うと、彼女たちは自信なさげに笑う。
その笑いは、元気な笑いではない。ちょっと気まずい笑いだ。主人公たちはAKBの物真似をしているに過ぎないのだから、観客も素直に喜べない。だから、力のない笑いなんだけど、カメラは真正面から、堂々と撮っている。

なぜかというと、その先輩が味方についたことで、主人公たちは大いに助けられるから。映画としては、主人公たちの心情よりも、もっと引いた目線から動向を凝視せねばならない。
以降、先輩が張り切って、メンバーをしごいていく。カメラは踊りの練習をしているメンバーをドリー移動でガーッと撮りきった後、先輩の怒鳴り顔のアップでピタッと止まったりする。
そのドライブ感に煽られて、初見では雑に見えた制服姿のダンスシーンが、魅力たっぷりに見えてくる。プロットも借り物、楽曲も借り物。ぜんぶパクりなのに、本人たちは必死……そんな見せ方を出来るのが、この映画だけの利点だよね。


いまだにAKB48とモーニング娘。の区別すらつかない僕なので、この映画に出てくるアイドルたちは、本物のAKBのメンバーを混ぜて撮っていて、だから歌もダンスも上手いんじゃないの?と疑っていたら、みんな別々の出自をもつ女優たちで、この映画のために特訓したのだという。
企画としては安易だと思うし、スタッフもキャストも乗り気ではなかっただろうな。しかし、数少ないネットのレビューを見ると、まあまあ好感をもって受け入れられている。

安易につくられた映画に、ほんの一瞬、本物の熱意が灯る瞬間がある。僕は、それを見逃したくない。気がついているのに、知らん顔で素通りはできない。全人類が無視する映画であれば、僕ひとりで救ってみせる。
映画のレベルでいうと、B級どころかC級と言ってもいい。だけど、レベルなんてどうでも良くなる瞬間が、この映画にはある。しかつめらしい、いかにも賢そうな顔をして、本当にどうでもいい映画が、他にいっぱいあるよ。

(C)2017 AiiA Corporation

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2019年1月20日 (日)

■0120■

魔改造 「ラブライブ!」のフィギュア頭部を付け替え販売 著作権法違反容疑で男逮捕
あえて毎日新聞のリンクを貼ったのは、同紙が「児童ポルノ」の範囲をアニメ・ゲームにまで拡大解釈した()ので、そこにも留意してほしいから。
毎日新聞が、Twitterで「#魔改造」のタグまでつけて嬉々として投稿していることに、違和感をおぼえる。

Facebookで「この程度の改造で逮捕とは、ちょっと行き過ぎではないか」という趣旨で投稿していた方がいらしたので、このニュースを知った。『ラブライブ!』シリーズは他の作品に比べて版権管理が厳しいと聞いたことがあるので、まあ仕方がない面もあるのでは……と思ってリンクを開くと、なんと著作権者からの訴えではなく、茨城県警がサイバーパトロールしていて、独自捜査でフィギュアの販売者を特定したと知って、ゾッとした。

逮捕の裏には、環太平洋連携協定(TPP)発効にともなう、著作権法の非親告罪化がある()。茨城県警は昨年秋から捜査していたそうなので、TPP発効を見据えて、いわば「見せしめ」として改造フィギュアを選んだのであろう。


いくつか、残念な点がある。
Twitterでこの件について検索してみると、改造されたキャラクターの特性をあげながら、「草生えた」と笑いものにしている人たちが目についた。
笑ってすませてしまうと、これから「著作権侵害の範囲」がどんどん広がって、それこそTwitterで改造したフィギュアやプラモデルの画像をアップロードしただけで訴えられるか、訴えられないまでもウェブ上で責められたり犯罪者扱いされたりする事態は、十分にあり得る。

少なくとも、美少女フィギュアの改造を楽しんでいる人たちは、萎縮してしまうのではないだろうか。
「ガンプラに好きな色を塗ってもいかんのか?」と言っている人がいたが、警察による改正著作権法の解釈次第では、個人が塗装したり改造したプラモデルを販売したら権利侵害と捉えられて、ある日いきなり逮捕……という、今回と同様の事態もあり得るだろう。
どうか、笑いごとですまさないでほしい。これは、他ならぬ僕たちの趣味の問題であり、心の自由の問題であるはずだ。

また、逮捕=有罪確定ではない。


それと、県警が改造例としてアイドル衣装のフィギュアの首を、“水着の”フィギュアの胴体に乗せかえているのも、僕は気になった。これでは、水着などの露出の多いフィギュアがいけない……極端に言うと、「エッチだから逮捕」のような誤った印象を与えてしまうのではないだろうか。
押収品として多数の市販フィギュアを並べることで、「フィギュアをたくさん買い集めている人は犯罪者」というイメージを、社会に与えてしまっていないだろうか?
Cb9ph31wwae_hjp2016年、児童ポルノ規制法違反で、なぜかフィギュアが陳列された事態を忘れてはいけない( 画像はリンク先から)。
フィギュア製品だけが、警察から「見せしめ」に最適として利用されている気がしてならないのだが、いかがだろうか?

だとしたら、フィギュア文化、模型趣味の根幹といってもいい「改造」の自由を守るのは誰で、何をしなければいけないのだろう?

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2019年1月18日 (金)

■0118■

原田眞人監督作で、とりこぼしていた映画を観なくては……と、『伝染歌』と『関ヶ原』を借りてきた。『伝染歌』は、去年見たばかりだ。うっかりしていた。
640_1『関ヶ原』は、かなりヒットして賞も貰っているのだが、あいかわらず誰がどこで何をしているのか、さっぱり分からないところが原田映画だなーと思う。これは、ケナしているわけではない。アイドル主演のお手軽ホラー映画のはずの『伝染歌』だって、「こういう映画だよ」とパッと説明できない、猛烈な複雑さと混沌に満ちていて、そこが不思議な魅力なんだよね……。
で、そんな奇ッ怪な映画ばかり撮っている原田監督の思惑とはまったく別のレイヤーで、日本映画界の偉い人たちが利権こみで今年の日アカ賞は誰にやろうか、なんて不毛な会話をかわしてる光景を想像してしまう。いや、想像ですよ想像。


でも、『関ヶ原』を観て良かった、やっぱり原田監督は良い!と思えるところもあって、それは原作の『関ヶ原』で創造された架空の女性キャラクター、初芽の登場するシーンなんだよね。
640このスチールになっているシーンも、大勢の兵たちが通りを突き進んで行く中、パッと初芽だけが立ち止まって振り返る。それまで通りを進んでいたカメラが、彼女と同時にピタッと止まる。彼女の心に寄り添う。きれいなカットだよ。
映画を観るんなら、カメラの動きを楽しまないと意味ないよ。

そして何より、映画が始まって30分ぐらいのシーンが素晴らしかった。夜の廃屋の近くで、初芽は赤耳という老忍者に襲われるが、一撃で返り討ちにする。
赤耳がドカーンと廃屋につっこんで、初芽は「ドンガメ」「(お前の名など)知らんわ」と短く切り返しながら、廃屋とは別の方角へ歩き出す。すると、カメラは2人の真上から俯瞰でシーンをとらえる。赤耳は初芽の行く手をはばむかのように回り込みながら歩くけど、初芽は赤耳の動きを見透かして、ちょっと引き返したりする。
この2人の動きを地面に置いたカメラで撮ると、2人の姿が前後に互い違いに入れ替わるように見えて……「ああ、この2人は会話しながら互いに警戒しあってるな」と分かるわけ。人物の動きと、それを真上から撮るカメラ、真横から撮るカメラとで、2人の不穏な関係が分かる。
映画って、そういうもんなの。カメラの動きで、たとえば“不信感”とか“疑惑”を感じさせる、そういうものなんだ。


まだ、続きがある。初芽は自信満々にまっすぐに歩いて、赤耳が彼女を追う格好になる。カメラは、2人の後を追う。初芽の歩く先には、焚き火が燃えている。
すると、焚き火のまわりに初芽の仲間の忍者たちが、左から右から、ヒラリヒラリと集まってくる。どうして「仲間」だと分かるのか? それは「炎」に集まってくるから。だって、初芽は焚き火の「炎」に向かってまっすぐ歩いていくわけだから、同じ「炎」に集う者たちは、彼女と同じ志向の人間だって理解できるでしょ? “図像”なんですよ、映画って。

で、忍者たちは、それぞれに情報交換する。初芽は有能なので、堂々と切り返すんだけど、仲間のひとりが「どうなんだよ、蛇白?」と声をかけると、初芽がハッと振り返る絵が入る。見ているこちらも、初芽が黙ったから何事かと思うわけだ。
すると、草むらから白い蛇を手のうえでもてあそびながら、真っ黒な服の女が出てくる。
そして、初芽の周囲をゆっくり歩いて回りながら、話す。蛇を手でかわいがりながら。彼女は「忍びは、みんな殺されるよ」と不吉なことを言いながら、「炎」から離れていく。

仲間の集まってきた「炎」から、蛇白だけが離れていくわけだから、その構図だけで、彼女が仲間じゃないって分かるじゃない? 映画って、そういうもんです。
そして、炎の近くにとどまったまま、蛇白を無言で見送る初芽のバスト・ショット。さらに、アップで寄る。初芽の心情を想像させながら、次のシーンへ。まったく見事なものだと思う。
その前後2時間ぐらいは、あまりにも描写が難解すぎて、理解を放棄してしまうけど(笑)、このワンシーンだけで原田節は満喫できるよ。初芽を主人公に撮ってほしかった。


16日(水)は、あるアニメの試写会へ行った後、ラピュタ阿佐ヶ谷へ『マイマイ新子と千年の魔法』を観に行った。平日昼間、10人ぐらいのお客さんでは監督も映画も可哀相……と思いきや、なんと席はほとんど埋まっていた。
50231539_2052849794808924_627631097新子のおばあちゃん役の世弥きくよさんも客席にいて、ロビーは和やかなムードに満ちて、本当に温かかった。木曜以降も、平日昼間にしては盛況だと聞く。「じゃあ、もう大丈夫だな」と安堵するこの感覚、2009~2010年にかけてのラピュタ阿佐ヶ谷の状況そのままだ。

もちろん、観客と監督がわいわいするのが好きじゃない人もいるだろうから、ひとりの帰路で映画の余韻を味わってもいい。
『RWBY』の試写会のとき、僕はひと気のない道を選んで、泣きながら帰ったからね。感想を人に聞かれるのさえ、苦痛だった。

もう何十回映画館で見たか数えるのも放棄した『マイマイ新子と千年の魔法』だけど、やっぱり大胆で、謎めいていて、観るたびに「どういう意味だろう?」と腕組みしてしまう。ミスリードが仕掛けてあるんだけど、別にミスしても大丈夫というか……いつも迷うんだけど、「迷ってもいいよ」と許してもらえるというか……。

(C)2017 「関ヶ原」製作委員会

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2019年1月14日 (月)

■0114■

「ボトムズ」「ダンバイン」「SDガンダム」……バンダイの“ガシャプラ”シリーズが受け継ぐプラモデル本来の楽しさとは?【ホビー業界インサイド第43回】
T640_795183先日、阿佐ヶ谷ロフトのイベントでガシャプラのテストショットをお見せできたのは、こうした取材活動の結果なのでした。
はじめからご縁があったわけでも、コネがあったわけでもなく、こちらからインタビューさせて欲しいとお願いして、「まあコイツなら信用してもいいかな」と思っていただけたのでしょう。


昨夜は、ラピュタ阿佐ヶ谷にて『マイマイ新子と千年の魔法』のアンコール上映。
Kimg282910年前と同じく、夜のチケットを買うために、朝から並ぶ。午前10時前にラピュタに着くと、『マイマイ新子』に資料協力として参加して、以降は普通のファンでいらっしゃるⅠさんが声をかけてくださった。
上映後に再会したⅠさんが「ちょっと飲んでいきましょうよ」と言うので、夜の阿佐ヶ谷の街に引き返したら、「あれ~、どうしたの?」とスタジオへ帰る途中の片渕須直監督に出くわしたりして、そういえば舞台挨拶で司会の山本和宏さんが「あるライターの方が署名を始めまして……」と口にした途端、監督が僕の方を見て「ははは!」と笑ったので、つくづく緩い、ストレスのない夜だった。

山本さんには『この世界の片隅に』のイベントでもちょくちょくお会いしているので、「今日は、山本さんにとっての十年でもありますよ」と、上映前のロビーで肩を叩いた。
「新子も貴伊子も、歳をとらないんですねえ(だから今見ても新鮮なんだ)」と言ったのは、誰だっただろう? とにかく、にぎやかな夜だった。


先日も書いたように、僕は映画館でアニメを観るとき、緊張して猛烈に発汗してしまう。『新子』のときは、なぜか発汗した記憶がない。
特に昨夜は、落ち着いた心境で見られた。
多々良権周防介が初めて登場するカットで、ついさっきまで新子の空想だったはずなのに、すでにもう一本のストーリーが新たに並走していることに気がついて「えっ、これはカッコいい演出だ!」と驚くのは、試写室で見て以来、何十回見ても変わらない。
8558_photo2「千年前」と言いながら、常に「現在」とカットバックさせて、どちらが未来とも過去とも決めつけず、ラストカットはなんと「現代」のふたりから、「過去」のふたりに草笛が受け継がれるところで終わる。「過去」を過ぎ去ったもの、終わったものとして描いていない。
いわば、とこしえの未来だけが躍動しつづけている。死を乗り越えるのではなく、死を巨大な生命の中へと包含してしまう。

貴伊子が諾子の姿となって千年前の世界へ行くのは、かなり突拍子もないアイデアだ。
029_size8_2しかし、ひとつの巨大な「生命」が貴伊子の姿で現れたり、諾子の姿となって現れたりしているにすぎないのではないか? だから、絶望する必要がないのではないだろうか?
新子が夜道で金魚を見つけた直後、なぜか貴伊子が「私、見つけたよ」と言う。ようするに、僕たちみんなが「生命」という媒質によって繋がっていて、互いに同じものであって、それはもちろん死によって分断できる性質のものではない、と。

晴美さんは死んでしまったけど、原爆から生き残った子が北條家の一員となって終わる『この世界の片隅に』のラストは、ひづるという個体が死んでも、赤い金魚が見つかる『マイマイ新子』にそっくり。それはきっと、2人の作家の信じている世界観が似ているということなのだろう。


じゃあ、どうして同じセルアニメ、同じく女子同士の友情を描いた『リズと青い鳥』はしんどいのか?という、先日の話に戻る。
やっぱり、「目を小さくして頭身を高くしましたよ、これなら見られるでしょ?」と言わんばかりのキャラクターデザインが“結界”なんだと思う。その結界の内部に入れれば気持ちいいんだろうけど、僕は弾かれてしまった。単に、好悪の問題なのかも知れない。
「もともとは目の大きなアニメ特有のキャラなんだけど、あえて目を小さくする」試みは、いうなれば、社会にコンセンサスを求めている。そのキャラクターデザインの想定する「社会」は、本当は萌えキャラなんて容認してくれない頑固な大人たちの世界なんだよね? だからコンセンサスを求める必要があるんだよね? 

好感度なんて気にしないで、ひたすら表現欲に徹した映画なら、こちらも我を忘れて見入ることが出来る。『若おかみは小学生!』だって目はでっかいんだけど、表現として受け取れたからね。

(C)高樹のぶ子・マガジンハウス/「マイマイ新子」製作委員会

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2019年1月12日 (土)

■0112■

レンタルで、『リズと青い鳥』。これは苦手だった。なぜ自分がアニメにこだわっているのか、どうして実写に比べてアニメを観るのが楽なのか、問いかけられているような気がして、しんどかった。
640テレビシリーズの『響け!ユーフォニアム』とはキャラクターの頭身や瞳の大きさを変えているのは野心的でいいのだが、結局、声優のハキハキした喋りかたによって台無しにされている気がした。
かといって、実写映画やドラマの俳優を使ってリアリティを狙うのも、こうしたアニメ映画の目論見からは外れている気がする。無菌室のように、内面化された清浄な世界だけを見ていたい、虫のいい願望を満たすのもセルアニメの大切な役割だろう。それこそ、僕のような対人恐怖や「場」のかもし出す気まずさに耐えられずパニックを起こす欠陥人間を癒すために、救うために二次元美少女たちの楽園があるはずで。
でも、本当の楽園ならば頭身を高くして目を小さく描くような“他人のそぶり”を見せないで欲しかった。キラキラの瞳や、ムチムチした太ももを捨てないまま、「映画」を見せてほしかった。


セリフを少なめにして、被写界深度を浅めで、髪の揺れや指の仕草を撮れば、「繊細な芝居」と誉めてもらえるだろう、そこさえ誉めておけば「映画っぽい」と受け取ってもらえるだろう……という見えすいた予定調和が感じられて、しんどかった。「その予定調和の連環に、自分も組み込まれているのではないか?」と、焦るからだ。
実写映画ではなくセルアニメを借りてきた自分の魂胆が、どこかの段階で読まれてしまっている気がする。子供のころから親しんでいるセルアニメを生活に組み入れないと、現実に耐えられないんだろうと思う。本当は「アニメは実写映画と違って、イヤなものや汚いもの、予測不可能なものが出てこないから楽だ」と安らいだ気持ちになりたい、憩いたいはずなんだよね。
アニメで息抜きしたい自分を、心のどこかで嫌悪しているから「しんどい」ことになる。受け入れて、認めてしまえばいいんだろうけど、心の奥底で拒絶している。

内向的な人ほど、自分のオナニーのネタを公では嫌悪する(女子高生フェチの人は、制服姿のポスターを街で見かけただけで怒り出す)けれど、それに近い心理じゃないだろうか。
僕は、映画館でアニメを観るとき、滂沱たる汗をかいて緊張してしまう。隣の席の人に、「どうしていい歳してアニメ見てるんですか? そんなに現実が生きづらいんですか?」と問い詰められているような感じ。


思わず、『惡の華』の第1話を見返してしまったけど、やっぱり安堵する。
『惡の華』はキャラクターの歩き方ひとつとっても、実写の人物をトレースしているので、だらしがない。現実の汚さを、逃げずに抽出してくれる。きれいな、かわいい女の子という設定であっても、意外とガニ股で歩いていたりする。幻滅するんだけど、そこまで認めたうえで「かわいい女の子」として描いているから、そこから先は絶望しなくてすむわけ。正直であることは、何よりも強い。
見たくもない掃きだめに目を向けねば、むき出しの美しさは見つからない。

ここまで書くと、『響け!ユーフォニアム』も『リズの青い鳥』もいいじゃん、綺麗で可愛くて何が悪いって気持ちになれる。現実とも妄想とも、あらゆるものと僕は和解したい。 

(C)武田綾乃・宝島社/「響け!」製作委員会

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2019年1月 9日 (水)

■0109■

レンタル店の準新作コーナーで見つけた、キャスリン・ビグロー監督の『デトロイト』。
Mv5bmja4ndu5mjcyof5bml5banbnxkftztg60代後半のビグロー監督が、まだこんな手に汗にぎる緊張感に満ちた映画を撮りつづけていることに驚愕した。しかも、白人優位社会を根底から揺るがすような危険なモチーフだ。挑戦的だと思う。
戦車が出動し、戦場のような修羅場と化した1967年のデトロイト……いくらセットの建造費用があったって、CGで自由自在に画面をいじれたって、こんな撮り方はできない。つくづく、映画にとってストーリーは二の次だ。うかうかしていると、カメラがブレブレになって、何を撮っているのか分からなくなってしまうだろう。

最初の十数分は、ひたすら暴動が激化していく様子を、群集の中から撮っている。思いつきで撮ったかのような、激しいカメラワークもある。
ところが、あるモーテルで決定的な事件が発生するあたりから、画面に入る要素は限られてきて、カメラは銃撃音の直後に穴の開いた天井へサッと寄ったり、意図のある動きをしはじめる。そこからラストシーンまで、すっかり画面に没入した。
つまり、冒頭の暴動を撮ったシーンで観客の生理が調整され、本編に没頭できるよう仕組んである。その視覚的構成力こそが「映画」、という気がする。(3Dメガネがなければ臨場感が出せない、感じられないでは困ってしまうのだ)


贅沢な2時間を過ごしたが、しかし、日常生活に影響を残すタイプの映画ではない。
Filmstill06201712ストーリーは二の次だと言ったが、ラスト数十分は法廷劇となり、暴行を働いた警官たちにどんな判決が下されるかが気になってしまう。
(ウィル・ポールターは憎まれ役に徹することのできる良い俳優だった)

現場で、カメラマンや監督がどんな仕事をして、その成果物(フィルム)を編集作業でどう並べなおすかが、映画の品位を決定するのだと思う。
最初の『スター・ウォーズ』だって、トラブルの続出した現場で貧しいフッテージしか得られず、編集者を2人投入して、何とか見られるものにしたのであって、あの映画のチャームポイントはその過程にしかない。思い通りに撮れなかったとしても、編集で何とかする。そのプロセスにこそ、映画の生命が宿るんだと思う。映画評論家は、そんなこと一言も言わない。テーマがストーリーが、ネタバレが……と、そんな一生を送りたいのか? こんな膨大な、潤沢な作品たちを前にして?
僕は大学で映画を学びはしたが、プロになれずに挫折して良かったと思っている。こうして、映画について考える体勢、身構えが得られたのだから。

映画を観て「すげえ感動しました! めっちゃ泣きました!」なんてのは、「腹が立ったから相手を殴ってやった」と、レベルが変わらない。
ようするに、個人を守る武器が「泣いた」「腹たった」「憎い」といった情動しかない。酷い、危険な時代だと思う。


明日の阿佐ヶ谷ロフトAのイベント()、当初は数枚しか前売り券が売れてないというので大いに不安だったが、満席とは言わないまでも、予想をこえる数の大勢のお客さんが来られるという。小規模なサイン会を予定していたが、パニックにならないよう留意せねばならない。

もともと、秋山徹郎さんとは別件で仕事していて、このイベントは思いつきで誘ったに過ぎない。必ず来てくれるゲストとしては、キャラクター玩具の専門家・五十嵐浩司さんしかいない。そこまでは身内と言える範囲だし、何も冒険していない。
「きっと無理だろう」と思いながら、湖川友謙さんに一迅社さん経由で連絡をとったあたりから、風向きが変わって、テーマも絞り込まれてきた。
幸いにも、まだ発売されていない『聖戦士ダンバイン』の新製品のテストショットまでお貸しいただけた。メーカーさんのご好意ではあるが、人との関係を大事にしておいて良かった。


これまでの40年間、アニメ作品に登場するロボットをプラモデル化する際は、「アニメの設定画に忠実に再現」という曖昧な尺度に準拠するか、立体化に適したアレンジを施す実務的対応しかなされて来なかった。
その曖昧と実務の間にメスを入れるには、アニメ現場への取材経験が豊富な人間でなければ無理だ。模型メーカーの社員や、塗装や工作の上手いプロモデラーでもないくせに……と、ほとんどの人が疑っていると思う。まあ、そういうもんだろう。そうやってプラモデル業界は成り立っているのだから、異物を歓迎するわけがない。

でも、どこにも属してない、プラモが上手いとか下手というフィールドを避けている個人に、どこまで出来るか、僕は試したい。とりあえず、組織に属していない僕個人の私的イベントで数十人を動員できると証明できて、第二回も決まっている。ロフトさんは、第三回をやりたいと言っている。
ひとまず、それで成功なんじゃない?と思っている。誰かを騙して、無理やり何とかしたわけじゃなくて、何人かの方たちから信頼してもらえてるんだから、それで良くない?って。

何かをやるには、監獄に人を入れて監視したいタイプと、監獄から脱出したいタイプがいるそうで、僕は圧倒的に後者だ。

(C)2017 - Annapurna Pictures

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2019年1月 7日 (月)

■0107■

レンタルで、フェリーニの『オーケストラ・リハーサル』、ベルトリッチの『ラストタンゴ・イン・パリ』。毎日映画を観るのは、きっとそれなりに寂しいからなのだろう。
00013『オーケストラ・リハーサル』は、寺院のロケセットのみで撮ったワン・シチュエーション物。だけど、演奏シーンのある映画はプレ・スコアリングを使わなくてはならないので、仕込みがとても大変。
そうでなくとも、たとえばあるカットで電灯がユラユラと揺れたら、次のカットで別の人物を撮っていても、電灯の影が揺れていないといけない。それはやっぱり、スタッフが仕込まないと成立しない。
フェリーニの映画は単純な切り替えしなんてなくて、ワンカットに3~4人ぐらいの俳優がいて、それぞれ勝手なことをやる。ポンとカットが切り替わっても、彼らのおしゃべりがまだ続いている。その声は現場で収録して、編集で自然に繋がないといけない。
たくさんの要素を併走させながら、にぎやかな劇空間を再構成している。だから、劇映画ではあるけど、ドキュメンタリー的な撮り方だよね。


『ラストタンゴ・イン・パリ』は、1990年前後にベルトリッチが流行っていて、その時に観た記憶があったんだけど、1972年の映画と知って、驚いた。
24587_001アメリカではまだまだニューシネマの時代だったはずで、主演のマーロン・ブランドは、『ラストタンゴ~』と同年に『ゴッドファーザー』に出演しているのだから、驚異的だ。
最初の30分ぐらいは、ヴィットリオ・ストラーロの素晴らしいカメラに魅了される。


男と女がアパートで暮らしはじめる。
女が台所で調理していて、台所はガラスの向こうにある。したがって、女はガラスごしのシルエットしか見えない。男はガラスの手前から「水道の蛇口を止めろ」と怒鳴っている。女は、言うことを聞かない。
そこで男は台所に――すなわち、ガラスの向こう側へ行って、女を追い出して自分で水道を止める。止めると、そのまま台所を抜けて、部屋を出て行く。直後、台所から追い出された女の顔が、大きくフレームインする。
ガラスの向こうを、仮に無意識の世界と仮定するなら、男は女の無意識に入り込んで、そこから女を追い出して、無意識の世界を捨て去ったと捉えることが出来る。そんな想像を引き起こすぐらい、不思議な模様の彫られたガラスの存在が、意味深なのだ。

『ラストタンゴ~』がどういうストーリーなのか、僕には説明できないし興味もない。映画は、構図やカメラワークや俳優の動き、小道具によって、「世界の捉え方」や「考え方」を表すものだと思っている。


押井守監督の“企画”論 縦割り構造が崩れた映像業界で、日本の映画はどう勝負すべきか

とても重要な指摘。たとえば、プラモデルなんかも70~80年代とは社会の中でのありようが変わっているはずだ。その変化を指摘すると、旧来型の商売をしている人たちの足場がグワッと崩れてしまうんだろう。
だから、何も変わっていないフリをしていた方が、細々と儲けられるのだろう。僕自身は、良いとは思っていない状況を、セコく維持することの方が恐ろしい。

その話と関連するかどうかは分からないけど、「公式」という言葉は「ネタバレ」と同じ階層に属する言葉だと気がついた。ようするに、個人が主体性を放棄している。
原発事故の頃から、状況に対する怒り方、問題提起のしかたが分からなくなり、あきらめた方が楽だと、みんな分かってしまったのかも知れない。

(C)1979 Daimo Cinematografica - RAI - Gaumont Television.
(C) 1972 METRO-GOLDWYN-MAYER STUDIOS INC.. All Rights Reserved

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2019年1月 2日 (水)

■0102■

昨日、1月1日は母の命日。もう、8年目だ。
母の命を奪った父親は、昨年、出所した。僕の居所は教えていないし、あの男がどうなろうと知ったことではない。大晦日に武蔵境駅まで歩いて、母のために花を買って、墓前に供えた。

「外国に、行きなさい」と、母はかみ締めるようにハッキリと僕に言うことがあった。幸い、毎年自分のお金で外国へ行くことが出来ている。世の中、いろいろな種類の嘘つきがいることを、母の事件で思い知ったわけだが、僕は百パーセント原稿料だけで家賃、生活費、旅行費、税金、酒代すべてまかなっている。
正直であること――それだけは、お金で買うことはできない。
お金のために、正直さを捨ててしまう人がいる。一度捨てたら、もう二度とは戻ってこない。正直さ、誠実さとは、そういうものだ。


人は人を殺しうる。誰かを救える手は、誰かを殺しうる。
「私の手は殺しなんかしません、救うだけです」なんて言うヤツは、絶対に信用しない。愚かにも賢くもなるから、人間には価値があるんだよ。私だけは無罪です、私だけは例外ですって人間は、心から軽蔑する。
良くなり得る人間は、ようするに悪くもなり得るわけ。本人が悪くならないよう、ちょっとずつ努力するしかない。ちょっとでもマシに、昨日より一ミリでもいいから、好転させるように。向上心の火を消さないように。


正月、どうやって過ごしているかというと、実家がないのでどこにも帰らず、川崎に住んでいるらしい母方の親戚にも会わず、シーンと静かなマンションで酒を飲んだり仕事をしたり、映画を観たりしている。映画は『ブギーナイツ』と『バーフバリ 伝説誕生』。
まあ、お金のかかった映画はそう大きく破綻しないけれど、『バーフバリ』のように被写体の面白さだけで騒がれる映画には、つくづく興味がない。僕は密室で2人の人物が会話しているだけなのに、嵐が吹き荒れるような演出の『普通の人々』、コーヒーカップを世界の謎を丸呑みした魔物のように撮ってしまうヒッチコックの『汚名』が好きだ。

そんなわけで、北口のTSUTAYAと南口のGEOを、行ったり来たりしている。誰とも話さなくていいし、仕事のスケジュールは自分で自由に切ればいいし、銀行口座には一人暮らしするには十分なお金が貯めてあるし、手をつけてない小説も映画もプラモデルも山ほどある。こんな平穏な日々は、なかなか手に入らないよ。


毎日新聞が、「児童ポルノ」の定義をシレッと拡大解釈して、平然と報道していた件()。
だから、「ポルノ」=「性的に興奮するもの」と呼んでいるかぎり、興奮することは悪い・汚いという話にすり替えられ続ける。よく、表現規制に反対している人を「ズリネタを守りたいだけ」と揶揄する人がいるけど、僕はそれの何が悪いの?と思う。何を見て興奮しようが自慰しようが、その人の自由だよ。他人のズリネタに口出して禁止する社会の、どこが自由だよ。

もっと言うと、僕は「マンガやアニメやゲームだけは聖域」とは捉えてなくて、「そんなに規制したければ頑張って別の法律でもつくれば?」と思っている。表現物を規制したいがために、実在する児童を保護する目的の法律(児童ポルノ規正法)をダシに使うな!ってことです。それは誠実ではない、フェアじゃない。子供を人質にとって自分の嫌悪感を正当化しようなんて、薄汚い大人の考えそうなことだ。卑劣だよ。
「子供を守るため」なんて、綺麗事を言うなよ、バレてるよ。子供を守りうる人間は、子供を傷つけうる。傷つけうる手だけが、守りうるんだ。その厳しさを受け入れられないほど、毎日新聞も萌えイラスト嫌悪の人たちも脆弱だってこと。「権力になんとかしてもらおう」ってのは、自由からもっとも遠い発想だよ? 

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