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モデルグラフィックス 2019年 03 月号 発売中
■組まず語り症候群 第75夜
今回はエクスプラスさんのソフビ組み立てキット、ガラモンです。
次号特集は、『この世界の(さらにいくつもの)片隅に』です。
次号予告には、僕の名前がキュレーターとして紹介されています。編集部は、てっきり僕を外して進めたいのかと思っていましたが、企画発案者として尊重してくれるようです。ありがたいことです。
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今回はエクスプラスさんのソフビ組み立てキット、ガラモンです。
次号特集は、『この世界の(さらにいくつもの)片隅に』です。
次号予告には、僕の名前がキュレーターとして紹介されています。編集部は、てっきり僕を外して進めたいのかと思っていましたが、企画発案者として尊重してくれるようです。ありがたいことです。
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レンタルで、スティーブン・スピルバーグ監督の『ペンタゴン・ペーパーズ/最高機密文書』。いい邦題だ。なぜなら、「なんか知らないけど重要機密を暴露しようとする人々がいる」、それだけ覚えておけば十分であって、誰がどんな役なのか理解しなくても、彼らに感情移入なんかせずとも、ちゃんと面白いからだ。
たとえば、機密文書が民間に流出するキッカケとなるのは、ひとりのジャーナリストがかけた電話だ。彼は公衆電話で話しており、カメラはロングで彼の全身をとらえている。何の緊張感もない構図だ。
いきなり「次の番号にかけろ」と電話口で言われ、彼は手帳を胸ポケットから出そうとして、ペンなどを路上にぶちまけてしまう。
公衆電話の受話器は、ぶらんと宙に垂れさがり、ジャーナリストは番号を暗記して、忘れないうちに再び電話をかけようと焦る。隣の電話機にコインを入れようとして、今度はコインが地面にちらばる。
コインやダイヤルのアップがある以外、ぜんぶロングの弛緩しきった構図だ。その構図で無様に慌てるジャーナリストの仕草を撮ると、「さして優秀でもない冴えない男のもとに、すごいニュースが舞い込んだ」ように見えないだろうか?
また、地面に散乱するメモや手帳やコインは、彼の溢れ出る好奇心を代弁しているように見えるのだが、いかがだろう?
「私はジャーナリストではないから、彼の気持ちが分からない」? 感情移入するために映画を見るなら、多くのものを取りこぼしてしまう。
彼の気持ちが分からずとも、彼の気持ちを「どのように表現しているか」、そのテクニックやセンスに僕は唸ってしまう。
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アップを効果的に使ったシーンもある。
機密文書を新聞に掲載すべきかどうか、キャサリン・グラハム(ワシントン・ポストの発行人)は、複数の人間と電話で討論する。
何人もの関係者の、まったく正反対の言葉を聞いているうち、キャサリンは右を向く。直後、左を向く。この二つのまったく同じサイズのカットが連続していると、彼女が物理的に首を左右に振っているのではなく、「迷っている」ように見える。
大事なのは、正反対の意見を聞いているキャサリンが、首を右と左に振ったことではない。彼女の「迷っている」心理を表現するため、まったく同じサイズで「右を向く」「左を向く」カットをつないだことだ。
心理とか気持ちとかいう目に見えないものを、目に見える方法だけを使って、「いかにして」表現するか。その「いかにして」の部分に、僕はいつも感銘を受けるわけだ。
映画のラスト近く、ベン・ブラッドリー(ワシントン・ポストの編集主幹)がキャサリンのオフィスへ来て、テーブルの上に何紙もの新聞を次々に並べていく。
他紙も、彼らに追随するように機密文書を暴露したのだ。多数の味方を得た彼らの勝ちである。……いや、構図によって「彼らが勝った」と分かるよう、組み立ててある。
新聞の並べられたテーブルは、とても低い。だから、ベンとキャサリンは真下を覗き込むよりないのである。さらに、その2人の顔を撮ろうとするなら、カメラは低い位置から2人をアオリで撮るしかない。ほぼ真下から撮られた人物は、とてつもなく大きな力を得たかに見える。脚本でも芝居でもなく、「構図」によって状況を描写している。
映画は機能であり、メカニックなのだ。「ストーリー」を理解する必要はない、人物に感情移入する必要もない、映画がどのように機能しているか、それを把握しさえすればいい。
いつの間にか、映画における「感動」は「登場人物の内面を理解し、共感すること」に限定されてしまった。それも感動の一種だけど、映画の構造や語り口を誉める人は、滅多に見つからない。
(C)Twentieth Century Fox Film Corporation and Storyteller Distribution Co., LLC.

いきなり「次の番号にかけろ」と電話口で言われ、彼は手帳を胸ポケットから出そうとして、ペンなどを路上にぶちまけてしまう。
公衆電話の受話器は、ぶらんと宙に垂れさがり、ジャーナリストは番号を暗記して、忘れないうちに再び電話をかけようと焦る。隣の電話機にコインを入れようとして、今度はコインが地面にちらばる。
コインやダイヤルのアップがある以外、ぜんぶロングの弛緩しきった構図だ。その構図で無様に慌てるジャーナリストの仕草を撮ると、「さして優秀でもない冴えない男のもとに、すごいニュースが舞い込んだ」ように見えないだろうか?
また、地面に散乱するメモや手帳やコインは、彼の溢れ出る好奇心を代弁しているように見えるのだが、いかがだろう?
「私はジャーナリストではないから、彼の気持ちが分からない」? 感情移入するために映画を見るなら、多くのものを取りこぼしてしまう。
彼の気持ちが分からずとも、彼の気持ちを「どのように表現しているか」、そのテクニックやセンスに僕は唸ってしまう。
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アップを効果的に使ったシーンもある。
機密文書を新聞に掲載すべきかどうか、キャサリン・グラハム(ワシントン・ポストの発行人)は、複数の人間と電話で討論する。

大事なのは、正反対の意見を聞いているキャサリンが、首を右と左に振ったことではない。彼女の「迷っている」心理を表現するため、まったく同じサイズで「右を向く」「左を向く」カットをつないだことだ。
心理とか気持ちとかいう目に見えないものを、目に見える方法だけを使って、「いかにして」表現するか。その「いかにして」の部分に、僕はいつも感銘を受けるわけだ。
映画のラスト近く、ベン・ブラッドリー(ワシントン・ポストの編集主幹)がキャサリンのオフィスへ来て、テーブルの上に何紙もの新聞を次々に並べていく。
他紙も、彼らに追随するように機密文書を暴露したのだ。多数の味方を得た彼らの勝ちである。……いや、構図によって「彼らが勝った」と分かるよう、組み立ててある。

映画は機能であり、メカニックなのだ。「ストーリー」を理解する必要はない、人物に感情移入する必要もない、映画がどのように機能しているか、それを把握しさえすればいい。
いつの間にか、映画における「感動」は「登場人物の内面を理解し、共感すること」に限定されてしまった。それも感動の一種だけど、映画の構造や語り口を誉める人は、滅多に見つからない。
(C)Twentieth Century Fox Film Corporation and Storyteller Distribution Co., LLC.
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