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2018年12月30日 (日)

■1230■

脚本家・小中千昭の体験した90年代後半のアニメ制作現場、そして「serial experiments lain」で試みたこと【アニメ業界ウォッチング第51回】
T640_793618小中さんには気持ちよく取材を受け入れていただき、読者からの反響も多い幸せな仕事でした。
アニメ関係のインタビューというと、たいていは現行作品のプロモーションになってしまい、そういう刹那的な記事なら聞き手・書き手は大勢います。「誰に何を聞きたいのか」、テーマを明確に定めようとすると、それを決められるのは自分だけだし、インタビュー相手もおのずと絞り込まれてくるし、交渉する主体は自分になります。そういう仕事だけを、自分だけが出来る仕事をしていきたいのです。


小中さんにお話をうかがったのは、西新宿に借りた小さな会議室で、その場所のムードが良かった。閉店した中華料理屋のある心寂しい通りで、外国人の学生たちがいろいろな言語で話しながら通りすぎていく。寒くて薄暗いけど、雑然としていて活気があって……まるで、90年代終わりごろの、あの時代の空気そのもの。

どう言ったらいいのか……ちょうど、年の瀬の今時分のように、空気は冷え冷えとしていたけど、アニメやゲームを語る者たちの吐く息は熱かった。不況だったし、ぎりぎり20代だった僕は収入が低くて、生活に苦労していた。家賃の滞りがちな部屋には、何もなかった。
だけど、『エヴァンゲリオン』を録画したVHSテープを友達のアパートに持っていって強引に見せるぐらい、不思議な情熱に支えられていた。80年代のアニメ文化は大人たちから与えられたものだったけど、90年代後半に出会った作品はどれも自分で選びとったものだと、かたくなに信じていた。
VHSテープを持って友達のアパートに行ったのは、夕暮れ時だった。だから、この時代は黄昏の印象が強い。でも、寂しくはなかった。プレイステーションのゲームソフトを、それこそ擦り切れるまでやりこんだ。友達と酒を飲んで、朝といわず夜といわずアニメについて議論した。


2001~2002年頃、ゲーム会社に入社すると、誰もがそれぞれの視聴環境で見られるアニメを見て、どんな内容でどこが面白いのか熱心に布教していた。いや、「誰もが」は大げさで、作品を好きな人間は語る言葉も熱かったので、よく覚えているのだろう。
その頃になるとDVDを所有するのが当たり前になっていて、家ではまだダイアルアップ接続だったと思う。ネットカフェに泊まって、朝イチで会社に来ている若者がとにかく好きなアニメにはぞっこん惚れこむタイプで……あの時代のことは、本当に語りきれない。これから、ゆっくり語っていこう。
そう、渋谷の裏通りを輸入オモチャを求めて行ったり来たりして、道端で買ったばかりのフィギュアを交換したりしたのも、あの頃だった。「ストリート」って言葉の賞味期限は、まだ切れていなかったのだ。

忘れないうちに書き記しておくが、僕は一年の中で年の瀬がいちばん好きだ。静かで寂しいけど、局所的に賑やか……という状況が好き。大晦日が永遠に繰り返されないかなあ、と夢想してしまう。


レンタルで『白い家の少女』と『普通の人々』。ヒッチコック風のサスペンスである前者は、あまりにガタガタのカメラワーク、しょっちゅうPANとズームを繰り返すだらしのなさに唖然とさせられたが、『普通の人々』、これは開幕1~2分で素晴らしさが分かる。
Mv5bmtmznjm3ndm2nf5bml5banbnxkftztc時系列が前後するし、あらすじを説明するのは困難だが、画面に引き寄せられる。それは構図に狙いがあり、カメラの動きが機能的で、編集で意味を膨らませているから。「ストーリー」こそが映画の本質だと思っている人たちはネタバレという言葉に執着するが、僕は映画は構図でありカメラワークであり編集であり……、すなわち語り口だと確信している。
無論、言葉と言葉がすれ違い、衝突し、なんとかその場をとりつくろおうとする人々の演技も迫真だ。会話の中に、即興の歌をまぜこむのもいい。よく計算された舞台劇を見ているかのよう。


いくつか、好きなシーンを挙げておこう。
主人公の少年が、ガールフレンドと喫茶店で待ち合わせる。だが、ガールフレンドは多忙なので、会話もそこそこに切り上げて、席を立つ。彼女は店の出口まで歩いたところで振り返り、少年に「ねえ!」と呼びかける。その瞬間、店内に座っていた見知らぬ人々が「えっ?」と一斉に彼女を見る。彼女はたじろぎながらも、「元気出して!」と少年に声をかける。

もうひとつは、主人公の母親が父親とデパートで待ち合わせるシーン。
彼女はエスカレーターに乗っているが、反対側のエスカレーターから友人に声をかけられて、大声で会話する。その場に乗り合わせた人々が一瞬、「何だ?」という顔で2人を見る。母親はエスカレーターに運ばれたまま、会話をつづける。
これらのシーンの持つ、「人込み」という状況が強いる必然と、それに抗うような言葉の意志。それをワンカットで過不足なく収める構図のセンス、容赦のない編集の知性。

それこそ、浴びるようにして2時間を楽しんだ。テーマがどうとかじゃない、工夫をこらした演出が次から次へと興味をつなぎ、思いがけない飛躍と省略を見せてくれるからだ。ただの2時間じゃない、何年分もの心の動きが凝縮された特別な2時間だった。
5355008ordinarypeople1537463255(ことに不思議なのは、少年のガールフレンドの運命だ。彼女は少年と気まずいデートをした後、自殺したと告げられる。ところが映画のラスト近く、少年はガールフレンドに謝りに行って、彼女はとびきりの笑顔でそれを受け入れる……こうしたプロットの不可解さが、映画に無限の奥行きを与えている。)

(C)1980 - Paramount Pictures. All rights reserved.

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2018年12月26日 (水)

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“アイレベル”の高低で人間関係がわかる、「RD 潜脳調査室」の機能的構図【懐かしアニメ回顧録第49回】
T640_792978アキバ総研の連載も、早くも50回目直前です。バックナンバーを読むと、「ちょっと考えすぎではないか」「深読みしすぎではないか」と感じるところもあります。作品を二回ほど見返すと、だいたい三つぐらいポイントが見えてくるので、どれか一つに絞らないと、原稿が散漫になります。
だけど、この連載が毎月あるおかげで、わざわざ読んでくれた人に見返りのある内容にしなくては……と、姿勢を正せるわけです。日々の倦怠にまかせていたら、もうアニメなど見なくなっていただろうし、構図やカットワークに注意が向かわなくなっていたかも知れません。
あちこちに、「仕事」「人に見せるもの」という枷を嵌めていかないと、僕の人生も生活も、バラバラにほどけてしまうような気がします。「人に会う機会」をなくしたら、身なりが汚くだらしくなくなっていくようなもので、審美眼にも垢が溜まるものだと思います。


レンタルで、クリント・イーストウッド監督、主演の『ガントレット』。1977年というと、『スター・ウォーズ』公開の年だ。
1977_the_gauntlet_3081069k全編、からからに乾いた荒野が舞台。時おり、嵐のような銃撃シーンが挿入され、ヘリが墜落したりもするが、折れる鉄塔や橋が作り物だとバレている。つくりの荒さも含めて、水分が抜け切った映画。
冒頭、クリント・イーストウッドの演じる刑事が明け方のバーから出てくる。彼が車を停めてドアを開くと、足元にウィスキーの瓶が落ちて割れる。刑事はアルコール依存気味で、上司から「もし殺されても誰も気にとめない」という理由でワナに陥れられてしまう。
彼自身は、自分が優秀だから特別な仕事を与えられたと思い込んでいるのが、よけいに痛々しい。

ソンドラ・ロックの演じる娼婦が、刑事の目を覚まさせていく。
砂漠で野宿することになり、娼婦は刑事がワナにはめられ、無用者であるがゆえに殺されかけていることを指摘する。娼婦の言葉を聞いて、刑事はジッと考えこむ。考えこんだまま、動かない。カメラはフィックスで、刑事の顔をアップでとらえている。
しかし、これは夜のシーンであり、娼婦は寝てしまった。どうやってシーン転換させるのだろう? なんと、カメラが刑事の顔をアップでとらえたまま、オーバーラップして朝のシーンになるのだ。刑事は微動だにせず、数時間も考えこんでいたわけだ。
それほど、娼婦の指摘は刑事にとってショッキングだったのだと分かる。
このシーン、どうやって撮影したのだろう? カメラを動かさず、俳優の座る位置を決めて朝を待ったのだろうか? ともあれ、俳優を止めたまま時間経過だけをオーバーラップで表現する大胆な演出で、刑事の沈思黙考ぶりをシャープに描ききっている。好きな演出だ。


もうちょっと分かりやすいシーンも挙げておこう。
Mv5bztzizje1ntqtote3nc00nwuylwiymju刑事は娼婦を隣の州まで護送して、裁判に出席させねばならない。だが、娼婦に証言されては警察署の上司が女を買って暴行していた事実が発覚してしまう。証拠隠滅のため、行く先々で警官隊が待ち構えている。
つまり、この映画は権力の腐敗ぶりをモチーフに、主人公の正義を証明しなくてはならない。どこかで、警察官の汚さを描き、反権力のポジションを固めなくては終われないはずだ。

それが、八方ふさがりになった刑事が、パトカーを奪うシーンだ。パトカーに乗っていた警官は刑事に銃をつきつけられたまま、州境へと車を走らせる。娼婦は後部座席に座っている。警官は彼女に、「金をとって男と寝る気分はどうだ?」など、下世話な質問を浴びせる。
娼婦は、「あなたたち警官と同じようなものよ」と言って、警察官が裏でどれほど不正をしているか舌鋒鋭く暴きたてていく。最初は「詳しいな」と苦笑していた警官だが、「まだ夢精しているの?」とおちょくられて、ブチ切れてしまう。
2人の会話を聞いていた刑事は、無言で娼婦のほうを睨む。その口元にはやがて、苦みばしった笑みが浮かぶ。それは共感のような、賞賛のような、不思議な微笑である。

いつも書いていることだが、映画の中で自分から動けず、ジッと事態を静観している人物にこそ、観客は感情移入してしまう。
このシーンで、クリント・イーストウッドは銃を警官につきつけているだけで、自らは何もしていない。娼婦と警官の会話を聞いているだけの“観客”なのである。彼は観客の「スッキリした」「スカッとした」「よくぞ言ってくれた」という気持ちを代弁するために、苦い笑いを浮かべるわけだ。
こういうドライな、辛らつなシーン、最近の娯楽映画・大衆映画では滅多にお目にかかれない。1970年代のアメリカ映画に特有の苦味……という気がする。

(C) Warner Bros. Entertainment Inc.

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2018年12月23日 (日)

■1223■

モデルグラフィックス 2019年 02 月号 25日発売予定
Du6ol_uyaenvvu■「組まず語り症候群」第74夜
今回は、松村しのぶさん原型のレジン製ガメラ飛行形態です。
来年は平成ガメラ完結20周年。1995年は『ガメラ』シリーズと『エヴァ』がスタートして、マスターグレードでガンダムが模型化された年です。次世代ゲーム機が各社から発売され、『ウルトラマン』『仮面ライダー』もテレビに復帰して、オタクでいるかぎり決して飽きることのない黄金の日々が10年近くも続いたように思います。

■『ひそまそ』実写化計画
おそらく今回が最終回なので、当初から予定していた品田冬樹さんをお招きしました。タイトルは「品田冬樹とB-CLUB文化」。
模型や立体物が、どれほどアイドルや映像文化と親和性が高いか、あらためて振り返っていただきました。


昨日22日は、『この世界の片隅に』のロケ地を見よう会のため、土浦へ。
48358646_2016202668473637_123921083朝から土浦セントラルシネマズで『この世界の片隅に』を観る都合もあって、前回(9月9日)と同じく、駅前の東横インに宿をとった。前回は駅前のコンビニでおにぎりを買って夕食をすませてしまったが、今回は駅の西側で飲み屋を探してみた。
やはり店舗は乏しいのだが、チェーン系の居酒屋で牡蠣フライと刺身、バルで赤ワインとチーズを味わった。旅先では、ほんの2~3杯で十分に酔えてしまう。

こうして、東京以外に用事のあるときは小奇麗なホテルを泊まり歩いて、喫茶店で時間をつぶしていると、意外と能率よく仕事を進めることも出来るのだが、やはり分不相応な贅沢なのだろう。
土浦から上野までグリーン車に乗車すると、たった二両なのに車内販売があったり、後ろのほうでハイボールを飲みながら話す中年カップルの会話が滋味深かったり、とても楽しかったのだが。ひとり旅が好きだ。


『この世界の片隅に』、映画館で観るのはそれこそ3ヶ月ぶり。
48391252_2016194778474426_635974561映画館は自宅でDVDやウェブ配信を見るのと違い、誰かの意志で、誰かの決めた時間いっぱい、決められた場所に座っていなくてはならない。おのずと、身構えが違ってきて、見せる側の意志を汲み取ろうと集中することになる。
自分でボタンを押して、自分で時間をコントロールできる自宅のほうが、実は受動的に見ているのではないか……。

自宅で観た映画は、クリント・イーストウッド監督の『15時17分、パリ行き』など。まったく見るべきところのなかった映画は、タイトルごと忘れてしまう。


そういえば、土浦で片渕監督はチェックするだけで、いま大変なのは作画の人たち……といった会話を耳にした。
それは、だいぶ事実と異なる。僕らが上手く伝えなくてはならないことだが、監督は自分で特殊効果を描いたり、撮出し素材を徹底的に揃えることで、あの独特の手触り感を生み出している。数学的な計算能力も必要だし、監督だけの持つ技能が全カットに駆使されているのだが、撮出し素材自体、なかなかお目にかかる機会が少ないとは思う。

とにかく、監督は自分でドンドン直してしまうし、ドンドン分け入って歩いていくし、雨が降っていれば傘をさせばいいし夜なら明かりを灯せばいい、というタイプの人だ。「寒いから明日にしよう」ということがなく、細かなところで沢山の我慢を重ねているに違いない。
僕が真に恐れるのは、あの行動力だ。僕のように、今日はいっぱい働いたから明日は酒だ、いや一日寝ていよう――という怠け癖がない。いつの間にか、自分の手で雑事をすませている。人生を無駄にしない。
それが出来ないと、怠け癖のために向上心を失い、性格まで捻じ曲がって堕落してしまうことがある。僕は、それが怖い。「もうオッサンだから」と自嘲するたび、どんどん高度が落ちていく。

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2018年12月18日 (火)

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筆塗りを楽しむために生まれた味わい深いプラキット「塗るプラ」を、株式会社ボークスが開発した本当の理由【ホビー業界インサイド第42回】
T640_791437ちょっと気になっていたプラモデルだったので取材をお願いしたところ、未塗装のランナー状態を見て、腰を抜かしました。「金型が壊れるんではないか?」というぐらい、モールドがシャープなのです。専業メーカーでも、こんな彫刻はなかなか出来ないと思います。

もちろん、ボークスさんとしてはキットを通じて水性塗料「ファレホ」をアピールしたいわけですが、「上手な人が上手に塗りました」の一点張りでは、やや苦しいと言わざるを得ません。
僕のような第三者が興味本位で取材するメリットは、メーカーさんとは別の視点から製品の魅力を見い出せることだと思います。そういう意味では、「モールドの有機的な表現力が凄い!」という評価になります。たった900円で、これは買いですよ。


【模型言論プラモデガタリ】(
来年1月10日に、阿佐ヶ谷ロフトAでトークショーを開催します。
Ducxlueu8aeud74一緒に登壇するのは、80年代初期に美少女フィギュアをビジネスとして開拓し、現在はフィギュア原型会社MICの経営に携わる秋山徹郎さん。第一回は、キャラクター・プラモを検証することになりますので、アニメの歴史や玩具の文化に詳しい五十嵐浩司さんがゲストです。
五十嵐さんのおかげで、とんでもなく貴重な資料が集まってきました。

版権元さんとも話して、今回は手持ちのキットや資料を使ったトークショーになりますが、ダンバインならダンバインという番組の立場がどうだったのか、オーラバトラーというキャラクターをどう売りたかったのか、アニメ・ロボットのプラモデルとして何を遊ばせたかったのか、検証します。
単に「あのシリーズは出来が悪かった」「ダンバインは好きなアニメだった」と回顧するわけではありません。物事のコンセプトを咀嚼し、デザイン的な視点から検証するので、そういう仕事に興味のある人なら、誰でも楽しめると思います。もちろん、単にアニメ好き、オモチャ好きでもいいんです。
「気楽に参加できて、勉強になる」イベントになります。


僕がモデルグラフィックス誌で連載を始めた数年前、Twitterで「作れもしないくせに……」と悪口を言われたものです。
また、他ジャンルで有名なクリエイターの方が「僕はプラモデルに色は塗れませんし、下手クソなので語る資格はありません……」と口ごもってしまうシーンに、何度か出会いました。「模型雑誌に凄い作品が載ってますよね、あんなのは無理」と言われたこともあります。

だけど、僕の友人でプラモデルは買わないし作らないのに、模型雑誌だけ眺めて楽しんだり、「今度、○○がプラモデルになるんだな」と、情報だけ集めている人もいます。
そういう人たちは、プラモデル文化と関係ないんでしょうか? 「入門」という言葉がありますが、本当に誰もが門をくぐらねば語ってはいけないのでしょうか?

「四の五の言わずに、とにかく作れ! 塗れ!」「努力して、上達してから語れ!」といった根性論の影で口を閉ざしてうつむいている人たちが、安心して座れる場を提供したいんです。
プラモデルなんて、生まれてこの方、買ったことがないって人でも歓迎します。アニメとかロボットとかよく分からん……という人で大丈夫です。「そもそも、ロボットアニメとは何か?」「何のためにロボットアニメが存在するのか?」という次元から、丁寧に語り下ろしますので。
できるかぎり毎月開催するので、「自由な言論とは何か?」ということも含めて、風とおしのいい、何の抑圧もない解放区を目指したいのです。

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2018年12月13日 (木)

■1213■

“加藤智大氏の「彼女さえいれば」との発言を紹介した投稿に対し「女は承認のための道具じゃない」的な厳しい指摘を複数見た。それはそう。女には自由意志があるから思い通りにはできない。だからこそ選ばれたいし、選ばれたら救われると感じるのだろう。そういう切ない願いまで全否定しなくてもと思う。”

またTwitterの話題で恐縮なんだけど、このツイートにつけられたコメントが、まあ厳しい。「彼女が出来たとしても、彼女を殺してしまうんではないか」とか、情け容赦ない発言をしている女性がいるので、探してみて……。

僕の友人で、イケメンで非常にモテる男がいるんだけど、若いころ、彼とオナニーの話題で盛り上がった。そのワイ談の最後、彼は、こう結んだ。「まあいいや、俺には彼女が出来たから、オナニーなんかする必要ないからな」。
そんなことTwitterに書いたら、どうせ「女はオナニーの代わりか!」と激怒されるんだろうけど、「彼女」をそういうポジションに捉えている人もいるし、彼に「どうして彼女が必要なの?」と聞いたら「自慢できるから」と明快に答えていた。
実際、「今つきあってる子は、こんな感じなんだ」と、よく写真を見せてくれたし、彼女をつれて飲みに行ったりしたものだった。彼が実家からの資金援助をうけながらアパートに暮らし始めたのも、「彼女とおおっぴらに会えるから」が理由だった。

会った早々、「私の彼氏が」「僕の彼女がですね」と切り出す人もいて、悪いけど、僕はそうした人たちに微弱なコンプレックスを感じとってしまう。ようするに彼らは「私は、僕は一人前ですよ」「異性と懇意にできるぐらい社会性がありますよ」と、手っ取り早く表明したい……早い話が、自信がないのではないだろうか。
日ごろ、女性といえばクリーニング屋の店員さんとしか会話しない独身中年に言われたくないだろうけどね。


僕らしく対人恐怖にからめて語ると、僕にも「彼女」が必要な時期があった。
16歳のときに、隣席の女子を意識して汗が噴き出して以来、電車で隣に女性が座ると、ほぼ例外なく汗だくになり、たとえ遅刻しそうでも次の駅で飛び降りる羽目になった。映画館でも、女性が隣になると、入場料を払ったのに飛び出してしまうほどだった。
ところが、たまに彼女が出来て、セックスすると数週間は対人恐怖がおさまる。20代のはじめ頃、対人恐怖がセックスで克服できると気がつき、常に彼女をつくっていれば、もっと言うと、いつもセックスしてさえいれば自信がついて、対人恐怖から逃れられるのではないか――と、安堵というよりは焦りを覚えるようになった。

ところが、30代なかばで結婚してから対人恐怖は収まるどころか、嫁さんの「キモい」「ブサイク」などの毒舌が日々ひどくなり、さらには頼みの綱の精神安定剤を「お金がもったいない、我慢しろ」と止められそうになり、離婚を決意するにいたったのだから、人生は険しい。
(離婚間際は、奥さんの前で精神安定剤を飲んでパニックを抑えていた。)


離婚後はキャバクラ、ガールズバーに通う数年間がつづいた。
商売と割り切った冷たい子もいたけど、母が殺されたときなど、黙って手を握ってくれたり、何も言わずに大粒の涙をポロポロこぼして泣いてくれた子もいた。わずかな間といえども同情してくれたので、水商売の人たちには感謝している。

私生活での恋愛は鳴かず飛ばずかと思いきや、すでに結婚や離婚を経験している人たちから恋愛感情を持っていただいた。40代になると、顔なんか気にせず、どれだけ相手が喜んでくれるか、どれだけ楽に過ごせるかを女性たちは第一に考えてくれた。あれが「愛する」という事だったんだと、最近になって思う。
大学時代、たまたまセックスしてしまった同級生に言われた言葉がある。「あなたは、自分の性格的欠点を、ぜんぶ顔のせいにしている」。
そう、顔は関係ない。すべては心だ。しかし、そういう意味でも僕は失格で、せっかく親切にしてくれた女性たちに、つっけんどんな態度をとり、つらい時だけセックスを求めた。
彼女たちは失望して、立ち去ってしまったのだと思う。「愛する」という自己犠牲をともなった対人スキルは、ついに僕の身に備わらなかった。


今は海外旅行に行くのが楽しみだし、海外では「珍しいアジアの動物」とでも思われているのか女性に話しかけられるし、仕事は面白いし、特に私生活に親しい女性が必要とは思わない。航空券を買いたいから、一晩で数万も消費するキャバクラにも、すっかり寄りつかなくなった。
忘れた頃に対人恐怖がぶり返してくるけど、もはや「彼女」がいないせいではない。海外に行けば、ウソのように消え去るのだから、原因は別のところにある。

『ヴィンランド・サガ』のアシェラッドによれば、「人はみんな何かの奴隷」だそうで、恋愛依存の人なんて珍しくない。最近、この人()も、なりふり構ってなくて心配になってしまう。服部元気さんの私設ファンクラブとかって、シュナムルさんにとっての「ラブレター」サービスだよね。シュナムルさんは子どもも奥さんもいるらしいけど、恋愛依存、女性依存症なんだろうね。
話を冒頭のツイートに戻すと、「女は承認のための道具じゃない」と言わざるを得ない女性も、きっと何かに依存している。他人をやたら罰したがる人って、やっぱり人間として未熟なんだと思う。自分に自信がない人ほど、言葉づかいが乱暴だもの。

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2018年12月10日 (月)

■1210■

以前、ライトノベルの表紙に巨乳キャラが描かれているからと言って、娘をダシにして「暴力」だと訴えたシュナムルという人。
原爆を正当化できるとした発言も酷かったが、今度は、ドラマのタイトルにかこつけて「ブスという言葉は滅ぼしていい」などと幼稚なことを言っとるなあ……と苦笑していたら、「ブス」と「キモい」を対置させて皮肉っている人に噛みついた挙句、どういう文脈からか「小児に対する性的欲望」という言葉が脈絡なく飛び出してきて()、びっくり仰天した。

何だろうな、シュナムルって人、過去に何かあったんだろうか?
で、昨日原稿が終わって、今日一日ヒマだったので、「シュナムル 小児」「シュナムル 児童」で検索してみたよ。
そうしたら、最初のライトノベル騒ぎの時点で、「多分だけど、シュナムルおじさんって小児性愛の傾向があると思う…直感なので冗談にしとくけど」と看破している人がいて、これはお見事、あっぱれと感心した。
小児性愛でないにしても、二次元少女とか萌えキャラとか大好きなんだと思う。HNの由来を『魔方陣グルグル』の幼女キャラだと明かして、たまに茶化されてるし、まあ間違いない。だけど、人の性的志向を笑っちゃいけない。シュナムルさんが自己の性的志向を隠蔽するために他人を叩くのは見苦しいし、みっともないけどね。


社会的弱者としての女性の側に立った発言が過激化して反発を買い、過去の性的発言を暴かれて笑われた人といえば、勝部元気さんがいたじゃないですか()。
この人だって、女子高生の制服姿をメディアで見るたびに「性的アイコン」「気持ち悪いおっさんの性癖」と真面目ぶって批判するより、「女の子が大好きすぎる」「制服という“記号”が目に入っただけで(略)性的興奮を覚えるほど大好き」と告白している方が生き生きしてるし、人間くさいじゃないですか。「キモい」という部分も含めて、人間の魅力だと思う。
己のスケベさを赤裸々に語っている方が「宇宙に接している」というか、勝部さんにしか開けない宇宙を開拓してるじゃん。それを隠そうと攻撃的になるのは、やっぱり人間として未熟なんだよ。もったいない話だ。

バルテュス展の広告を見て「児童ポルノ絵画だとみんなはやく気づいたほうがいい」と警告を発した森岡正博さん()も、まったく同様であって。
Images僕が『我々は如何にして美少女のパンツをプラモの金型に彫りこんできたか』を出したとき、読者の方が「森岡さんの『感じない男』に通じるものがある」とツイートしていたので、読んでみた。
すると、なぜ自分が制服姿の少女に性的興奮をおぼえるのか赤裸々に告白していて、身をえぐられるような異様な感動をおぼえた。自分のフェティシズムに真っ向から対峙して、どういうメカニズムで興奮するのか、興奮した先に何があるのか、血眼で見極めようとしている。すさまじい勇気だよ。

『感じない男』を読んだあとだと、森岡さんのバルテュス批判は、もはやダシガラでしかないと分かる。「自分だけの宇宙を開拓している森岡さん」ではなく、くだらない世間に迎合し、自分の性癖から目をそむけ、手っ取り早く自らの恥部を糊塗できる便利なワードを探しているだけ。カッコ悪いよ。


勝部元気さん、森岡正博さんという好例を目にしてきたので、シュナムルさんももう少しで完成するというか、いい具合に熟してきていると思うよ。もちろん、見るもおぞましい変態として完成するわけだけど、それでいいじゃん。変態であることは、罪ではないもの。
性的志向を暴かれた他人なんて、おぞましいに決まっている。村崎百郎さんが「聖なるものは、たいてい性なるものに通じている」と書いていたけど、人間は醜い、私は汚いと認めた地点からしか、真に美しい地平線は拝めない。本当の朝陽はのぼらない。

最後に、僕が最高にキモいと感じるシュナムルさんの魅力をあげておくと、「ラブレター」とかいうサービスに登録して、フォロワーからのラブレターに真面目に答えているところ。「シュナムル ラブレター」で検索すると、みんな気持ち悪く思ってるんだな、そうだよね。
ちょっと検索したら、「シュナムルさんみたいに極度にペドフィリアを攻撃してる人って逆に怪しい感じするよな」とか書かれていて笑ってしまったけど、シュナムルさんは、もっと面白いはずなんだよ。その糸口が「ラブレター」だろうし、下手とも上手いともツッコまれないように逃げ腰で描いている薄味のイラストだと思うんだよな……。

ここで言っている「面白い」って、「気持ち悪い」「酷い」と同質のものなんだけど、人間ってもっと残虐で愚劣で、その泥の中にしか美しさも正義も埋まってないんじゃないか。「そんな浅いところをいくらすくっても、何も出てこないだろ」って気がしてしまう。

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2018年12月 9日 (日)

■1209■

レンタルで『ゴッドファーザー』。こういう名画は若いころに観て、浅い理解で分かった気になってしまう。この歳になってから観たほうが、よっぽど価値が分かる。20年ぶりぐらいに観て、ファースト・カットに魂をつかまれた。
Gf1娘を陵辱された無念を切々と語るサルヴァトーレ・コルシットのバストショットから、カメラがゆっくりトラックバックしていく。画面左側に、マーロン・ブランドの顔と手がインするが、ピントはサルヴァトーレ・コルシットに合ったままだ。ひとりの男にフォーカスしながら、フレーム外の情報を少しずつ織り交ぜていく。マーロン・ブランドが画面外の人物と会話しているのも、情報を拡散して、現場感を高める。

父親が撃たれたことを報じる新聞を、アル・パチーノが呆然と見つめている。通行人がたまたま、彼の背中に当たって、新聞がクシャッとなる。そのクシャクシャになった新聞はもちろん、千々に乱れる息子の心情を表現している。無声映画的と言ってもいいほど古典的な演出だが、手堅い。古びない。
いま、『ワイルドスピード』シリーズのアクション・シーンを抜粋した動画を見ていたけど、これだって構図やカットワークの段取りは教本どおりにやっている。アクションが過激になることと映画の進歩とは、いささかの関連もないのだ。


俺は、また旅に出ようとしている。どういう約束事なのか忘れてしまったが、列車のボックス席には、旅の道連れになる見知らぬ女性が笑顔で座っている。俺は「よろしく」と言おうかどうしようか迷い、とりあえずビールを買うために、席を立った。
この列車には食堂車ばかりか、ビリヤードが遊べる車両もあり、そこのカウンターでビールを売っているかも知れない。だが、ビールを買って席に戻ったら、あの女性に軽蔑されないか気になって、買いそびれてしまう。
席は確か、51番だと思ったので、とりあえず席に戻ろうとする。だが、すっかり迷子になってしまった。電光掲示板が見えるので、まだ停車中の列車の外に出てしまったようだ。そもそも、俺が乗っていたのは列車だったのだろうか? 飛行機ではなかったのか?
だとしたら、早く飛行機の中に戻らなくてはならない。荷物は席に置いてきたので、飛行機が飛び立ってしまったら、もう終わりだ。
人々が歩く方向へ向かって小走りになるが、靴のサイズが合わないため早く走れず、俺は焦りはじめる。

今朝見た夢はもう1本、仲間同士で殺しあうようなドラマチックな夢も見た。
だけど、どちらも旅が関連している。
今でも、ジンバブエで出会った男たちの顔を思い出す。彼らは絶対にボッたくることをせず、多めにお金を払うと「……えっ、こんなに?」と驚く。それが僕の好意だと分かると、しみじみと「ありがたい、もらっておきます」という目をする。あんな綺麗な目があるだろうか。
心の美しさだけは、お金では買えない。努力して手に入るものでもない。


そういえば、『アフリカの輪郭 下: 黒人アフリカ深部の日本人記者によるデッサン』という本を読んだ。90年代末、冷戦構造が終了したアフリカ各国を襲った悪夢のような事態を、特派員記者の目から直接取材している。
ジンバブエでどうして経済が停滞し、人々が無気力で状況に従順なのか、ぼんやりと分かったような気がする。黒人主権国家として独立したことは、国民の心情的には良かった。だけど、国を回していくのは心情だけではダメだ。知識や技術や情報が要る。

“「政府のように強大な権力」というのも実は幻想…というところもあって、本来は私たちが主権者で、政府に権限を預けて働かせているというのが本来の関係なんだけど。この認識がもっと行き渡れば世の中変わっていくんじゃ…と思っています。”

市役所やNHKが「こちらに権利があって、従うのはお前らだ」と言わんばかりの傲慢な態度をとってくる。三鷹市役所の納税課には、滞納した場合に車のタイヤにかけるロックが、脅迫するかのように置いてある。税金は、市民を脅して納めさせるものなのだろうか?
「あなたのライターという仕事は、納税できないようなら辞めていただく」と、三鷹市役所の偉い人は言った。「職業選択の義務は一応はあるが……あなたの歳なら、介護師か警備員か清掃員、この三つです。介護は特殊な仕事だし、警備員は体力を使うから、清掃はどうですか?」 これは3~4年前、僕が目の前で言われたこと。僕は、納税するための家畜なのか?

(C)1972 Paramount Pictures

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2018年12月 7日 (金)

■1207■

クリーニングに出した服に破れ目があって、「このまま洗濯すると傷口が大きくなる危険性がある」と、電話があった。
クリーニング屋に出向いてどうするか話しているうち、思いがけずファッションの話題となり、僕より少し年上のお姉さんは80年代の服の特徴などを、あれこれと楽しそうに話してくださった。僕も楽しかったんだけど、その間にも妙な汗が流れてきて、「早く会話を切り上げて、この場から離れたほうがいいのでは……」と、焦りはじめた。
この理不尽な生理現象を、僕は心療内科医が診断したとおりに「対人恐怖症」と便宜的に呼んでいる。

昨日、対人恐怖症にからめて旅行ガイドと称するものを書いて()、Twitter経由で、多くの方に読んでいただけた。
そして、「異性を前にして緊張するなんて、普通のこと」「そんなものは気のもちよう」「気にしすぎ、病気なんかじゃない」……との感想をいただいた。
「ああ、またか」と溜息が出る。体育の授業が辛くて、それが今の人格形成に影響しているという話題になったときも、「いつまでも過去のことをウジウジと気にするな」「根性で押し切れ!」と他人に強要する傲慢かつ鈍感な“強者”が散見された。

他人に対する共感力が根本的に欠けている病的な人は、まあ仕方がない。
歳をとってよかったのは、自分が辛い思いをした分、他人が悲しんだり喜んだりするのを、少しだけ自分のことのように感じられるようになったこと。「ご飯が美味しかった」でも「今日は誕生日です」でも「息子が野球の試合でがんばった」でも、何でもいい。良かったね、と思えるようになった。でも、どうやら逆の人もいるらしい。
コンプレックスを克服する過程で、「俺は他人よりも強くなったぞ」とエゴが肥大してしまったんだろう。


Twitterで繰り返されている争いのほとんどは、「俺の方が、私の方が社会的地位が高くて味方が多い」と、強さを競い合っているだけに見える。ツイフェミと呼ばれている人たち、みんなそう。他人を蔑視しすぎ。
性表現や性暴力をめぐる討論で、被害者サイドであること、女性であることを誇示して、相手を力づくで論破しようとするなら、それは男社会を維持しているマッチズモと何も変わらない。
強さを競い合う議論に、僕は参加したいと思わない。

児童ポルノ規制法の呼び名を変えよう、定義を被害児童に寄り添った内容にしようと活動しているころ、それこそ山のように罵声を浴びせられた。
中には、「廣田こそが性犯罪者」と、身に覚えのないことを捏造する女性さえいた。だけど、僕は彼女を叩き潰したいとは思わなかった。その人は、幼いころに親から性虐待されていたそうで、まずはそれを信じたかった。僕を罵ることで、その恨みが少しでも晴れるなら、それぐらいは我慢の範囲だ。仕事に影響が出るほどではないし……。

もうひとつ、その女性が性表現や性暴力とは無関係な、アカデミー賞の中継でドレスアップされた女優たちを見て、「綺麗ねえ」「素敵ねえ」とツイートしていて、なんだか憎めなくなってしまった。
逆に「こんな、いかにも男受けしそうなドレスなんて着やがって」と妬んでいたとしても……屈折しているとしても、屈折してるからこそ、その人には生きる意味があるんだ。本人は、僕のこういうところを嫌悪してるのかも知れないけど、憎めない。


話を対人恐怖症に戻そう。
素人バンドが参加するテレビ番組『いかすバンド天国』で、対人恐怖だとプロフィールに書いている出演者がいた。その彼は、目を泳がせたままドモったり、「対人恐怖なんて、ようするに他人を怖がってれば、それっぽく見えるだろ?」と言わんばかりの演技をしていた。
だから、「対人恐怖症」なんて、社会で気楽に使われるスラングにすぎない。呼び名なんて、どうでもいい。
ある時、医者の処方する精神安定剤を切らして、部屋でひとりでいるだけなのに体が硬直し、異様な考え・感覚に支配されたことがあった。それはもう「対人」恐怖ではない。
喫茶店でコーヒーを飲む時、首がぶるぶる震えて、ガクンと変な動きになってしまうこともある。それらの症状?が病気なのか何なのかは、僕には分からない。

ただ、僕には痛くも痒くもないことが、他人にとっては地獄かも知れない。
そう思えるだけの想像力は、身についた。もし体育がリアルタイムで苦しいとか、かつて苦しかったとか、対人緊張や発汗恐怖に苦しんでいる人がいたら、ぜひ会いたいと思っている。自分の苦しみには意味があったのだ、と思いたい。苦しまなくてもいいんだ、と相手に呼びかけたい。

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2018年12月 6日 (木)

■1206■

今日は、独身バツイチオタク男性の立場から、旅行ガイド的な記事を書こうかと思います。
まず、僕は高校時代に、対人恐怖症を発症しました。隣の席の女子が教科書を忘れてきたというので、机をくっつけて、2人で並んで教科書を見ていたら、ものすごい量の汗が出てきたのです。
以降、電車で隣に女性が座ったり、僕から見てハンサムだったり立派な体格をした男性が座ると、猛烈に発汗して、途中で駅を降りねばならないほどになりました。50歳をすぎた今でも、女性の隣には座りません。
インタビューの仕事でも、たまに汗が出ることがあります。では、どう対処しているかというと、医者に精神安定剤を処方してもらってます。ポケットから取り出して、口に放り込むと、数分で落ち着きます。


これが病気なのか、そもそも「治せるのか」「治す必要があるのか」は、さておきます。ともあれ、隣に女性が座っただけで緊張して席を立たねばならないほど病的な男が、海外旅行なんて出来るのか? 大丈夫、できます。しかも旅行中は、ほとんど薬を飲みません。
海外のほうが人権意識が高いわけでもなければ、外国人が日本人より寛容というわけではありません。出羽守さんの大好きなスウェーデンでは人種差別に遭ったし、窮屈で堅苦しくて、二度と行きたくないです。ようは、コンプレックスを抱えた僕という人間が、日本社会と分断される時、途方もない開放感に包まれる……それだけのことなんです。


2013年3月に、クロアチアへのパックツアーに参加しました。45歳、初めての海外旅行です()。
Cimg1147パックツアーなので、しょせんは小さな日本社会が丸ごと移動するに過ぎず、グループに分かれて互いに変な距離をとるのがイヤでイヤで仕方なかったのですが、「一日だけ個人で行動してください、食事も自分で何とかして、ホテルに独自の手段で帰ってきてください」という日がありました。そのとき、中学生レベルの英語でも何とかやっていけると分かったのです。

あと、遠慮せずに船に乗りたかったら「船乗りたい! 何が何でも乗りたい!」と前向きになっている自分に気がつきました。日本なら「……俺は別にいいや」と遠慮するところです。
「どうしても船に乗りたい!」と前のめりになる自分が、封印されていた本当の自分なんだと思います。


2013年10月、今度はひとりだけでクロアチアに旅行しました()。
Cimg0115この当時は飛行機の座席指定の方法を知らなかったせいもあり、隣に女性が座ることが何度かありました。日本人女性がバスの隣に座っただけで発汗する男にとって、外国人の女性が何時間も隣に座っているなんて地獄だと思うでしょ? ぜんぜん平気でした。少しは、薬も飲んだかも知れません。
座席指定の方法を知ってからは、必ず通路側に座るようにしてますが、窓際に座ると、ちょっと圧迫感を感じるからです。でもまあ、「他人が怖い、特に異性が怖い」ということは、飛行機の中では感じたことはありません。


2014年4月、スウェーデンへ行きました()。僕はとにかく、一人旅しかしません。誰か知り合いや友達と一緒だと、それは小さな日本社会を海外へ持ち歩くだけな気がしてしまう。
Cimg0844_3先に書いたように、レストランで意地悪されたり、通りすがりのオバチャンから説教くらったり不愉快な思いもしたけれど、反省点もあります。ホテルの従業員やコンビニの店員から笑顔で挨拶されても、とっさに返事ができなかったこと。
返事ができなくても、せめて笑顔を返そうと努めました。

あと、白人の皆さんからアジア人差別をくらった直後、中国人の経営するレストランに入って、優しくされたのを覚えてます。


2015年4月、ギリシャのサントリーニ島へ旅行()。
Cimg0215この時も、地元のジジイから怒鳴られたり、不愉快な目に遭わされたなあ……。でも、日本でガタイのいい男性に体をぶつけられたり、体育会系の中高校生にデカいツラされるよりは数千倍マシでして、人種差別ジジイに対して「おい、何だよ?」ぐらいは言い返せるわけです。つまり、海外では自尊心が健全に機能してるってことです。


2016年11月、アルゼンチンのイグアスの滝へ旅行()。
この時も、レストランで意地悪されたんだよなあ……。アジア人は、白人様からいろんな目に遭わされます。ポリコレ包囲網でお疲れなのではないでしょうか、白人の皆さん?
Dscn0298それと、この旅行の前、女性のライターからインタビュー?を受けて(日本国内で)、とても屈辱的な思いをして、精神的に非常に不安定になってしまいました。こんなにも対人恐怖が悪化した状態で旅行に行ったら、機内で汗だくになって頭がどうかしてしまうのではないか……とビビっていたのですが、ぜんぜん大丈夫でした。
やっぱり海外旅行は、日本で受けた毒を洗い流してくれるのです。


2017年4月、オーストラリアのケアンズとフィッツロイ島へ行きました()。
Dscn3172_2234この頃から、英語で気軽に話しかけられても「え、えーと?」と、即座に答えられない事態に悩まされはじめました。
だけどその分、相手の顔を見れば、何が言いたいのか分かるようになってきたように思います。
ところで、オーストラリアは日本人がとても多いです。働いているのも日本人、旅行者も日本人なので、日本語の会話が成り立ってしまう。それで大いに助けられもしたけれど、その「助けられた」って部分が大事なんです。


2017年10月、マルタ共和国へ旅行()。
Dscn6112マルタでは、ナイジェリア人の女性に「バスはあと何分で来るの?」と話しかけられました。思えば、その時、黒人女性の神秘的な美しさに気づいていたのです。そして、そんな簡単な英会話すらこなせないので「ごめんさない」と謝ると、「いいえ、楽しかった」と笑ってくれて、ホッとさせられました。
あと、レストランでも「マルタへは初めてですか?」と話をふられたり、まあ日本では絶対にあり得ないことですね。通りすがりの女性に話しかけられるなんて。

だけど、かなり人口密度の高い都市を路線バスで移動しているとき、隣に15~16歳ぐらいの若い女性が座ったのです。その時は珍しく緊張して発汗してきたので、あわてて薬を飲みました。女性は席を立って、後ろのほうの座席に移りました。「路線バス」というシチュエーションが、日本的すぎたのかなあ……など、いろいろ考えます。


2018年11月、ジンバブエへ()。
丸一年ぶりの海外だし、飛行機で過ごす時間が長いから対人恐怖がぶり返すのでは……と心配でしたが、ぜんぜん大丈夫でした。もちろん薬はポケットに常備しておきます。
そして、ちょっと思い出したことがあります。ビクトリア・フォールズ近くのワニ園で、まだ10代後半ではないかと思われる少年に、一時間半ほどガイドしてもらったのです。その時の僕は、汗びっしょりでした。その時、「ああ、海外でも対人恐怖は発症するのだな」と気づきました。
Dscn0879だけど、その状態を対人恐怖と認識してない。それより、目の前の少年の親切さに気をとられている。後から、「ひょっとして緊張してたのかな?」と気がつく。
(←ワニの尻尾を頭にくっつけて遊ぶ少年。「一緒に動画撮ろうよ!」と誘ってくれたり、澄んだ目で可愛いことを言うのでドキドキしてしまった。)

もう一ヶ月前の旅だけど、今でもジンバブエで出会った誠実で優しくて、心の広い男たちをひとりひとり思い出す。まあ、ペテン師もひとりだけいたけど……。
そして、胸板を突き破って心臓にタッチするような、神秘的な瞳の女たち。特にブラワヨの薄暗いレストラン、バーカウンターの中で働いていた30歳ぐらいのお姉さんには、今からでも会いたい。
もちろん、会ってどうなるわけでもない。ときめいて、ドキドキして、人間って美しいな、他人って尊いなって思えたら、それだけで生きてきた価値あったと、僕は思う。
あと、海外で「船に乗りたい!」とか「ビール飲みたい!」とか欲望丸出しで、少量の酒で気持ちよく酔って、明日の行動予定を立てる自分が好き。海外にいる間の自分なら、愛せるんだ。

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2018年12月 3日 (月)

■1203■

ジンバブエから帰国して観た映画は、『ムーンライト』、『デッドプール2』、『生きる』など。
Mv5bmzg2zgy1nzytmtgznc00mtkxlwi3zmy『生きる』は大学時代に授業で上映されて、「黒澤明の幼稚なヒューマニズムが露呈してしまった作品」と批判している友人がいた。
その頃は『夢』、『八月の狂詩曲』、『まあだだよ』といった黒澤晩年のヒューマニズム路線の作品がたてつづけに公開され、失笑を買っていた。『まあだだよ』については少し前に書いたと思うが、ふいにキレのある演出、編集テクを見せるから侮れないとは思うのだが……。


『生きる』で我慢ならなかったのは、状況をあけすけに説明してしまうナレーションのせいではなく、志村喬の演じる市民課長が、あまりに無様に描かれすぎていた点。
より正確に言うと、「無様に生きてきた人間の無様さなんて、まあこんな程度に描いておけば十分だろう」という黒澤明の薄っぺらさが透けて見えて、その思惑通りに演じる志村喬にの甘っちょろさにも、腹が立つのだ。
無様に生きてきた人間が若い女性に親しくされて舞い上がったときの無様さは、あんなものではない。もっと酷い。

キャバレーの踊り子を追いかけて、志村喬が舞台上でオロオロと左右によろめくシーンがあるが、風俗店で色香に惑ってしまった恥ずかしい経験、思い出すのも恥ずかしい経験がないんだろうな。だから、ああいうマンガのような、記号的な演技しか思いつかない。
(根本敬先生のマンガにも『生きる』というタイトルの本があったよな……と思い出して試し読みしてみたら、主人公の村田さんが子どもの前で「セックスしたことありますか? それとも童貞ですか?」と質問されて、正直に答えようかウソをつこうか悩んで汗だくになるシーンがあって、「さすが分かっていらっしゃる」と感心した。志村喬の市民課長も、子どもがいる以上はセックスしたはずだけど、黒澤はそこまで考えてないだろうな。)


自分の中で「恥」というのは、依然として大きなテーマだけど……「恥」は、どこかで異性関係に紐づいてしまうのだと思う。
というのは、たとえば「恋人がいる」「モテる」という状態は、「オスとして、生物として優位にある」ことの社会的証左だろうから。僕は今でも、体の大きな男性に人ごみで体当たりされることがあるが、それはやっぱり「生物として劣っている」から、恥ずかしい体験なわけだ。
道を歩いていて、ぶつかりそうになっただけで「オラ!」と怒鳴る男性がいる。何も悪くないのに、僕は「すみません」と小声で謝って逃げだす。女性が痴漢にあうのって、こういう「生き物として弱い」事実を身をもって認めさせられる屈辱なのかも知れない(……違ったら、ごめんなさい)。

僕はジンバブエで、光り輝くように美しい女性たちを見てきたから、それで十分なんだけど……、仕事以外では女性と話すことはない。女友達は、ひとりもいない。
Facebookで、小学校時代の同級生と何人か「友達」になっているが、女子たちは決して僕の投稿に「いいね!」をつけない。なので、彼女たちが楽しそうな日記をUPしていても、僕ごときが「いいね!」をつけてはいけない気がして、日記を見てしまって申し訳ない……という罪悪感すらおぼえる。
彼女たちは「ヒッサン(私の小学生時代のあだ名)は無視しようね」と決めているのかも知れないし、奥さんも子どももいない僕から、何かネガティブなオーラを感じとっているのかも知れない。


アゼルバイジャン共和国への航空券が安かったので、つい買ってしまった。
なぜアゼルバイジャンかというと、友達の友達が「女性の美しさでは、アゼルバイジャンが一番」と語っていたからだそうで、旅の動機なんて、その程度でいいんだ。
海外へ行っても、僕はやっぱり生物として弱いままだと思うんだけど、男女問わず親しげに話しかけてくれる。スウェーデンのような「先進国」では、人種差別にあったけど、それだって少なくとも人間としては認めてくれてる証拠だろう?

海外にいる間だけは、どんなに英語ができなくても、自分を恥ずかしいと感じることはない。飛行機に乗った瞬間から、すべてのコンプレックスが消滅する。なぜかは、分からない。だけど、僕が海外に行く動機は、もはや観光地めぐりではない。「人と会うため」だ。

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