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2018年9月25日 (火)

■0925 タミヤMMとガンプラのこと■

月刊モデルグラフィックス 11月号 本日発売
663●ひそまそ実写化計画
『ひそねとまそたん』を実写化するとしたら?という妄想に基づいて、いろいろな分野の方に取材する企画。今回は、元自衛官のタレント・かざりさんにインタビューいたしました。
かざりさんが星野絵瑠のコスプレをしている写真をTwitterで見て、編集部の返事を待っている間、どんどん交渉を進めて、マネージャーさんに取材の約束をとりつけました。
こういう取材は、条件が揃うのを待っていてもダメです。出来ることからどんどん進めて、出来た結果でベストを尽くすんです。

●組まず語り症候群 第71夜

今回はバンダイ製の「The特撮Collection 1/350 冷凍怪獣ペギラ」です。

月刊ホビージャパン 11月号 本日発売
616_2 ●タミヤMMが作りたい!
巻頭特集にて、「塗らずに素組みで成形色を楽しむ。」計4ページを構成・執筆しました。
これは、私が企画・構成した「ホビージャパンエクストラ」のページを見た編集者からの提案で、1/35スーパーシャーマンとアーチャーを塗装せずに、組み立て作業だけを徹底的に楽しむ企画になっています。

スタジオで組み立てながら撮影するので、完成ページをイメージしながら即断即決して、カメラマンさんに指示を出す必要があります。

塗装した瞬間から、プラモデルは「上手い/下手」の評価軸に組み込まれてしまうと思います。本人が気にしなくても、他人に見せたら「上手い/下手」の評価を下されてしまうでしょう。
最初から誰とも競わず、誰とも勝負しないフィールドで、孤独にプラモデルを楽しんでもいいはずです。少なくとも、僕はここ2年ほど毎日プラモデルを塗装しないで組み立ててきて、パーツ構成の発見があったり、あるいはメーカーの個性や姿勢や癖を理解したりして、楽しく過ごしています。別に色を塗らなくても、十分に面白いのがプラモデルという製品です。
「プラモデルなんて作ったことない」「色を塗らないとダメなんだろう」と思い込んでいる、模型誌なんて読まない人にも、気軽な楽しみ方を伝えたい(本当は伝えなくても、自然と浸透している状態が望ましい)。


『地獄の黙示録』公開の1980年ごろ、プラ板細工やパテの使い方を教えてくれた友人は、今ではまったくプラモデルを作っていません。たまに「今のタミヤのプラモデルは凄いよ」と目の前で買ってきたものを見せても、「工具がない」と言います。

『ガールズ&パンツァー』のヒットで、戦車プラモの人口は増えたと聞きます。だけど、工具や塗料がハードルになっていると思います。キットの内容以前の話です。
ガルパンのヒットを好機と捉えて商品開発したのは、プラッツさんだけではないでしょうか。極端に言うと、工具や塗料を自主的に買わない人は、お客さんと見なされていなかったのではないか。そうこうするうち、ガルパンの作品展開は「細く長く」のスパンに入ってしまいました。


先日、タミヤMM50周年を祝う会に出席したのですが、話す相手がいないので、早めに帰ってきました。ようは、内輪の集まりです。
ガンプラ50周年は再来年ですが、バンダイやサンライズがイベントを仕掛けるだけでなく、ムックがいっぱい出て一般誌が特集するだろうと思います。「ガンプラ50周年を祝う会に来てください」と街中で募集したら、10人ぐらいすぐ集まるんじゃないでしょうか。
今はガンプラを作っていなくても、思い出話で盛り上がる。というか、ガンプラの集まりではなく、同窓会でも「昔みんなガンプラ作ってたよねえ」と話題にできる。これはメディアとして強いです。

バンダイさんが「工具も塗料もいらない」商品形態を作り上げてキープしている努力は、大変なものです。1990年前後から成形段階での色分けをスタートさせ、塗装という概念を追い出してしまった。反面、どうしても塗りたい人のためにガンダムマーカーを出しつづける。上から下まで、右から左まで全方位、全世界に発信している。
40年前のキットが定価で売られているので、懐かしアイテムとしても機能している。このメディア力は、本当にバカにできません。驚異的です。


さて、タミヤMMはガンプラ発売前に隆盛を誇ったシリーズです。僕が小学生のころ、1970年代中盤には誕生会のプレゼントに最低一個はタミヤMMが入っていました(70年代後半にかけて、それがスーパーカーに変わっていきます)。
また、祖父や父親が頼んでもないのにタミヤMMを買ってきたり、親戚の叔父さんが74式戦車を買ってきて「俺も塗装してみたいから、道具を貸して」と頼まれたりしました。もちろん彼らは、模型雑誌も何も見ていません。オモチャ屋の店頭で、なんとなくタミヤMMを手に取っていたのだと思います。それはそれで、凄いことです。

その当時は、タミヤさんのメディア力がアニメ・ロボットのプラモデルを凌駕していたのでしょう。ガンプラ・ブームが沈静化した後、今度は完成品トイの巨大ブームが1990年代後半から世界を覆い尽くします。ガンプラがMGブランドを開始してステップアップしたのも、1995年のこと。
残念ながら、スケールモデルだけが取り残された形だと思います。この時に塗装済みでもスナップフィットでも何でもいいから、70年代とは別路線のスケールモデルを出していたら、現在の勢力図は塗り変わっていたと、僕は思います。
戦車プラモを食玩にアップデートして一般流通させたのはタカラトミーさんであり、海洋堂さんでしたよね。老舗のプラモメーカーではなかった。


さて、ガンプラ・ブームと完成品トイ・ブームを経て、スケールモデルの現在を見ると、やはり「塗装してなんぼ」の敷居の高い世界だけが、孤島のようにポツンと残れされています。
「ニッパーを持ってない」人は、お客ではない。お客になってもらうには、お客にコストを払ってもらう。こんな客まかせの商材って、他にあるのかなあと腕組みしてしまいます。
模型誌だけに閉じこもらず、一般誌でもプラモデルの記事を増やしていこう。いま企画も取り上げてもらっているし、実際に取材もしてもいます。まだまだ、やれることはいっぱいありますよ。

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2018年9月16日 (日)

■0916■

「王立宇宙軍 オネアミスの翼」の主人公は、なぜロケットの座席に座ったままなのか?【懐かしアニメ回顧録第46回】
Dngredrvyaa5hegこの連載には、いつも悩みます。カットワークや構図のことを書ける機会が少ないので、なるべく演出の話をしたい。だけど、それでは読んでもらえない。なので、最後には誰もが「やっぱり良い作品、優れた作品だよな」と共感できるような、どうとでも解釈できる曖昧な結論を持ってくるしかない。
でも、主人公のシロツグが戦場で椅子に座っているだけなのは、特筆すべきと思います。戦闘機で初めて飛ぶときも、操縦は後席のパイロットが行い、シロツグは座ったまま。だから、「主人公が何もしてない」ように見える。
シロツグが主体的にやったアクションといえば、リイクニを押し倒したこと。あと、暗殺者を刺殺したこと。ようするに、道徳的に悪いことだけしている。そこから、この作品の倫理観が垣間見えるような気がします。


仕事の関係で観ておかねばならなくなり、『地獄の黙示録』(特別完全版)。
9848view0021980年代にテレビ放送で見て、その後は撮影の舞台裏を映画化したドキュメンタリー、『ハート・オブ・ダークネス コッポラの黙示録』公開時にレンタルで観たので、1991年か。27年ぶりの『地獄の黙示録』は、若いときよりもずっと衝撃的だった。
僕は、劇映画の様式は1950年代に完成してしまい、あとは様式を壊す時代に入ったと思っている。70年代以降は、フレームの中の被写体をどう珍奇にするかしか、映画の進む道がなくなったのではないか……。

『地獄の黙示録』も、その説を裏づける。次から次へと、見たことのない戦場の様子が映しだされ、それだけで興味をつないでいく。冒頭は極端なクローズアップとオーバーラップが続くが、キルゴア中佐の登場する河からの上陸シーンで呆気にとられた。
Mv5bnzfkotfjn2etzjiwyy00mmflltk1odeカメラは長い時間かけて横移動しながら、河から戦場へ侵入してくるボートを追う。着陸する何機ものヘリコプター、小屋を押しつぶして上陸する装甲車、もうもうたる煙……。
フレームの中を、それはそれはギッシリと珍奇な被写体が埋めつくしているのだが、それをなめらかな横移動で撮るセンスがいい。


有名な「ワルキューレの騎行」を流した攻撃シーンも、ヘリからの主観カメラを主体に、たえずカメラが動きつづけている。地上からの視点では、PANでヘリを追う。
Mv5bnjgznwi4ywitnmrlms00nmy1lwe1zweフレーム内で起きていることは暴力だが、カメラの動きは優雅。そこが狂っているのだと思う。もしカンヌ映画祭でパルム・ドールを受賞した理由が“芸術性”ならば、被写体と動きとのギャップに、それが宿っているんだろう。被写体そのものは通俗的なので、撮り方によっては凡百のアクション映画になっただろう。
撮影は、80~90年代にかけて大作を続々と撮ったヴィットリオ・ストラーロ。


だけど、『地獄の黙示録』はオタク向けというか、内にこもった映画だと思う。
兵器や美女を「本当はこうじゃなかったんだろうな」「面白く描いてるんだから面白がってもいいよな」と、無責任に観ていられる。同じ戦争を描いていても、『カティンの森』や『サラエボの花』のように社会に向けて告発する映画ではない。
『地獄の黙示録』を観ている間だけは、映画のために映画を観るだけのシネフィルや素人評論家でいても許される。「芸術として評価される余地」とは、すなわち「ビール片手に笑いながら見られる領域」という気がする。ゾンビ映画を笑って見るのは当たり前なので、それとはちょっと違う……賢しらぶっている自分を楽しむというか。

先日、広島と呉を歩いて『この世界の片隅に』、ひいてはフィクションへの認識が変わったように思う。歩くことで、頭の中の地図が出来上がっていって、自分の限界を少し壊すことが出来た。

(C)Zoetrope Studios

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2018年9月13日 (木)

■0911~0913 広島・呉■

11日に取材があると思っていたのだが、僕の勘違いで金曜日だと分かったので、11~13日まKimg1947_2では丸々何も予定がない。手をつけた原稿さえ収めてしまえば、広島・呉へ行けるので、10日夜に原稿をがんばって、11日朝から荷造りをはじめた。宿も当日朝から探して予約して、『この世界の片隅に』のアニメを元に浦谷千恵さんが描いた地図、公式ガイドブック、自分で用意したのは呉港の地図のデータだけ(あと、絵コンテ集がKindleに入っていた)。
昼ごろに新幹線に乗ると、16時すぎに広島に着いた。

先日の土浦の一件()でも書いたことだが、『この世界の片隅に』では、イベント的な催しには参加せずにいた。うまく言葉にできないが、疎外感のようなものを最初から感じていた。
2016年9月9日の完成披露試写以降、「泣けるから、みんな観て」という声に、強い違和感があった。もっとハイブローでタフな、実験精神旺盛なガツガツした貪欲な映画……そんな風に感じたのは、どうやら自分だけらしい。
少なくとも「泣けるからいい」なんて、そんな簡単なものじゃないよ!と憤っているうち、自然と距離ができてしまった。
年末に向けて、ある企画を立てて、片渕須直監督ともあらためて話して、「最低でも呉の地は踏んでおかねば仕事にならない」状況に自分を追いこんだ。


なので、ファン心理からのロケ地めぐりではない。それこそ公開当初から、江波・広島・呉を粘り強く歩いたファンの方たちのブログが、いっぱいある。そうした方たちからすれば、「今ごろそんな有名なとこ行ってどうすんの?」と笑ってしまうであろう小旅行となった。
Kimg1939広島では、すずさんのスケッチしていた福屋八丁堀本店にたどりついて、近場でご飯を食べて夕陽のきれいな方角へ歩いていったら、たまたま、そこが産業奨励館。せっかくだから相生橋を渡って、レストハウス(大正屋呉服店)は明日、早起きしてから見にいく。ようするに、思いつきの連続だったのである。

翌朝は、ここ最近の打ち合わせで監督から勧められた「宇品からフェリーで呉に行く」ルートをとるため、路線バスに乗る。フェリーで行くと、広Kimg1958島港から呉港までは30分ぐらい。海の色もじっくり見ておく。
呉に着いて大和ミュージアムに入る頃には、雨が降り出してきた。大和ミュージアムを出て、呉軍港をぐるりと歩いてみることは出来ないだろうか? どれぐらいのスケール感なのか掴んでおきたい。それが旅の最低目標であった。


なので、呉観光プラザに立ち寄り、ほぼ思いつきで浦谷さんの絵地図を見せながら、大和を隠すための目かくし塀は、本当にまだ残っているのか聞いてみた。
Kimg1989(←日本一有名な『このセカ』ファン、水口マネージャーの絵が普通に貼ってあって、ビックリした。後ですごく役に立った。)
若いお姉さん二人は「ああ~っ、あの塀ですか」と顔を見合わせて、住所や写真を調べはじめた。もっとずっと年上のお姉さんに聞かないと分からないそうだ。
年上のお姉さんは10分ほど奥にこもってから、「とにかく古い資料を掘り出すしかないので、明日の14時までに揃えておきます!」と胸をはるのだが、明日は帰らないといけない。なので、「ここなら残っているはず」という住所を元に、若いお姉さんたちが即席の地図をつくってくれたのだった。「今度から、もっと分かりやすくしておきます」とのこと。

その即席地図によると、呉駅の隣の川原石駅から徒歩数分のところに、大和を隠すための塀のほんの痕跡があるはずだという。
ところが、川原石に停車する各駅停車は、一時間に一本ぐらい。駅員さんに地図を見せて事情を話すと、「海岸4丁目」というバス停からすぐなので、バスを使うといいですよと、切符を払い戻してくれた。
「バスはあと5分で出ます」と言うので、ダッシュする。幸いにも、雨はやんでいる。


さて、海岸4丁目下車すぐ、魚見山トンネル交差点から呉線を見上げると、確かに2本だけKimg1995 支柱が残っていた。監督が見たら「ぜんぜん違うよ!」と笑うかも知れないけど、最終日に各駅停車の車窓から見ても、いま本編をチェックして見ても、これが目隠し塀のはずだ。

だとするなら、「軍港」はここから始まっていたと言えるのではないか? その直感は大きく外れていたのだが、交通の便が悪いところなので、40分ほど港づたいに歩いて大和ミュージアムまで戻った。


バスの一日乗車券(日付を間違ってスクラッチしてしまったので、もう一枚買った)で、青葉終焉之地へ。有名な場所なので、あらためて書くこともなかろう。驚いたのは、Twitterの一部で有名になっていた「だし道楽」のうどん屋が建っていたこと。
Kimg2007ここで遠慮する理由はないので、天ぷらうどんをいただき、ついでに自販機でペットボトル入りの「だし道楽」を買った。
駅南口のホテルにチェックインしてから、今度は旧澤原邸(三つ蔵)へ向かう。ここもまあ、有名な観光地である。
だけど、円太郎の怪我を知った径子がこの坂を下りて海軍病院まで急ぐシーンがあるので、当時の呉の人たちはどれだけ歩いてたんだ?と気になってきた。だから翌朝、海軍病院(これまた有名な美術館通り)へも足を運んだ。

つまり、ピンポイントに回っていた建物を頭の中で地図化すると、「そんなに歩けるか?」とKimg2020 か「右にあると思っていたものが、実際には左にあった」と気づかされる。
大和ミュージアムでも観光プラザでも手に入るだけの地図を手に入れたが、自分は勝手に「向き」を決めてしまっていた。
上の写真は、すずと周作がデートした小春橋だが、僕は勝手に二人がもたれていたのは「港側」と決めつけていた。宿に帰って絵コンテで確認すると、ドンデン(カメラを正反対にすえるカット)があって、二人がもたれていたのは山側で、「呉に住んでいる人なら“生活者の習慣”で山側にもたれるのでは……」と手触り感すら生じてきた。つまり、僕は観光者目線だから「港側が表、山側が裏」と決めつけていたにすぎない。山側に家がある人たちが、山を「裏」などと考えるだろうか?
すると、百パーセントの「絵」が頭の中で立体図として立ち上がってくるような感触があった。その「絵」の中に方角もあれば、おのずと光線の方向が決まる。それですずさんの背後の雲が、少し夕陽に染まっていたわけだ。「なんとなくいい感じ」だから夕陽に染めたわけではなく、合理性が美しさを支えているというか……。

だから、単に「泣ける」だけの映画じゃないし、僕が感動するポイントは、理に理を重ねて「美しさ」や「ニュアンス」を醸す手腕なんだ。「世界の構造」を冷徹に紐解くことによって「世界の美しさ」を肯定したい前向きな意志が、強固に根をはっている。


そんな世界観の揺らぎを感じながら2時間ほどしか眠れぬままの朝、駅前のタクシーで「歴史の見える丘」まで運んでもらった。
Kimg2038とっくに足を運んだ人がいるだろうが、実は僕がいちばん来たかった場所である。さて、病院からここまで歩いて来られるのか? 頭の中の地図を、自分の足で実証してみた。画面の右隅にチラッと映っていた民家のあたりを下ってみた。なるほど、病院前に出た。
監督の「ここが歩道、もう一本下に車道がある」という言葉を、身体で感じている。
歩いているうち、絵の中の人たちに会えたような、手を合わせたい気持ちになった。企画のためではあるけど、呉に来たのは、弔いの気持ちも最初からあった。

通学時間なので小学生や高校生がいっぱい歩いていたが、ひとりの少年が僕に「おはようございます」と言った。僕も彼の顔を見て、「おはようございます」と挨拶した。
これまで気がつかなかった位相で、世界と関係を結びなおしたような、新鮮な体験だった。僕は感情的な人間なので、理や構造に憧れる。その憧れる意味というか効果を、今じわじわと感じはじめている。

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2018年9月10日 (月)

■0910■

土曜夜、常磐線で土浦へ。『この世界の片隅に』を2016年の公開日から休まず上映しつづけ41360643_1876478915779347_3309628_2 ている唯一の映画館・土浦セントラルシネマズへ行って日曜朝の上映を観るため、その後に映画館から離れた亀城プラザで開催される「『この世界の片隅に』ロケ地を見よう会」に参加するため。

どうしても朝10時の上映に間に合う気がしなかったので、土浦駅前のホテルに一泊して、朝8時に宿を出た。
映画館のあるビルに着くと、やにわに「廣田さんですよね?」と声をかけられた。『マイマイ新子と千年の魔法』の上映をつづけようと試行錯誤しているころ、いずれかの場所でお目にかかった方だった。「百人ぐらい並んでいたから、もう劇場を開けたんです。びっくりしますから、行ってみてください」とのことだった。
(その方は、上映後に「廣田さん、お疲れさまでーす」と、自転車で爽やかに去っていった)。
このラフな空気感、特にどういう層ともいえない人たちが勝手に集まって勝手に解散する感覚は、確かに『マイマイ新子』が這うように上映を継続していた2009年秋~2010年春に特有のものだった。
ラピュタ阿佐ヶ谷のロビーに忽然と現れた『マイマイ新子』のサンドブラスト製グラスを手作りなさった首藤睦子さんが、『この世界の片隅に』グラス()を持って駆けつけてらしたのだから、いよいよ空気感は『マイマイ新子』めくのであった。「この空気は、僕は知ってるぞ」という感じだ。
(首藤さんとは亀城プラザでお話しさせていただいた)


『この世界の片隅に』に関しては、こうした“現場”におもむくことは自分の役目ではないとサボってきたところがある。しかし今回は、12月にある企画を考えて、自分を『この世界の片隅に』の前に正座させ、没入させねば仕事にならない……という状況に追い込んだ裏の事情がある。

何十回と映画館で観ているファンの方たちにとっては常識であることを、今ごろ発見している自分には、特に書くことはない。今回は劇中の衣装がどのように加工されていくか、じっと凝視していた。すると、片渕須直監督が劇や絵の裏に埋設した何本ものロジックのひとつに触れることができたような気がする。

『この世界の片隅に』の原作をぼんやりと曖昧に脚色して、ひたすら泣けるだけの映画に加工することも可能だったと思う。
でも、監督がそれですませるわけがないことを、僕は2010年には確信していた。まだ『マイマイ新子』は今後どうすれば継続できるだろうねとマッドハウスの方と話している頃に、「ご飯を食べている席でする話じゃないかも知れないけど……」と、監督が原爆の威力について深掘りした話題を切り出してきたから。もちろんそれは「泣ける」話なんかではなく、研究者視点からの冷徹な考察だった。
情緒的な劇や絵が成立しても耐えられるだけの頑丈な骨組みが、まず縦横に組んである。その仕事に触れないと、この映画を知ったことにはならないのでないか。……そのような焦りと畏れは、僕の場合、2010年から継続していたことになる。


「『この世界の片隅に』ロケ地を見よう会」は、すずさんの実家のある江波編だったが、象41309177_1876768802417025_683209942 徴的なシーンがあった。ファーストカットに登場する建物(現存するものなので劇中と外観は異なる)の縁の下に片渕監督が潜り込み、そこから先が海であったことを確認する。会場に、どよめきと笑い声が広がった。
主催のブリンキーさん(@bulynkey)のカメラが、監督が見たものを追う。すると、やけに高さのある鉄骨が組まれており、建物はかなり高いところに乗っかっているにすぎないことが分かる。地面は大きくえぐれており、なるほどそこから先は海だったに違いないと、素人目にも分かった。

この映像は、なんと2014年に撮影されたものなので、映画は影も形もなく……いや、影も形も出来つつあったのだ。僕が原爆についての話を聞いてから4年も経過している。
その間に、膨大に資材が集められ、猛烈な勢いで骨組みが組み立てられていたのだ。


「ロケ地を見よう会」の会場に、今年になってインタビューや個展で何度かお会いしている青木俊直さんが、ごく当たり前に「お客さん」として来ているのにも驚いたが、50~60代になってもクリエイティブな現場の第一線に立っている方たちには、独特の胆力・脚力がある。
若い頃に淡白だった人が、中年になっていきなり貪欲になるパターンは、僕は見たことがない。とすると、僕が濃度60%程度の若者だったとしたら、中年になっても60%を維持できているから、いまだに仕事をいただけていることになる。

濃度200%、1000%ぐらいの人たちは、何をどうやって生きてきたのだろう? 片渕監督にも「いつ、何時間ぐらい寝てるんですか?」「ご飯はいつ?」と、ずいぶん不躾なことを聞いてしまった。
たとえば、サンブラストのグラスを持参なさった首藤さんは監督の高校時代の同期だそうだが、短い言葉の中にも、独特のバイタリティが感じられた。
遠慮していては人生がもったいない。どこにでも行って、誰とでも会って、何でも食べてみないと、何事も分からない。

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2018年9月 2日 (日)

■0902■

レンタルで三隅研次監督の『座頭市喧嘩太鼓』、ヴィム・ヴェンダース監督の『パリ、テキサス』。
Photo 『座頭市~』の冒頭、市が小屋の中にひそんでいる男を斬る。カメラは小屋の中に据えられており、小屋の戸口に立った市を撮る。市が小屋の中に踏む込むと、彼の姿は真っ黒なシルエットになる。シルエットのまま、市は飛び出してきた男を斬る。「斬る」という決定的な見せ場を、わざとシルエットで見せるのがスタイリッシュでカッコいいわけだ。
このシーン、時間設定は夜である。真っ暗な小屋の中からカメラを外に向けているのだから、外も真っ暗になりそうなものだが、雪を降らせている。雪明りで、外が明るい。だから、市の姿がシルエットになる。ワンカットをカッコよく撮るために、段取りを組み立てている。

とは言え、『
座頭市』シリーズは年二本のペースで撮影され、本作は18作目。 同じ三隅研次の第一作目『座頭市物語』ほどの切れ味はない。


『パリ、テキサス』は大学時代に観たはずで、中盤以降のいくつかのシーンはぼんやり記憶していた。今回はブルーレイを借りてきたので、その撮影の繊細さに、最初から最後まで陶然と見入った。
Mv5bn2mxmmnjmtktytc0zi00yta2lwjjotyほとんど夜といってもいいぐらいの、地平線にぎりぎり赤味が残った夕景だとか、駐車場の緑がかったライトだけの夜景だとか、わずかな光源で色彩豊かな画を撮るには高感度フィルムが必要だし、優れた撮影監督でないと不可能だろう。やっぱり、時間と金と技術を惜しみなく投入した映画に接するべきと思う。
撮影監督は、先日亡くなったロビー・ミューラー。この後、ジム・ジャームッシュの作品を何本か撮ることになるが、ジャームッシュはヴェンダースから譲られたフィルムで処女作『パーマネント・バケーション』を撮った……という、出来すぎたエピソードがある。


撮影のほかに特記すべきは、衣装デザイン。
Mv5bnge1nzlinzityzk2oc00mjhklwe1zdu冒頭で、ハリー・ディーン・スタントン
の演じる父親は赤いキャップをかぶっている。映画の後半、父親は幼い息子と母親探しの旅に出る。旅立ちを決めるシーンで、父親は赤いシャツを着ている。息子は赤とグレーのチェックのシャツ。モーテルで寝るときは、赤いトレーナー。
翌日、おそろいの赤いシャツと赤いトレーナーを着た父と息子は母親の乗った車を探し当てる。その車の色は赤。母親が働いているときに着ているカーディガンはピンクに近いが、まったく同じ色調では不自然だろう。ともあれ、離れ離れになっていた父・息子・母が赤い服を着ることで、心理的に近づきつつあることが分かる。

ラスト近く、父は息子をホテルにおいていくが、別れの時は赤いシャツではなくグレー。父親の残していったテープを聴いている息子も、グレーのTシャツに着替えている。
さて、母親はまだピンクの服を着ているのだろうか? なんと、申し合わせたようにグレーなのだ。登場人物の着ている服の色を合わせることでデザイン性が高まって、映画は抽象化していく。なんとなくありあわせの衣装を俳優が勝手に着てきたら色が揃ってしまった……というレベルではない。これが美術監督や衣装デザイナーの仕事なのである。
だけど、本当は色なんかで合わせなくても、映画の前半で登場人物たちが統一性なく着ている衣装だって、十分に趣味がいい。フィルム映えする衣装ばかりなのだ。


撮影がよくて、衣装がいいということは、つまり被写体を美しく撮ることに映画が傾いているとも言える。80年代ともなると、もう映画には壊すべき様式が残っていないから、映像を綺麗にするしかない。ジム・ジャームッシュがモノクロにこだわったのも、「映像美」を選択したに過ぎないと思う。
『パリ、テキサス』はシーン単位、カット単位の色彩と風景が美しいのであって、構図やカットワークが斬新なわけではない。斬新でありようがなかったし、その必要もなかった。

僕が大学に入った1980年代中期は監督ごとの特集上映が盛んで、レンタルビデオ店が爆発的に普及したころだ。漠然とした印象だけど、当時は「作家性=映像の独自性」みたいに言われていた。色をきれいにするか、面白い構図にするかしか、映画にやることは残されていなかった。SFXが劇的に進化したのも、映画の開拓すべきフロンティアが消滅したからじゃないかという気がする。

80年代は、僕も僕の周囲も映画通ぶって、新しい映画監督の名前を次々に口にしては「観たことあるか? 観なきゃダメだよ」と好みを披瀝しあっていた。ヒッチコックや黒澤明、ゴダールもトリュフォーもロッセリーニも、たくさんいる映画監督のひとりでしかなかった。レンタル店でも監督名でビデオが並べられたりしていて、ようは映画の歴史なんかじゃなくてデータの羅列にすぎなかった。
「どの映画監督が好きか」なんて、よりどりみどりのようでいて、それしか話題がないなんて貧しい時代だった。というより、自分の映画の見方が貧しくなっていないか、若ければ若いほど点検しなければならないのだと思う。


(C)1968 角川映画
(C) 1984 REVERSE ANGLE LIBRARY GMBH, ARGOS FILMS S.A. and CHRIS SIEVERNICH, PRO-JECT FILMPRODUKTION IM FILMVERLAG DER AUTOREN GMBH & CO. KG

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