■0911~0913 広島・呉■
11日に取材があると思っていたのだが、僕の勘違いで金曜日だと分かったので、11~13日までは丸々何も予定がない。手をつけた原稿さえ収めてしまえば、広島・呉へ行けるので、10日夜に原稿をがんばって、11日朝から荷造りをはじめた。宿も当日朝から探して予約して、『この世界の片隅に』のアニメを元に浦谷千恵さんが描いた地図、公式ガイドブック、自分で用意したのは呉港の地図のデータだけ(あと、絵コンテ集がKindleに入っていた)。
昼ごろに新幹線に乗ると、16時すぎに広島に着いた。
先日の土浦の一件(■)でも書いたことだが、『この世界の片隅に』では、イベント的な催しには参加せずにいた。うまく言葉にできないが、疎外感のようなものを最初から感じていた。
2016年9月9日の完成披露試写以降、「泣けるから、みんな観て」という声に、強い違和感があった。もっとハイブローでタフな、実験精神旺盛なガツガツした貪欲な映画……そんな風に感じたのは、どうやら自分だけらしい。
少なくとも「泣けるからいい」なんて、そんな簡単なものじゃないよ!と憤っているうち、自然と距離ができてしまった。
年末に向けて、ある企画を立てて、片渕須直監督ともあらためて話して、「最低でも呉の地は踏んでおかねば仕事にならない」状況に自分を追いこんだ。
■
なので、ファン心理からのロケ地めぐりではない。それこそ公開当初から、江波・広島・呉を粘り強く歩いたファンの方たちのブログが、いっぱいある。そうした方たちからすれば、「今ごろそんな有名なとこ行ってどうすんの?」と笑ってしまうであろう小旅行となった。広島では、すずさんのスケッチしていた福屋八丁堀本店にたどりついて、近場でご飯を食べて夕陽のきれいな方角へ歩いていったら、たまたま、そこが産業奨励館。せっかくだから相生橋を渡って、レストハウス(大正屋呉服店)は明日、早起きしてから見にいく。ようするに、思いつきの連続だったのである。
翌朝は、ここ最近の打ち合わせで監督から勧められた「宇品からフェリーで呉に行く」ルートをとるため、路線バスに乗る。フェリーで行くと、広島港から呉港までは30分ぐらい。海の色もじっくり見ておく。
呉に着いて大和ミュージアムに入る頃には、雨が降り出してきた。大和ミュージアムを出て、呉軍港をぐるりと歩いてみることは出来ないだろうか? どれぐらいのスケール感なのか掴んでおきたい。それが旅の最低目標であった。
■
なので、呉観光プラザに立ち寄り、ほぼ思いつきで浦谷さんの絵地図を見せながら、大和を隠すための目かくし塀は、本当にまだ残っているのか聞いてみた。(←日本一有名な『このセカ』ファン、水口マネージャーの絵が普通に貼ってあって、ビックリした。後ですごく役に立った。)
若いお姉さん二人は「ああ~っ、あの塀ですか」と顔を見合わせて、住所や写真を調べはじめた。もっとずっと年上のお姉さんに聞かないと分からないそうだ。
年上のお姉さんは10分ほど奥にこもってから、「とにかく古い資料を掘り出すしかないので、明日の14時までに揃えておきます!」と胸をはるのだが、明日は帰らないといけない。なので、「ここなら残っているはず」という住所を元に、若いお姉さんたちが即席の地図をつくってくれたのだった。「今度から、もっと分かりやすくしておきます」とのこと。
その即席地図によると、呉駅の隣の川原石駅から徒歩数分のところに、大和を隠すための塀のほんの痕跡があるはずだという。
ところが、川原石に停車する各駅停車は、一時間に一本ぐらい。駅員さんに地図を見せて事情を話すと、「海岸4丁目」というバス停からすぐなので、バスを使うといいですよと、切符を払い戻してくれた。
「バスはあと5分で出ます」と言うので、ダッシュする。幸いにも、雨はやんでいる。
■
さて、海岸4丁目下車すぐ、魚見山トンネル交差点から呉線を見上げると、確かに2本だけ
支柱が残っていた。監督が見たら「ぜんぜん違うよ!」と笑うかも知れないけど、最終日に各駅停車の車窓から見ても、いま本編をチェックして見ても、これが目隠し塀のはずだ。
だとするなら、「軍港」はここから始まっていたと言えるのではないか? その直感は大きく外れていたのだが、交通の便が悪いところなので、40分ほど港づたいに歩いて大和ミュージアムまで戻った。
■
バスの一日乗車券(日付を間違ってスクラッチしてしまったので、もう一枚買った)で、青葉終焉之地へ。有名な場所なので、あらためて書くこともなかろう。驚いたのは、Twitterの一部で有名になっていた「だし道楽」のうどん屋が建っていたこと。ここで遠慮する理由はないので、天ぷらうどんをいただき、ついでに自販機でペットボトル入りの「だし道楽」を買った。
駅南口のホテルにチェックインしてから、今度は旧澤原邸(三つ蔵)へ向かう。ここもまあ、有名な観光地である。
だけど、円太郎の怪我を知った径子がこの坂を下りて海軍病院まで急ぐシーンがあるので、当時の呉の人たちはどれだけ歩いてたんだ?と気になってきた。だから翌朝、海軍病院(これまた有名な美術館通り)へも足を運んだ。
つまり、ピンポイントに回っていた建物を頭の中で地図化すると、「そんなに歩けるか?」と
か「右にあると思っていたものが、実際には左にあった」と気づかされる。
大和ミュージアムでも観光プラザでも手に入るだけの地図を手に入れたが、自分は勝手に「向き」を決めてしまっていた。
上の写真は、すずと周作がデートした小春橋だが、僕は勝手に二人がもたれていたのは「港側」と決めつけていた。宿に帰って絵コンテで確認すると、ドンデン(カメラを正反対にすえるカット)があって、二人がもたれていたのは山側で、「呉に住んでいる人なら“生活者の習慣”で山側にもたれるのでは……」と手触り感すら生じてきた。つまり、僕は観光者目線だから「港側が表、山側が裏」と決めつけていたにすぎない。山側に家がある人たちが、山を「裏」などと考えるだろうか?
すると、百パーセントの「絵」が頭の中で立体図として立ち上がってくるような感触があった。その「絵」の中に方角もあれば、おのずと光線の方向が決まる。それですずさんの背後の雲が、少し夕陽に染まっていたわけだ。「なんとなくいい感じ」だから夕陽に染めたわけではなく、合理性が美しさを支えているというか……。
だから、単に「泣ける」だけの映画じゃないし、僕が感動するポイントは、理に理を重ねて「美しさ」や「ニュアンス」を醸す手腕なんだ。「世界の構造」を冷徹に紐解くことによって「世界の美しさ」を肯定したい前向きな意志が、強固に根をはっている。
■
そんな世界観の揺らぎを感じながら2時間ほどしか眠れぬままの朝、駅前のタクシーで「歴史の見える丘」まで運んでもらった。とっくに足を運んだ人がいるだろうが、実は僕がいちばん来たかった場所である。さて、病院からここまで歩いて来られるのか? 頭の中の地図を、自分の足で実証してみた。画面の右隅にチラッと映っていた民家のあたりを下ってみた。なるほど、病院前に出た。
監督の「ここが歩道、もう一本下に車道がある」という言葉を、身体で感じている。
歩いているうち、絵の中の人たちに会えたような、手を合わせたい気持ちになった。企画のためではあるけど、呉に来たのは、弔いの気持ちも最初からあった。
通学時間なので小学生や高校生がいっぱい歩いていたが、ひとりの少年が僕に「おはようございます」と言った。僕も彼の顔を見て、「おはようございます」と挨拶した。
これまで気がつかなかった位相で、世界と関係を結びなおしたような、新鮮な体験だった。僕は感情的な人間なので、理や構造に憧れる。その憧れる意味というか効果を、今じわじわと感じはじめている。
| 固定リンク
コメント