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2018年8月17日 (金)

■0817■

吉祥寺オデヲンで、『カメラを止めるな!』。平日昼間なのに、超満席。映画の途中から笑い声が大きくなってきて、ガヤガヤしながら映画を観るのは楽しい体験だった。
640_2僕はギャグよりも、Aパートで感じた「おいおい、なんでここでカメラが動かなくなったの?」「これ、フレーム外で役者を待機させてるのがバレてるよ?」などの疑問が、Cパートでひとつ残らず拾われているのに感心した。映画の現場に身を置いていないと分からないディテールを、ロジカルに組み立てていて、そこが良かった。

ただ、これをさも画期的な映画、新しい映画のように評価しているとしたら、かなり違和感をおぼえる。
「映画の映画」なんてトリュフォーの『アメリカの夜』があったし、フェリーニなら『8 1/2』、あまり有名ではないけど『王様の映画』とか、メジャーどころでは『アルゴ』『ウォルト・ディズニーの約束』なんかもその範疇に含まれるんじゃない? 『ホーリー・マウンテン』のように最後で撮影クルーをフレームに入れてしまう映画もあるし、ゴダールなんて、ほとんどの作品で「映画であること」をバラしながら撮ってるよね? 
低予算・少人数のフェイクドキュメンタリーといえば、『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』があったし、僕は小中千昭さんが脚本を書いたVシネマ『ドラッグレス』を思い出した。
時系列を置き換えて事実を明らかにしていく構成は、『メメント』や『レザボア・ドッグス』など、シネフィルが熱烈に愛するスタイルだよね。映画好きなら、食いつかないはずがない。

映画の舞台裏をモチーフにした映画は、もっともっといっぱいあるはず。決定的に違うのは、映画をとりまく環境だと思う。


何年か前のラジオだと思ったけど、コメンテーターが「私はこの映画を見て泣いたんです」と話していて。「どこが良かったんですか?」「いえ、分かんないんですよ。でも自然に涙が出てきたんですよ!」と力説していることがあって、いまの映画の評価って、ほとんどそうなっている。
640_1『カメラを止めるな!』だったら、「とにかく見てくれ」「何を言ってもネタバレになるから」という勧め方が大半。勧めること、勧められて観にいくことに最大の価値がある。映画単独をソリッドに評価することには意味がなくて、単館上映から全国に広がりつつあること、低予算だけど工夫して撮ったこと、お互いに「とにかく見てくれ」と言い合うことが『カメラを止めるな!』のボディ、本体なのだと思う。

そして、それは『カメラを止めるな!』が正当に評価されてないのではなくて、もはや一本の映画を、作品をとりまく独自の環境や情報と切り離して評価することに、価値や意義が消失しつつあるのではないか。
『カメラを止めるな!』は、「実はたいした映画ではない」「よくあるシネフィル向けの映画」とは言いづらい空気に置かれており、なぜかというと、その“空気”にこそ価値があるから。繰り返すけど、『カメラを止めるな!』だけでなく、リアルタイムで劇場公開されている映画はすべてそうなっているのではないか。
『スター・ウォーズ 最後のジェダイ』が賛否両論になった昨年末、Twitterではアカウント名の後ろに「@最後のジェダイ」とつける人が数え切れないほど大勢いた。映画そのものではなく、「映画を観た」個人の体験、映画との関係性に価値が置かれている。


ディズニー・アニメ『モアナと伝説の海』には、『マッドマックス 怒りのデス・ロード』にヒントを得たシーンがある。公開時、「『モアナ』を観にいったら、『マッドマックス』だった」とツイートするのが流行った。「○○を観にいったら××だった」、その情報をツイートすることに価値が置かれている。たとえ映画を観ていなくても。

だから、一本きりの映画を純粋に楽しもうとしたら、情報のまとわりつかない古い映画を観るしかない。僕がゆうべ借りてきた映画は『スティング』だ。半世紀近く昔の映画だから、誰にも邪魔されずに楽しむことができる。
僕はこのブログで、いやってほどカメラワークや構図の効果について語ってきたけど、今日びそんなものは流行らない、ジジイの趣味だよ。もういいんだよ、それで。「廣田さんから見て、あの映画はアリですかナシですか?」「百点満点で何点ですか?」「それ言うと、ネタバレになっちゃうけどいいですか?」って、うるせえよ。俺はカメラワークや構図だけを、偏執的に味わいたい滅びゆく民で結構だ。そのほうが自由だし楽しいから。

(C)ENBUゼミナール

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2018年8月15日 (水)

■0815■

EX大衆 9月号 16日発売
Dki1giiuwaexqqo498x640●現在進行形『ゲゲゲの鬼太郎』を見よ!
放送中の『鬼太郎』について、誰にインタビューしたいのか聞かれたので、『地球少女アルジュナ』DVDブックレットで何度も原稿をお願いした脚本家の大野木寛さんに取材させていただきました。
この仕事は『我々は如何にして美少女のパンツをプラモの金型に彫りこんできたか』を企画・編集してくれた編集者の依頼なので、彼が決めた文字数どおりに納品して、以降はデザインも見ないし構成もおまかせです。
僕の仕事は「ライター」から逸脱しつつあるけど、いつでも雇われライターに戻れるフットワークも、生存戦略には必要です。


レンタルで、ダスティン・ホフマン主演の『卒業』。
Graduatecovre01967年、トリュフォーやゴダールのデビューから10年と経っておらず、彼らと同世代の映画といってもいい。ヌーヴェル・ヴァーグより明らかに金はかかっているが、実験精神では引けをとらない。
アップの手持ちカメラで情報をそぎ落として臨場感を出したり、カットが変わるとアクションは連続しているのに時系列の異なるシーンへ繋がっていたり、不自然なズームバックで感情表現したり、全編、突拍子のない演出で生き生きとしている。


ただ、やはり映画が新しく更新されつづけていたのは、70年代初頭のニューシネマまで。以降は、SFXやCGによって被写体が変化しただけで、ドラスティックに映画の話法が書き換えられてはいない。アジア映画は活性化したが、それは経済面の話、世界市場に進出したという話だ。映画作家自身は、それぞれの小さな戦場でゲリラ戦を展開している印象がある。
タランティーノがウォン・カーウァイにラブコールを送っていた90年代中盤、ミニシアターの全盛期、ようするにああいう同人的な時代が今もつづいている。映画は組織力や政治力を失った。日本でいうと、ATGはムーヴメントを起こすことが目的の政治活動だったと思う。


ようやく時間に余裕が出てきたので、吉祥寺オデヲンで『未来のミライ』。不入りだと聞いていたが、半分ぐらいの客席は埋まっていた。興行的には下落の一途ではなく少しずつ持ち直していると聞く。
640エンドロールを見て呆気にとられたのは、関連企業の多さだ。こんなにがんじがらめに多方面からの利害が絡んでいるのに、作品の個性を維持しつづけるのは至難の業と思える。「細田守はケモだ、ショタだ」と下卑た感想をつぶやけるのは、奇跡といってもいいほど幸せな状況であって、どこの誰がどう細田監督を守っているのか、おおいに気になる。だが、その人が誰なのかおいそれと探り当てらないのが、今の商業アニメなのかも知れない。もし取材しようとすれば、三重四重に東宝のチェックが入るだろう。

細田守はあいかわらず、どこを切っても細田守。『デジモンアドベンチャー』からずっと。観客には、好きか嫌いかの選択肢しか残っていない。好き嫌いだけで語らせてくれるのって、やっぱり甘やかされているといってもいいぐらい、幸福な状況だ。
(裏を返せば、現場や作り手の生の言葉や状況が届きづらい環境なのかも知れない。)


たったひとつの家族、4歳児の主観だけで成立した小規模な映画だ。
640_1構図はフラットなのに、階段状の住居が画面に奥行きを与えるし、成長とか退行といった抽象性を帯びたりもする。中庭が、4歳児だけに知覚可能な異空間と化すアイデアは面白いと思った。その異空間のルールが何度も改変されて、その破綻ぶりも『時をかける少女』から変わっていない。
美術が良かったのだが、美術をいくら誉めても、作品にとってプラスに働くとは思えない。作画が、キャラデが声優が……といった各論は、もはやアニメ作品の本質ではない。アニメが世の中に評価されていなかった頃は、どんなディテールも評価の対象になったが、今は違う。

絵が綺麗なのは当たり前。綺麗で、そこそこ泣けるやつ。家族とか恋愛の美しさを謳ったやつ。ひょっとすると、大作アニメにはそれしか求められていないのかも知れない。
『未来のミライ』がいいとか悪いとかっていうセコいレベルの話ではない。世の中から求められるアニメがどんどん口当たりのいい無害な映画に希釈されているとしたら、あまり明るい気持ちにはなれない。

『未来のミライ』には、僕は好感をいだいた。だけど、その好感ってやつが曲者なのだ。

(C)Rialto Pictures
(C)2018 スタジオ地図

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2018年8月12日 (日)

■0812■

ご当地でしか手に入らないプラキット、“ゴトプラ”って何だ!? プレックスのデザイナー、坂尾重紀さんに聞いてみた!【ホビー業界インサイド第38回】
T640_772569ゴトプラを開発した坂尾さんは知り合いの編集者から何ヶ月か前に知らされていて、僕から独自にコンタクトをとっていました。おかげで、情報解禁の直後に最速でインタビュー記事を掲載することができました。


プラモデルといえばガンプラと即断される中、ノンキャラクターのプラモデルを売っていくには知恵とセンスが求められます。
ゴトプラは誰でも知っている建物と漢字を組み立てキットという構造でつないだわけですが、では東京タワーは誰がいかにして広めて、大阪城をビジネス化するにはどんな環境が必要だったのか、思いを馳せずにはいられません。「売る」とは、どういうことなのか?を考えざるを得ないわけです。

今回はプレックスの営業さんが記事露出のタイミングを図ったおかげで、記事は普段より読んでもらえています。
一方で、僕が特集を担当したホビージャパンエクストラは書店においておらず(僕も地元では一度も見てません)、ビジネスチャンスを逃しています。卑近な例でいうと、そういうことです。
ガンプラ以外のプラモデルがガンプラほど売れてないのは何故なのか、真面目に考えてる人は少ないのでチャンスだとも言えます。僕にできるのは本をつくることなので、山ほど企画はあるしアイデアは尽きないし、いくつか実準備に入っていますよ。


ようやく、ひさびさに映画をレンタル。トム・ハンクス主演だから、それなりに見ごたえあるのでは?と、知識ゼロで借りてきた『王様のためのホログラム』。
640妻に別れられたサラリーマンが、サウジアラビアの砂漠に仕事で飛ばされる。環境は苛酷だが、彼は美しい女医と知り合い、ストレスを脱していく。例によって、文学レベルのストーリーは僕には把握できなかったし、ストーリーが映画の面白さを左右するとは思えない。

会社のリムジンを下ろされたトム・ハンクスが、呆然と砂漠に立ち尽くす。『北北西に進路をとれ』の飛行機に襲われるシーンのような不条理さが感じられる。砂漠にカメラをすえた瞬間、映画は地平線に支配される。構図が制約をうけることに、反発するか従うか。
そういう話が好きなのに、映画好きを名乗る人から構図の話を聞いたためしがない。


砂漠に立ち尽くすトム・ハンクスの背後に、古びたショベルカーが見える。カットが切り替わると、トム・ハンクスは振り返って、「やあ」と挨拶する。誰に挨拶したのだろう? カメラは、ショベルカーに少し寄る。そこには、ショベルカーの錆の色と同じぐらい汚れた作業服を着た男が座っていたのである。
最初のカットで、僕らは作業服の男を見落としていた。だが、主人公は気がついていた。3カット目で、僕らはようやく監督の目論見に気がつく。この3カットの間で、情報が増えたわけではない。実は、1カット目と3カット目は同じ構図だ。
最初のカットを装飾するように、トム・ハンクスの演技、作業服の男に寄ったカットが足されていく。「実は、ショベルカーに男が座っていたのだ」という情報を、別の角度から説明しているにすぎない。

文語的に言うなら、それは「ショベルカーが働く必要もないぐらい、運転手が暇そうに休んでいるぐらい閑散とした職場を表現している」ことになる。映画レビューや映画評論は、いつも文語的な結論ばかり口にする。
だが、分解しなければ映画ならではの機能を解読することなど出来ない。カットを重ねることで、他人行儀だった映画は、僕らの認識と寄り合わされていく。その過程はエキサイティングだし、機能的に洗練された映画は本当に美しいと、僕は心から酔いしれる。その瞬間を、僕は待ちわびている。ストーリーがどう落着するかなど、本当にどうでもいいことだ。

(C)2016 HOLOGRAM FOR THE KING LTD. ALL RIGHTS RESERVED.

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2018年8月10日 (金)

■0810■

ドワンゴ、Appleに忖度して自主検閲 その1

以前にFacebookが“児童ポルノ”として削除した「ナパーム弾の少女」が、ドワンゴ運営のブロマガでも削除されたという話題。
「ドワンゴが無知」「Appleがクソ」でもなければ、「さすがに全裸はマズイ」でもなければ、「二次元ならセーフ」という話でもない。いつも「性的表現」の話題に転んでしまうけど、それこそ目くらましに引っかかっていると、僕は思う。

僕はインタビューして、記事をチェックしてもらって、許可が下りたら掲載させてもらう仕事をしている。アニメ作品のクリエーターや玩具会社、模型会社の企画や開発の方がざっくばらんに話してくださっても、窓口でバッサバッサと切られます。ちょこっと赤字が入るだけの場合もあれば、まったく直しゼロの場合もあります。
話したご本人の記憶違いとか「ちょっと調子に乗って話しすぎた」という部分は、もちろん修正に応じます。僕の仕事は報道ではなくて、広報なので。世の中を楽しくするため、読んだ人たちに「ふーん、興味深いな」と思ってもらいたいから、この仕事をしているわけで。

だけど、年に1~2回だけど、記事が半分ぐらいズタズタにカットされて、もう誰が誰に向かって何を言ってるのか分からない文章に徹底修正されて返ってくることがある。多分、営業窓口が関連会社に気をつかった結果だと思うんだけど、それ以上に思い当たる理由がある。それは「他人の書いた文章を修正するのは楽しい」から。
相手の言いたいことを禁じたり封じたりするのは、楽しいんですよ。僕だって、修正を頼まれたら「アレもダメ、コレもカット」と気持ちがよくなってしまう。表現規制って、個人個人が本能的に持っているコントロール欲が発露した結果だと思う。


興味のある映画のタイトルを検索するでしょ? かならず「この映画は良かったですか? 悪かったですか?」と表示されるよね。なぜなら、僕らは点数をつけて失格にしたり、「今回はまあ合格にしてやろう、だけど95点だ」と意地悪な採点をするのが大好きなゲス野郎だからです。
スキあらば、他人に罰を与えたい。どうですか、心当たりないですか? 「相手もつらいだろうから、お互いに気遣いながら進めていこう」と思えているときは、心が上手くコントロールできている。だけど、うっかり荒れてくると、誰かを懲らしめたくなるし、いまの世の中、懲罰システムだけは高度に発達している。Twitterの過去ログを通報するだけで、ハリウッドの映画監督をクビにできる時代だよ?

何かムシャクシャしたら、性的な表現を探して、匿名で通報すれば、半分ぐらいは削除や自粛に追い込められる。政治的な表現は難易度が高いけど、性的な表現なら相手は萎縮する。
たかだかアニメ、しょせんはフィギュアと当事者がちょっとでも思っているなら、チャンスじゃないですか。勝手に相手は後ろめたさを感じて、自粛してくれる。その主体性の希薄さ、他者への不寛容さが表現規制の正体であって、別に法改正などするまでもないのです。実は、「表現」の問題ですらない。ひとりひとりの懲罰感情が、野放しになってるだけです。
そのゲスな懲罰感情が世の中にあらわれるとき、「性的表現」だと経路が短絡的で、そこそこ倫理的なので人目につきやすい。そういうことだと思います。


「世の中には、自分で考えたくない、自分で決めたくない、人に決めてもらって、押し付けられたりやらされた形にして文句つける方が楽でいい、そういう生き方の人が思っている以上に多いんだなと最近わかってきた。」(

仕事が詰まっているので、吉祥寺の映画館にすら行けない、DVDも平成ガメラシリーズを借りてきて寝る前に見る程度、ぜんぜん余裕ないので、こういう時はネガティブな気持ちに偏りがちです。

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2018年8月 5日 (日)

■0805■

“HJextra vol.10最高でした…個人的にお酒に合う模型誌No.1はぶっちぎりでエクストラさんですわ…。色鮮やかなランナーの写真や、組み立てられたままのプラモデルの写真が、アルコールがじんわり口の中に広がる感じで、自分の中に染み渡ってく感じが、そう、上質なおつまみみたいなんですよ…(酔ってる”(
“どうしてもプラモデル、「綺麗に作る!表面処理!塗装!塗装!」みたいな感じでして、もちろんそれが楽しいんですけど時々肩が凝っちゃうこともあって…でもHJ ex vol.10を読みながらお酒飲むことで、そういう考え方からひと時解放されて、スゴーーくリラックスできたんですよねぇ〜”(

ホビージャパンエクストラの発売から一週間近くが経過して、近所の書店に見かけないの71xqvovbdsl でガッカリしていたのだが、巻末の「模型酒場」に『フレームアームズ・ガール』の声優さんが登場している効果で、そっち方面のアニメファン、模型ファンに売れているようだ。
僕がノリノリでプラモの写真を撮ってもらっているとき、担当編集の伊藤さんは「(撮影のための)居酒屋を予約してます」と苦笑しながらスマホをいじっていた。
でも、後半を撮影特集にして密度をあげたのも彼だし、表紙の『Dr.スランプ アラレちゃん』のプラキットの写真が集英社からNGをくらったとき、モデルの美環さんを起用したのも彼で、やっぱりプロの編集者の直感に救われていると思う。
美環さんのTwitterのフォロワーは2万6千人だ。単純に、美環さんを表紙にしただけで、彼らがターゲットに入ってくる。そういう計算が編集部にあったから、「無塗装・素組みのプラモデルのグラビア」を50ページもやらせてもらえたのだと思う。


『Dr.スランプ アラレちゃん』の表紙は厳密にいうと、編集部が東映アニメーションから「難しいと思います」と返答され(僕は必要ないと思っていたのだが、これまた伊藤さんが機転をきかせて東映アニメーション作品についてだけは許諾が必要か確認していた)、僕は納得がいかずに集英社の版権管理部門に電話した。
結果はご覧のとおりだが、BANDAI SPIRITS ホビー事業部が自社製品についてどう対処していたのかは聞いていない。僕の勇み足で企画担当者をぬかよろごひさせてしまったので、お詫びのメールをしたら、きちっと返事があった。本が出てから、ホビー事業部さんから僕個人に連絡はない。


版権元との交渉事あれこれは、地元の商業ビル「三鷹コラル」での展示でも経験している。9月にも、ちょっと意外なアニメーションのパネル展示がある。
制作会社さんは、キャラデや美術監督のご遺族から「まさか」と思うような貴重な画稿を借りてきて、丁寧にスキャンしてくださった。(C)は一社だけなので版権上の煩雑さはなく、あとは僕が演出を担当した監督のところにインタビューに行って、デザイン会社にどのくらいの大きさのパネルを何枚つくれるか相談して……と、実務がつづく。

インタビューの中身も大事だし、自分で原稿を起こして関係者のチェックに出さねばならないが、実は監督のインタビューがとれた時点で仕事の9割は終わっている。書くのは最後の最後なので、もう僕の仕事は「ライター」ではない。
三鷹コラルの書店さんに企画意図を説明して、物販をやりやすい状況をつくるなんて仕事もあるし、もっと言うと、パネル展全体の見積もり書も僕が書いている。テキストを書くより前に、「場所を成り立たせる」ための雑事があって、それがいちいち面白い。


逆に、旧来型のインタビューだけやって、原稿だけやりとりする仕事の方が、滞りやすい。原稿チェックでひっかかると、そこで終わりだ。
「Jウイング」誌の『ひそねとまそたん』の記事は、編集長と企画の方向性だけ話し合って決めて、僕の原稿がOKでもNGでもなく、デザインしながら要素を足したり引いたりしている。あまりに好き勝手に進めているせいか、版権元からのリテイクはほとんどない。大胆なことをやればやるほど、リテイクは減っていく。

そして実は、『ひそまそ』でなくとも、アニメでなくとも、そのページは成り立つ。誰に何を提案するかがキモであって、一文字ぐらいどう直されようが気にする必要はない。

ライター仕事だけ請け負っていると、ちょっとしたリテイクが致命的なダメージになる。ライターだけやって、依頼が来るのを待っているだけの人はストレスがたまるし、大変だろうと思う。
ストレスを減らそうと努めた結果、今のように企画ごと提案するスタイルにたどり着けた。アイデアは無限にあるし、場所がなければつくればいい(三鷹コラルがそれに近いが、路上で見せる手だってある)。見せるための場所をつくること自体、仕事になる。それに気がつけて、本当に良かった。

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