■0810■
ドワンゴ、Appleに忖度して自主検閲 その1(■)
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以前にFacebookが“児童ポルノ”として削除した「ナパーム弾の少女」が、ドワンゴ運営のブロマガでも削除されたという話題。
「ドワンゴが無知」「Appleがクソ」でもなければ、「さすがに全裸はマズイ」でもなければ、「二次元ならセーフ」という話でもない。いつも「性的表現」の話題に転んでしまうけど、それこそ目くらましに引っかかっていると、僕は思う。
僕はインタビューして、記事をチェックしてもらって、許可が下りたら掲載させてもらう仕事をしている。アニメ作品のクリエーターや玩具会社、模型会社の企画や開発の方がざっくばらんに話してくださっても、窓口でバッサバッサと切られます。ちょこっと赤字が入るだけの場合もあれば、まったく直しゼロの場合もあります。
話したご本人の記憶違いとか「ちょっと調子に乗って話しすぎた」という部分は、もちろん修正に応じます。僕の仕事は報道ではなくて、広報なので。世の中を楽しくするため、読んだ人たちに「ふーん、興味深いな」と思ってもらいたいから、この仕事をしているわけで。
だけど、年に1~2回だけど、記事が半分ぐらいズタズタにカットされて、もう誰が誰に向かって何を言ってるのか分からない文章に徹底修正されて返ってくることがある。多分、営業窓口が関連会社に気をつかった結果だと思うんだけど、それ以上に思い当たる理由がある。それは「他人の書いた文章を修正するのは楽しい」から。
相手の言いたいことを禁じたり封じたりするのは、楽しいんですよ。僕だって、修正を頼まれたら「アレもダメ、コレもカット」と気持ちがよくなってしまう。表現規制って、個人個人が本能的に持っているコントロール欲が発露した結果だと思う。
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興味のある映画のタイトルを検索するでしょ? かならず「この映画は良かったですか? 悪かったですか?」と表示されるよね。なぜなら、僕らは点数をつけて失格にしたり、「今回はまあ合格にしてやろう、だけど95点だ」と意地悪な採点をするのが大好きなゲス野郎だからです。
スキあらば、他人に罰を与えたい。どうですか、心当たりないですか? 「相手もつらいだろうから、お互いに気遣いながら進めていこう」と思えているときは、心が上手くコントロールできている。だけど、うっかり荒れてくると、誰かを懲らしめたくなるし、いまの世の中、懲罰システムだけは高度に発達している。Twitterの過去ログを通報するだけで、ハリウッドの映画監督をクビにできる時代だよ?
何かムシャクシャしたら、性的な表現を探して、匿名で通報すれば、半分ぐらいは削除や自粛に追い込められる。政治的な表現は難易度が高いけど、性的な表現なら相手は萎縮する。
たかだかアニメ、しょせんはフィギュアと当事者がちょっとでも思っているなら、チャンスじゃないですか。勝手に相手は後ろめたさを感じて、自粛してくれる。その主体性の希薄さ、他者への不寛容さが表現規制の正体であって、別に法改正などするまでもないのです。実は、「表現」の問題ですらない。ひとりひとりの懲罰感情が、野放しになってるだけです。
そのゲスな懲罰感情が世の中にあらわれるとき、「性的表現」だと経路が短絡的で、そこそこ倫理的なので人目につきやすい。そういうことだと思います。
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「世の中には、自分で考えたくない、自分で決めたくない、人に決めてもらって、押し付けられたりやらされた形にして文句つける方が楽でいい、そういう生き方の人が思っている以上に多いんだなと最近わかってきた。」(■)
仕事が詰まっているので、吉祥寺の映画館にすら行けない、DVDも平成ガメラシリーズを借りてきて寝る前に見る程度、ぜんぜん余裕ないので、こういう時はネガティブな気持ちに偏りがちです。
以前にFacebookが“児童ポルノ”として削除した「ナパーム弾の少女」が、ドワンゴ運営のブロマガでも削除されたという話題。
「ドワンゴが無知」「Appleがクソ」でもなければ、「さすがに全裸はマズイ」でもなければ、「二次元ならセーフ」という話でもない。いつも「性的表現」の話題に転んでしまうけど、それこそ目くらましに引っかかっていると、僕は思う。
僕はインタビューして、記事をチェックしてもらって、許可が下りたら掲載させてもらう仕事をしている。アニメ作品のクリエーターや玩具会社、模型会社の企画や開発の方がざっくばらんに話してくださっても、窓口でバッサバッサと切られます。ちょこっと赤字が入るだけの場合もあれば、まったく直しゼロの場合もあります。
話したご本人の記憶違いとか「ちょっと調子に乗って話しすぎた」という部分は、もちろん修正に応じます。僕の仕事は報道ではなくて、広報なので。世の中を楽しくするため、読んだ人たちに「ふーん、興味深いな」と思ってもらいたいから、この仕事をしているわけで。
だけど、年に1~2回だけど、記事が半分ぐらいズタズタにカットされて、もう誰が誰に向かって何を言ってるのか分からない文章に徹底修正されて返ってくることがある。多分、営業窓口が関連会社に気をつかった結果だと思うんだけど、それ以上に思い当たる理由がある。それは「他人の書いた文章を修正するのは楽しい」から。
相手の言いたいことを禁じたり封じたりするのは、楽しいんですよ。僕だって、修正を頼まれたら「アレもダメ、コレもカット」と気持ちがよくなってしまう。表現規制って、個人個人が本能的に持っているコントロール欲が発露した結果だと思う。
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興味のある映画のタイトルを検索するでしょ? かならず「この映画は良かったですか? 悪かったですか?」と表示されるよね。なぜなら、僕らは点数をつけて失格にしたり、「今回はまあ合格にしてやろう、だけど95点だ」と意地悪な採点をするのが大好きなゲス野郎だからです。
スキあらば、他人に罰を与えたい。どうですか、心当たりないですか? 「相手もつらいだろうから、お互いに気遣いながら進めていこう」と思えているときは、心が上手くコントロールできている。だけど、うっかり荒れてくると、誰かを懲らしめたくなるし、いまの世の中、懲罰システムだけは高度に発達している。Twitterの過去ログを通報するだけで、ハリウッドの映画監督をクビにできる時代だよ?
何かムシャクシャしたら、性的な表現を探して、匿名で通報すれば、半分ぐらいは削除や自粛に追い込められる。政治的な表現は難易度が高いけど、性的な表現なら相手は萎縮する。
たかだかアニメ、しょせんはフィギュアと当事者がちょっとでも思っているなら、チャンスじゃないですか。勝手に相手は後ろめたさを感じて、自粛してくれる。その主体性の希薄さ、他者への不寛容さが表現規制の正体であって、別に法改正などするまでもないのです。実は、「表現」の問題ですらない。ひとりひとりの懲罰感情が、野放しになってるだけです。
そのゲスな懲罰感情が世の中にあらわれるとき、「性的表現」だと経路が短絡的で、そこそこ倫理的なので人目につきやすい。そういうことだと思います。
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「世の中には、自分で考えたくない、自分で決めたくない、人に決めてもらって、押し付けられたりやらされた形にして文句つける方が楽でいい、そういう生き方の人が思っている以上に多いんだなと最近わかってきた。」(■)
仕事が詰まっているので、吉祥寺の映画館にすら行けない、DVDも平成ガメラシリーズを借りてきて寝る前に見る程度、ぜんぜん余裕ないので、こういう時はネガティブな気持ちに偏りがちです。
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