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2018年7月16日 (月)

■0716■

「時をかける少女」を残酷に支配する「時の流れ」は、構図に刻みつけられている。【懐かしアニメ回顧録第44回】
Dikl3xnueaadt8a近所で見かけた奇妙な看板から席料何万円もする演劇まで、「見た」ことが等価値に体験として語られる世の中なので、「どちゃくそに泣いた」「泣きすぎて思考がストップした」とでも書いたほうが、よほど共感を呼べる。

もしかすると、映画を観た直後の泣きはらした顔だけをアップで掲載したら、PVだけは稼げるんじゃないかと思う。顔写真までは載せなくても「ぐわああああ」「泣けるううううう」と、アニメの感想を実況的にツイートしまくってる人はいた。その方が強烈に伝わるとは思うし「どんな作品なんだ?」と、気にもなる。
だけど、どうしても自分はそれはやりたくない、抵抗があるよなあ……と思うのはなぜかと言えば、発想がテロリズムなんだよね。「号泣して席を立てなかった」ことをもって、自分の体験の尊さを裏付けようって魂胆は。


歌舞伎町のキャバクラに勤める26歳の子と、テアトル新宿で 『時をかける少女』を観たのが12年前。以降、定期刊行のムックや「ニュータイプ」のWEB版に感想を書く機会があって、後者はそこそこ上手く書けたと思う。
だけど、数年ぶりに観て、今回は驚いた。まずは、脚本も作画も粗っぽい。タイムリープの発動条件や前後関係が不明確なのに、主人公のオーバーな感情表現で強引にねじ伏せて進行している。一方的に去っていった千昭を、なぜ真琴が映画の冒頭にまで戻って追いかけるのか、ちょっと動機が分からなかった。相変わらず、どうすれば真琴が自分で目指した日時にタイムリープできるのかも分からない。

だから、いつものように画面に何がどう映っているかだけに注視した。
すると、いくつかポイントが見えてくるのでメモをとって、二回目は書けそうなポイントに絞る。原稿を書きつつ、確認のために何度も同じシーンを見る。
千昭がフレーム外に歩いていって、ひとりになった真琴がアベックの乗った自転車に追い抜かれるところを何度か確認したところで、ようやく涙が出てきた。なぜかと言えば、それは上記コラムに書いたように、構図がロジカルだから。


かつての真琴と千昭そっくりに自転車に二人乗りしたアベックは、いわば真琴の消し去った未来だよね。だから、過去に向かって歩き出した真琴はハッとするんだよ。振り返ると、真琴の主観カットになって、見知らぬ男女の後ろ姿を、カメラは堂々と捉える。矮小ではなく主役のように堂々と、ほどよいサイズで。
その時、「くやしい」と思うんだよ。あんな堂々としたアベックに、自分がなれるチャンスがあったのに自分でチャンスを握りつぶしてしまったことに気がつく。くだらない嫉妬だし、あさましい感情なんだけど、だからこそ共感する。自分を無価値でくだらないと思える人ならばね。

映画にはメカニズム、機能がある。
昨夜、ひさびさにレンタルで『東京物語』を82fcb0c68c770516068cef0d0dfa673a760 観て、やっぱりジーンとしたんだけど、カメラが異様なまでに真正面から俳優をとらえるからでしょ。ひとりきりになった笠智衆と、小さな漁船が港から出ていく引きの絵を、執拗にカットバックさせているから寂しいんだろう……と、僕はこじつけでも何でもいいから第三者に検証可能な理由を探す。そう努めないと、映画だけでなくすべての体験が「くわあああ、泣けたああああ!」で終わっちゃうんですよ。あらゆる体験がSNSで注目を集める道具になってしまう。

「とにかく俺は号泣した」、だから「凄い映画だ、絶対に観てくれ」と自分の感動を盾にとった態度は脅迫、テロリズムに通じる。「この映画に感動しないヤツは劣等感性」とまで言う人がいる。
自分に共感してくれなかった、というだけの理由で人は人を殺せてしまう。それが明らかになった時代に正気を保つには、作品に誠実に向き合い、過剰な共感を期待しないことも大事ではないだろうか。

(C)1953/2011 松竹株式会社

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2018年7月14日 (土)

■0714■

11月1日(木)から11月10日(土)まで、ジンバブエに旅行することにした。
途中、北京とヨハネスブルグで丸一日も過ごさねばならず、トランスファーでスーツケースを下ろしてもらうにはどう手続きすればよかっただろう、いくらぐらい換金すれば知らない街で1日つぶせるだろう……と不安な要素がいっぱいなのだが、旅行の計画は熱中できて、達成感もある。一年に一度は行くべきだと思っている。


海外旅行といえば、この前、奥さんと子供を連れた西洋人の男性が「ラーメン屋を探してます。この近くにあると思うんだけど」と、英語で話しかけてきた。幸い、すぐそこに店があったので、「ここですよ」と案内して、笑顔で別れた。
僕は旅先では、よく道を聞くし、聞かれもする。特に女性に話しかけられることが多い。「写真を撮ってください」とか、俺みたいな一人旅の男に頼んで大丈夫かいとは思うんだけど、そうやって日本社会での「自分のキャラ設定」がキャンセルされるのが、海外旅行の楽しさだ。


先日のブログ記事()は、やっぱり奥さんと子供のいる若い編集者には理解してもらえなかった。そして、カナダで起きた無差別殺人についてドキリとする記事を見つけてしまった。

不本意の禁欲主義者――「インセル」たちの知られざる世界

僕たち(とあえて複数形で言う)が救われている(彼らのような犯罪者にならずにすんでいる)のは、アニメや漫画などの二次元娯楽で性的願望を完結させたり、プラモやミリタリーなど知識や技術の優劣が問われる世界で、そこそこの優越感を保てているからだと思う。趣味嗜好が許されていなかったら、コンプレックスにまみれた「インセル」のようになっていたのかも知れない。

エロ漫画の中には、確かに反倫理的で暴力的なものも含まれる。だが、紙の上、モニターの中で完結している。社会と説点をもたない“閉じた”娯楽は、僕らの内面を無限に解放する。部屋でひとりで眺めているものが、具体的にどんな内容であるかは、他人がとやかく言うべきではない。心の形は、ひとりひとり違う。
だからやっぱり、いかなる形の表現も作ったり見たりすることが保証されているべき。反吐が出るようなグチャグチャのエロ漫画であっても、それを見る人間の心が満たされるのであれば、「人の役に立っている」はずだ。
欲望に正も邪も、汚いも綺麗もない。


僕はFacebookで、小学校時代で同じクラスだった女子(今は誰かの妻でありお母さんでもある)が日々の暮らしについて書き綴っていて、「そうか、良かったじゃないか」と思っても、決して「いいね」ボタンは押さない。
たぶん彼女たちは、どういう理由からか結婚もせず、いまだにアニメとプラモのことばかり本に書いている中年男から「いいね」と言われても、気味が悪いだけだろうから。

あと、Facebookに誕生日は登録していない。システムが「今日は廣田さんの誕生日です!」と告知しても、誰ひとり祝ってくれないと分かっているから。
なぜこうなったのかは、分からない。12年前の離婚から、解放感に満ちた第二の人生が始まった。キャバクラやガールズバーで、毎日のように朝まで飲んだし、お店の子たちと映画や演劇、カラオケによく行ったものだった(彼女たちにとっては仕事の延長であっても、それを理解したうえで遊ぶのが楽しかった)。

プライベートでも、異性との交遊がなかったわけではない。自分から行動すると、こっぴどくフラられるのだが、向こうから好意をもってくれる女性は何人かいた。
彼女たちは7年前、母が殺されたときも精神的に支えてくれた。感謝している。
しかし、もしかすると、その時からだろう。「他人には理解不可能な領域」が、僕の心の中に生まれた。女性に抱きしめられても、満たされない。母が殺された、救えなかった。父が人殺しになってしまった。僕にも、人殺しの血が流れている。
荒っぽい言葉でいうと、それは罪悪感だ。それだけは、僕を慕ってくれる女性に分かるはずがなく……むしろ、人殺しの息子は危険だ、近づかない方がいいと思われてるんじゃないのか? だから、たとえFacebookであっても同世代の女性たちの穏やかな生活に、家庭崩壊を体験した僕が汚点を残すべきではない。……何か間違っているだろうか?


今年はライター生活20年で、信じられないぐらい仕事が楽しい。上手くいかない仕事をパージして、堅実に信頼関係を築いていった成果が出てきている。あと10年間は、このボーナスステージで楽しみたいと思っている。

もし仕事がここまで楽しくなったら、離婚と母の死から生まれた孤独と闇に飲み込まれていただろう。

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2018年7月10日 (火)

■0710■

GOODS PRESS(グッズプレス) 09 月号 発売中
Dhkp4e5v4ai_kkq『スター・ウォーズ』のハン・ソロ役声優、磯部勉さんへのインタビュー、BANDAI SPIRITSホビー事業部へハン・ソロとルークのプラモデルについての取材を担当しています。

顔面が塗装済みのハン・ソロとルークのプラモデルを「たいした技術ではない」「革新的というほどでもない」と冷たく見ている人もいますが、プラモデルを知らない人に「すごい」と思わせる力が肝心です。


まだおじさんにガチ恋してないの? バ美肉おじさんの魅力にガチ恋距離で迫る(
あまりに露悪的なイラストに引く人が多いだろうけど、オタクのパーソナリティにとって、きわめて重要な話題だと僕には思える。

いつだったか、サンリオピューロランドでキティちゃんの着ぐるみに入って子供たちの相手をしている男性がテレビに出ていて、「着ぐるみの中でかわいい仕草をしている時だけ、本当の自分に戻れた気がする」と語っていたのを思い出した。
VRアプリ「PlayAniMaker(プレイアニメーカー)」()は、キティちゃんの着ぐるみのデジタル版であって、ポリティカル・コレクトネスに配慮しろ、性的表現を排除せよ、性を商品化するな、あるいは男らしくしろ、スポーツのできないヤツらは黙っていろ、結婚も恋愛もしないキモい中年に生きる価値なしの地獄の物理現実からの解放ツールだと僕は思っている。


小学6年生のころ、女のように髪をのばしていたことは、過去に何度か語ってきた。親が髪を切ろうとすると、泣いて逃げ回った。
クラス会で、もう立派な母親になったクラスメートが「女の子みたいにきれいな子だった」と僕のことを噂していて、この歳になっても嬉しいし、「あのまま女の子に間違われたままでいたかった」と、もし人生で後悔があるとしたら、そのひとつだけだよなと、しみじみした。
そして、そのクラスメートの近くの席に座ったところ、彼女も周囲の女性も、僕とは一言も口をきいてくれなかった。仕事以外で女性と口をきくことはないし、女友達もいない。それでいいんじゃない、こんなにも仕事が面白いんだから……。


いま、「オタク」ってひとくくりに出来ないし、「オタク特有の性癖」って語りにくくなっているけど、たとえば早口すぎて会話がなりたたず、社会と折り合っていけない人は今でも多いと思う。
かつては、うまく対人関係が築けない人たちのセーフティネット的に商業アニメが機能していたのではないか……と、『装甲騎兵ボトムズ』の無口で人嫌いな主人公・キリコと自分を重ね合わせていた自分は、孤独だった学生時代を振り返る。

あの頃の、勉強も体育もできずに公然と嘲笑されていた自分に接ぎ木して、オタク趣味や内向性をお金を稼げるぐらいの“芸”にアレンジできたから、今こうして幸せでいられる。
だけど、たとえば演劇を観にいって左右を見知らぬ人たち……夫や妻や子供のいるまっとうな社会人たちに挟まれると、ついに家庭を築けなかった自分の正体がありありと思い出されて、ものすごい量の汗が吹き出てくる。服を買うときも、床屋に行くときもそう。
医者は対人恐怖症だと診断したが、症状としてはパニック発作に近い。根幹のところでボタンを掛け違えていると、僕には分かっている。あわてて精神安定剤を口に放り込む。


結局、この肉体が邪魔なんだ。この歳で「笑顔がいい」と言われるようになったけど、トータル的に根本的に、自分の肉体が好きじゃない。美しくないから。
で、美しくなるため、自分の体を好きになるために「鍛えなくてはならない」「努力せねばならない」としたら、実はそういう問題でもないのだ、とお答えするしかない。男である時点で、まずイヤなんだ。さりとて、性転換したいという次元の話でもない。もっと観念的な話だ。

漫画『攻殻機動隊2』に、マッチョなオヤジの義体の中から小柄な少女が出てくるシーンがあったが、僕はマッチョなオヤジではなくて、小柄な少女になりたい。いまの肉体に足し算しても引き算しても無意味なんだ。
少女の美しさを心からうらやみながら、それと同時に自らがうらやむ少女でありたい……と言えば、いくらか正確だろうか。


いま、自分にしか出来ない仕事がどんどん増えてきて、本当に充実している。
だけど、もう何年もプライベートで異性と話したことがない、旅先で道をたずねられるか、スーパーのレジのおばちゃんに「いらっしゃいませ」と言われるぐらい……と告白したら、みんな引くんじゃない? 女性と話して何が面白いのか、どうしてあんなにモテたかったのか、もう僕には分からなくなってる。性別なんて面倒だなと、つくづく思う。

僕の仕事の多くは、50年分の苦しみや痛みから生まれた理想を、他人の口に入れられるよう、甘口に加工調整したものだ。
だけどもしテクノロジーが自己嫌悪を「なかったこと」にしてくれるのであれば、僕はそっちに賭ける。バーチャルYouTuberは「少女に憧れながら、少女の姿のまま永遠に生きる」不死テクノロジーの、原始の姿なのだという気がしている。

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2018年7月 4日 (水)

■0704■

レンタルで、アカデミー賞・視覚効果賞受賞作『エクス・マキナ』。
640『ハン・ソロ』で、CGのドロイドが人間のエキストラやスーツメイションのキャラクターたちを解放するのには、脚本に込められた以上の意図が生じているのではないかと思った。『エクス・マキナ』では、頭や胴体に内部メカをむき出しにしたアンドロイドが反乱を起こして、やがて人間そっくりに擬態する。人間そっくりになるとは、CGの加工に依存せず俳優の肉体のみで演じきれるということ。
「俳優」という存在自体が、まず「役」を仮構する存在なのだ。生身だから本物かというと、プロットレベルでは「偽物(完璧なアンドロイド)を演じるために、どうしても生身の俳優が必要」という倒錯した状況になっている。


この映画では、ガラスや鏡、さらに監視カメラで撮影された映像が多用されている。鏡に映った像は「本物」なのだろうか。監視カメラに映った出来事は「事実」として扱われるが、俳優のひとりはアンドロイドを演じているため、CGで加工されている。では、監視カメラの映像は「偽物」なのか? CGで加工されていても「事実」と解釈するよう、僕らの脳はルールを敷き直しているはずだ。
「CGだからすべて偽物」などという素朴な世界を、僕らはとっくに卒業しているはずだ。

『エクス・マキナ』では、鏡とガラスに覆われた研究施設の周囲を、滝の流れる豊かな自然が覆っている。時折、それら自然の風景が「これこそが本物だ」と言わんばかりに挿入される。しかし、実際には不要な人工物を後処理で消しているのではないか、と疑わずにいられない。
そもそも、まったく後処理なしの映像などあり得るのだろうか? 最低でもカラコレ(色調補正)は行なうし、一秒間に24枚の絵を見せられているだけで「動いている」と見なすのは脳の誤認と言えないだろうか。
僕らは、映画を見るときには必ず「ここからここまでは事実と認識しよう」と線引きしているはずだ。本作のアンドロイドのように、身体の各部が透けて未来的なメカニックが露出している存在は「人間ではない」のだが、透けた部分を隠して「人間そっくり」に見えていてもルール上は依然として「人間ではない」。俳優が服を着て演じているのに、僕らはかたくなに「人間ではない」と認識しつづける。それが劇映画の面白さであり、罠でもある。


この映画は、雑踏の中に立つ人間そっくりのアンドロイドの姿を撮って終わる。雑踏はガラスに映っており、アンドロイドはガラスの向こうに立っているかに見える。逆かも知れない。いずれにしても、このカットでは「見た目は同じに見えるが、実はまったく違う次元に属している」ことをワンカットで構造的に伝えればいいので、どちらかが鏡像ならば役割は果たしている。

黒澤明やオーソン・ウェルズなら、異なる考えを持った人物を黒がりに配置したり、ひとりだけ後ろを向かせたりするだろう。僕は物語性・文学性を図像で表現する劇映画の古典的なテクニックが好きだ。
だが、図像だけでは語りきれないレイヤーが時おり、裸眼に映ることがある。『エクス・マキナ』のように、あからさまなCGキャラクターは「リアリティがない」のだろうか? では、劇映画とはリアリティを競い合う表現なのだろうか?

(C)Universal Pictures

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2018年7月 1日 (日)

■0701■

「リップスティックのプラモデル」は、誰がどんな理由で開発したのか? リサイクル事業の“日本環境設計”が、その秘密を知っていた!【ホビー業界インサイド第36回】(
T640_766655一体どういう経緯で開発された商品なのか気になって、取材をお願いしたところ、かなり意外な顛末を聞けました。
プラモデルの話題は、つい「このように作ろう」「こんな風に楽しもう」とエンドユーザー側で閉じてしまいがちです。それは他の人にまかせて、プラモデルが社会とどう折り合いをつけて居場所をつくっているのかを、僕は取材していきたいと思います。


金曜日は『ハン・ソロ/スター・ウォーズ・ストーリー』の初日、吉祥寺オデヲンにて、旧友と。
ミレニアム・ファルコンの外装がどう変化していくのかを期待して観にいったのだが、単に無理な飛行をしてボロボロに壊れるというだけで、アッと驚く変化はなかった。しかし、メカニックのコンセプトは優雅で品があって、冷たさすら感じさせるほど洗練されており、それも劇映画の思想の示し方だろうと感じ入った。
2334_l337_main_2もうひとつ、旧三部作の根底に流れている自由への希求、解放と反乱が、そこかしこに見受けられた。
特にドロイド解放運動家のL3-37の存在は、存在自体がパロディであり風刺であり(“彼女”の上腕はR2-D2と同じパーツだ)、シリーズの裏側に見え隠れしていたドロイドに対する不当な扱い(たとえば酒場の主人はドロイドを入店させないし、C-3POは設計者から途中で放棄されて記憶を消去され、一度はバラバラに解体されてしまった)を炙り出していて、興味深かった。


以前に、ジャージャー・ビンクスを無声映画時代の「登場人物の細々とした内面描写や長々とした科白回しから離れて、純粋な身体の運動を映像としてとらえ続けていたいという欲望」と絡めて語ったことがあった()。
Phoebewallerbridge1354098L3-37はジャージャーと同様、CGモデルによる置き換えを前提に演じられたキャラクターだ(左の画像引用元は)。別にスーツメイションでも構わなかったはずなのに、どうしてCGキャラにしたのだろう? チューバッカと差別化する意図が大きかったと思うが、作り手の意図など超えたところで、CGで描写されたキャラクターやメカニックは、劇映画ジャンルで独特の地位を占めつつあるのではないだろうか。

劇中、「ドロイド・プロレス」で人間たちに戦わされている箱のようなドロイドたち。あれはスーツメイションだったと思う。
彼らを「ドロイドとしての誇りを持ちなさい」と啓蒙するL3は、CGキャラなのである。そして彼女は、奴隷として人間を管理していたドロイドの制御ボルト(このガジェットを文芸レベルで扱ったのは本作が初ではないか)を外して、ドロイドと人間の両方を解放する。人間の俳優とスーツメイション、あるいは単なるパペットのドロイドを解放するのがCGキャラ……ここには、「物語」とも「テーマ」とも違う、別のドラマが生じているように、僕には見える。

L3は「登場人物の細々とした内面描写や長々とした科白回し」から映画を解放する、「純粋な身体の運動」そのものなのではないだろうか? 彼女の(解放)運動を純粋に視覚化するために、ひょっとすると生身の身体は邪魔なのかも知れない。


似たことが、CG製のミレニアム・ファルコン、いや物理的に模型として作られたミニチュア全般にも言えるような気がする。それは観客を騙す目的の“作り物”が劇映画の中でどんな役割を果たしてきたか、という遠大な話になってしまうので、ここでは避けよう。

「面白かったか」「感動したか」だけで映画の価値が決められるのは、SNS時代では仕方のないことだ。だけど僕は、網膜に映っているのに「見えていない」ものとして処理されているレイヤーの話をするのが好きだ。

(C)Disney
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