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レンタルで、アカデミー賞・視覚効果賞受賞作『エクス・マキナ』。
『ハン・ソロ』で、CGのドロイドが人間のエキストラやスーツメイションのキャラクターたちを解放するのには、脚本に込められた以上の意図が生じているのではないかと思った。『エクス・マキナ』では、頭や胴体に内部メカをむき出しにしたアンドロイドが反乱を起こして、やがて人間そっくりに擬態する。人間そっくりになるとは、CGの加工に依存せず俳優の肉体のみで演じきれるということ。
「俳優」という存在自体が、まず「役」を仮構する存在なのだ。生身だから本物かというと、プロットレベルでは「偽物(完璧なアンドロイド)を演じるために、どうしても生身の俳優が必要」という倒錯した状況になっている。
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この映画では、ガラスや鏡、さらに監視カメラで撮影された映像が多用されている。鏡に映った像は「本物」なのだろうか。監視カメラに映った出来事は「事実」として扱われるが、俳優のひとりはアンドロイドを演じているため、CGで加工されている。では、監視カメラの映像は「偽物」なのか? CGで加工されていても「事実」と解釈するよう、僕らの脳はルールを敷き直しているはずだ。
「CGだからすべて偽物」などという素朴な世界を、僕らはとっくに卒業しているはずだ。
『エクス・マキナ』では、鏡とガラスに覆われた研究施設の周囲を、滝の流れる豊かな自然が覆っている。時折、それら自然の風景が「これこそが本物だ」と言わんばかりに挿入される。しかし、実際には不要な人工物を後処理で消しているのではないか、と疑わずにいられない。
そもそも、まったく後処理なしの映像などあり得るのだろうか? 最低でもカラコレ(色調補正)は行なうし、一秒間に24枚の絵を見せられているだけで「動いている」と見なすのは脳の誤認と言えないだろうか。
僕らは、映画を見るときには必ず「ここからここまでは事実と認識しよう」と線引きしているはずだ。本作のアンドロイドのように、身体の各部が透けて未来的なメカニックが露出している存在は「人間ではない」のだが、透けた部分を隠して「人間そっくり」に見えていてもルール上は依然として「人間ではない」。俳優が服を着て演じているのに、僕らはかたくなに「人間ではない」と認識しつづける。それが劇映画の面白さであり、罠でもある。
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この映画は、雑踏の中に立つ人間そっくりのアンドロイドの姿を撮って終わる。雑踏はガラスに映っており、アンドロイドはガラスの向こうに立っているかに見える。逆かも知れない。いずれにしても、このカットでは「見た目は同じに見えるが、実はまったく違う次元に属している」ことをワンカットで構造的に伝えればいいので、どちらかが鏡像ならば役割は果たしている。
黒澤明やオーソン・ウェルズなら、異なる考えを持った人物を黒がりに配置したり、ひとりだけ後ろを向かせたりするだろう。僕は物語性・文学性を図像で表現する劇映画の古典的なテクニックが好きだ。
だが、図像だけでは語りきれないレイヤーが時おり、裸眼に映ることがある。『エクス・マキナ』のように、あからさまなCGキャラクターは「リアリティがない」のだろうか? では、劇映画とはリアリティを競い合う表現なのだろうか?
(C)Universal Pictures
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