« 2018年5月 | トップページ

2018年6月23日 (土)

■0623■

月刊モデルグラフィックス 8月号 25日発売
●組まず語り症候群68回
ICM製のT型フォードと女性整備士3体のセットを取り上げています。来月から担当者が変わるので、またちょっと別の方向へ向かいそうな感じです。

月刊ホビージャパン 8月号 25日発売
A14x3svxcl_2●マックスファクトリー1/20ガウォーク
巻頭特集にあわせて、企画担当者にインタビュー。現場に真っ白なテストショットしかなかったので、あえて素組みの同スケールのミンメイを立たせて、グラフィカルな写真でページ構成しました。

●『ひそねとまそたん』16ページ特集
作品解説、キャラクター解説、各話解説、各メーカーの動向、合わせて4ページを手伝いました。
他のページは、岐阜基地への取材、実際のF-15パイロットへのインタビューなど、作品への興味をしっかりと誌面に根づかせた堅実な企画ばかりで、最終回直前に見るには、うってつけの内容です。

いつでも誰かが誰かの代わりをしている――「カウボーイビバップ」の熟成された作劇【懐かしアニメ回顧録第43回】
いつもは構図や演出のことを書いてますが、今回はシナリオに寄った部分です。
「お話」は感性に頼った、情緒的なものだと思われているでしょうが、シナリオは計算の塊です。シナリオの入門書を手にとってみてください。徹頭徹尾、ロジックです。僕の不得意分野です。
だから、この『ビバップ』の記事も、今ひとつ腑に落ちないと思います。フェイが銃を抜くのとスパイクが銃を抜くのは、ほぼ同時刻です。それまでの情報の蓄積、何を伝えて何を隠しているか、もっと厳密に測るべきです。何となくカッコイイ、ではなくて。


シナリオでは誰と誰が出てきて、舞台はどことどこで……と、物語の概略が見積書のように網羅されます。
ようするに、文字を読めば分かるような「物語」が一度、シナリオで完成するわけです。いったん完成したところから、カメラで撮る行為を「また新たに」始めないといけないのです。それだと戯曲と何も変わらないので、だいたい何を話すかだけ決めて、アドリブでカメラを回す監督が伝統的にいます。ジョン・カサヴェテスがそうだし、ヌーヴェル・ヴァーグやネオレアリズモ、彼らの発明を無意識に継承している作家は、今日でも数えきれないほどいます。

僕は、この2018年にアニメーションを題材に、シナリオの論理や演出効果などの分析をやることの空虚さを感じています。社会の中でのフィクションの位置づけが劇的に変わってしまったのに、1996年の『エヴァ』ブームの頃のような、テレビアニメの再評価、再整理、映像作品として価値を測り直す行為を、なんとなく惰性で20年も引きずっている感覚が、僕の中にはあります。
ホビージャパン誌で「各話解説」なんてものを書きましたが、わざとBOOKがどうとか、音響効果がどうとか、カメラの画角が、背景の筆のタッチが……と、文学的な評価をしないように努めました。セリフやシーンから、テーマやメッセージを読み解く試み自体が、あまりにクラシカルで無意味だから。


いや、本当は無意味ではなくて、「どうして泣けるのか」を上手に説明して、「それで俺はあんなに感動したのか!」とネット上で納得することには意味、価値がある。レビューなり評論なりの中身ではなく、手っ取り早く「そうだったのか、やっぱり神アニメだな!」と盛り上がること自体に価値がある。
「映画を一緒に行った友だちが引くほど、声を出して泣いた」「3度、いや4度、号泣した」「泣きすぎて席を立てなかった」とSNSに書くことに、おそらく価値があるんです。バカにしているのではなく、「こんなに凄い体験をした」「猛烈に感情が揺さぶられた」と不特定多数の他人に宣言することが、強く求められている。

僕がヒッチコック映画や黒澤映画の構図の完成度、カメラワークの必然性に言及するのは、考古学のようなものだし、もう死んでしまった研究家たちがたどった道です。だから、誰も共感しない。
最速で最新の映画を観にいって、誰よりも激しく感動を表現すること。「くわー泣いたー!」と、どのタイミングでツイートすれば「いいね」を押してもらえるか、そのノウハウを教える講座があったら、意外と面白いんじゃないかと、割と本気で思ってます。


ロジックでもなく、考古学的な演出解析でもなく、「このうえなく激しい体験」として映像作品が望まれているのだとしたら、4DXだのMX4Dだのも分かるんですよ。再現性に乏しい、期間限定の上映形式だから。

80年代、ぴあを抱えて名画座通いをしていた僕のような世代は、ぎりぎりクラシカルな映画評論に楽しみを見出せます。映画評論的なアニメ評論を読んでみたい、書いてみたいとも思います。だけど、それは20年前にも頑張ればやれたことだろうし、20年前は豊富に読めたような気もします。
あの時代に豊かな評論を読めた人たちは、「あれと似たようなものを書けばそれっぽくなるはずだ」と思い込んでしまっている。僕は書きたいから書いているけど、時代に響かないですよね。それを自覚しないと、仕事としては無益なことを重ねてしまいます。

僕はアニメ媒体からは剥離しつつあって、本当に信頼しあえる人たちと、やや変わった環境に仕事の場を固めつつあるから、それで気がつけたのかも知れません。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年6月19日 (火)

■0619■

4Dアニメ屏風「トキノ交差」によって、四宮義俊監督は何を“乗り越えよう”としているのか?【アニメ業界ウォッチング第46回】
T640_764048渋谷スクランブル交差点の四面モニターでしか完成映像を見ることのできない、インスタレーションのような短編アニメ『トキノ交差』の四宮監督にインタビューさせていただきました。
この一本が、すごい完成度というわけではないです。また、四宮さんに突出した才能があるとは、今は言い切れないと思います。YouTubeにアップされた動画を見て、イマイチだと感じる人がほとんどではないでしょうか?
でも、「ちゃんと渋谷駅前の交差点で見たか?」と反論できるところが、この試みの面白さです。「渋谷駅前でしか見られないなら、こうすべきではなかったのか」とは、誰にも言えないはずです。予定調和より、答えの見えないことの方が、ずっと面白いです。

Jウイング 8月号 21日発売予定
616uuqxpnql●変態飛翔生体 大図解
『ひそねとまそたん』記事、第2回です。今回は、第一回のようなドラマチックな出来事()は起きていませんが、やはり僕にとっては異種体験だったし、完成した記事は航空雑誌のページとしては正常なのか知れないけど、アニメの記事としてはタガが外れています。
僕が出したアイデアを編集長が10倍の濃度にして投げ返してきて、僕が手元にあるアニメ用資料の中から情報を付け加えて、また専門知識で投げ返されて……の繰り返しで生まれた2ページです。

今回は、キャラクターの絵は一枚もないです。その代わり、多分どこにも載っていないであろう設定画が掲載されています。


タミヤ模型の田宮俊作会長が「功労賞」を受けたとのことで、昨日、文化庁メディア芸術祭35524082_1743833632377210_274174896 の受賞作品展に行ってきました。
16日土曜日に俊作会長の講演があったのですが、予約こそしたものの、どうしても外せない打ち合わせが入ってしまい、行けませんでした。ですが、聞きに行った方たちは何とも微妙な感想を持っているようです。

「功労賞」だから、展示スペースが狭いのは仕方ない。だけど、リアルタイムでタミヤのプラモデルを楽しんでいる僕としては、受賞理由が「プラモデルの草成期から業界を牽引してきたから」なのが腑に落ちず、箱絵やロゴマークを今さら評価する姿勢にも首をひねりました。
エポックだったことは分かりますが、51年も昔のキットがロクな説明もなく展示されていて、最新キットがスルーされていたのは「功労賞」、「長いことお疲れ様でした」という意味なのでしょうか。アニメや漫画やゲームは、最先端のものが評価されてるのに、プラモデルだけは「素朴で懐かしいもの」「昔かたぎの職人が手づくりで頑張ってるもの」、ようするに『三丁目の夕日』カテゴリーに入れられてしまう。

そのレベルにまで落とした方が、選者や編集者が楽だし、受け手も楽に理解できるんですよ。楽に理解できるということは、そこから先へは入ってきてくれない、という意味です。


メディア芸術祭を叩いても仕方ないので、もっといい媒体で、いい記事を見てもらえるように努力するしかないんです。

簡単なことが、当事者の勇気がなかったり、段取りが下手だったりして、どんどん潰れていく。潰れないまでも、連絡や報告が雑すぎて、やむなくクオリティを落とさざるを得ないことは頻繁にあります。
どんなに才能やセンスがあっても、締め切りを守れない人には仕事は振れない。すると、ごく少数の人がたくさん仕事を引き受けざるを得ない。その現実を、ありありと肌に感じているところです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年6月14日 (木)

■0613■

レンタルで、『3月のライオン 前編』と『三度目の殺人』。
640『三度目の殺人』は、ラスト近くに異様な演出があった。

福山雅治の弁護士が、殺人容疑で拘留されている役所広司と、ガラスごしに向き合っている。通常なら、左のような絵になるはずだ。
ところが、ラスト近くでは福山の顔の前にガラスがあり、そのガラス面に役所の顔が映っている。役所の顔と福山の顔が、同じ向きで重なり合っているのだ。

役所は殺人容疑で逮捕されたはずなのだが、どうやら父親から性的虐待を受けていた娘を助けるために殺したらしい。判然としない役所の犯行動機に対して、福山は「ようするに、あなたは誰かの殺意を代替して行使する、器なのですね」という意味のことを告げる。
それだけ言うと、福山はスッと体を引く。すると、重なり合っていた役所の半透明の顔だけが画面に残る。
ようするに、役所の顔は「器」としてガラス面に映っており、福山の顔が「器」である役所の顔に「入り込んでいる」のだ。「器」の概念をセリフで終わらせず、文字どおり映像化するとしたら、おそらくこの構図しかない。

全体を通じて見ると、邦画によくある無意味なドリー移動が多いのだが、このラスト近くの難解な構図には唸らされた。僕は、(物語などの)概念を図像で示すのが、映画だと思っているので。


平成ガメラを配信で探していたら、『小さき勇者たち~ガメラ~』に行き当たった。
Safe_image12年前の公開以来だ。当時も好感をいだいていたのだが、こんなにロケ撮影が多いとは思わなかった。残骸の町を少年が延々とさまよい歩く様は、まるで『ドイツ零年』か『大人は判ってくれない』だ。
引きの絵も、すごく多いし。
冗談でも何でもなく、それまでセットと書き割り、時にはミニチュアで処理されてきた劇映画の舞台を本物の街に広げ、舞台俳優ではなく素人の肉体を撮りはじめたのはネオレアリズモでありヌーヴェル・ヴァーグであり、その撮影法は模倣され拡散され希釈されて、商業映画の中に息づいてきた。

『ビリギャル』を観ていても「まるでトリュフォーだな」と苦笑いしてしまうようなカットがあった。走る自転車を車で真正面から撮りつづけたり、はしゃぐ少女たちをスローで撮ったり……。半世紀も世界中で模倣されてきたから、パクリとかオマージュとか言われなくなっただけのことだ。


そして、ガメラのエネルギー源となる赤い石を、お互いに顔を知らない子供たちが次々とリレーして送り届けるクライマックスが泣けるわけだが、最初に石を持っていた夏帆が病気のため「動けない」ことに留意すべきだろう。

僕たち観客は、映画を観ているあいだはシートに縛りつけられているため、劇中に「動けない」人物が登場すると、いつの間にか親近感をおぼえる。意識にのぼらないぐらいのレベルで。
ヒッチコックの『裏窓』が典型的だ。『ダイ・ハード』にのめりこめるのは、
目の前で民間人が殺されるのを黙って見ているしかないシーンが最初のほうにあるから。
どんな脇役でもいいから「意のままに動けない」人物が映ると、映画に対する親近感が増す。ウソだと思ったら、「動けない」人物を探してみてほしい。


僕は反権力的な、左翼がかった人間だと思うのだが、ミュージシャンが愛国ソングを歌ってもまるで気にならない。疑いなく「愛国ソングを潰そう」とする人たちのほうが怖い。

表現を守ることって、考えを守ることと同義だと思う。表現に寛容になれば、ありとあらゆる思想や嗜好を許すことに繋がるんじゃないだろうか。自由な世の中になるんじゃないだろうか。だから僕は、今の日本では「表現ぐらいしか守るべきものがない」と思っている。モラルが高くなければ、表現を守ることって不可能だと思うし。

(C)2017フジテレビジョン アミューズ ギャガ
(C)2006「小さき勇者たち〜ガメラ〜」製作委員会

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年6月 8日 (金)

■0608■

ニュータイプ 7月号 明日発売
Dfigjk4ucaefnoi『ひそねとまそたん』 小此木榛人役・梶裕貴さん インタビュー
ラストスパートに向かいつつある『ひそまそ』で、後半のキーパーソンとして意外な正体を明かした小此木を演じる声優、梶裕貴さんにインタビューさせていただきました。

とはいえ、僕は最初に予定されていたインタビュアーの代役でしかなくて、どういうページになるのか聞かされていませんし、いわゆる著者校もありませんでした。
梶裕貴さんのファンの方が楽しみにしてらっしゃるので、それで良いのかな……と納得しています。


谷口悟朗監督がアニメ雑誌に触れたインタビューが、ちょっと話題になっているようです()。
僕はもう、アニメ専門の媒体からは距離を置いていて、「アキバ総研」の連載は自分で興味のある作品や人にだけ、直接コンタクトをとるようにしている。インタビュー原稿は事前チェックはしていただくけれど、僕の名前が入る以上、最終的なテキストは僕が決定して、アップしてもらう段取りを組んだ。

というのは、アニメ作品について取材して、監督や声優さんご本人が「ちょっとこの発言は誤解を招きやすいので……」と修正を求めてくるのは分かりますよ? 赤だけでなく、青や緑、黄色で4重ぐらいに訂正が入って、全部つなげると日本語にならない場合さえあるんです。関連各社が、あれこれいじりすぎて。
たいていの編集者は、そのズタボロになったテキストを、そのまま使ってしまう。「文:廣田恵介」と出てしまうのに(笑)。
それに、読者さんに「アニメのインタビュー記事なんて、こんなに雑なものか」と思ってもらいたくないから、僕は最終的に文章を割ったりまとめたりするんです。「えっ、○○監督に修正していただいた文章をさらに直すんですか?」と編集者には青い顔をされるんだけど、当たり前でしょ、こっちだってプロなんだから。


僕は『機動戦士ガンダム』20周年記念のLD-BOX発売告知ページで、初めてライターの仕事をした。今年で、ちょうど20年目だ。
Dscn9007_5448『地球少女アルジュナ』のDVDブックレット制作を頼まれ、『創聖のアクエリオン』ではCDドラマの脚本まで書かせていただいた河森正治監督の『マクロスF』が放送されたのが、2008年。
前二作で仲良くさせていただいたので、『マクロスF』のメイキング記事は「アニメーションノート」と「アニメージュオリジナル」で、本当に好き勝手に伸び伸びとやらせていただいた。今でも誇らしく思っているし、読者からの反響もしっかり伝わってきた。

その時は、プロデューサーや監督と、ときには電話で口論するぐらい、じっくりと内容を煮詰めることができた。他の作品でも、夜中の3時にアニメーターから電話がかかってきて記事の修正を依頼されたりもしたけど、それはそれで納得して修正することが出来た。
それ以降、クリエーター以外の、広報とか宣伝とかの担当者が、無断で記事を書きなおしてしまうことが少しずつ増えていった。まったく違う文章のまま「文:廣田恵介」として出版されてしまったことを悔しいというか、とても理不尽に感じて。


一番ひどい時期には、広報担当者の「これって、ちゃんと自分で調べましたか? ウィキペディアをコピペして楽してないでしょうね?」という小言がゲラに書いてあって、そこまでいくと、権利者という立場を利用したパワハラだよね……。
文字だけの著書で絵を使ってなくても、作品タイトルを使っただけで版権担当者が電話してくるなんて話を聞いたことがある。権利者意識が、肥大しすぎている。

僕が最後に仕事した編集部は、メーカーや制作会社の過干渉を前提に、びくびくしながら作品を選んでいた。巻頭で○○という作品をやることになったので、廣田さんのページでも○○を取り上げてほしい、とか。そうせざるを得ないのは、僕が□□という別作品を提案しても、□□の広報窓口からずーっと返事が来なかったりするから。
仕方なく○○で行きましょうと決めても、1週間たっても2週間たっても、頼んだ素材が届かない。夜中どころか、朝までえんえんと待ちつづけている。

そんな猛烈なストレスを抱えながら、編集者はひとつも文句を言わない。「もう、僕が直接話しますよ」と言っても、なぜか先方の担当者名を教えてくれない。
あなたは誰のために、何を守っているの? どこの誰にこの記事を見せたいの? メーカーや制作会社から怒られまい、と我慢しているだけじゃないの? もはや、僕の意図したページからかけ離れた内容に変えられてしまったし、もういいよ、こんな屈辱に耐えてまでアニメの記事をつくる理由はないよ……ってことなんです。もう、主体性がガリガリと削り取られていくから。


いま、三鷹コラルという商業ビルで『この世界の片隅に』資料展をやっているけど、こっちはDscn8600 ストレスが皆無に等しい。昨年の『魔法の天使クリィミーマミ』ビジュアル展も、版権窓口の方、商品担当の方とひとつひとつ確認しながら、丁寧な仕事をすることができた。
もちろん最初は、こんな場所でのアニメのパネル展なんて影も形もなかったんだけど、地元に認知されてきて、仕事として回りつつあるんです。それで分かったんです。仕事って待つものじゃなくて、自分でつくるものだって。

あと、「Jウィング」の『ひそまそ』記事()みたいに、まったく別ジャンルにアニメの記事を持ってくるとか、横に広げる仕事なら、良くも悪くも、かつての僕のノウハウが生かせる。別の業種の人たちは、まったく新しい常識でアニメに切り込んでくれるから、すごく新鮮だし。
狭い業界の理不尽な決まりごとの中で、周囲の顔色うかがわう必要、本当にありますかね? 自分にとって楽しいことだけ、誠心誠意、やっていこう。濁った水を飲み干せなんて、誰からも強要される覚えはないからね。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年6月 6日 (水)

■0606■

『女優で声優の“はるかぜちゃん”こと春名風花さんが出演予定だった舞台「偏執狂短編集IV」が、警視庁から「ヌード及びわいせつ物の露出表現の自粛」の要請を受け、公演内容を一部変更することを決定しました。』(

劇団Voyantroupeの演劇の公式サイト()によると、何者かによって「わいせつ物の陳列および未成年者への児童ポルノ強制または青少年育成法違反の疑惑がある」と通報されたそうだ。
劇団および主催者からも、法令にもとづく正確な抗議がなされいるとは言いがたく、Twitterを検索すると「児童ポルノ」の勝手気ままな自己解釈があちこちで展開されている。
総務省行政管理局の運営するe-Govに記載された「児童買春、児童ポルノに係る行為等の規制及び処罰並びに児童の保護等に関する法律」の法令文()を一読されたい。

法令では『この法律において「児童ポルノ」とは、写真、電磁的記録(電子的方式、磁気的方式その他人の知覚によっては認識することができない方式で作られる記録であって、電子計算機による情報処理の用に供されるものをいう。以下同じ。)に係る記録媒体その他の物』となっているので、目の前で上演される演劇はそもそも記録物を指す「児童ポルノ」になりようがないのだが、その辺はどうでもいいから、自分がわいせつでけしからんと思ったものを片っぱしから「児童ポルノ」と呼びたい、たまにはフィギュアなんかもひっくるめて「児童ポルノ」と呼び含めたい警察や不勉強なマスコミと、糾弾される立場の表現者サイドが同じような曖昧な認識を共有していてはいけない。

公権力の介入を拒みたければ、表現者は勉強しておかねばならない。「自分を信じて、一生懸命やるだけだ」では、次もその次も、ずっと負けつづける。


春名風花さんについては、彼女が小学生~中学生ぐらいのとき、Twitter上で大人たちから「あなたの年齢だとよく分からないと思うけど」「大人になれば分かると思うけど」と説教されまくっているのを、よく見かけた。
マウントをとるのに「相手が子供である」ことをダシにする大人があまりにも多いことに、慄然としたものだった。だから、「日大アメフト部」はこの国のいたるところに偏在している。年齢や立場を武器にして他人をコントロールしたい大人たちで、この国はあふれかえっている。
春名さんのブログに、痛快な一説があったので、以下に引用しておこう。

『オリンピックに出るような子供たちが、

子役なんかの比にならないくらい

スポーツに全てを捧げた生活をしていても、

朝も夜もなく何時間も厳しい特訓を受けて

学校を休んで海外の大会に出ていても、

何も言われないどころか、賞賛されるのに

芸能活動をしている子役は可哀想って言われるのが、

ぼくにはイメージによる偏見としか思えない。』(


性犯罪やセクハラがいけないのは、相手の望んでいないことを腕力や権力で無理強いするからだ。性欲がいけないのではない。力を行使して相手を支配することがいけないのだ。
「児童ポルノ」(この呼び方、あらためて変えたほうがいいと痛感しているが)規制法は、大人が子供に無理強いすることを禁ずる法律だったはずなのに、「未成年に性欲を抱くことを禁ずる」概念になってしまった。

上のブログを見ると、春名風花さんは「ぼくがかわいそうかどうか決めるのはぼく自身であって、他人が勝手にぼくの気持ちを決めつけてさわぐことじゃありません」と、七年前に発言している。
春名さんぐらいの年齢の人たちを守るための法律が、春名さんの主体性を奪うために乱用されている。そもそも、子供はバカではない。大人に対する批評眼もある。だが、支配欲の肥大した大人たちは子供の無力さにつけこんで「我々が管理すべきだ」と力で縛りたがる。

スポーツ界の話だけではない。文化や芸術の世界にも、「目上・目下」の概念があって、相手が年下というだけで呼び捨てにしたりタメ口をきいたりするような人は、すごく多い。抑圧の萌芽は、いたるところに芽吹いている。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年6月 1日 (金)

■0601■

レンタルで、『君の膵臓を食べたい』。
640主人公は国語教師だが、高校時代、一時期だけ懇意にしていた病気の少女との間に苦い思い出を抱えている。この現在のパートは、小説から映画化する際に付け加えられた部分だという。だが、回想形式こそが、この映画の構造を決定づけている。
まず、衣装デザイン。現在のシーンで、生徒たちは明るいブラウンのブレザーを着ている。しかし、回想シーンでは制服の色は濃いグリーンだ。現在と回想とをブレザーの色だけで区別しており、シーン転換の演出によけいなカロリーを割いていない。
もうひとつ、現在の主人公の服の色。グレーのジャケットにグレーのシャツ、スラックスもグレーだ。彼が明るいブラウンの制服の中を歩いていると、どんよりと沈んで見える。彼は辞表を抱えて悶々としている男なので、衣装デザインで煩雑な感情描写をスキップできている。


しかし、何よりも僕の心をしめつけたのは、現在の主人公が取り壊しの決まった図書館で、かつての恋人(グリーンのジャケットを着た少女)と、書棚ごしに再会する冒頭近くのシーンだ。歳のかわらない恋人と再会するなんて、ベルイマンの『野いちご』そっくりだ。
書棚の隙間から見える少女は両手で本を抱えていて、顔は見えない。次のカットでも後ろ姿しか見えず、走って別の書棚に隠れるとき、ほんのちょっと顔が見える程度だ。
主人公は、彼女のあとを追いかける。書棚にそって画面右奥から歩いてきて、画面手前で左側を向く。カメラは彼の視線を追ってPANする。そこにはグリーンの制服を着た少女はおらず、ブラウンの制服を着た数人の生徒たちが図書の整理に追われているのである。

つまり、書棚にそって歩く主人公は過去を「直線」として追っているが、その先には現在が「面」として広がっている。
過去は一方向にしか存在していないが、現在は予想不可能なことが起こりうる「面」なのである……分かりづらいかも知れないが、実際にこのカットを見てもらえれば、僕の言いたいことが分かると思う。
グリーンが過去、ブラウンが現在(そして主人公はグレー)という衣装デザインも、このワンカットで明確に示される。映画が始まってほんの5分ぐらいだが、僕は完全に心を奪われた。テーマはセンチメンタルだが、映画はストイックに機能している。


もっと言うなら、過去の恋人との思い出パートはベタベタに甘ったるくて白々しく、その幕切れは意外性を出そうとアイデアをひねりすぎて、ちょっと笑ってしまう。
だが、要所要所で、構図やカメラが冷静に機能している。「何を」語ったかではなく、映画というメカニックを駆使して「いかに」語ったかこそが、重要なのだ。

恋人が不治の病であることを知っている主人公は、「本当に君は死ぬのか」と彼女に問いただす。場所は屋上で、彼女は屋上のさらに高いところへ階段をのぼりながら話している。背景は白い壁だ。しかし、主人公のほうを「君は違う」と向き直るとき、壁の向こうに空が入り込む。「天国で会おうよ」と立ち止まったとき、彼女の背後には、ほとんど空しか映っていない。
「天国」というセリフに、被写体としての「空」を重ねることで、主人公と恋人との間に、遠大な距離を感じさせる。彼女が大きく動くのに対して、主人公は一歩も動いていない点も見落としてはいけない。
セリフの内容は空疎といっていいし、俳優の演技もつたない。だが、カメラワークにも構図にも必然性がある。


しかし、現代のパートで「もうひとつのラブストーリー」がひそかに進行している点、ここが何より気に入った。
ファースト・シーン、主人公が黒板に文字を書いて授業をしている。窓際に座っている男子生徒が読んでいた本を、隣席の女生徒が取り上げてからかう。主人公はふざけている生徒たちの方をチラッと振り返るが、何ごともなかったかのように授業を続ける。
まず、授業中という静かなシーンに、小さなアクションを入れてテンポをつけるセンスがいい。だが、このアクションが、ちょっとした伏線になっている。

女子にからかわれた男子生徒は、主人公の教師の仕事を手伝いつつ、彼の過去に何があったのか、それとなく聞く役になる。だが、大きくストーリーに関与するわけではない。
さて、ややくどいぐらいの回想と現在の“泣かせ”のシーンがほぼ終わったころ、主人公と男子生徒は、取り壊しの始まった図書館を並んで見ている。そこへ、冒頭でいたずらをした女子生徒が再登場して、背後から男子生徒をからかう。
その様子を見ていた主人公は、「仲良しのつもりなんじゃないかな、彼女。いや、分かんないけど」と男子生徒に言う。男子生徒は恥ずかしそうに女子生徒を呼び止めて「…また明日」と告げる(初めて、この生徒の顔がアップになる)。呼び止められた女子生徒は嬉しそうに「また明日ね」と答える。このカットは望遠で撮られており、下校風景をとらえた背景がきれいにボケて、女子生徒をまるで最初からヒロインであったかのように引き立てる。

主人公と恋人の過去はもう取り返しがつかないが、「面」として広がった現在には、あちこちに幸福の種がまかれているのだ。
それにしても、ラスト近くの主人公と男子生徒、ちょっかいを出してくる女子生徒のシーンは撮影も綺麗でカットワークも抑制がきいており、カメラの動きにも意味がある。3人の俳優の演技も素晴らしい。「本」という過去と現在をつなぐ小道具を使った点も賢い。まだまだ日本映画も捨てたものではない、と実感させてくれた。

(C)2017「君の膵臓をたべたい」製作委員会

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2018年5月 | トップページ